ひかりより速く、   作:おいかぜ

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七話 夏の終わり

 

 ホワイトボードには、百メートルのメニューがなかった。

 代わりに、片桐先生の字で大きく一行だけ書かれている。

 

 四×一〇〇メートルリレー。

 

 夏休みのグラウンドは、朝から熱を持っていた。

 タータンの上に立っているだけで、足元からじわじわと汗が上がってくる。

 

 それでも、誰も文句を口にしなかった。

 文句が言えるほど、私たちは夏に勝っていない。

 

 片桐先生は、ホワイトボードの前でペンを止めた。

 

「今日は百は測らない」

 

 ほんの少しだけ、肩が落ちた。

 自分では、ばれない程度のつもりだった。

 でも先生は、三番目の走者の欄をペン先で叩いた。

 

「朝倉。お前は百だけ速くなればいいわけじゃない」

「はい」

「三走だ」

 

 先生は、今度はアンカーの欄を叩く。

 

「百メートルのお前は、ゴールまで行けばいい。だが三走のお前の目的地は、こっちだ」

 

 目的地。

 その言葉だけが、スタートマークより先に置かれた気がした。

 

「夏に届かなかった理由を、一人ずつ探す」

 

 千秋がバトンケースを抱えて、一走の位置へ向かう。

 真帆先輩は二走のマークを確かめている。私は三走。

 茅野先輩はアンカーゾーンに立った。

 同じリレーなのに、四人の立つ場所はこんなに離れている。

 

 最初は、千秋と真帆先輩の区間だった。

 

 千秋は小柄だ。でもスタートラインに入ると、輪郭が変わる。

 軽口も表情も薄くなって、最初の一歩だけに身体が集まる。

 

 千秋の足音は、低く、鋭く出る。

 真帆先輩はその鋭さを受け止める。

 

 バトンは落ちない。

 けれど、受けたあとの一歩がわずかに沈んだ。

 

「千秋、声が早い」

「遅いと詰まりません?」

「遅くするんじゃなくて、合わせる」

「その“合わせる”が難しいんですけど」

「だから練習してる」

 

 千秋は口を尖らせた。

 それでも、バトンを握り直すとすぐに一走の位置へ戻った。

 夏が終わってから、千秋はスタートラインで軽口を減らした。

 つま先でタータンを叩く回数だけが増えた。

 

 次の一本を待つ間、私は一走の方へ近づいた。

 

「千秋、一走って怖い?」

 

 千秋は少し目を丸くした。

 それから、バトンを握ったまま笑う。

 

「怖いよ。だって私、誰からもバトンもらえないんだよ」

「うん」

「失敗しても、前に戻してくれる人いないし」

 

 千秋はスタートラインへ顎を向けた。

 

「最初だけって、けっこう怖い」

 

 後ろに誰もいない一走。

 前にアンカーがいる三走。

 

 同じリレーなのに、怖さの置き場が違う。

 

 次は、真帆先輩と私の区間だった。

 

 真帆先輩は、派手な動きをしない。

 千秋の鋭さを受けても、無理に目立とうとしない。

 受け取った速度を崩さず、私が取れる形にして持ってくる。

 

「朝倉、受けたあと」

「はい」

「入った瞬間に安心しない。そこで一回、肩が抜ける」

 

 思い当たった。たぶん、最初からずっと直っていない癖だ。

 真帆先輩の声が来る。

 右手に金属が触れる。

 その一瞬、落とさなかったことに身体が安心する。

 

 でも、そこは終わりではない。

 

「私の二走、途中で消さないでね」

 

 真帆先輩は、軽く笑った。

 

「前の四十七秒六二のときも、私、二走だった。でも、だいたい“ひかりが走った記録”って言われる」

「……はい」

「リレーって、途中がいちばん名前残らないんだよね」

 

 声は軽かった。でも、軽いだけではなかった。

 

「だから、梨央まで持ってって」

「持っていきます」

「うん。途中で終わらせないで」

 

