ひかりより速く、   作:おいかぜ

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四話 手の中の距離

 

 四×一〇〇メートルリレー、バトン合わせ開始。

 乾ききっていないマーカーの線が、ホワイトボードの上で少しだけ光っている。

 

 リレー。その言葉の響きだけを想うならば、懐かしい。

 中学でも走ったことはある。手に入ったバトンを落とさず渡せば、それで自分の役目は終わると思っていた。

 

 知っているつもりだった。

 でも、部室の壁には四十七秒六二の記録が貼られている。私が四人並んで走るより、なお速い。

 

 第四走者、鴻上ひかり。

 その名前が浮かんだ瞬間、中学で走っていたリレーとは少し違うものに思えた。

 

「朝倉、ぼうっとしない」

 

 片桐先生の声で、私は顔を上げた。

 

「はい」

「今日は四継を合わせる。最初だから、まずは流れを覚えろ」

 

 グラウンドには白いラインが引かれていた。

 テイクオーバーゾーン。バトンを渡せる区間。

 

 白線と白線の間に立つと、思っていたより短い。あっという間に飛び出してしまいそうだった。

 ただの線なのに、その内側だけ足場が狭くなった気がした。

 

「一走、宮野」

「はい!」

 千秋が返事をする。

 

「二走、橘」

「はい」

 真帆先輩が軽く手を上げる。

 

「三走、朝倉」

「はい」

 

「四走、茅野」

 少し離れたところでストレッチをしていた先輩が、顔を上げた。

「はい」

 

 その声は低くも大きくもなかった。

 でも、周りの空気が少し締まった。

 

 茅野(かやの)梨央(りお)先輩。

 

 まだほとんど言葉を交わしたことはない。けれどもちろん、名前だけは承知していた。

 

 今のアンカー候補。

 ひかり先輩の名前が残る場所を、今はこの人が走っている。

 

 近くに来ると、数字の印象が少し薄れた。

 立ち方に迷いがない。

 スパイクの紐を結び直す手も、急いでいないのに遅くなかった。

 

 茅野先輩は余計な前置きなしに、バトンの片端を私へ向けた。

 

「朝倉」

「はい」

「右でもらって、左で渡す」

「はい」

「落とさないで」

「はい」

「私を見ないで」

「……はい?」

 

 聞き返すと、茅野先輩は少し眉を寄せた。

 

「見たら遅い。私も見ない。だから、決めた場所に入れて」

「でも、手を見ないと」

「手は出す。あんたは走ってくる」

 

 短い。

 投げ捨てるような短さではなく、けれど配慮という言葉も忘れたような命令。それほど不快には思わなかった。

 

 真帆先輩が横から助け舟を出す。

 

「最初は歩きで確認するから大丈夫」

「はい」

「大丈夫じゃない顔してるけど」

「してますか」

「してる」

 

 千秋が少し離れたところでバトンをくるくる回していた。

 

「翠、落としたら拾えばいいよ」

「本番では拾ったら終わりだけどね」

 

 茅野先輩が即座に言った。

 千秋が「はい」と小さくなった。回転していたバトンは、いつの間にかしっかりと握られていた。

 

 まずは歩きでの確認だった。

 千秋の手から、真帆先輩の手へ。

 真帆先輩の手から、私の右手へ。

 そこから持ち替えて、茅野先輩の左手へ。

 

 ただ歩いているだけなのに、バトンだけが先にリレーを覚えていくみたいだった。顔でもついていれば、愛着が湧いたかもしれない。

 

 バトンは思っていたより軽かった。

 指で支えるだけなら、ただの金属の筒だ。

 けれど、渡す相手が前を向いた瞬間、手の中で急に役目を持った。

 

「朝倉、左」

 

 私は手をもう少し後ろへ引いた。

 

「もっと奥」

「はい」

 

 肩まで一緒に固くなる。

 

「手を見すぎ」

「はい」

 

 見ていないつもりだった目が、バトンの端で止まっていた。

 

「返事は一回でいい」

「……はい」

 

 茅野先輩は遠慮なく言う。

 私は言われるたびに直そうとして、余計にぎこちなくなった。

 

 バトンを渡すだけ。

 でも、茅野先輩の背中が前を向いた瞬間、渡す場所は急に逃げる的になった。

 

 手は出る。

 けれど、目は合わない。

 私がそこへ入れるしかない。

 右でもらって、左で渡す。

 

 頭では分かっているのに、歩いているだけで手の中の向きまで分からなくなった。

 

「次、ジョグ」

 

 片桐先生の声で、私たちは位置についた。

 

 一走の千秋は、スタート位置に立つと雰囲気が変わった。

 さっきまで喋っていたのに、足元を見て、黙る。

 

 片桐先生の手が下りた瞬間、小柄な身体が一気に前へ刺さった。

 

 真帆先輩はマークを踏んで走り出した。

 千秋の足音が近づくより少し早く、真帆先輩の腕だけが後ろへ準備される。

 千秋の声が飛んだ。

「はい!」

 

 少し早い声だった。

 それでも真帆先輩は、手の位置をほんの少し下げて受けた。

 バトンが入る。

 真帆先輩は受けた瞬間、速度を殺さずに走り出した。

 

