ひかりより速く、   作:おいかぜ

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六話 見え始めた兆し

 

 鴻上ひかり先輩の十一秒六四は、まだスマホの中にある。

 

 開けば、あの一歩目が出てくる。

 低くて、速くて、乱れない走り。

 再生すれば、やっぱり息を奪われる。

 

 けれど最近、親指が再生バーを戻す回数は減った。

 代わりに画面に残るのは、十二秒六四の私だった。

 

 崩れた走り。

 三歩目で沈んで、腕が遅れて、次の一歩が詰まる。

 気持ちのいい映像ではない。

 

 それでも最近は、そこで目を逸らさなくなった。

 

 練習前、グラウンドの端で軽く流していると、千秋が隣に並んだ。

 

「翠、最近ちょっと変わったよね」

「どこが?」

「前より、翠っぽくなってきた」

「翠っぽい?」

 

 千秋はスパイクのつま先でタータンを軽く叩いた。

 

「前はさ、誰かの正解を借りてる感じだった。今は、失敗しても自前」

「それ、褒めてる?」

「褒めてる。たぶん」

「たぶん」

「だって、前は苦しそうだったもん」

 

 千秋はスタートラインの方へ顎を向けた。

 

「今も楽そうではないけど、前よりちゃんと進んでる感じがする」

 

 ちゃんと進んでる感じ。曖昧な言葉なのに、なぜか嬉しかった。

 速くなったと決まったわけではない。

 十一秒六四に近づいたわけでもない。

 

 それでも、走り終わったあと、身体のどこが遅れたのか、前より分かるようになっていた。

 

 その日のメニューは、加速走とリレーの確認だった。

 一本目を終えると、片桐先生のペン先がクリップボードで止まった。

 

「昨日より沈んでない」

「はい」

「ただ、腕を止めるな。慎重になった分、後ろに残ってる」

「はい」

「直すのは一つずつでいい。怖がって固めるな」

 

 私は頷いた。

 一つずつ頭の中で並べたものを、今日は一つだけ残す。

 

 ひかり先輩の形は借りない。

 次の一本は、足裏から前へ返ってくる感覚があった。

 

 昼過ぎからはリレーだった。

 

 私の右手にバトンが入る。そこから左へ持ち替えて、茅野先輩の背中へ運ぶ。

 繰り返し繰り返し、同じような練習をする。都度バトンワークを修正し、それを身体に染み込ませる。順番を頭で唱えなくても、身体が先に準備するようになっていた。

 

 前を向いたまま出ていくアンカー。振り返らない背中。

 私が届かなければ、そのままバトンは途切れる。

 その恐ろしさは消えていない。

 

 ただ、バトンを持った瞬間に浮かぶ言葉は、落としたらどうしよう、ではなくなった。

 どこで声を出せば止まらないか。そちらへ意識が先に行く。

 

「朝倉、最後の二歩」

 

 一本終わると、茅野先輩が左手を一度だけ後ろへ出した。

 

「迷いが減った」

「本当ですか」

「減っただけ。まだ残ってる」

「はい」

「今日は手を探すより、声が遅い」

「声」

「次、声を先に置いて」

 

 私は息を整えながら、もう一度マークへ戻った。

 真帆先輩の足音が近づく。マークを踏んだ瞬間、身体が先に出た。

 声。右手に金属の感触。

 

 持ち替える。

 茅野先輩の背中が遠ざかる前に、息を前へ投げる。

 

「はい!」

 

 金属の筒が、茅野先輩の手の中へ滑った。

 今度は、茅野先輩の足音が乱れなかった。

 

 たぶん、ほんのわずか。

 でも、流れが切れなかった。

 

「今のは残す」

 

 戻ってきた茅野先輩が、短く口にした。

 

「残す?」

「次も同じ場所でやって」

「はい」

「まだ安定はしてないから」

「はい」

「でも、今のは残す」

 

 二回目は、少しだけ違って聞こえた。

 それだけで、手のひらに残る感触が変わる。

 千秋が横から小声を挟んだ。

 

「翠、今のかなりよかった」

「そう?」

「うん。バトンがびゅって行った」

「びゅって」

「語彙は今ない」

 

 真帆先輩が笑って、バトンケースのふたを開けた。

 茅野先輩は少し離れた場所で、片桐先生と話していた。

 今日は本数を増やさないように。

 先生の声が、グラウンドの端まで届く。

 茅野先輩は頷いた。でも、その首の動きはいつもより硬かった。

 

 練習の最後、片桐先生がクリップボードを閉じた。

 

「今日は朝倉の百メートルを一本測る」

 

 急に名前を呼ばれて、私は顔を上げた。

 

「今ですか」

「今だ。リレーで走ったあとに、どれだけ自分の動きが残っているかを確かめる」

 

