十一秒九一は、夜になっても身体から抜けなかった。
風呂から上がっても、ふくらはぎの奥だけがまだ決勝のレーンに残っている。
初めての十一秒台。
それなのに、胸の奥で先に鳴るのは十一秒六四だった。
部のグループに、決勝の動画が送られていた。すこし迷ったあと、再生する。
画面の中の私は、思っていたよりちゃんと前へ進んでいた。
三歩目で落ちない。
最後の十でも崩れきらない。
悪くないどころではない。
きちんと速いスプリンターの動きだった。
それなのに、ゴール後の表情だけが、記録に追いついていなかった。
初めて十一秒台を出した人ではなく、敗北した人間の表情だった。
私はそこで動画を止めた。
ノートを開く。
昨日、電車の中で書いた文字がある。少しヨレたシャーペンの跡。
──届かなかったものを、止めずに渡す。
読み返して、少し嫌になった。
綺麗に書きすぎている。
そう書けば、昨日の負けがすぐ役目を持つみたいだった。敗北を美化しようとしている。そういう風に読める。
──すごいね。
──でも、抜けなかった。
ひかり先輩の二つの声が、同じ場所に残っている。
どちらか片方だけなら、もっと楽だった。
速くなった。速くなって、ひかり先輩に褒められた。速くなっても、ひかり先輩に届かなかった。どちらも本当で、だからこそ痛い、苦しい、悔しい。
私はノートを閉じた。
明日は四継予選。
それだけを、何度も頭の中で繰り返した。
翌朝、競技場へ向かう電車で、千秋が隣に座った。
「翠、寝た?」
「少し」
「少しって言う人、大体寝てないよね」
「千秋は?」
「寝た。緊張して変な夢見たけど」
「どんな夢?」
「一走なのに、バトンじゃなくてバナナ持ってた」
「それは変」
「でしょ」
千秋は自分で笑った。でも、その声は少し硬い。
一走なのに。ということは、アンカーならバナナを持っても良いと思っているのだろうか。一旦考えないことにする。千秋も本当は寝不足気味なのかもしれなかった。
今日は秋の地区大会二日目。
四×一〇〇メートルリレーがある。
昨日の百メートルとは勝手が違う。一人で走るわけではない。
「昨日の十一秒九一、やっぱりすごいよ」
「うん」
「分かってなさそう」
私は苦笑しかけて、やめた。
「分かってるよ」
今度は、少し強く返した。
「すごい記録だってことは、分かってる」
「なら、いいけどさ」
「でも、悔しい」
「うん。それも分かる」
千秋はペットボトルを両手で持った。
ラベルの端が、何度も爪で起こされている。
「だからさ、今日、行こう」
その声で、昨日の掲示板が少し遠ざかった。
千秋は、私を慰めているだけではなかった。
一走として口を開いている。今日のリレーを始める人として、私の敗北も繋いでくれようとしている。
「私、最初ちゃんと出るから」
「私も、ちゃんと受ける」
私は答えた。
「真帆先輩から受けて、茅野先輩へ持っていく」
千秋は頷いた。
電車が競技場最寄りの駅に近づく。
窓の外の景色が、ゆっくり流れていった。会場に着くと、昨日より風があった。
テントの布が音を立て、招集のアナウンスが何度も風に削られている。
昨日の百メートル決勝は、もう結果表の中に入っていた。
今日のトラックは、今日の種目のために動いている。
部のテントでは、真帆先輩がバトンケースを開けていた。
「おはよう」
「おはようございます」
「朝倉、今日はちゃんと息してる」
「判定が早いですね」
「昨日よりはね」
真帆先輩は穏やかに返した。
「今日は、私から受ける日」
「はい」
「昨日のレーンから、そのまま入ってこないでね」
私は頷いた。
「昨日の悔しさを消せとは言わない。でも、受ける瞬間に上からかぶせない」
真帆先輩の声は柔らかい。
けれど、指している場所ははっきりしていた。
私が返事をする前に、茅野先輩の声が飛ぶ。
「朝倉」
振り返ると、茅野先輩が椅子に座ってスパイクの紐を結んでいた。
右脚には、昨日より太いテーピングが巻かれている。立ち上がるまでの一拍を、私は拾ってしまった。