 私は自分のマークの前で待っていた。

 真帆先輩が近づいてくる。

 足音が思っていたより速い。

 

 マーク。

 

 出る。

 

「はい!」

 

 真帆先輩の声。

 私は右手を後ろに出した。

 

 指の腹に金属が当たる。

 掴む。

 

 持った。

 

 落とさなかった。

 

 胸の前で、一瞬だけ息が止まる。

 そう思った分だけ、次の一歩が遅れた。

 

 右手から左手へ持ち替える。

 その一瞬で、肩まで固まる。

 

「朝倉、走る!」

 

 茅野先輩の声が飛んだ。

 私は慌てて加速する。

 

 前には茅野先輩の背中。

 その背中は、私の遅れを無視して遠ざかっていく。

 

 アンカーは、後ろを見ない。

 私は必死に追った。

 

「はい!」

 

 私の声で、茅野先輩の左手が後ろへ出る。

 その手にバトンを入れればいい。

 それだけのはずだった。

 

 私は手を見た。

 その瞬間、足が詰まった。

 

 バトンが、茅野先輩の指をすり抜けた。

 

 からん。

 

 軽すぎる音だった。

 誰もすぐには動かなかった。

 

 私の喉だけが、変に乾いている。

 

「すみません」

「謝る前に拾って」

 

 茅野先輩が言った。

 私は慌ててバトンを拾った。

 

「もう一回」

「はい」

「今の、何が悪かったか分かる?」

「手を見ました」

「そ。じゃあ、それも。あと、受け取ったところで終わってた」

 

 私は言葉に詰まった。

 真帆先輩から受け取った瞬間、私はたしかに息を抜いた。

 

 持てた。

 落とさなかった。

 その一瞬だけ、バトンの先を見失っていた。

 

 茅野先輩は、私の手からバトンを取った。

 

「三走は、渡すまで終われない」

「はい」

「もう一回」

 

 二本目は、声が遅れてまた軽い音を聞いた。

 三本目は入ったけれど、茅野先輩の足音が一瞬だけ乱れた。

 四本目は近づきすぎて、肩がぶつかりかけた。

 五本目でようやく、バトンが止まらずに流れた。

 

 真帆先輩から私へ。

 私から茅野先輩へ。

 手の中にあったものが、前へ抜けていく。

 

 自分の手は空になったのに、走りだけはまだつながっていた。

 ほんの数秒。

 四人の速度が一本の線になった気がした。

 

「今の」

 

 茅野先輩が戻ってきて言った。

 

「最低限」

 

 褒められたのか分からなかった。

 千秋が小声で「それ、たぶん褒めてる」と言う。

 茅野先輩は聞こえていたらしく、こちらを見た。

 

「調子に乗らない」

 

 千秋がまた小さくなった。

 それから、茅野先輩は私を見る。

 

「朝倉」

「はい」

「私は後ろを見ない」

「はい」

「だから、あんたが届けるしかない」

 

 バトンの丸い端が、手のひらに食い込む。

 

 後ろを見ない人へ、後ろから届ける。茅野先輩は、私が届く前提で前に出る。

 

 でも私は、まだ自分の足さえ信用できない。

 練習の最後、片桐先生が全員を集めた。

 

「今日はここまで。初日にしては悪くない」

 

 千秋が小さく息を吐く。

 真帆先輩はバトンをケースに戻していた。

 片桐先生は、私と茅野先輩の受け渡しに口を挟まなかった。

 

 クリップボードの端で何かを書き込み、それでも茅野先輩の指摘を遮らない。

 茅野先輩は片桐先生と何か短く話したあと、アンカーゾーンの白線の前で足を止めた。

 

 その姿を見て、私はふと思った。

 この人は、ずっとこの白線の先に立っていたのだ。

 

 部室の記録表に、第四走者・鴻上ひかりの名前が残っていても。

 今、最後にバトンを持っていくのは茅野先輩だ。

 

 私はまだ、そのことをちゃんと分かっていなかった。

 

 片付けの途中、足がアンカーゾーンの方へ向いた。

 さっき茅野先輩が走り抜けた白線。

 そこに、部室の記録表の文字が重なった。

 

 第四走者、鴻上ひかり。

 

「朝倉」

 

 茅野先輩の声で、私は振り返った。

 

「どこ見てるの」

「すみません」

 

 茅野先輩はまっすぐ私を見ていた。

 

「今のアンカーは私」

 

 はっきりした声だった。怒鳴られたわけではない。

 それでも、胸の奥をまっすぐ突かれた。

 

「明日も私に渡すんだからね」

「はい」

「ちゃんと来て」

「はい」

 

 茅野先輩はそれだけ言って、バトンケースを持って歩いていった。

 私はその背中を見ていた。

 

 ひかり先輩の走りを見たい。十一秒六四を抜きたい。

 

 その気持ちは色褪せていない。

 

 でも今日、私が渡すはずだった相手は、ひかり先輩ではなかった。

 

 茅野梨央先輩だった。

 

 その当たり前のことが、バトンを落とした音と一緒に手の中へ残った。

 落とした音も、流れた瞬間の軽さも、同じ手の中に残っていた。

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