ひかりより速く、   作:おいかぜ

8 / 12
八話 届かない光

 

 秋の地区大会一日目の朝、アラームより先に目が覚めた。

 布団の中で足首を回す。夢の中でも走っていた気がする。

 

 まだスパイクも履いていないのに、ふくらはぎだけが先に競技場へ行っているみたいだった。

 

 今日は個人百メートルの日だ。

 それでも、手のひらはまだバトンの重さを覚えている。

 

 四継予選は明日。

 千秋が始めて、真帆先輩が運び、私が茅野先輩へ渡す。

 その流れは、もう身体の奥にある。

 でも今日、スタートラインに立つのは私一人だ。

 

 ひかり先輩の十一秒六四へ、一人で向かう。

 

 会場に着くと、競技場はすでに動き始めていた。

 スタンドには学校ごとの荷物が並び、招集所の前にはゼッケンをつけた選手たちが集まっている。

 

 スパイクのピンが床を叩く音。

 アップの流しがトラックを抜けていく音。

 

 記録会とは違う。

 空気に、順位と次のラウンドが混じっていた。

 

「翠、ペットボトルへこむよ」

 

 千秋に指摘されて、手元を下ろした。

 半分も飲んでいないボトルが、指の形に少し潰れている。

 

「握ってただけ」

「握力測定みたいになってた」

「なってない」

「返事がこわーい」

 

 千秋はわざとらしく一歩下がる。

 私は少し笑った。

 

 それだけで、肩の力が抜けた。

 千秋は今日は個人種目に出ない。

 

 明日の四継に向けて調整だ。

 それでも、私より落ち着いているわけではない。

 千秋の指は、ペットボトルのラベルの端を何度も起こしていた。

 

「翠」

「何?」

「十一秒台、出るよ」

 

 軽口ではなかった。

 だから、私も冗談にしなかった。

 

「出す」

 

 千秋は大きく頷いた。

 

「うん」

 

 真帆先輩はスタンド下で、私のゼッケンの端を指で押さえた。

 

「曲がってない」

「はい」

「曲がってないものを直そうとしない」

「……はい」

「不安なとき、人はまっすぐなものまで触りたくなるから」

 

 真帆先輩の声は優しい。

 でも、逃げ場はない。

 私はゼッケンから手を離した。指先がまだ確認したがっている。

 

「朝倉」

 

 片桐先生がクリップボードを手に近づいてきた。

 

「今日は足すな」

「はい」

「速くなったからって、何かを増やすな。序盤の立ち上がりも、腕振りも良くなった。今あるものを崩すな」

「はい」

「低く出るのと、沈むのは違う。分かってるな」

「はい」

「分かっているから、余計に、焦って昔の癖へ戻るな」

 

 十二秒六四で崩れた日のことが、足裏に戻った。

 ひかり先輩の形を真似しようとして、自分の身体を置いていった日。

 あのときより、私は速くなった。

 

 でも、焦れば戻る。

 身体は覚えた分だけ、悪い形も簡単に思い出す。

 少し離れた場所で、茅野先輩がアップをしていた。

 

 今日は百メートルには出ない。

 右脚には、薄いサポーター。

 私の意識がそちらへ寄るより早く、茅野先輩の声が飛んだ。

 

「朝倉」

「はい」

「私の脚で、あんたのタイムは縮まらない」

 

 私は口を閉じた。

 

「今日は百でしょ」

「はい」

「ちゃんと行ってきて」

 

 いつもの命令より、少しだけ柔らかかった。

 

 予選は、落ち着きすぎていた。安定したまま走り抜けた。

 三歩目は沈まない。腕も止まらない。

 

 けれど最後の十メートルで、身体のどこかが準決勝を残そうとした。

 電光掲示板に数字が灯る。

 

 十二秒〇六。自己ベスト。でも、余っていた。

 スタンド下へ戻ると、真帆先輩がタオルを差し出した。

 

「予選としてはいい」

「限定つきですね」

「うん。最後、守った」

 

 守った。たしかに、そうだった。

 落ちたくない。

 準決勝へ行きたい。

 十一秒台を出したい。

 

 その全部が重なって、最後の一歩だけ踏み切れなかった。

 

「次、残さない」

 

 真帆先輩はそれだけ残して、私の背中を軽く叩いた。

 準決勝までの時間は、長いようで短かった。

 

 水を含む。足首を回す。

 スパイクの紐へ伸びかけた手を、途中で止める。

 

 触らない。

 もう結べている。

 

 準決勝。

 

 風は少し追っていた。

 速い選手だけが残っている。

 ここを抜けなければ、決勝に立てない。

 

 十一秒六四どころではない。

 

 まずは決勝。

 でも、決勝に行くだけでは足りない。

 

 その両方を抱えたまま、私は指先をトラックにつけた。

 

 号砲。

 予選より、身体が早く反応した。

 

 三歩目で落ちない。

 中盤で隣の選手と並ぶ。

 

 七十。

 今度は余らせない。

 最後の十で顔が上がりかける。

 

