午後は曇りの予報だった。分厚い灰色の乱雲が頭上を覆い尽くしている。
アルたち四人はヴァルキューレ中央支局を後にして、中心街の雑踏に身を置いていた。それぞれいつもの服装へ着替えている。素性を偽らなくなった分、いくらか気は楽になった。
目的もなく流れに乗って歩いているように見えるが、無論そうではない。無鉄砲な宣言をしたまではよかったが、トリニティへ潜り込むのがどれほど困難なことか。オペラハウスへの潜入が簡単に思えてくる。考えれば考えるほど、成功の可能性はないに等しく思える。
隣で歩くカヨコも難問に頭を捻らせている。アルは思いつきを口にした。「ねえ、カヨコ。グッドイヤー埠頭でイサミと知り合いだったわよね。元トップなら影響力も残っているでしょうし、彼女に手引きしてもらうことはできない?」
カヨコは首を横に振った。「あの場で話を聞いてたでしょ?NASSを支援しているかもしれないゲヘナを警戒してる。手を貸してくれるとは思えない」
「そう……そうよね」アルは会話を切った。
トリニティへの潜入にあたり、構内からの助けが必要なのは明らかだ。深い外堀を水で満たし、外界と隔絶されたトリニティ本校舎の人工島には、常時警備が散開している。以前にNASSの侵入を許してから、警戒は一層厳しくなっていた。たった四人で勝てる見込みなどない。そうでなくともトリニティと戦闘になれば、色々な問題が付きまとう。このデリケートな時期に、ゲヘナとトリニティが険悪になるのは避けたかった。戦闘などもってのほかだ。
ハルカがおずおずといった。「や、やっぱり潜入しかないんですか。でも学籍の偽造も私たちだけじゃ無理ですよね……」
ムツキは肩をすくめた。「変装くらいなら、難しくないんだけどね。検問もあるから、そう簡単には入れないか」
アルは歯がゆかった。自分たちでどうにかしたいが、それでも無理なことはある。遅刻届の公文書偽装とはわけが違う。誰かを頼る?より本格的な改竄行為に手を貸してくれる者などいるのだろうか。発覚した際のリスクは計り知れない。
いつしかアルは立ち止まっていた。後続する人々が迷惑そうに避けていく。三人が振り返ってたたずむなか、アルは頭を悩ませた。クロノススクールの偽名に頼ろうにも、イサミが正体を報告している可能性がある。ラムならどうだろう?裏切者探しを依頼してきたのは彼女だ。要請すれば、もしかしたら……。
だがそれ以上思考を進めることはなかった。
カヨコが目を細めた。何かを警戒すると、彼女は決まってこうなる。注意を喚起され、ばっと後方を振り返った。
アルたちの数メートル後方で、挙動不審な人物がいた。うろたえたように足を止め、しきりに周りを見回している。
軍帽を被ったおかっぱ頭に赤い角の少女。黒いダブル二つボタンの制服にミニスカート。シーサイド・セレナーデ号でも遠目に見かけた。制服姿の少女は、存在を気取られると思ってなかったらしい。すぐ横の建物の影へ、急いで身を隠した。
尾行されている。しかもゲヘナ風紀委員会にだ。カヨコに目で問いかけると、彼女もうなずいた。それを合図に、四人は一斉に駆け出した。
後方で顔を半分ほど出した少女が、あわてて追跡を開始した。アルたちは人の流れを瞬時に見極め、素早く隙間へ飛び込む。混雑をものともせず、持ち前の逃げ足で敏捷に動いた。後方の追手との距離が開いていく。
油断なく目を走らせていた前方、群衆の向こうから新たな風紀委員が出現した。しかも今度は一人ではない。二人一組で行動している。アルたちは示し合わせたように、すぐ横の路地裏へ進路を変えた。わずかな日光も届きにくくなる。
裏口の把手や配管へぶつからないように体を捻り、さらに奥へ踏み込む。手を広げて壁に触れられるほど狭い空間となった。足元から数本の雑草が伸びている。後方を見ると、先ほどの風紀委員が追いついてきた。アルたちは速度を上げた。
