キヴォトスの警察機関、ヴァルキューレ警察学校は特定の自治区を持たず、キヴォトスの各地に分署を構えている。各署の統括はD.U.地区にある中央支局が担当しており、ここから各地へ指令の通達がされる。むろん法執行機関としての機能を担うため、分署でもそれなりの敷地面積を持っている。だが統括管理者だった不知火カヤ防衛室長の投獄や、癒着を始めとした一連の問題の暴露により、少なくなった物資や予算が各署まで行きわたりにくくなっていた。各署長の工夫でなんとか運営を継続しているが、状況の改善はまだまだ先だろう。
グッドイヤー分署も例外ではない。グッドイヤー埠頭で運送会社が積み荷を降ろし、ここからキヴォトスの各地へ荷物を届ける。広大な港湾全体が分署の管轄だが、手が回りきっていないのは明白だった。広大な埠頭には、明らかに数の足りない警備員が懐中電灯を持って巡回している。新しく作られたばかりのきれいなターミナルビル、その隣にはコンクリート造とおぼしき建物。ターミナルより一回り小さく、普段から人気があるようにはみえない。屋上からはいちおう灯台が生えているが、明かりは灯っていなかった。接岸予定の船がなくなったら、光源の電源が落とされているのだろうか。
二人の足音が閑散とした廊下にこだました。寂れ切った警察施設だった。建物内は誰もいないかのように、ひっそりと静まり返っている。天井のところどころに裸電球がついていた。角を隠すためのハンチング帽、シャツにスラックス姿のカヨコが先導して廊下を歩く。アルは後ろにつきながら、治安の悪化が心配だと思った。
二人は先ほどまで、署長室でカンナと話をしていた。ヴァルキューレの抱える問題は、公安局長の立場にあるカンナもよくわかっているだろう。普段は中央支局で勤務しているためか、実際に現状を目の当たりにして、ひどく頭を抱えていたのはいうまでもない。しかし埠頭から全員を連れて中央支局まで大移動するより、一旦ヴァルキューレの施設に留まったほうが安全だと判断したようだ。
便利屋68の乗った高速艇は、ほどなく無事に救助された。爆発の振動と黒煙を観測して、ヴァルキューレの海警が出動していた。四人は現場近くで保護され、通報を聞いたカンナが話を通して、グッドイヤー分署まで連れてこられた。四人が到着した時には夕方だった。シーサイド・セレナーデ号はとっくに寄港して、全ての乗組員は陸へ降りていた。
奪った高速艇や指令書は証拠品として、ヴァルキューレの鑑識へ回されることになった。分署で詳しい調査がされ、明朝には結果が出るだろうとカンナは話した。シルバの乗っていた敵船も回収を試みるといっていたが、あの爆発では乗組員も含めて木端微塵だろう。できるのは、せいぜい船の残骸を拾うことくらいだ。
アルたちが敵船を追跡しているあいだ、客船のほうでも動きがあったらしい。アルの話を聞いた乗組員がキャビンへ向かったが、既にレーダーは切られていたそうだ。あの辺りはNASS兵が大挙して占領していた。客船の乗組員なら、とっくに一掃されていたはずだ。あの僅かな時間で誰が操作したのだろう?しかし誰であろうと、ともかく危機は回避された。
さらに客船に取り残されていたNASS兵たちは一人残らず捕らえられた。驚いたのは客船への乗り込みを手引きしたのが、ヴァルキューレ警備局の職員だったことだ。これでラムがカジノで狙われた、最初のきっかけがわかった。
それ以上の発見もあった。捕らえた全てのNASS兵の正体はヘルメット団のごろつきばかりだった。いずれも学校を中退して、ゲヘナ自治区にたむろしていたような人材だ。金で雇われただけで、NASSの指導者について碌な情報も持っていなかった。問題なのは、そのくらい程度の低い連中でも、マダム二世の指揮で恐るべき連携を発揮したことだ。どうやら指導者の能力は本物らしい。
マダム二世の狙いは何なのだろう。アルはサオリのことが気がかりだった。あのメンバーに混ざっていた以上、サオリも標的にされているに違いない。しかし対策班メンバーでないサオリが狙われるのは何故なのか。彼女がリーダーだったアリウススクワッドは、エデン条約事件の主犯格として立ち回っていた。サオリが健在であるのを知ったマダム二世が、彼女も粛清しようとしているのだろうか。そもそもサオリは今、どこで何をしているのだろう。シュウはサオリについて何も語らなかった。やはり彼女にも完全な信頼を置くことはできない。
