ホワイトボードには、百メートルのメニューがなかった。
代わりに、片桐先生の字で大きく一行だけ書かれている。
四×一〇〇メートルリレー。
夏休みのグラウンドは、朝から熱を持っていた。
タータンの上に立っているだけで、足元からじわじわと汗が上がってくる。
それでも、誰も文句を口にしなかった。
文句が言えるほど、私たちは夏に勝っていない。
片桐先生は、ホワイトボードの前でペンを止めた。
「今日は百は測らない」
ほんの少しだけ、肩が落ちた。
自分では、ばれない程度のつもりだった。
でも先生は、三番目の走者の欄をペン先で叩いた。
「朝倉。お前は百だけ速くなればいいわけじゃない」
「はい」
「三走だ」
先生は、今度はアンカーの欄を叩く。
「百メートルのお前は、ゴールまで行けばいい。だが三走のお前の目的地は、こっちだ」
目的地。
その言葉だけが、スタートマークより先に置かれた気がした。
「夏に届かなかった理由を、一人ずつ探す」
千秋がバトンケースを抱えて、一走の位置へ向かう。
真帆先輩は二走のマークを確かめている。私は三走。
茅野先輩はアンカーゾーンに立った。
同じリレーなのに、四人の立つ場所はこんなに離れている。
最初は、千秋と真帆先輩の区間だった。
千秋は小柄だ。でもスタートラインに入ると、輪郭が変わる。
軽口も表情も薄くなって、最初の一歩だけに身体が集まる。
千秋の足音は、低く、鋭く出る。
真帆先輩はその鋭さを受け止める。
バトンは落ちない。
けれど、受けたあとの一歩がわずかに沈んだ。
「千秋、声が早い」
「遅いと詰まりません?」
「遅くするんじゃなくて、合わせる」
「その“合わせる”が難しいんですけど」
「だから練習してる」
千秋は口を尖らせた。
それでも、バトンを握り直すとすぐに一走の位置へ戻った。
夏が終わってから、千秋はスタートラインで軽口を減らした。
つま先でタータンを叩く回数だけが増えた。
次の一本を待つ間、私は一走の方へ近づいた。
「千秋、一走って怖い?」
千秋は少し目を丸くした。
それから、バトンを握ったまま笑う。
「怖いよ。だって私、誰からもバトンもらえないんだよ」
「うん」
「失敗しても、前に戻してくれる人いないし」
千秋はスタートラインへ顎を向けた。
「最初だけって、けっこう怖い」
後ろに誰もいない一走。
前にアンカーがいる三走。
同じリレーなのに、怖さの置き場が違う。
次は、真帆先輩と私の区間だった。
真帆先輩は、派手な動きをしない。
千秋の鋭さを受けても、無理に目立とうとしない。
受け取った速度を崩さず、私が取れる形にして持ってくる。
「朝倉、受けたあと」
「はい」
「入った瞬間に安心しない。そこで一回、肩が抜ける」
思い当たった。たぶん、最初からずっと直っていない癖だ。
真帆先輩の声が来る。
右手に金属が触れる。
その一瞬、落とさなかったことに身体が安心する。
でも、そこは終わりではない。
「私の二走、途中で消さないでね」
真帆先輩は、軽く笑った。
「前の四十七秒六二のときも、私、二走だった。でも、だいたい“ひかりが走った記録”って言われる」
「……はい」
「リレーって、途中がいちばん名前残らないんだよね」
声は軽かった。でも、軽いだけではなかった。
「だから、梨央まで持ってって」
「持っていきます」
「うん。途中で終わらせないで」
何本か合わせるうちに、真帆先輩の声が来る位置は少しずつ分かってきた。
でも、受けた瞬間に肩が抜ける癖だけは、まだ残っていた。
手の中に入ったバトンは、さっきより熱い。
それを、茅野先輩へ持っていく。
アンカーゾーンの茅野先輩は、マークを半足ずつ動かしていた。
前へ。
戻す。
また前へ。
スパイクの先が、白いマークの端を押さえる。
「半足で変わるんですか」
「変わる」
「そんなに」
「待ちすぎたら私の速度が死ぬ。早すぎたらあんたが届かない」
「はい」
「夏は、そこが甘かった」
言い訳の余地がない声だった。
茅野先輩との合わせは、声の位置がずれるたびに全体が崩れた。
遅ければ、茅野先輩が待つ。
早ければ、私が焦る。
どちらでも、バトンの通り道が細くなる。
「百メートルのまま来ないで。三走で来て」
返事をしようとして、息だけが先に詰まった。
百メートルで十一秒台に届きたい。