このまま進めば駐車場にでる。中心街の街道に面する土地は建物が密集しているため、裏手の目立たないところに車を停めておく空間がある。混雑から抜けた裏路地に人気はなかった。赤白の遮断機を飛び越え、様々な車種が整然と並ぶ前を走り抜ける。
正面を向いた銀色のワゴンがあった。サンバイザーが降りていて、車内は暗く見えない。横をすり抜ければ、いりくんだ小路へ合流できる。そうなれば追跡を撒けるはずだ。
疑念は確信に変わりつつあった。万魔殿は風紀委員会と犬猿の仲だが、立場上では命令できる立場にある。追手の様子からして、ヴァルキューレを後にしてから、ずっと後をつけていたに違いない。便利屋が警戒されているのは明らかだ。バットの話が真実なら、風紀委員会は遺産の回収に忙しいのではなかったのか。秘密にますます接近しつつある便利屋に気づいて、戦力を呼び戻したのだろうか。
嫌な予感が全身にめぐった。周りには便利屋以外誰もいない。迎撃しようと歩を緩めた瞬間、眩いばかりの光が辺りをつつんだ。ワゴンの前照灯がハイビームを放った。全員が体を凍りつかせた。
強烈な光線が目に突き刺さってくる。アルは顔をそむけた。ワゴンの助手席ドアが乱暴な音をたてて閉められる。ガタイの良い立ち姿のシルエットが、ハイビームを背に受けて出現した。
シルエットが高飛車な態度でいった。「遅かったじゃないか、便利屋」
聞き覚えのある声だ。しかも相手はこちらが誰か分かっている。
カヨコはまぶしそうに腕で目を隠した。「いきなり何のつもり」
「連邦生徒会の客船にいたとは知らなかった。これぞ本当の呉越同舟だな」
「風紀委員会は忙しいんじゃなかった、荒切バット?」
「ところが俺たちは一枚岩じゃないんだ」
腕を組んだシルエットが不敵に笑う。ここから先は通さない、そう体現しているようだった。
「武器を降ろせ。じゃなきゃビビって話もできやしない」
ムツキが挑発するような声色で訊ねた。「ビビってるようには見えないけどね。ムツキちゃんたちに何の話があるっていうのさ」
数秒のあいだ、返事がなかった。ワゴンの唸りだけが静かに響く。バットはもう笑っていなかった。わずかに顔を揺らし、辺りを見回す。彫像のような立ち姿には、一切の油断ものぞかせない。さすがに歴戦の古参委員だった。
ムツキは語気を強めた。「こっちは無視するつもり?何の話なのさ?」
複数の足音が応えた。周りの車の影から、野戦服を纏った五人のNASS兵が一斉に銃口を向けてくる。ハルカが背後を振り向き、あっと短くこぼした。後続の風紀委員がこの場に追いついた。便利屋は完全に包囲されていた。やはり嵌められたのか。
「伏せろ!」バットが凄みのある声で命じた。
アルはシルエットへ目を向けた。腰へ吊ったホルスターから、もう拳銃を抜きかけている。訳もわからずムツキの肩を掴むと、強引に地面へ倒れ込んだ。カヨコもほとんど同時に、ハルカを抱えて姿勢を低くした。
肝をつぶすような大口径の発砲音が、五発立て続けに轟いた。周りから苦悶の声が次々に上がる。アルはびくっとしたが、狙いが自分でないとすぐにわかった。顔を上げると、NASS兵たちは武器を取り落とし、後方へ吹っ飛んで倒れていた。背後の車体が大きく凹んでいる。
バットは大口径のリボルバーを構えて静止していた。白くくゆる硝煙が光源ではっきりと見える。長い銃身と形状から、スターム・ルガー・スーパー・レッドホークだとわかった。やがてゆっくりと構えを解くと、拳銃を指で回してから、ホルスターへ収めた。
ようやく追いついた風紀委員は、すっかり腰を抜かしてへたりこんでいた。バットは脅かした責任など微塵もなさそうに飄々としている。片手を挙げて合図すると、ワゴンが停止してハイビームも切れた。運転席から顔を出したのも、やはりおかっぱ頭の風紀委員だった。ゆっくりとした足取りで歩み寄ってくる。
バットは口元をにやりと歪めた。「風紀委員会の友から、よろしく伝えてくれ、と伝言を預かっている。つまり俺たちは信頼し合える友だ」