便利屋はカンナから、分署内の四人部屋を与えられた。もう夜も遅かったし、何より便利屋はこの件に深く関わりすぎていた。そのまま野放しにするより、自由に動ける外部協力者として引き入れるのが得策、そう判断したに違いない。先の読めない展開なだけに、ラムやシュウだけでなく、人手の足りないヴァルキューレも協力者を欲しがっている。
ムツキとハルカは先に部屋へ戻った。こうしてアルとカヨコだけが、建物の玄関へ向かうのには理由がある。カンナから伝えられるとアルは驚いたが、カヨコはそこまで意外に思ってはなさそうだった。
正面玄関の空間へ出る。受付のカウンターには誰もいない。入り口の外で、こちらに背を向けて埠頭を眺めている人物がいた。冷たい外気が開け放たれた玄関に流入してくる。外の人物は動きやすい軍服風の姿のままで、コートなどの上衣は一切羽織っていない。現役を退いてもなお、仕事へのプロ意識は高いままだった。
外へ踏み出すと、アルは遠慮がちに話しかけた。「ええと……呼ばれた通り来たわよ」
気配を察知していたらしい。氷野イサミは振り向きもせずにいった。「攻撃を阻止した話はカンナから聞いた。シルバとNASS兵のどちらもゲヘナ生だった」後半で語気をわずかに強めた。
カヨコが遠慮なくいった。「それでこんなところに呼び出して、いったい何の話なの。お礼ならいらないけど」
「ここでは話せない」イサミの口調ははっきりとしていた。「埠頭へ行く。お前たちにもその方が都合が良い」
イサミはさっさと歩きだした。アルとカヨコは顔を合わせたが、無言で彼女の後へ続く。
深夜の埠頭は少しの光源を残して、完全に闇へ溶け込んでいた。しばらくは辺りもわからないほど暗かったが、次第に暗順応してくると前方に箱型の影が映る。ターミナルの先の突堤に、シーサイド・セレナーデ号が停泊している。照明を完全に落としており、沈黙したまま佇んでいた。
アルはイサミへ小声でいった。「こんな開けた場所じゃ、狙撃しなさいといってるようなものよ」
イサミは何ら気にする様子もなく歩き続けた。「見通しがよければ、こちらも襲撃に気づける。閉鎖的な空間は人目に触れにくいが、誰かが聞き耳を立てたり、壁に爆弾を仕掛けられても目視できない」
アルは相槌を打った。「ああ、そういうこと……さすがプロフェッショナルね。勉強になるわ」
「そうやって白を切るつもりか」
イサミが歩を止めた。空気が一変したのを肌で感じる。アルは黙って目の前の人物を注視していた。客船でカンナと二人で密会をしていた光景が脳裏によぎった。
沈黙を破ったのはカヨコだった。「なんのことかな」
イサミは星空を仰ぎ見た。「わからないか?なら聞き方を変えよう」
いきなりイサミがばっと振り返ると、カヨコの眼前に拳銃を突き出した。黒光りする小ぶりな拳銃は、夜の闇でもはっきりと存在を感知できた。
カヨコの右手が反射的に跳ね上がった。眼前の拳銃を掴むと、次の瞬間にはもう上部スライドを外して、海側へ乱雑に投げ捨てた。自分のベルトに吊ったホルスターへ手を伸ばすが、イサミは一歩踏み出すと、カヨコより早くデモンズロアを奪い取った。たちまち立ち位置が入れ替わると、イサミがサイレンサーのついた銃口を再び向ける。
カヨコは銃を持つ右手に腕を絡ませ、回転させると手首の関節を決めにかかった。このまま捻りあげれば、てこの原理で拳銃は簡単に手から離れる。しかしイサミも知っていたらしく、完全に決まる前にもう片手で拳銃を飛ばした。二人の真上に舞い上がる。
すかさずカヨコは回し蹴りを放った。イサミが後方へ後ずさり、蹴りは眼前で空を切る。余裕の表情を一切変えない。一回転したカヨコの手元に拳銃が落ちてくるのを見ても、冷静さを崩さなかった。
カヨコは右手だけで正確にグリップを握り、トリガーを引き絞った。赤い閃光とともに抑制された銃声が響く。薬莢が回転しながら側面から飛んだ。
イサミは首を右へ傾げただけで、目の前で撃ちだされた弾を回避した。弾丸はイサミの左首筋すれすれをかすめ飛んだ。発射の瞬間から回避まで、まばたきもせずカヨコの動きを捉え続けていた。
始まりと同じくらい唐突に戦闘は止んだ。カヨコは油断なくイサミへ銃を向けていた。アルもすでに銃を抜いていたが、立ち位置が入れ替わったあたりから、二人の動きを追うことしかできなかった。熟達した演舞のような動きは、銃が介在していなければ素晴らしい格闘技ショーだっただろう。互いに計算し尽くされた攻撃を躱し合い、一瞬でも早く先を読み取ろうとしていた。