ひかり先輩の記録に近づきたい。
その気持ちは消えない。
でも、今の私は三走だ。
最後の一本で、少しだけ流れが残った。
真帆先輩から受けて、安心しない。
茅野先輩の背中へ、声を押す。
金属の筒が、茅野先輩の左手へ滑った。
今度は詰まらなかった。
戻ってきた茅野先輩は、短く息を吐いた。
「今の。覚えて」
それだけで、私は息を吐きそうになった。
「喜ぶの早い」
「喜んでません」
「顔」
千秋が横で笑う。
「翠、顔でリレーしてる説ある」
「ない」
「あると思う」
真帆先輩まで笑った。少しだけ空気がほどけた。
そのとき、フェンスの外にひかり先輩の姿があった。
白いTシャツに薄い上着。スパイクは履いていない。
部活に入る距離ではない。
でも、通り過ぎる距離でもなかった。
最初は、私の一本に足を止めたのだと思った。
でも、ひかり先輩の顔は、バトンの通り道を追っていた。
千秋の出。
真帆先輩の受け。
茅野先輩のマーク。
私の声。
私だけではなかった。
胸の奥に細い棘が刺さる。
それでも、ひかり先輩がリレーから目を逸らしていないことに、どこかで息をついてもいた。
練習が一区切りついたあと、私はフェンスの近くへ向かった。
ひかり先輩は逃げなかった。
「どうでしたか」
尋ねても、ひかり先輩の身体はグラウンド側を向いたままだった。
「朝倉さん、受けたあと少し緩む」
「真帆先輩にも同じことを言われました」
「じゃあ合ってる」
「他には」
「茅野はもう出てるのに、朝倉さんの声が遅いときがある」
「はい」
「でも、最後のはよかった、気がする」
胸が少し浮いた。
その浮き方が、悔しい。
「朝倉さんの声、前より通るね」
「声ですか」
「うん」
ひかり先輩の顔が、茅野先輩の方へ向いた。
真帆先輩が、氷の袋を持ってくる。
茅野先輩は何でもない顔で受け取ったけれど、右脚へ伸ばす手つきだけが慎重だった。
「茅野の脚……」
ひかり先輩の声が、フェンスの向こうで落ちた。
「ひどいの?」
「分かりません」
「そう」
責める響きはなかった。
ただ、隠れていないものを拾っただけのようだった。
ひかり先輩は、拾ってしまう。
茅野先輩の脚も、私の声の遅れも、夏に届かなかった隙間も。
それなのに、フェンスの外側にいる。
気づいたときには、指先がフェンスの網を握っていた。
「先輩」
「何」
「本当に、まだ走れるんですか」
口にした瞬間、自分でもひどい聞き方だと思った。
でも、取り消したくなかった。
ひかり先輩の顔がこちらへ戻る。目を丸くして、私の次の言葉を窺っていた。
「何それ」
「リレーに入るって言葉が、本当に残ってるのか知りたいんです」
空気が少し変わった。
ひかり先輩は怒らなかった。
ただ、私との間にあるフェンスを挟んだまま、立っていた。
「私、リレーに入るって言ってない」
「抜いたら、ですよね」
「まだ抜いてない」
「でも、走れないなら約束になりません」
言葉が強すぎる。分かっている。
でも、夏を終えたあとで、ただ見られているだけの自分には戻りたくなかった。
「確認したいです」
「何を」
「先輩が、今も走れる人なのか。今も、速い人なのか」
ひかり先輩は、しばらく黙った。
沈黙が長くなるほど、後悔が喉元まで上がってくる。
それでも、私はフェンスから指を離さなかった。
「測らないなら」
「え」
「測ったら記録になるから」
ひかり先輩らしい条件だった。
私は頷いた。
「それでいいです」
「スパイクも履かない」
「はい」
「勝負でもない」
「はい」
「じゃあ、少しだけ」
少しだけ。
その言い方が、また胸に刺さった。
私にとっては、少しだけではない。
練習後、私は河川敷へ向かった。
ひかり先輩は本当に来た。
薄い上着を脱ぎ、ランニングシューズのまま土手を下りてくる。
夕方の河川敷には、レーンも白線もない。
橋の影から、少し先の街灯まで。
ひかり先輩が指で示す。
「だいたい百」
「正確じゃないんですね」
「正確じゃないからいいんじゃない」
タイムはない。号砲もない。公式でもない。
だから、ひかり先輩はここに立つ。
私は橋の影に入った。
ひかり先輩は、私より二歩ほど後ろに立つ。
「先に行くの?」
「はい」
「後ろから追われたいんだ」
「違います」