 私はスタートラインへ向かった。足には少し疲れがある。

 でも、リレーのあとで身体はよく温まっていた。

 風も、ほんの少しだけ背中を押している。

 

 初日の測定より、スタート前の肩も軽い。

 それでも、不思議と頭は静かだった。

 

 十一秒六四。

 

 その数字はもちろんある。

 消えることはない。

 

 でも、スタートラインに立ったとき、動画の中のひかり先輩を呼び出そうとは思わなかった。

 

 三歩目で落ちない。腕を置いていかない。

 頭の中に残すのは、それだけでよかった。

 

 千秋が横から声をかける。

 

「翠、顔」

「怖い?」

「いや、今日は大丈夫そう」

「どっち」

「どっちでもない顔」

 

 よく分からなかったけれど、笑えた。

 

 片桐先生の手が上がる。位置について。

 指先をトラックにつける。

 よーい。

 腰を上げる。地面が静かになる。

 

 合図と同時に、ブロックを蹴り飛ばす。

 一歩目でトラックを押す。

 力が下へ逃げる前に、二歩目が前へ出た。

 

 三歩目。沈みすぎない。

 

 腕を置いていかないまま、身体が前へ乗る。

 中盤で、一度だけ身体が軽くなった。

 足裏で押した分だけ、ちゃんと前へ返ってくる。

 腕を振るたびに、身体が遅れずについてくる。

 

 七十メートルを過ぎても、顔が上がりすぎなかった。

 最後の十メートルは苦しい。

 

 息が熱い。肩が固まりかける。

 それでも、崩れきらない。

 

 ゴール。

 

 肺の奥が焼ける。掲示板はない。纏っていた風が霧散し、肌が汗ばんだ。

 

 片桐先生のストップウォッチだけが数字を持っている。

 私は先生の手元へ意識を向けた。

 

「十二秒二六」

 

 一瞬、意味が遅れて届いた。

 

 十二秒二六。

 

 初日の数字より、はっきり速い。十二秒六四より、ずっと前にある。

 風はあった。身体も温まっていた。

 それでも、偶然だけで出た数字だとは思えなかった。

 

 十一秒六四には、まだ遠い。

 それでも、初めて距離が縮んだ音がした。

 

 千秋が先に声を上げる。

 

「翠、速っ」

 

 真帆先輩が手を叩く。

 

「いいね、今の」

 

 片桐先生はストップウォッチをもう一度確かめ、クリップボードの端を叩いた。

 

「まだ荒い。ただ、今日のはお前の走りだった」

 

 その言葉で、タイムより先に呼吸が詰まりそうになった。

 

 お前の走り。

 先生の声なのに、私は別の人の声を思い出していた。

 

 朝倉さんの身体じゃないし。

 そう突き放した人の声。

 無意識に、グラウンドの入口へ顔が向いた。

 いつもなら空いているその場所に、制服の影があった。

 

 フェンスの外ではない。校舎側の入口。

 いつもより少し近い場所に、ひかり先輩が立っていた。

 私は走り終えたばかりの息のまま、何も返せなかった。

 

 ひかり先輩の方から、ゆっくり近づいてくる。真帆先輩が記録用紙を見せる。

 

「十二秒二六」

 

 ひかり先輩は、数字だけを先に置いた。

 私は頷いた。

 

「はい」

「速くなったね」

 

 その声は、驚くほど普通に聞こえた。

 からかうでもなく、突き放すでもなく。

 ただ、そこにあったものをそのまま渡されたようだった。

 

 胸の中で、何かが一拍遅れて鳴った。

 

「走り方が、借り物じゃなかった」

 

 風が、グラウンドを抜けた。私はすぐに返事ができなかった。

 

 十二秒二六。

 

 すごいね、よりも。

 速くなったね、よりも。

 

 その一言の方が、ずっと大きかった。

 

「まだ、十一秒六四には届いてません」

 

 ようやく出た言葉は、それだった。謙遜のつもりだった。そうしないと、本気で喜んでしまいそうだったから。同時に、純然たる事実でもあった。

 

 ひかり先輩は少しだけ目を細める。

 

「知ってる」

「でも、追います」

 

 ひかり先輩は否定しなかった。

 

「まだ、届いてないので」

「知ってる」

 

 同じ言葉なのに、二回目は少しだけ違って聞こえた。

 ひかり先輩は、グラウンドの奥へ顔を向けた。

 

 茅野先輩がダウンをしている。真帆先輩が千秋に何か話している。

 片桐先生は記録をノートに移していた。

 

「リレーのときも、見てたけど」

 

 ひかり先輩の声が、グラウンドの風に少し混ざる。

 私は息を止めかけた。

 

「茅野の手、探してなかったね」

「はい」

「その方がいい」

 

 それだけ。

 