 何本か合わせるうちに、真帆先輩の声が来る位置は少しずつ分かってきた。

 でも、受けた瞬間に肩が抜ける癖だけは、まだ残っていた。

 手の中に入ったバトンは、さっきより熱い。

 

 それを、茅野先輩へ持っていく。

 

 アンカーゾーンの茅野先輩は、マークを半足ずつ動かしていた。

 前へ。

 戻す。

 また前へ。

 スパイクの先が、白いマークの端を押さえる。

 

「半足で変わるんですか」

「変わる」

「そんなに」

「待ちすぎたら私の速度が死ぬ。早すぎたらあんたが届かない」

「はい」

「夏は、そこが甘かった」

 

 言い訳の余地がない声だった。

 茅野先輩との合わせは、声の位置がずれるたびに全体が崩れた。

 遅ければ、茅野先輩が待つ。

 早ければ、私が焦る。

 どちらでも、バトンの通り道が細くなる。

 

「百メートルのまま来ないで。三走で来て」

 

 返事をしようとして、息だけが先に詰まった。

 百メートルで十一秒台に届きたい。

 ひかり先輩の記録に近づきたい。

 

 その気持ちは消えない。

 

 でも、今の私は三走だ。

 

 最後の一本で、少しだけ流れが残った。

 真帆先輩から受けて、安心しない。

 茅野先輩の背中へ、声を押す。

 金属の筒が、茅野先輩の左手へ滑った。

 

 今度は詰まらなかった。

 

 戻ってきた茅野先輩は、短く息を吐いた。

 

「今の。覚えて」

 

 それだけで、私は息を吐きそうになった。

 

「喜ぶの早い」

「喜んでません」

「顔」

 

 千秋が横で笑う。

 

「翠、顔でリレーしてる説ある」

「ない」

「あると思う」

 

 真帆先輩まで笑った。少しだけ空気がほどけた。

 そのとき、フェンスの外にひかり先輩の姿があった。

 白いTシャツに薄い上着。スパイクは履いていない。

 

 部活に入る距離ではない。

 でも、通り過ぎる距離でもなかった。

 

 最初は、私の一本に足を止めたのだと思った。

 でも、ひかり先輩の顔は、バトンの通り道を追っていた。

 

 千秋の出。

 真帆先輩の受け。

 茅野先輩のマーク。

 私の声。

 私だけではなかった。

 

 胸の奥に細い棘が刺さる。

 

 それでも、ひかり先輩がリレーから目を逸らしていないことに、どこかで息をついてもいた。

 

 練習が一区切りついたあと、私はフェンスの近くへ向かった。

 ひかり先輩は逃げなかった。

 

「どうでしたか」

 

 尋ねても、ひかり先輩の身体はグラウンド側を向いたままだった。

 

「朝倉さん、受けたあと少し緩む」

「真帆先輩にも同じことを言われました」

「じゃあ合ってる」

「他には」

「茅野はもう出てるのに、朝倉さんの声が遅いときがある」

「はい」

「でも、最後のはよかった、気がする」

 

 胸が少し浮いた。

 その浮き方が、悔しい。

 

「朝倉さんの声、前より通るね」

「声ですか」

「うん」

 

 ひかり先輩の顔が、茅野先輩の方へ向いた。

 

 真帆先輩が、氷の袋を持ってくる。

 茅野先輩は何でもない顔で受け取ったけれど、右脚へ伸ばす手つきだけが慎重だった。

 

「茅野の脚……」

 

 ひかり先輩の声が、フェンスの向こうで落ちた。

 

「ひどいの?」

「分かりません」

「そう」

 

 責める響きはなかった。

 ただ、隠れていないものを拾っただけのようだった。

 

 ひかり先輩は、拾ってしまう。

 茅野先輩の脚も、私の声の遅れも、夏に届かなかった隙間も。

 それなのに、フェンスの外側にいる。

 

 気づいたときには、指先がフェンスの網を握っていた。

 

「先輩」

「何」

「本当に、まだ走れるんですか」

 

 口にした瞬間、自分でもひどい聞き方だと思った。

 でも、取り消したくなかった。

 