「心配するくらいなら、今日の順番でも反復しておいて」
息が詰まる。茅野先輩が、重ねて口を開いた。
「一走」
「宮野千秋」
「二走」
「橘真帆先輩」
「三走」
「私」
「四走」
「茅野梨央先輩」
「そう」
茅野先輩はバトンケースから一本取り出した。
金属の筒が朝の光を受ける。
「今日はそれ」
「はい」
言葉がまっすぐ刺さった。
昨日、ひかり先輩の前で抜けなかったと認めた。
茅野先輩にも、その顔で渡されると受け取りにくい、と言われた。
それなのに、まだ持ち込もうとしていた。
十一秒九一を。
十一秒六四を。
自分一人の悔しさを。
「すみま、」
言いかけて、止めた。
茅野先輩が少しだけ眉を上げる。私は言い直した。
「置いてきます」
「違う」
「え」
「置いてくるんじゃなくて、ちゃんと持ってきて」
意味がすぐには入ってこなかった。
茅野先輩はバトンを私に渡す。
手のひらに、冷たい感触が乗った。
「悔しいんでしょ」
「はい」
「抜けなかったんでしょ」
「はい」
「なら、それを腐らせないで」
バトンの冷たさが、少しずつ手に移る。代わりに、バトンが熱を持つ。
「届かなかったなら、そこで止めないで次に渡して」
その言葉で、昨日のノートが戻ってきた。
届かなかったものを、止めずに渡す。
自分で書いたくせに、まだ分かっていなかった。
届かなかったことを消すのではない。
なかったことにするのでもない。
持っていく。
ただし、自分の足に絡ませるのではなく、次へ進ませるために。
「そのとき、あんた一人の負けだけ持ってこられたら邪魔」
きつい言い方だった。
でも、なぜか胸の奥が少し楽になった。
「十一秒九一も、四十七秒九八も、千秋の出も、真帆の二走も。全部バトンに乗せて持ってきて」
茅野先輩は、私の手の中のバトンを指で軽く叩いた。
「そういうものを持ってくるのが三走でしょ」
私はバトンを握った。
冷たかった筒が、手の温度を持ちはじめている。
「持っていきます。茅野先輩に、バトンを預けます」
茅野先輩は頷いた。
「……なら、いい」
片桐先生がテントへ戻ってきた。
「アップに入る前に確認する」
先生の手には、折られていない登録メンバー表があった。
その紙の存在だけで、胸の奥がざわつく。
「今日の四継登録は五人。宮野、橘、朝倉、茅野、鴻上」
千秋の気配がこちらに向いた。真帆先輩は表情を変えない。
茅野先輩は、バトンケースの留め具に指をかけたまま止まっている。
「言いたいことは分かる。だが、補欠の登録は必要だ」
片桐先生の声は淡々としていた。
「予選は、一走宮野、二走橘、三走朝倉、四走茅野。基本は変えない」
先生の声が、茅野先輩のところで止まる。
「ただし、茅野の脚は確認する。違和感が強くなったら、こちらで止める」
「走れます」
返事は早かった。
「その判断を、お前一人に任せない」
片桐先生の声が低くなる。
茅野先輩は何か返しかけて、飲み込んだ。
「……分かりました」
表情も声音も、分かっていないと言っていた。
でも、それ以上は続けなかった。
先生は登録メンバー表を指で押さえた。
「鴻上本人にも確認してある。走るとは言わなかった。だが、名前を消せとも言わなかった」
名前を消せとも言わなかった。
その一文だけが、胸の内側に残った。
入部してすぐ、半年前の部室。
記録表の前で、ひかり先輩が言った言葉。
──私の記録を抜けたら、リレーに入ってあげる。
あのとき、ひかり先輩は戻る気なんてなかった。
たぶん、本当にそうだった。
それでも、今日の紙から自分の名前を消すことはしなかった。
「本人が消せと言わなかった。なら、こちらから消す理由はない」
先生の言葉は、事務的だった。
でも、その事務的な響きの奥に、何かが残っていた。
「勝手に期待しろという意味でもない。勝手に茅野の席を空けろという意味でもない。そもそも、急造のオーダーなんて論外。今日のベストはこのメンバーだ」
その言葉は、私に向けられている気がした。
いや、実際そうなのだと思う。