「こんな腕前の記者がいるか、カヨコ」
目を細めながら、手に持った帽子を示す。先ほどの接近で、イサミはカヨコの変装用ハンチングを脱がせていたのだ。白黒の頭髪とねじれた一対の角が、月明かりに晒された。
ため息をつくと、カヨコは拳銃を降ろした。アルは面食らったが、倣って武器を収めた。
カヨコはいった。「そう長くは持たないと思ってたけどね。イサミ、いつから気づいてたの?」
「私の目は節穴ではない」
ただならぬ雰囲気は残っていたが、張り詰めた空気はいくらか弛緩した。アルは二人が旧知の関係であるのを読み取った。互いを下の名で呼び合っている。だが仲が良いようには見えない。
アルは尋ねた。「二人は知り合いなの?」
カヨコが答えた。「昔のことだよ。まだ現役だったとき、何度か顔を合わせたことがある」
イサミの口がゆっくりと開いた。「ゲヘナの優秀な生徒とお目にかかったのは久しぶりだ。引退してからは会ってない。お前の方も、昔はよく活躍していたな。互いに汚い仕事もしなければならなかった。まだそんな暗い仕事をしているのか?まさか標的が私ではあるまいな」
声は冷ややかで、淡々と何の感情ものぞかせなかった。互いに曖昧な表現に留めている。詮索しあったり、素性を吹聴したりしないのも、二人の業界では鉄則のようだ。
カヨコは黙りこくった。アルも口を閉じていた。客船のラウンジで一緒にいるのを見られていたのだろう。
「カヨコ、返事をしないのは構わないが、疑われているのがそちらだと忘れるな。襲撃犯はゲヘナ側の人間だった。ヴァルキューレがお前たちを招き入れたのも理解しがたいが、こそこそと何を嗅ぎまわっている?」
アルもそうだろうと思った。警戒するのも、ごもっともだ。ラムの話は隠しながら、あくまで事実に留めた話をした。
「対策班を囮に使ったのは私たちよ」アルはいった。「ヴァルキューレも困っていたから、手を貸しがてら、仕返しをしてやろうと思ったのよ。カジノで私たちも巻き添えを喰らったわ。やられっぱなしなんて、アウトローの風上にもおけないもの」
「アウトロー、無法者か。ネオアリウスと性質が近いようだな」
「テロリストに友達はいないわ」
「錠前サオリはどうだ。お前たちは一度、アリウススクワッドのリーダーと協力関係にあった。調べはついてる」
アルも厳しい表情になった。「サオリを疑うのかしら」
「写真があったのだろう。調印式襲撃をおこなった張本人だ。トリニティの人間として、彼女の関与を疑うのは当然の帰結だ。現にシュウがアリウス代表となった直後から、彼女は行方をくらませている」
アルはカヨコと目を合わせた。神妙な面持ちのままイサミへ向き直ると、カヨコは切り札を繰り出した。「調印式襲撃計画を知っていながら、みすみす攻撃を見逃すような人物は怪しく思われないとでも?」
イサミは動じなかった。仁王立ちのまま、無言でカヨコを眺めている。
カヨコは追及の手を緩めなかった。「トリニティ生は自分たちが、全ての情報を握っているかのように振る舞うよね。シュウの昔話なら、社長が本人から聞いてる。誤魔化しても無駄だよ」
イサミの目線がアルへ向く。やがて静かに告げた。「私がシュウを匿ったとき、トリニティは内部の裏切者を探し出そうと躍起になっていた」
「ああ」カヨコは相槌を打った。「そんな話があったね。たしか補修授業部の白洲アズサ……」
「いや、実際にはティーパーティーの聖園ミカが黒幕だった。当時の私はシュウから全てを聞いたが、私の報告はティーパーティーへすぐに伝わる。事態を察知されたアリウスが攻撃を前倒しする可能性があった。私はトロントの代表を降りて、裏付けを取るために情報を伏せて、独自に動いていた。ちょうど今のお前たちと同じようにな」
アルは黙ったまま、イサミの話に耳を傾けていた。イサミは墨汁を張ったような黒一色の海を見つめていた。真顔のまま口をこぼす。「ただ一つの違いは、惨劇を回避できなかったことだ」
カンナは今回の襲撃に関して、海難事故の記録を一切残さないよう通達した。海上のど真ん中でのできごとで、幸いにも付近に目撃者はいなかった。NASSの増長を止めるため、事件自体がもみ消される。不法投棄された大量の爆薬が炸裂した、黒煙や振動を観測しただろう海岸沿いの学校にはそう伝えられる。