 ひかり先輩の顔がこちらへ戻る。目を丸くして、私の次の言葉を窺っていた。

 

「何それ」

「リレーに入るって言葉が、本当に残ってるのか知りたいんです」

 

 空気が少し変わった。

 ひかり先輩は怒らなかった。

 ただ、私との間にあるフェンスを挟んだまま、立っていた。

 

「私、リレーに入るって言ってない」

「抜いたら、ですよね」

「まだ抜いてない」

「でも、走れないなら約束になりません」

 

 言葉が強すぎる。分かっている。

 でも、夏を終えたあとで、ただ見られているだけの自分には戻りたくなかった。

 

「確認したいです」

「何を」

「先輩が、今も走れる人なのか。今も、速い人なのか」

 

 ひかり先輩は、しばらく黙った。

 沈黙が長くなるほど、後悔が喉元まで上がってくる。

 それでも、私はフェンスから指を離さなかった。

 

「測らないなら」

「え」

「測ったら記録になるから」

 

 ひかり先輩らしい条件だった。

 私は頷いた。

 

「それでいいです」

「スパイクも履かない」

「はい」

「勝負でもない」

「はい」

「じゃあ、少しだけ」

 

 少しだけ。

 その言い方が、また胸に刺さった。

 私にとっては、少しだけではない。

 

 練習後、私は河川敷へ向かった。

 ひかり先輩は本当に来た。

 薄い上着を脱ぎ、ランニングシューズのまま土手を下りてくる。

 

 夕方の河川敷には、レーンも白線もない。

 橋の影から、少し先の街灯まで。

 

 ひかり先輩が指で示す。

 

「だいたい百」

「正確じゃないんですね」

「正確じゃないからいいんじゃない」

 

 タイムはない。号砲もない。公式でもない。

 

 だから、ひかり先輩はここに立つ。

 私は橋の影に入った。

 

 ひかり先輩は、私より二歩ほど後ろに立つ。

 

「先に行くの?」

「はい」

「後ろから追われたいんだ」

「違います」

 

 すぐ否定した。

 でも、たぶん違わなかった。

 一瞬でも、ひかり先輩を後ろに置いてみたかった。

 

 ひかり先輩は何も返さず、前を向いた。

 

「合図は」

「私が出ます。先輩も出てください」

「雑」

「測らないので」

「……そうだった」

 

 私は息を吸った。

 橋の影から街灯までの、だいたい百メートル。

 正確ではない。普段の練習通りに走ると少しズレるかもしれない。

 

 でも、今だけ私の前にひかり先輩はいない。深く息を吸って、吐く。2度繰り返して、呼吸を整える。

 

 直後、私は橋の影を蹴った。

 

 一歩目。二歩目。三歩目。

 落ちない。学校のタータンとは感触が違う。砂混じりのアスファルトにランニングシューズが滑る。

 

 それでも、身体は前へ乗った。二十メートル。

 

 まだ、足音は後ろにあった。

 その事実だけで、馬鹿みたいに胸が鳴った。

 勝てるなんて思っていない。

 それでも、追わせている。

 

 その感覚は、三十メートルも続かなかった。

 後ろの足音が近づく。

 

 最初は風の音だと思った。

 

 でも違う。

 

 ひかり先輩の足音だった。

 

 大きくなったわけではない。乱れたわけでもない。

 ただ、位置だけが近づいてくる。

 

 四十メートル。

 

 足音が横に来た。顔を向けない。向けたら崩れる。

 でも、向けなくても分かる。

 隣にいる。

 次の接地で、足音の位置が入れ替わった。

 

 抜かれた、というより、世界の速度が入れ替わったみたいだった。

 何かが爆発した感じはない。

 ただ、私が必死で進もうとしている道を、ひかり先輩は静かに通り過ぎていく。

 

 五十メートル。

 私はもう流していなかった。

 腕を振る。顔を上げない。

 

 七十まで崩れない。

 そう思うほど、身体の奥が硬くなる。

 ひかり先輩の背中は、急に離れていくわけではない。

 