すぐ否定した。
でも、たぶん違わなかった。
一瞬でも、ひかり先輩を後ろに置いてみたかった。
ひかり先輩は何も返さず、前を向いた。
「合図は」
「私が出ます。先輩も出てください」
「雑」
「測らないので」
「……そうだった」
私は息を吸った。
橋の影から街灯までの、だいたい百メートル。
正確ではない。普段の練習通りに走ると少しズレるかもしれない。
でも、今だけ私の前にひかり先輩はいない。深く息を吸って、吐く。2度繰り返して、呼吸を整える。
直後、私は橋の影を蹴った。
一歩目。二歩目。三歩目。
落ちない。学校のタータンとは感触が違う。砂混じりのアスファルトにランニングシューズが滑る。
それでも、身体は前へ乗った。二十メートル。
まだ、足音は後ろにあった。
その事実だけで、馬鹿みたいに胸が鳴った。
勝てるなんて思っていない。
それでも、追わせている。
その感覚は、三十メートルも続かなかった。
後ろの足音が近づく。
最初は風の音だと思った。
でも違う。
ひかり先輩の足音だった。
大きくなったわけではない。乱れたわけでもない。
ただ、位置だけが近づいてくる。
四十メートル。
足音が横に来た。顔を向けない。向けたら崩れる。
でも、向けなくても分かる。
隣にいる。
次の接地で、足音の位置が入れ替わった。
抜かれた、というより、世界の速度が入れ替わったみたいだった。
何かが爆発した感じはない。
ただ、私が必死で進もうとしている道を、ひかり先輩は静かに通り過ぎていく。
五十メートル。
私はもう流していなかった。
腕を振る。顔を上げない。
七十まで崩れない。
そう思うほど、身体の奥が硬くなる。
ひかり先輩の背中は、急に離れていくわけではない。
でも、縮まらない。
六十メートル。
息が熱い。足音が遠ざかる。
嫉妬したかった。
でも、悔しさが届く前に、背中だけが遠くなる。
憧れの方が、まだ近かった。そしてそれさえも、遠い。
街灯の下を、ひかり先輩が先に抜けた。
私は数歩遅れて、そこへたどり着く。
止まりきれずに前へ流れ、膝に手をついた。
喉が痛い。心臓がうるさい。
ひかり先輩は少し先で振り返った。
息は上がっている。
でも、私とは違った。
終わったあとですら、立っている姿が崩れない。
「朝倉さん」
「……はい」
「七十から顔が上がる」
私は息を切らしながら、笑いそうになった。
「今、それ言いますか」
「ずっと気になってたから」
その平然さが、また悔しい。
「今の」
「うん」
「本気ですか」
ひかり先輩はすぐに返さなかった。沈黙の中、ストレッチするように身体を伸ばす。
「測ってないから分からない」
「そういう意味じゃなくて」
「じゃあ、どういう意味」
聞き返されて、言葉が止まる。
全力だったのか。流していたのか。
……どれくらい余裕があったのか。
知りたいはずなのに、知るのが怖かった。
「先輩は」
私はまだ息を整えきれないまま口を開いた。
「必死になったことがありますか」
ひかり先輩は、今度は少し考えた。
川沿いの風が、汗の上を通っていく。
「全力なら、あると思う」
「必死は?」
「分からない」
その返事が、十一秒六四より遠く聞こえた。
「自己ベストのときも?」
「たぶん、全力では行った」
「でも、必死かは分からない」
「うん」
私は何も返せなかった。
私がずっと欲しかった場所。
夏にも届かなかった場所。
そこへ行った人が、必死だったか分からないと言う。
腹が立った。
でも、その腹立ちも、さっきの背中に置いていかれていた。
「ずるいです」
ようやく出たのは、それだけだった。
ひかり先輩は首を少し傾ける。
「何が」
「分からないところです」
「そう」
「先輩が分からないって言う場所に、私はずっと行きたいんです」
声が少し震えた。
ひかり先輩は何も返さない。
「さっきの言い方、違いました」
「どれ」
「約束が残ってるのか知りたいって。走れる人なのかって」
「ああ」
「使えるかどうかみたいに言いました」
ひかり先輩は、川の方へ顔を向けた。
「使う気だったんじゃないの」
「違います」
すぐ否定した。
でも、それだけでは足りない気がした。
「違うようにしたいです」
ひかり先輩は、ほんの少しだけ眉を動かした。
「じゃあ、いいんじゃない」