エデン条約事件は違う。悲劇が大々的に知られた以上、二度と繰り返してはならない教訓として、後の世紀まで事件は語られ続けることになる。数年後には歴史の教科書にも記載が載るだろう。アリウス分校もどれだけイメージ回復をしようと、エデン条約事件のなかではテロリストとして長く名が残ることになる。
もし何かが違えば今回の事案も、エデン条約にまつわる一連の事件の延長として、歴史に刻まれていたかもしれない。またはエデン条約事件が回避されていたら、そもそもネオアリウス自体が存在しなかったかもしれない。NASS誕生の責任の一端は、自身にもあると考えているのだろうか。人生は選択の連続の結果だ。歴史など、人々に広く知られている一側面に過ぎない。
アルはイサミに聞いた。「シュウを気にかけてるのは、事件に負い目を感じてるからなの?」
「すでに起こったことだ。いちいち悔んだりなどしない」
「彼女はあなたを慕っていたわ。感謝しているとも」
「自力では籍の偽造もできないというから、代わりに手引きしたまでだ。過去の清算は本人の問題だ」
突き放すような物言いだった。カヨコが呆れたといいたげに、小さくため息をついた。あくまで本心を口にしようとしないのがイサミという人物らしい。シュウが独り立ちできるよう余計な手を加えない。好意的に解釈すれば、そういう見方になる。
カヨコが聞いた。「NASS問題の解決は、あなたの過去の清算にもなる。だから対策班に入ったの?」
「NASSの狙いは、エデン条約事件から連なる憎悪と執念の経脈を永らえさせることだ。それは自分たちの名を歴史に残すことにもなる。マダム二世の渇望する最終目的はそこだろう。そんな狙いは断ち切らなければならない」イサミは二人に振り向いた。「ティーパーティーの意見も一致している。一度失敗したゲヘナやアリウス、百鬼夜行と手を組んで立ち上がることで、忌々しい過去を払拭したいのだろう」
双方にとっての汚点を拭い去ることも、おそらく目的に入っているだろう。トリニティはゲヘナとの友好関係を完全に諦めたわけではないらしい。ゲヘナの万魔殿が応じるかどうかは賭けだろうが、少なくともNASS問題では対策班の結成に成功した。
ゲヘナは一体何を考えているのだろうか。NASSの隊員は中退したとはいえゲヘナ生だった。トリニティとアリウスを貶めようとする万魔殿の策略なら、対策班に合流したことと理屈が合わない。明らかに話し合いには向かないバットを送り込んでいるのも不可解だが、学園に登校していない便利屋には真意を知る術はない。
カヨコはいった。「元からそうだったけど、やっぱりあなたに気を許すことはできない」
「お互い様だ。ゲヘナとトリニティの確執は根深い」
「いや、ノイズなのは学校間の違いじゃない。イサミの話す言葉自体にある」
「それはどういう意味だ」
「学校同士の話を聞きたいわけじゃない。私が知りたいのはイサミの本心──イサミを信頼できるかどうかということ」
「誰も信頼しないほうがいい」イサミは真顔で言い放った。「この世は嘘だらけだ。偽りのない魂同士の会話など成立しない。私も、誰も信頼などしていない」
錆びた銅鏡のような冷たい瞳には、誰の姿も映っていない。これこそ彼女の本性なのだろう。誰も信じられない諜報の現実で生きるには、純粋無垢な人格も精神も打ち捨てなければならない。全てを投げうってでも学園に忠を尽くす姿勢は、しかし裏社会で生きるアルの思想とはどうしても相容れないものだった。
「あなたの警告はわかったわ」アルは真っ向から見返した。「だからといって、尻尾を巻いて逃げるつもりもないわ。こっちは仕事の成果が風評に響くのよ」
「好きにしろ。アウトロー魂を鼻にかける女が、この程度で逃げ出すなど思わん」
アルは踵を返した。「戻りましょう、カヨコ」そういってグッドイヤー分署へ、つかつかと歩を進める。イサミは予測を遥かに上回る難物だ。しかし歩みは軽く、気後れなど一切感じなくなっていた。いいたいことをはっきりと突きつけてやったからだろうか。
イサミの槍のような視線が、いつまでも背に刺さっているようだった。自分たちがいる限り、彼女が警戒を解くことはないだろう。捜査の妨害に打って出るだろうか。風紀委員会だけでなく、トリニティや彼女の動向にも今後は目を光らせる必要がある。