 ひかり先輩はリレーについて長く語らない。

 けれど、私のバトンだけではない。

 茅野先輩の背中まで、ひかり先輩の中に残っている。

 そう思うと、手のひらが少し熱くなった。

 

「先輩」

「何?」

「最近、少し近いです」

 

 口にしてから、変なことを言ったと思った。

 ひかり先輩は一瞬だけ黙る。

 

「距離?」

「たぶん」

「変な言い方」

「すみません」

「謝るところ?」

 

 私は口を閉じた。

 ひかり先輩は校舎の方へ顔を戻した。

 

「十二秒二六でも、まだ遠いよ」

「はい」

「それでも来るんだ」

「行きます」

「そっか」

 

 ひかり先輩はそれ以上続けなかった。でも、すぐには帰らなかった。

 グラウンドの端で、茅野先輩が右脚をいつもより長く伸ばしている。

 私が気づくより少し早く、ひかり先輩の顔がそちらへ向いた気がした。

 

 けれど、何も口にしなかった。

 私は声をかけようとして、やめた。

 

 ──心配するなら、ちゃんと渡して。

 

 茅野先輩の言葉が戻ってくる。

 私に今できることは、心配そうな顔をすることではない。

 茅野先輩が余計なところで踏ん張らなくて済むように、バトンを渡すことだ。

 

 練習後、ノートに十二秒二六だけを書いた。

 その隣に、少し間を空ける。

 

 借り物じゃなかった。

 書いた瞬間、閉じたくなってページを伏せた。

 

 嬉しかった。

 悔しかった。

 

 まだ届かないことも、分かっていた。

 それでも今日は、ひかり先輩の形を追いかけて崩れた日とは違った。

 

 私は私の身体で、少しだけ前に進んだ。

 部室を出ると、廊下の先で茅野先輩が壁に片手をついて靴を履き替えていた。

 私の気配に気づいた茅野先輩が、顔を上げる。

 

「明日も合わせるから」

「はい」

「今日より速く持ってきて」

 

 いつも通りの声だった。靴紐を結ぶ指先が強く引かれていた。

 私は頷いた。

 

「持っていきます」

 

 茅野先輩は短く「ならいい」と返して、部室の外へ歩いていった。

 その背中が廊下の角を曲がるまで、私は手のひらを開いていた。

 バトンはない。

 それでも、手のひらはまだ空にならなかった。

 

 十二秒二六の熱。

 茅野先輩の背中。

 十一秒六四までの距離。

 

 どれも、まだ途中だった。

 

 ♦

 

 夏の大会は、すぐにやって来た。

 

 私は十一秒台に届かなかった。

 十二秒二六の一本があったから、少しだけ期待していた。

 

 けれど大会の掲示板に出た私の名前は、次へ進む人たちの列には入っていなかった。

 

 自己ベストに近い走りはできた。

 片桐先生は悪くないと言ってくれた。

 千秋も真帆先輩も、速くなってるよ、と笑ってくれた。

 それでも、掲示板の上には、私より速い名前がいくつも並んでいた。

 

 中学最後の県大会で感じた、あの薄い膜みたいな距離が戻ってきた。

 褒められる場所と、次へ進む場所は、まだ同じではなかった。

 

 リレーも同じだった。

 千秋の一歩目は鋭かった。真帆先輩は崩さなかった。私は落とさず渡した。

 茅野先輩は最後まで持っていった。

 

 大きなミスはない。

 バトンも止まらなかった。

 

 それでも、四十七秒六二には届かなかった。ひかり先輩の名前は、オーダーになかった。

 

 夏は、そういう終わり方をした。

 

 大会の帰り道、バスの窓に、グラウンドの照り返しがまだ残っている気がした。

 

 千秋はいつもより静かにスパイク袋を抱えていた。

 真帆先輩はリレーの記録表をスマホで確認して、すぐに画面を伏せた。

 茅野先輩は窓側の席で、右脚を通路に出さないように少しだけ曲げていた。

 

 誰も、負けたとは言わなかった。

 でも、届かなかったことだけは、全員が知っていた。

 

 私は手のひらを開いた。

 そこにはもうバトンはない。

 それでも、渡した感触が残っている。

 

 千秋の一歩目。

 真帆先輩の受ける腕。

 茅野先輩の待たない背中。

 

 同じリレーの中にいるのに、私たちは同じものを背負っているわけではない。

 

 そのことを、私はまだちゃんと分かっていなかった。

 

 夏休みの半ば。

 部室のホワイトボードの前で、片桐先生がペンを持った。

 

 百メートルの欄には、何も書かれない。

 代わりに、先生は大きく一行を書いた。

 四×一〇〇メートルリレー。

 

 千秋の足音。

 真帆先輩の足音。

 茅野先輩の足音。

 

 その間に置く、私の声。

 

 まだ、揃っていない。

 

 でも、ばらばらなままでは終わらせたくなかった。

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