走るかもしれない。
その考えが先に来てしまった。
次に茅野先輩の右脚が浮かぶ。
嬉しかったことまで、なかったことにしたくなる。
でも、心臓は先に反応していた。
「朝倉」
先生が私を呼ぶ。
「順番を間違えるな」
「はい」
「今のチームを間違えるな。予選を走るのはこの四人だ」
「はい」
「鴻上の名前があるからといって、今のアンカーが消えるわけじゃない」
茅野先輩は何も返さなかった。
私は拳を握る。
「分かっています」
そう返してから、少しだけ言い直したくなった。
分かっている、だけでは足りない。
「分かっていたいです」
片桐先生は少しだけ目を細めた。
「なら、走りで分かれ」
私は頷いた。
一次招集まで、まだ少し時間があった。
千秋と真帆先輩は、バトンとゼッケンを確認している。
茅野先輩は先生に呼ばれ、右脚の状態を確認されていた。
私はその場に立っていた。
行くべき場所が分からなかった。
すると、真帆先輩が近づいてきた。
「行きたいんでしょ」
声が出なかった。
それでも、頷いた。
「ひかり、スタンド裏にいたよ」
「今、ですか」
「うん」
「私、行っていいんですか」
「すぐ戻るなら」
真帆先輩は、しょうがない、というように微笑んだ。
「でも、言うことは間違えないで」
「……はい」
「今日は梨央に渡す」
「はい」
「その上で話すなら、行ってきな」
私は頷いた。
競技場の裏手へ向かう。
スタンドの下は日陰になっていて、外より少し涼しい。
コンクリートの壁に、遠くの歓声が低く響いている。
別種目の選手たちが通り過ぎるたび、スパイクの音が小さく跳ねた。
ひかり先輩は、自動販売機のそばにいた。
白い上着を羽織り、肩にバッグを掛けている。
バッグの紐が、少しだけ重そうに沈んでいた。
私はそこに触れないようにした。
「鴻上先輩」
呼ぶと、ひかり先輩は缶の飲み物を持ったままこちらへ顔を向けた。
「朝倉さん」
「登録メンバー表を見ました」
挨拶より先に出てしまった。
ひかり先輩は驚かなかった。
「そう」
「知ってたんですよね」
「知ってた」
「名前、消さなかったんですか」
「消してって言うほどでもなかったから」
ひかり先輩らしい答えだった。
でも、それだけではない気がした。
「走る気は、ありますか」
聞いてしまった。
聞くつもりはなかったのに、言葉が先に出た。
ひかり先輩は、缶の表面についた水滴を親指で拭った。
「約束は守れてないよね」
十一秒六四。
昨日の十一秒九一。
その差、〇秒二七。
私は頷いた。
「抜けませんでした」
「じゃあ、私はリレーに入らない」
予想していた言葉だった。
それでも、胸の奥が沈んだ。
私は拳を握った。
「約束で戻ってもらう話は、終わりました」
ひかり先輩のまぶたが、少しだけ動く。
「終わった?」
「はい」
「諦めたってこと?」
「違います」
私は首を振った。
「十一秒六四は、まだ追います。たぶん、ずっと追います」
「じゃあ、終わってない」
「約束の使い方だけ、終わりました」
そこだけは、はっきり言わなければならなかった。
「私は先輩の記録を抜けませんでした。だから、約束でリレーに入ってくださいとは言いません」
「じゃあ、何を言いに来たの」
ひかり先輩の声は静かだった。
私は、登録メンバー表を思い出す。
五人目の名前。
そして、茅野先輩の背中。
今日の予選で、私がバトンを渡す相手。
「見てください」
口にしたあと、自分の声が思ったより弱くないことに気づいた。
「私たちのリレーを」
ひかり先輩は何も返さない。
「千秋のスタートも、真帆先輩の二走も、茅野先輩のアンカーも」
私は一度、息を吸った。
「私が、そこへ持っていくところも」
手のひらに、バトンの感触が戻る。結局、ひかり先輩に渡すとは言えなかった。
今私が渡す相手は、茅野先輩だ。
「走ってほしいとは言わないんだ」
「言いたいです」
正直に答えた。
「でも、今それを言ったら、茅野先輩のアンカーを私が勝手に空けることになる気がします」
