鴻上ひかり先輩の十一秒六四は、まだスマホの中にある。
開けば、あの一歩目が出てくる。
低くて、速くて、乱れない走り。
再生すれば、やっぱり息を奪われる。
けれど最近、親指が再生バーを戻す回数は減った。
代わりに画面に残るのは、十二秒六四の私だった。
崩れた走り。
三歩目で沈んで、腕が遅れて、次の一歩が詰まる。
気持ちのいい映像ではない。
それでも最近は、そこで目を逸らさなくなった。
練習前、グラウンドの端で軽く流していると、千秋が隣に並んだ。
「翠、最近ちょっと変わったよね」
「どこが?」
「前より、翠っぽくなってきた」
「翠っぽい?」
千秋はスパイクのつま先でタータンを軽く叩いた。
「前はさ、誰かの正解を借りてる感じだった。今は、失敗しても自前」
「それ、褒めてる?」
「褒めてる。たぶん」
「たぶん」
「だって、前は苦しそうだったもん」
千秋はスタートラインの方へ顎を向けた。
「今も楽そうではないけど、前よりちゃんと進んでる感じがする」
ちゃんと進んでる感じ。曖昧な言葉なのに、なぜか嬉しかった。
速くなったと決まったわけではない。
十一秒六四に近づいたわけでもない。
それでも、走り終わったあと、身体のどこが遅れたのか、前より分かるようになっていた。
その日のメニューは、加速走とリレーの確認だった。
一本目を終えると、片桐先生のペン先がクリップボードで止まった。
「昨日より沈んでない」
「はい」
「ただ、腕を止めるな。慎重になった分、後ろに残ってる」
「はい」
「直すのは一つずつでいい。怖がって固めるな」
私は頷いた。
一つずつ頭の中で並べたものを、今日は一つだけ残す。
ひかり先輩の形は借りない。
次の一本は、足裏から前へ返ってくる感覚があった。
昼過ぎからはリレーだった。
私の右手にバトンが入る。そこから左へ持ち替えて、茅野先輩の背中へ運ぶ。
繰り返し繰り返し、同じような練習をする。都度バトンワークを修正し、それを身体に染み込ませる。順番を頭で唱えなくても、身体が先に準備するようになっていた。
前を向いたまま出ていくアンカー。振り返らない背中。
私が届かなければ、そのままバトンは途切れる。
その恐ろしさは消えていない。
ただ、バトンを持った瞬間に浮かぶ言葉は、落としたらどうしよう、ではなくなった。
どこで声を出せば止まらないか。そちらへ意識が先に行く。
「朝倉、最後の二歩」
一本終わると、茅野先輩が左手を一度だけ後ろへ出した。
「迷いが減った」
「本当ですか」
「減っただけ。まだ残ってる」
「はい」
「今日は手を探すより、声が遅い」
「声」
「次、声を先に置いて」
私は息を整えながら、もう一度マークへ戻った。
真帆先輩の足音が近づく。マークを踏んだ瞬間、身体が先に出た。
声。右手に金属の感触。
持ち替える。
茅野先輩の背中が遠ざかる前に、息を前へ投げる。
「はい!」
金属の筒が、茅野先輩の手の中へ滑った。
今度は、茅野先輩の足音が乱れなかった。
たぶん、ほんのわずか。
でも、流れが切れなかった。
「今のは残す」
戻ってきた茅野先輩が、短く口にした。
「残す?」
「次も同じ場所でやって」
「はい」
「まだ安定はしてないから」
「はい」
「でも、今のは残す」
二回目は、少しだけ違って聞こえた。
それだけで、手のひらに残る感触が変わる。
千秋が横から小声を挟んだ。
「翠、今のかなりよかった」
「そう?」
「うん。バトンがびゅって行った」
「びゅって」
「語彙は今ない」
真帆先輩が笑って、バトンケースのふたを開けた。
茅野先輩は少し離れた場所で、片桐先生と話していた。
今日は本数を増やさないように。
先生の声が、グラウンドの端まで届く。
茅野先輩は頷いた。でも、その首の動きはいつもより硬かった。
練習の最後、片桐先生がクリップボードを閉じた。
「今日は朝倉の百メートルを一本測る」
急に名前を呼ばれて、私は顔を上げた。
「今ですか」
「今だ。リレーで走ったあとに、どれだけ自分の動きが残っているかを確かめる」
私はスタートラインへ向かった。足には少し疲れがある。
