秋の地区大会一日目の朝、アラームより先に目が覚めた。
布団の中で足首を回す。夢の中でも走っていた気がする。
まだスパイクも履いていないのに、ふくらはぎだけが先に競技場へ行っているみたいだった。
今日は個人百メートルの日だ。
それでも、手のひらはまだバトンの重さを覚えている。
四継予選は明日。
千秋が始めて、真帆先輩が運び、私が茅野先輩へ渡す。
その流れは、もう身体の奥にある。
でも今日、スタートラインに立つのは私一人だ。
ひかり先輩の十一秒六四へ、一人で向かう。
会場に着くと、競技場はすでに動き始めていた。
スタンドには学校ごとの荷物が並び、招集所の前にはゼッケンをつけた選手たちが集まっている。
スパイクのピンが床を叩く音。
アップの流しがトラックを抜けていく音。
記録会とは違う。
空気に、順位と次のラウンドが混じっていた。
「翠、ペットボトルへこむよ」
千秋に指摘されて、手元を下ろした。
半分も飲んでいないボトルが、指の形に少し潰れている。
「握ってただけ」
「握力測定みたいになってた」
「なってない」
「返事がこわーい」
千秋はわざとらしく一歩下がる。
私は少し笑った。
それだけで、肩の力が抜けた。
千秋は今日は個人種目に出ない。
明日の四継に向けて調整だ。
それでも、私より落ち着いているわけではない。
千秋の指は、ペットボトルのラベルの端を何度も起こしていた。
「翠」
「何?」
「十一秒台、出るよ」
軽口ではなかった。
だから、私も冗談にしなかった。
「出す」
千秋は大きく頷いた。
「うん」
真帆先輩はスタンド下で、私のゼッケンの端を指で押さえた。
「曲がってない」
「はい」
「曲がってないものを直そうとしない」
「……はい」
「不安なとき、人はまっすぐなものまで触りたくなるから」
真帆先輩の声は優しい。
でも、逃げ場はない。
私はゼッケンから手を離した。指先がまだ確認したがっている。
「朝倉」
片桐先生がクリップボードを手に近づいてきた。
「今日は足すな」
「はい」
「速くなったからって、何かを増やすな。序盤の立ち上がりも、腕振りも良くなった。今あるものを崩すな」
「はい」
「低く出るのと、沈むのは違う。分かってるな」
「はい」
「分かっているから、余計に、焦って昔の癖へ戻るな」
十二秒六四で崩れた日のことが、足裏に戻った。
ひかり先輩の形を真似しようとして、自分の身体を置いていった日。
あのときより、私は速くなった。
でも、焦れば戻る。
身体は覚えた分だけ、悪い形も簡単に思い出す。
少し離れた場所で、茅野先輩がアップをしていた。
今日は百メートルには出ない。
右脚には、薄いサポーター。
私の意識がそちらへ寄るより早く、茅野先輩の声が飛んだ。
「朝倉」
「はい」
「私の脚で、あんたのタイムは縮まらない」
私は口を閉じた。
「今日は百でしょ」
「はい」
「ちゃんと行ってきて」
いつもの命令より、少しだけ柔らかかった。
予選は、落ち着きすぎていた。安定したまま走り抜けた。
三歩目は沈まない。腕も止まらない。
けれど最後の十メートルで、身体のどこかが準決勝を残そうとした。
電光掲示板に数字が灯る。
十二秒〇六。自己ベスト。でも、余っていた。
スタンド下へ戻ると、真帆先輩がタオルを差し出した。
「予選としてはいい」
「限定つきですね」
「うん。最後、守った」
守った。たしかに、そうだった。
落ちたくない。
準決勝へ行きたい。
十一秒台を出したい。
その全部が重なって、最後の一歩だけ踏み切れなかった。
「次、残さない」
真帆先輩はそれだけ残して、私の背中を軽く叩いた。
準決勝までの時間は、長いようで短かった。
水を含む。足首を回す。
スパイクの紐へ伸びかけた手を、途中で止める。
触らない。
もう結べている。
準決勝。
風は少し追っていた。
速い選手だけが残っている。
ここを抜けなければ、決勝に立てない。
十一秒六四どころではない。
まずは決勝。
でも、決勝に行くだけでは足りない。
その両方を抱えたまま、私は指先をトラックにつけた。
号砲。
予選より、身体が早く反応した。
三歩目で落ちない。
中盤で隣の選手と並ぶ。
七十。
今度は余らせない。