ひかり先輩は、すぐには返さなかった。
その沈黙だけで、何を分かっているのか少しだけ伝わった。
「茅野がいるもんね」
「はい」
「今のアンカーは茅野」
「はい」
「じゃあ、私じゃない」
淡々とした言葉だった。
でも、前より少しだけ温度があった。
「先輩が入ったら、みんな“鴻上が戻った”って言うと思います」
「うん」
「でも、そうならないように走りたいです」
ひかり先輩は黙った。
「まだ走ってほしいって言えないから、せめて見てください」
私はひかり先輩へ向き直る。
「私たちが、どう走っているか」
スタンドの奥から歓声が響いた。
誰かのレースが終わったのだろう。
その音が、少し遅れてコンクリートに反射する。
ひかり先輩は、自動販売機の横の壁にもたれず、立ったままだった。
「朝倉さんは、変わったね」
「そうですか」
「春は、私しか見てなかったのに」
否定できなかった。
私はたぶん、本当にそうだった。
ひかり先輩の十一秒六四。
動画の動き。
記録表の名前。
そこばかり追っていた。
「今も見ています」
「知ってる」
「でも、それだけじゃなくなりました」
「うん」
ひかり先輩は、少し遠くへ顔を向けた。
「茅野、出る位置早くなったね」
私は息を止めた。
「夏前より、待たなくなった。手も低くなった」
「そこまで気づいてたんですか」
「見えたから」
いつもの言い方だった。
でも、私にはその一言が大きかった。
「脚も」
ひかり先輩は短く続けた。
「少し変」
「……はい」
「でも、茅野は走るよね」
「走ろうとします」
「だよね」
その声は短かった。そこには、呆れや諦め、そして許しのような感情が混ざっていたように聞こえた。
私は少しだけ、肩の力が抜けた。
「予選、見てくれますか」
ひかり先輩はすぐには返さなかった。
缶の飲み物を自販機横のゴミ箱に入れる。
「見るだけなら」
「はい」
「走るとは言ってない」
「分かってます」
「じゃあ、見てるよ」
私は頷いた。
「それでいいです」
本当は、それだけでいいわけではない。
走ってほしい。リレーに入ってほしい。
ひかり先輩がバトンを持つところを見たい。
その気持ちは消えていない。
でも、今はまだ、そこまで言わない。
「朝倉さん」
「はい」
「十一秒九一、すごかったよ」
不意に置かれて、言葉が止まった。
昨日も同じことを聞いた。
でも、今日は少し違って届いた。
「ありがとうございます」
今度は、少しだけ受け取れた気がした。
ひかり先輩は、スタンドへ向かう通路へ顔を向ける。
「今日、茅野に渡すんでしょ」
「はい」
「じゃあ、そっち見て走れば」
短い言葉。
でも、胸の中にすっと入った。
「はい」
二度目のアナウンスが流れた。
女子四×一〇〇メートルリレー予選。
招集所付近へ集合してください。
私は腕時計を確かめる。
「戻ります」
「うん」
「見ていてください」
「見るよ」
走るとは言わなかった。でも、見ると言った。それだけで幾分進んでいるような気がした。
テントへ戻ると、千秋がすぐにこちらへ体を向けた。
「翠、間に合った」
「ごめん」
「大丈夫。まだバナナじゃなくてバトン持ってる」
「それならよかった」
少し笑えた。
真帆先輩が短く頷く。
「戻ったね」
「はい」
「ちゃんと話せた?」
「はい」
茅野先輩は何も聞かなかった。
ただ、バトンケースから一本取り出して、千秋に渡す。
「始めて」
千秋が受け取る。
「はい」
真帆先輩がゼッケンを押さえる。
私は手のひらを開いた。
まだ何も持っていない。
でも、今日渡す相手だけは決まっている。
招集所へ向かう前に、一度だけスタンドの端へ顔を向けた。
ひかり先輩がいた。
少し離れた場所に立っている。
でも、こちらへ向いていた。
私は軽く頭を下げた。
ひかり先輩は手を振らない。
ただ、その場所に残っていた。
千秋が一走のバトンを握っている。
真帆先輩が隣を歩いている。
茅野先輩が少し後ろで、右脚に余計な力をかけないように歩いている。
私は、その背中へ続いた。
予選が始まる。