 でも、縮まらない。

 

 六十メートル。

 息が熱い。足音が遠ざかる。

 

 嫉妬したかった。

 でも、悔しさが届く前に、背中だけが遠くなる。

 憧れの方が、まだ近かった。そしてそれさえも、遠い。

 街灯の下を、ひかり先輩が先に抜けた。

 

 私は数歩遅れて、そこへたどり着く。

 止まりきれずに前へ流れ、膝に手をついた。

 

 喉が痛い。心臓がうるさい。

 

 ひかり先輩は少し先で振り返った。

 

 息は上がっている。

 でも、私とは違った。

 終わったあとですら、立っている姿が崩れない。

 

「朝倉さん」

「……はい」

「七十から顔が上がる」

 

 私は息を切らしながら、笑いそうになった。

 

「今、それ言いますか」

「ずっと気になってたから」

 

 その平然さが、また悔しい。

 

「今の」

「うん」

「本気ですか」

 

 ひかり先輩はすぐに返さなかった。沈黙の中、ストレッチするように身体を伸ばす。

 

「測ってないから分からない」

「そういう意味じゃなくて」

「じゃあ、どういう意味」

 

 聞き返されて、言葉が止まる。

 全力だったのか。流していたのか。

 ……どれくらい余裕があったのか。

 

 知りたいはずなのに、知るのが怖かった。

 

「先輩は」

 

 私はまだ息を整えきれないまま口を開いた。

 

「必死になったことがありますか」

 

 ひかり先輩は、今度は少し考えた。

 川沿いの風が、汗の上を通っていく。

 

「全力なら、あると思う」

「必死は?」

「分からない」

 

 その返事が、十一秒六四より遠く聞こえた。

 

「自己ベストのときも?」

「たぶん、全力では行った」

「でも、必死かは分からない」

「うん」

 

 私は何も返せなかった。

 

 私がずっと欲しかった場所。

 夏にも届かなかった場所。

 

 そこへ行った人が、必死だったか分からないと言う。

 

 腹が立った。

 でも、その腹立ちも、さっきの背中に置いていかれていた。

 

「ずるいです」

 

 ようやく出たのは、それだけだった。

 ひかり先輩は首を少し傾ける。

 

「何が」

「分からないところです」

「そう」

「先輩が分からないって言う場所に、私はずっと行きたいんです」

 

 声が少し震えた。

 ひかり先輩は何も返さない。

 

「さっきの言い方、違いました」

「どれ」

「約束が残ってるのか知りたいって。走れる人なのかって」

「ああ」

「使えるかどうかみたいに言いました」

 

 ひかり先輩は、川の方へ顔を向けた。

 

「使う気だったんじゃないの」

「違います」

 

 すぐ否定した。

 でも、それだけでは足りない気がした。

 

「違うようにしたいです」

 

 ひかり先輩は、ほんの少しだけ眉を動かした。

 

「じゃあ、いいんじゃない」

「いいんですか」

「今、違うようにしたいって言ったから」

 

 簡単に許されて、少し困った。

 ひかり先輩は、そういうところがある。

 大事なところに触れるのに、長くは持たない。

 

「朝倉さん」

「はい」

「速くなってるよ」

 

 不意に置かれて、胸が詰まった。

 

「でも、まだです」

「うん」

 

 ひかり先輩は遠慮なく頷いた。

 その正直さが、今はありがたかった。

 

「追います」

「うん」

「必死になったことがないなら」

 

 言いかけて、少し迷う。

 でも、続けた。

 

「いつか、そこまで行かせたいです」

 

 ひかり先輩の顔が、少しだけこちらへ向く。

 

「私を?」

「はい」

「必死に?」

「はい」

 

 ひかり先輩は、しばらく私の方を向いていた。

 それから、ほんの少しだけ口元を動かす。

 

「変なの」

 

 それだけ残して、川沿いの道を歩き出した。

 私は、その背中を追わなかった。

 さっき私を抜いていった背中。

 

 嫉妬も憧れも、追いつく前に置いていかれた背中。

 