「いいんですか」
「今、違うようにしたいって言ったから」
簡単に許されて、少し困った。
ひかり先輩は、そういうところがある。
大事なところに触れるのに、長くは持たない。
「朝倉さん」
「はい」
「速くなってるよ」
不意に置かれて、胸が詰まった。
「でも、まだです」
「うん」
ひかり先輩は遠慮なく頷いた。
その正直さが、今はありがたかった。
「追います」
「うん」
「必死になったことがないなら」
言いかけて、少し迷う。
でも、続けた。
「いつか、そこまで行かせたいです」
ひかり先輩の顔が、少しだけこちらへ向く。
「私を?」
「はい」
「必死に?」
「はい」
ひかり先輩は、しばらく私の方を向いていた。
それから、ほんの少しだけ口元を動かす。
「変なの」
それだけ残して、川沿いの道を歩き出した。
私は、その背中を追わなかった。
さっき私を抜いていった背中。
嫉妬も憧れも、追いつく前に置いていかれた背中。
十一秒六四。
それはもう、記録表の数字ではなかった。
私の二歩後ろから出て、風よりも静かに消えていった。
その日から、リレーの音が少し変わった。
夏休みの終わりに、記録会があった。
大きな大会ではない。
それでも、秋の地区大会前に今の状態を確かめるにはちょうどいい、と片桐先生は話していた。
私は百メートルに出た。
夏には届かなかった十一秒台が、今は目の前にある。
そう考えると、足が少し浮きそうになる。
けれど焦っても、あの背中には近づけない。河川敷の街灯の下、少し藻掻いたくらいで埋まらないほどの差が、私たちの間には横たわっていた。
記録会で、私は十二秒〇八を出した。
十一秒台まで、あと〇秒〇九。
千秋の声が跳ねる。
「翠、十二秒〇八!」
自己ベスト。
夏には出せなかった数字。
でも、まだ十一秒ではない。
私は掲示板から顔を外し、スタンドの端へ意識を向けた。
ひかり先輩がいた。
制服ではない。いつもの白いTシャツに薄い上着。
応援に来た人の顔ではないのに、そこにいる。
目が合っても、すぐには逸らさなかった。
手も振らない。近づいても来ない。
それでも、そこに残っていた。
最終合わせは、秋の地区大会三日前だった。
片桐先生は、茅野先輩の本数をぎりぎりまで絞った。
「一本だけだ」
「分かってます」
「流しで追加もしない」
「分かってます」
千秋が小声を落とす。
「分かってますって二回返す人、たぶん分かってない」
「聞こえてる」
茅野先輩の声で、千秋は姿勢を正した。
「分かってました」
真帆先輩が笑う。
その笑いで、少しだけ空気が軽くなった。
最終合わせは、細かく覚えていない。
千秋の一歩目。
真帆先輩の受け。
私の声。
茅野先輩の待たない足音。
ばらばらだったものが、一瞬だけ一本の線になった。
片桐先生のストップウォッチが止まる。
誰もすぐには声を出さなかった。
「四十七秒九八」
千秋が最初に跳ねた。
「四十七!」
真帆先輩が小さく息を吐く。
「出たね」
私は手のひらを開いた。バトンを渡した感触だけが残っている。
四十七秒九八。
旧記録まで、あと〇秒三六。
夏には届かなかったところへ、確かに近づいている。
そう思った瞬間、茅野先輩の右手が脚へ伸びかけた。
本当に一瞬だった。
すぐにいつもの顔へ戻ったけれど、戻ってくる最初の一歩が小さかった。
片桐先生の声が、いつもより早く飛ぶ。
「茅野、今日はここまで」
「はい」
「ダウンも短く。橘、氷」
「はい」
真帆先輩が動く。
茅野先輩は、バトンケースと先生のストップウォッチの間で一度だけ止まった。
「まだ足りない」
誰も否定しなかった。
あと〇秒三六。
近づいた。
でも、届いてはいない。
茅野先輩が氷を受け取るところを見ながら、しばらく動かなかった。
部室に戻ってから、私はノートを開いた。
十二秒〇八。
四十七秒九八。
数字は近づいている。
その下に、赤いペンで書く。
茅野先輩、脚。
さらに余白を空けて、もう一行。
──必死になったことがありますか。
ひかり先輩の答えは、まだページの上で白いままだった。
私は最後に、日付の横へ小さく書いた。
秋の地区大会まで、あと三日。
夏に届かなかったものを、秋へ持っていく。
百メートルも。
リレーも。
まだ名前のついていない、この気持ちも。