最後の十で顔が上がりかける。
ラインを抜けたあと、息が苦しくてすぐには数字を受け取れなかった。
千秋の声が跳ねる。
「翠!」
名前の横に、十二秒〇一が並んでいた。
十一秒台まで、あと〇秒〇二。
決勝進出。
でも、十一秒台ではない。
──近い。
近すぎるから余計に、まだ抜けていないことがはっきりした。
スタンド下へ戻ると、千秋が泣きそうな顔で笑っていた。
「あと〇秒〇二って何? もう十一秒じゃん」
「違うよ」
「ほぼ十一秒」
「違う」
「厳しい」
真帆先輩が私の肩にタオルをかける。
「決勝に残った。まずそれ」
「はい」
「でも、狙うんでしょ」
「はい」
「なら、十二秒〇一で守りに入らない」
私は頷いた。
片桐先生は記録を確認して、クリップボードの端を指で叩いた。
「ここからは、伸びるというより削るレースだ」
「削る」
「余計なものを一つでも残したら、十一秒台は出ない」
十一秒台。
その言葉が、初めて現実の重さで耳に入った。
数字は近づいている。
近づいているのに、十一秒六四だけはまだ別の場所にある。
決勝の招集前、競技場の裏手でひかり先輩に会った。
日陰の柱のそば。白い上着。
部の応援席でも、招集所の近くでもない。
でも、アナウンスが聞こえる距離にいる。
「十二秒〇一でした」
「知ってる」
「あと〇秒〇二でした」
「うん」
ひかり先輩は、少し間を空けた。
「でも、記録までは〇秒三七」
言われなくても分かっている。
十一秒六四。
あと〇秒〇二で十一秒台。
でも、ひかり先輩までは〇秒三七。
同じ「あと少し」ではない。
「普通は、縮まらない」
「分かってます」
「今日だけで〇秒三七は、普通は無理」
「分かってます」
「じゃあ、どうしてそんな顔してるの」
喉が乾いた。
「言わないと、立てないので」
口にしたあと、指先が少し震えた。
でも、そう言わないと、決勝のスタートラインまで歩けない気がした。
抜きます。
そう言わなければ、自分の足が止まってしまう。
無理だと分かっている。
普通は届かない。
でも、その普通を受け入れるために、ここまで来たわけではなかった。
ひかり先輩は、しばらく黙っていた。
「朝倉さんは、春とは違うね」
その一言で、胸の奥が熱くなりかける。
私はすぐに息を整えた。
決勝前だ。
ここで揺れすぎるな。
「なら、今日も見ていてください」
ひかり先輩は、ほんの少し目を細めた。
「見るよ」
その返事だけを持って、私は招集所へ向かった。
決勝。
レーンに入ると、スタンドの音が遠くなった。
隣には、準決勝で私より速かった選手がいる。
反対側にも、十一秒台を持っている選手がいる。
私はまだ、十一秒台を持っていない。
でも、ここに立っている。
風は追っている。
身体も動いている。
怖い。
でも──震えているのは、心だ。速く走らなければという強迫観念。準備してきたものを出し尽くせる高揚。ひかり先輩の幻影を追い続けてきたこれまでの集大成。
スタートラインの先に、十一秒台がある。
そのもっと先に、十一秒六四がある。
ひかり先輩、と呼ぼうとして、喉の奥で言葉が止まった。
なぜか、名前だけが残る。
呼ぶなら、届くときだと思った。
スターターが立つ。
位置について。指先をトラックにつける。
腰を上げる。号砲。
合図と共に、全力で一歩を踏み出した。
ひかり先輩の走りほど綺麗ではないだろう。けれど、あの美しい走りを真似して崩れた経験も、無駄にはなっていない、と思う。
重力を推進力へ変える。地面を押した分だけ、身体が前へ返ってくる。
姿勢は低く、けれど重くなりすぎないように。
真っ直ぐに腕を振る。ヨレそうになる身体を真っ直ぐに律する。
五十メートル。
隣の選手が視界の端にいる。
抜かれているのか、並んでいるのか、分からない。
けれど、わかる。ひかり先輩ほどは速くない。時間さえ置き去りにするようなあの走りには及ばない。
自分のレーンに意識を戻す。
七十メートル。
苦しい。でも崩れていない。
八十。
九十。
顔を上げるな。
最後の十。
全部削る。迷いも、怖さも、余計な力も。
ラインを越えた。
その瞬間、身体の中の音が消えた。
息を吸っているのか吐いているのか分からない。