でも、リレーのあとで身体はよく温まっていた。
風も、ほんの少しだけ背中を押している。
初日の測定より、スタート前の肩も軽い。
それでも、不思議と頭は静かだった。
十一秒六四。
その数字はもちろんある。
消えることはない。
でも、スタートラインに立ったとき、動画の中のひかり先輩を呼び出そうとは思わなかった。
三歩目で落ちない。腕を置いていかない。
頭の中に残すのは、それだけでよかった。
千秋が横から声をかける。
「翠、顔」
「怖い?」
「いや、今日は大丈夫そう」
「どっち」
「どっちでもない顔」
よく分からなかったけれど、笑えた。
片桐先生の手が上がる。位置について。
指先をトラックにつける。
よーい。
腰を上げる。地面が静かになる。
合図と同時に、ブロックを蹴り飛ばす。
一歩目でトラックを押す。
力が下へ逃げる前に、二歩目が前へ出た。
三歩目。沈みすぎない。
腕を置いていかないまま、身体が前へ乗る。
中盤で、一度だけ身体が軽くなった。
足裏で押した分だけ、ちゃんと前へ返ってくる。
腕を振るたびに、身体が遅れずについてくる。
七十メートルを過ぎても、顔が上がりすぎなかった。
最後の十メートルは苦しい。
息が熱い。肩が固まりかける。
それでも、崩れきらない。
ゴール。
肺の奥が焼ける。掲示板はない。纏っていた風が霧散し、肌が汗ばんだ。
片桐先生のストップウォッチだけが数字を持っている。
私は先生の手元へ意識を向けた。
「十二秒二六」
一瞬、意味が遅れて届いた。
十二秒二六。
初日の数字より、はっきり速い。十二秒六四より、ずっと前にある。
風はあった。身体も温まっていた。
それでも、偶然だけで出た数字だとは思えなかった。
十一秒六四には、まだ遠い。
それでも、初めて距離が縮んだ音がした。
千秋が先に声を上げる。
「翠、速っ」
真帆先輩が手を叩く。
「いいね、今の」
片桐先生はストップウォッチをもう一度確かめ、クリップボードの端を叩いた。
「まだ荒い。ただ、今日のはお前の走りだった」
その言葉で、タイムより先に呼吸が詰まりそうになった。
お前の走り。
先生の声なのに、私は別の人の声を思い出していた。
朝倉さんの身体じゃないし。
そう突き放した人の声。
無意識に、グラウンドの入口へ顔が向いた。
いつもなら空いているその場所に、制服の影があった。
フェンスの外ではない。校舎側の入口。
いつもより少し近い場所に、ひかり先輩が立っていた。
私は走り終えたばかりの息のまま、何も返せなかった。
ひかり先輩の方から、ゆっくり近づいてくる。真帆先輩が記録用紙を見せる。
「十二秒二六」
ひかり先輩は、数字だけを先に置いた。
私は頷いた。
「はい」
「速くなったね」
その声は、驚くほど普通に聞こえた。
からかうでもなく、突き放すでもなく。
ただ、そこにあったものをそのまま渡されたようだった。
胸の中で、何かが一拍遅れて鳴った。
「走り方が、借り物じゃなかった」
風が、グラウンドを抜けた。私はすぐに返事ができなかった。
十二秒二六。
すごいね、よりも。
速くなったね、よりも。
その一言の方が、ずっと大きかった。
「まだ、十一秒六四には届いてません」
ようやく出た言葉は、それだった。謙遜のつもりだった。そうしないと、本気で喜んでしまいそうだったから。同時に、純然たる事実でもあった。
ひかり先輩は少しだけ目を細める。
「知ってる」
「でも、追います」
ひかり先輩は否定しなかった。
「まだ、届いてないので」
「知ってる」
同じ言葉なのに、二回目は少しだけ違って聞こえた。
ひかり先輩は、グラウンドの奥へ顔を向けた。
茅野先輩がダウンをしている。真帆先輩が千秋に何か話している。
片桐先生は記録をノートに移していた。
「リレーのときも、見てたけど」
ひかり先輩の声が、グラウンドの風に少し混ざる。
私は息を止めかけた。
「茅野の手、探してなかったね」
「はい」
「その方がいい」
それだけ。
ひかり先輩はリレーについて長く語らない。
けれど、私のバトンだけではない。