 ラインを抜けたあと、息が苦しくてすぐには数字を受け取れなかった。

 千秋の声が跳ねる。

 

「翠!」

 

 名前の横に、十二秒〇一が並んでいた。

 十一秒台まで、あと〇秒〇二。

 

 決勝進出。

 でも、十一秒台ではない。

 

 ──近い。

 

 近すぎるから余計に、まだ抜けていないことがはっきりした。

 スタンド下へ戻ると、千秋が泣きそうな顔で笑っていた。

 

「あと〇秒〇二って何? もう十一秒じゃん」

「違うよ」

「ほぼ十一秒」

「違う」

「厳しい」

 

 真帆先輩が私の肩にタオルをかける。

 

「決勝に残った。まずそれ」

「はい」

「でも、狙うんでしょ」

「はい」

「なら、十二秒〇一で守りに入らない」

 

 私は頷いた。

 片桐先生は記録を確認して、クリップボードの端を指で叩いた。

 

「ここからは、伸びるというより削るレースだ」

「削る」

「余計なものを一つでも残したら、十一秒台は出ない」

 

 十一秒台。

 その言葉が、初めて現実の重さで耳に入った。

 

 数字は近づいている。

 近づいているのに、十一秒六四だけはまだ別の場所にある。

 

 決勝の招集前、競技場の裏手でひかり先輩に会った。

 

 日陰の柱のそば。白い上着。

 部の応援席でも、招集所の近くでもない。

 でも、アナウンスが聞こえる距離にいる。

 

「十二秒〇一でした」

「知ってる」

「あと〇秒〇二でした」

「うん」

 

 ひかり先輩は、少し間を空けた。

 

「でも、記録までは〇秒三七」

 

 言われなくても分かっている。

 

 十一秒六四。

 あと〇秒〇二で十一秒台。

 でも、ひかり先輩までは〇秒三七。

 

 同じ「あと少し」ではない。

 

「普通は、縮まらない」

「分かってます」

「今日だけで〇秒三七は、普通は無理」

「分かってます」

「じゃあ、どうしてそんな顔してるの」

 

 喉が乾いた。

 

「言わないと、立てないので」

 

 口にしたあと、指先が少し震えた。

 でも、そう言わないと、決勝のスタートラインまで歩けない気がした。

 

 抜きます。

 そう言わなければ、自分の足が止まってしまう。

 

 無理だと分かっている。

 普通は届かない。

 でも、その普通を受け入れるために、ここまで来たわけではなかった。

 

 ひかり先輩は、しばらく黙っていた。

 

「朝倉さんは、春とは違うね」

 

 その一言で、胸の奥が熱くなりかける。

 私はすぐに息を整えた。

 

 決勝前だ。

 ここで揺れすぎるな。

 

「なら、今日も見ていてください」

 

 ひかり先輩は、ほんの少し目を細めた。

 

「見るよ」

 

 その返事だけを持って、私は招集所へ向かった。

 

 決勝。

 

 レーンに入ると、スタンドの音が遠くなった。

 

 隣には、準決勝で私より速かった選手がいる。

 反対側にも、十一秒台を持っている選手がいる。

 私はまだ、十一秒台を持っていない。

 

 でも、ここに立っている。

 

 風は追っている。

 身体も動いている。

 

 怖い。

 でも──震えているのは、心だ。速く走らなければという強迫観念。準備してきたものを出し尽くせる高揚。ひかり先輩の幻影を追い続けてきたこれまでの集大成。

 

 スタートラインの先に、十一秒台がある。

 そのもっと先に、十一秒六四がある。

 

 ひかり先輩、と呼ぼうとして、喉の奥で言葉が止まった。

 なぜか、名前だけが残る。

 呼ぶなら、届くときだと思った。

 

 スターターが立つ。

 

 位置について。指先をトラックにつける。

 

 腰を上げる。号砲。

 

 合図と共に、全力で一歩を踏み出した。

 ひかり先輩の走りほど綺麗ではないだろう。けれど、あの美しい走りを真似して崩れた経験も、無駄にはなっていない、と思う。

 

 重力を推進力へ変える。地面を押した分だけ、身体が前へ返ってくる。

 姿勢は低く、けれど重くなりすぎないように。

 

 真っ直ぐに腕を振る。ヨレそうになる身体を真っ直ぐに律する。

 

 五十メートル。

 隣の選手が視界の端にいる。

 抜かれているのか、並んでいるのか、分からない。

 

 けれど、わかる。ひかり先輩ほどは速くない。時間さえ置き去りにするようなあの走りには及ばない。

 

 自分のレーンに意識を戻す。

 

 七十メートル。

 

 苦しい。でも崩れていない。

 

 八十。

 

 九十。

 

 顔を上げるな。

 

 最後の十。

 

 全部削る。迷いも、怖さも、余計な力も。

 

 ラインを越えた。

 

 その瞬間、身体の中の音が消えた。

 息を吸っているのか吐いているのか分からない。

 

 膝に手をつきそうになって、踏みとどまる。

 数字が出るまでが長かった。

 