 十一秒六四。

 

 それはもう、記録表の数字ではなかった。

 私の二歩後ろから出て、風よりも静かに消えていった。

 

 

 

 その日から、リレーの音が少し変わった。

 夏休みの終わりに、記録会があった。

 

 大きな大会ではない。

 それでも、秋の地区大会前に今の状態を確かめるにはちょうどいい、と片桐先生は話していた。

 

 私は百メートルに出た。

 夏には届かなかった十一秒台が、今は目の前にある。

 

 そう考えると、足が少し浮きそうになる。

 けれど焦っても、あの背中には近づけない。河川敷の街灯の下、少し藻掻いたくらいで埋まらないほどの差が、私たちの間には横たわっていた。

 

 記録会で、私は十二秒〇八を出した。

 

 十一秒台まで、あと〇秒〇九。

 千秋の声が跳ねる。

 

「翠、十二秒〇八!」

 

 自己ベスト。

 夏には出せなかった数字。

 でも、まだ十一秒ではない。

 

 私は掲示板から顔を外し、スタンドの端へ意識を向けた。

 

 ひかり先輩がいた。

 制服ではない。いつもの白いTシャツに薄い上着。

 

 応援に来た人の顔ではないのに、そこにいる。

 目が合っても、すぐには逸らさなかった。

 

 手も振らない。近づいても来ない。

 それでも、そこに残っていた。

 

 

 

 

 最終合わせは、秋の地区大会三日前だった。

 片桐先生は、茅野先輩の本数をぎりぎりまで絞った。

 

「一本だけだ」

「分かってます」

「流しで追加もしない」

「分かってます」

 

 千秋が小声を落とす。

 

「分かってますって二回返す人、たぶん分かってない」

「聞こえてる」

 

 茅野先輩の声で、千秋は姿勢を正した。

 

「分かってました」

 

 真帆先輩が笑う。

 その笑いで、少しだけ空気が軽くなった。

 最終合わせは、細かく覚えていない。

 

 千秋の一歩目。

 真帆先輩の受け。

 私の声。

 茅野先輩の待たない足音。

 

 ばらばらだったものが、一瞬だけ一本の線になった。

 

 片桐先生のストップウォッチが止まる。

 誰もすぐには声を出さなかった。

 

「四十七秒九八」

 

 千秋が最初に跳ねた。

 

「四十七!」

 

 真帆先輩が小さく息を吐く。

 

「出たね」

 

 私は手のひらを開いた。バトンを渡した感触だけが残っている。

 

 四十七秒九八。

 旧記録まで、あと〇秒三六。

 

 夏には届かなかったところへ、確かに近づいている。

 そう思った瞬間、茅野先輩の右手が脚へ伸びかけた。

 

 本当に一瞬だった。

 すぐにいつもの顔へ戻ったけれど、戻ってくる最初の一歩が小さかった。

 片桐先生の声が、いつもより早く飛ぶ。

 

「茅野、今日はここまで」

「はい」

「ダウンも短く。橘、氷」

「はい」

 

 真帆先輩が動く。

 茅野先輩は、バトンケースと先生のストップウォッチの間で一度だけ止まった。

 

「まだ足りない」

 

 誰も否定しなかった。

 あと〇秒三六。

 

 近づいた。

 でも、届いてはいない。

 

 茅野先輩が氷を受け取るところを見ながら、しばらく動かなかった。

 

 部室に戻ってから、私はノートを開いた。

 十二秒〇八。

 四十七秒九八。

 

 数字は近づいている。

 その下に、赤いペンで書く。

 

 茅野先輩、脚。

 

 さらに余白を空けて、もう一行。

 

 ──必死になったことがありますか。

 

 ひかり先輩の答えは、まだページの上で白いままだった。

 

 私は最後に、日付の横へ小さく書いた。

 

 秋の地区大会まで、あと三日。

 

 夏に届かなかったものを、秋へ持っていく。

 

 百メートルも。

 リレーも。

 まだ名前のついていない、この気持ちも。

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