茅野先輩の背中まで、ひかり先輩の中に残っている。
そう思うと、手のひらが少し熱くなった。
「先輩」
「何?」
「最近、少し近いです」
口にしてから、変なことを言ったと思った。
ひかり先輩は一瞬だけ黙る。
「距離?」
「たぶん」
「変な言い方」
「すみません」
「謝るところ?」
私は口を閉じた。
ひかり先輩は校舎の方へ顔を戻した。
「十二秒二六でも、まだ遠いよ」
「はい」
「それでも来るんだ」
「行きます」
「そっか」
ひかり先輩はそれ以上続けなかった。でも、すぐには帰らなかった。
グラウンドの端で、茅野先輩が右脚をいつもより長く伸ばしている。
私が気づくより少し早く、ひかり先輩の顔がそちらへ向いた気がした。
けれど、何も口にしなかった。
私は声をかけようとして、やめた。
──心配するなら、ちゃんと渡して。
茅野先輩の言葉が戻ってくる。
私に今できることは、心配そうな顔をすることではない。
茅野先輩が余計なところで踏ん張らなくて済むように、バトンを渡すことだ。
練習後、ノートに十二秒二六だけを書いた。
その隣に、少し間を空ける。
借り物じゃなかった。
書いた瞬間、閉じたくなってページを伏せた。
嬉しかった。
悔しかった。
まだ届かないことも、分かっていた。
それでも今日は、ひかり先輩の形を追いかけて崩れた日とは違った。
私は私の身体で、少しだけ前に進んだ。
部室を出ると、廊下の先で茅野先輩が壁に片手をついて靴を履き替えていた。
私の気配に気づいた茅野先輩が、顔を上げる。
「明日も合わせるから」
「はい」
「今日より速く持ってきて」
いつも通りの声だった。靴紐を結ぶ指先が強く引かれていた。
私は頷いた。
「持っていきます」
茅野先輩は短く「ならいい」と返して、部室の外へ歩いていった。
その背中が廊下の角を曲がるまで、私は手のひらを開いていた。
バトンはない。
それでも、手のひらはまだ空にならなかった。
十二秒二六の熱。
茅野先輩の背中。
十一秒六四までの距離。
どれも、まだ途中だった。
♦
夏の大会は、すぐにやって来た。
私は十一秒台に届かなかった。
十二秒二六の一本があったから、少しだけ期待していた。
けれど大会の掲示板に出た私の名前は、次へ進む人たちの列には入っていなかった。
自己ベストに近い走りはできた。
片桐先生は悪くないと言ってくれた。
千秋も真帆先輩も、速くなってるよ、と笑ってくれた。
それでも、掲示板の上には、私より速い名前がいくつも並んでいた。
中学最後の県大会で感じた、あの薄い膜みたいな距離が戻ってきた。
褒められる場所と、次へ進む場所は、まだ同じではなかった。
リレーも同じだった。
千秋の一歩目は鋭かった。真帆先輩は崩さなかった。私は落とさず渡した。
茅野先輩は最後まで持っていった。
大きなミスはない。
バトンも止まらなかった。
それでも、四十七秒六二には届かなかった。ひかり先輩の名前は、オーダーになかった。
夏は、そういう終わり方をした。
大会の帰り道、バスの窓に、グラウンドの照り返しがまだ残っている気がした。
千秋はいつもより静かにスパイク袋を抱えていた。
真帆先輩はリレーの記録表をスマホで確認して、すぐに画面を伏せた。
茅野先輩は窓側の席で、右脚を通路に出さないように少しだけ曲げていた。
誰も、負けたとは言わなかった。
でも、届かなかったことだけは、全員が知っていた。
私は手のひらを開いた。
そこにはもうバトンはない。
それでも、渡した感触が残っている。
千秋の一歩目。
真帆先輩の受ける腕。
茅野先輩の待たない背中。
同じリレーの中にいるのに、私たちは同じものを背負っているわけではない。
そのことを、私はまだちゃんと分かっていなかった。
夏休みの半ば。
部室のホワイトボードの前で、片桐先生がペンを持った。
百メートルの欄には、何も書かれない。
代わりに、先生は大きく一行を書いた。
四×一〇〇メートルリレー。
千秋の足音。
真帆先輩の足音。
茅野先輩の足音。
その間に置く、私の声。
まだ、揃っていない。
でも、ばらばらなままでは終わらせたくなかった。