 長すぎる間に、身体を熱を持つ。そして、灯った。

 

 十一秒九一。風、プラス一・三。

 

 初めての十一秒台。

 

 その事実が胸に届くより早く、別の数字が浮かんだ。

 

 ──十一秒六四。

 

 ひかり先輩を、抜けなかった。

 

 千秋が叫んでいる。

 真帆先輩が手を叩いている。

 片桐先生の声がする。

 茅野先輩が腕を組んで立っている。

 

 全部が遠い。

 

 すごい数字のはずだった。殻を破った確信があったほどの、大躍進だった。

 でも、胸の奥で先に鳴ったのは、十一秒六四だ。

 

 競技場の端に、ひかり先輩がいた。

 私はそちらへ向かった。

 

 足が少し震えている。

 疲れのせいか、悔しさのせいか分からない。

 

 ひかり先輩の前で止まると、声が出なかった。

 先に数字を置いたのは、ひかり先輩だった。

 

「十一秒九一」

 

 私は頷いた。

 

「すごいね」

 

 その声は、ちゃんと褒めていた。

 だから余計に、痛かった。

 ひかり先輩は続ける。

 

「でも、抜けなかった」

 

 分かっている。

 分かっているのに、本人の声で置かれると、胸の奥に沈む。

 

「約束で戻ってくださいとは、言いません」

 

 声は思ったより静かだった。

 

「抜けなかったので」

「……うん」

 

「先輩の百メートルには、届きませんでした」

「うん」

 

 その場で泣くほどではなかった。

 笑えるほどでもなかった。

 

 十一秒九一をどこに置けばいいのか、まだ分からなかった。

 でも、明日のことだけは分かっている。

 

「明日は四継予選です」

 

 口にした瞬間、手のひらにバトンの感触が戻った。

 

 真帆先輩から受ける感触。

 茅野先輩へ渡す感触。

 

 四十七秒九八。

 旧記録まで、あと〇秒三六。

 

 まだ抜けていない数字。

 でも、一人ではなく四人で詰めた数字。

 

「一人のレーンでは、抜けませんでした」

 

 私は手を握った。

 

「だから明日、バトンを持ちます」

 

 ひかり先輩は、しばらく何も返さなかった。

 それから、小さく息を吐く。

 

「ずるいね」

「え」

「百で終わらせないんだ」

「リレーなので」

 

 自分で口にして、少しだけおかしかった。

 ひかり先輩も、ほんの少しだけ口元を動かした。

 

「そう」

 

 その返事だけだった。

 でも、前より遠くはなかった。

 少し離れた場所から、茅野先輩の声が飛ぶ。

 

「朝倉」

 

 振り返ると、茅野先輩が腕を組んで立っていた。

 右脚にはサポーター。

 でも、立ち方はいつも通りだった。

 

「十一秒九一」

「はい」

「普通なら、まず喜ぶ数字だからね」

「……はい」

「なのに何、その負けた顔」

 

 返せなかった。

 

「百で抜けなかったから何?」

 

 茅野先輩は私の後ろ、ひかり先輩の方へ一瞬だけ顔を向けた。

 すぐに私へ戻る。

 

「今日の十一秒九一は、あんたの記録。勝手に負けだけにしないで」

 

 その言葉で、初めて自分のタイムが少しだけ戻ってきた。

 十一秒九一。

 私の記録。

 ひかり先輩には届かなかった。

 でも、なかったことにはできない。

 

「はい」

「で、明日は四継」

「はい」

「ちゃんと持ってきて」

 

 茅野先輩は短く切った。

 

「その顔で渡されると、受け取りにくい」

 

 返す言葉がなかった。

 

 千秋が後ろから駆け寄ってくる。

 

「翠、十一秒台だよ! すごいよ!」

「うん」

「分かってる?」

「たぶん」

「たぶん禁止!」

 

 真帆先輩も来て、私の肩にタオルをかけた。

 

「今日は悔しがっていい」

「はい」

「でも、明日まで全部そのまま持ち越さない」

 

 私は頷いた。

 

「持ち越すなら、バトンで使う」

 

 その言葉で、手のひらがまた熱くなった。

 

 ひかり先輩は少し離れた場所にいた。

 その顔は、私だけに向いているわけではなかった。

 茅野先輩にも、千秋にも、真帆先輩にも。

 そして、たぶん、明日の四継にも。

 

 茅野先輩は気づいているのかいないのか、右脚のサポーターを軽く直しただけだった。

 

 帰りの電車で、私はノートを開いた。

 十一秒九一。

 

 大きく書く。

 その横に、小さく足す。

 

 十一秒六四まで、あと〇秒二七。

 〇秒二七。

 

 近づいた。

 でも、まだ前にある。

 

 ページの下にもう一行。

 少し迷ってから、赤いペンを取った。

 

 届かなかったものを、止めずに渡す。

 

 ペンを置いて、右手を開いた。

 

 まだ何も持っていない。

 それでも、明日のバトンだけが、もう手の中にある気がした。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。