膝に手をつきそうになって、踏みとどまる。
数字が出るまでが長かった。
長すぎる間に、身体を熱を持つ。そして、灯った。
十一秒九一。風、プラス一・三。
初めての十一秒台。
その事実が胸に届くより早く、別の数字が浮かんだ。
──十一秒六四。
ひかり先輩を、抜けなかった。
千秋が叫んでいる。
真帆先輩が手を叩いている。
片桐先生の声がする。
茅野先輩が腕を組んで立っている。
全部が遠い。
すごい数字のはずだった。殻を破った確信があったほどの、大躍進だった。
でも、胸の奥で先に鳴ったのは、十一秒六四だ。
競技場の端に、ひかり先輩がいた。
私はそちらへ向かった。
足が少し震えている。
疲れのせいか、悔しさのせいか分からない。
ひかり先輩の前で止まると、声が出なかった。
先に数字を置いたのは、ひかり先輩だった。
「十一秒九一」
私は頷いた。
「すごいね」
その声は、ちゃんと褒めていた。
だから余計に、痛かった。
ひかり先輩は続ける。
「でも、抜けなかった」
分かっている。
分かっているのに、本人の声で置かれると、胸の奥に沈む。
「約束で戻ってくださいとは、言いません」
声は思ったより静かだった。
「抜けなかったので」
「……うん」
「先輩の百メートルには、届きませんでした」
「うん」
その場で泣くほどではなかった。
笑えるほどでもなかった。
十一秒九一をどこに置けばいいのか、まだ分からなかった。
でも、明日のことだけは分かっている。
「明日は四継予選です」
口にした瞬間、手のひらにバトンの感触が戻った。
真帆先輩から受ける感触。
茅野先輩へ渡す感触。
四十七秒九八。
旧記録まで、あと〇秒三六。
まだ抜けていない数字。
でも、一人ではなく四人で詰めた数字。
「一人のレーンでは、抜けませんでした」
私は手を握った。
「だから明日、バトンを持ちます」
ひかり先輩は、しばらく何も返さなかった。
それから、小さく息を吐く。
「ずるいね」
「え」
「百で終わらせないんだ」
「リレーなので」
自分で口にして、少しだけおかしかった。
ひかり先輩も、ほんの少しだけ口元を動かした。
「そう」
その返事だけだった。
でも、前より遠くはなかった。
少し離れた場所から、茅野先輩の声が飛ぶ。
「朝倉」
振り返ると、茅野先輩が腕を組んで立っていた。
右脚にはサポーター。
でも、立ち方はいつも通りだった。
「十一秒九一」
「はい」
「普通なら、まず喜ぶ数字だからね」
「……はい」
「なのに何、その負けた顔」
返せなかった。
「百で抜けなかったから何?」
茅野先輩は私の後ろ、ひかり先輩の方へ一瞬だけ顔を向けた。
すぐに私へ戻る。
「今日の十一秒九一は、あんたの記録。勝手に負けだけにしないで」
その言葉で、初めて自分のタイムが少しだけ戻ってきた。
十一秒九一。
私の記録。
ひかり先輩には届かなかった。
でも、なかったことにはできない。
「はい」
「で、明日は四継」
「はい」
「ちゃんと持ってきて」
茅野先輩は短く切った。
「その顔で渡されると、受け取りにくい」
返す言葉がなかった。
千秋が後ろから駆け寄ってくる。
「翠、十一秒台だよ! すごいよ!」
「うん」
「分かってる?」
「たぶん」
「たぶん禁止!」
真帆先輩も来て、私の肩にタオルをかけた。
「今日は悔しがっていい」
「はい」
「でも、明日まで全部そのまま持ち越さない」
私は頷いた。
「持ち越すなら、バトンで使う」
その言葉で、手のひらがまた熱くなった。
ひかり先輩は少し離れた場所にいた。
その顔は、私だけに向いているわけではなかった。
茅野先輩にも、千秋にも、真帆先輩にも。
そして、たぶん、明日の四継にも。
茅野先輩は気づいているのかいないのか、右脚のサポーターを軽く直しただけだった。
帰りの電車で、私はノートを開いた。
十一秒九一。
大きく書く。
その横に、小さく足す。
十一秒六四まで、あと〇秒二七。
〇秒二七。
近づいた。
でも、まだ前にある。
ページの下にもう一行。
少し迷ってから、赤いペンを取った。
届かなかったものを、止めずに渡す。
ペンを置いて、右手を開いた。
まだ何も持っていない。
それでも、明日のバトンだけが、もう手の中にある気がした。