手を差し伸べてくる。アルは取るべきか迷ったが、どうせ向こうは正体を分かってるんだと考え、大きい固い手を掴んだ。腕の力だけで引き立たされる。乱れた呼吸は、まだ整わない。夢か現実かあいまいだった。バットは満足そうな様子から、すぐに切り替えた。
部下の風紀委員二人へ早口に命じる。「そいつらは捕まえておけ」それからアルと向かい合った。「話があるといったな。ここじゃ人目につく。ついてこい」
風紀委員会がいったい何の話があるのだろう。それにNASSの突然の奇襲も謎のままだ。後ろ姿を目で追いながら、果たして信用して良いものか、いまいち確信を持ちかねている。振り返ったバットが呼んだ。「早くしろ」
その声で現実に呼び戻された。虎穴に入らざれば虎子を得ず。アルは黙って黒いシャツの背に続いた。後ろでカヨコが驚いたような様子をわずかに見せる。だがこれ以外にどんな方法がある?”荒らし屋”バットがどんな腹積もりだろうと、打開策がないままよりは事が進展するかもしれない。
「お前らが俺を信用してないのはよくわかってる」バットは続けた。「だが考え直したほうがいい、友よ。なぜなら、そう、たぶん俺はこの対策班の中で、お前らの唯一の味方だからな」
アルはどっちつかずの返事をした。「たぶんよ」
「お前らもNASSについては、風紀委員会と同等の情報を握っているな。おそらく同じ程度だろう。だがシュウのやつは大事な情報を小出しにして、肝心な情報を隠している。俺がいいたいのは、俺たち二組で協力して、事に当たろうってことだ。それにシュウだけじゃない。イサミ──あのトリニティ野郎はシュウとずぶずぶの関係だからな。美味しい情報は独り占めにしてやがるし、俺たちゲヘナの度肝を抜くような重大な何かを隠してやがると思うぜ」
「一応聞くけど、学校の垣根を越えて助け合うのが、この対策班の趣旨じゃなかったかしら?」
「助け合いなんてできるものか」バットは吐き捨てた。「いいか、客船にいたなら第一回会議の会話も聞いていただろう。俺が巡航ミサイルの話を出さなかったら、シュウだけじゃなくイサミのやつも、おそらく最後まで、一度も話そうとしなかっただろうな。なぜだかわかるか?」
「教えてほしいわ」
バットは道路に面したシャッターの前で止まった。スプレーで英語の落書きがされている。小さな鍵を差し込むと、足を曲げて体を縮めてから、一息でやかましくシャッターを押し上げた。暗い室内でスイッチをパチンと上げる。天井の電球が点滅しながら、静かに点灯した。
粗末な作りのガレージだった。ボンネットパネルを外したまま、機構がむき出しの装甲車が止まっている。風紀委員会の所有物らしい。ドアにゲヘナ学園の校章がプリントされてあった。周りの地面に工具箱や置きっぱなしの工具が散乱している。オイルの独特な臭いが鼻につく。
バットは用心深く往来を確かめ、それからシャッターを降ろした。装甲車のボンネットに飛び乗り、高い視線から便利屋の四人を見下ろす。「なぜならシュウのやつは二股かけて動いているからさ。俺はシュウの裏切りの証拠を掴んだぜ。お前たちも、何か掴んでるか?」
アルは軽い驚きを覚えたものの、顔には出さなかった。「いえ、まだだけど。どうして?」
「グッドイヤー分署が武装勢力に侵入された晩のことだ。俺はシュウの部屋へ野暮用で顔を出した。それから引き揚げる際に、こっそりお土産を置いてきたのさ。それからずっと盗聴していたんだ」
ムツキがにべもなくいった「それで自分の悪口ばかり聞かされたんでしょ?」
「ああ、その通りだ。盗み聞きの報酬は自分の悪口ばかりなり、って誰かもいっていたな」バットは肩をすくめた。「それでだ、シュウはしばらくめぼしい情報をこぼしたりしなかった。だが襲われる直前、やつはある一通の電話をいれたんだ。符牒を混ぜたりなんてせずに話して、最後にやつは連絡相手の名を直接口にしたんだ。おどおどした様子なんかなく、事務的な調子でな。誰だと思う?」
「またマダム二世とでもいうのかな」
「いや、あんな表舞台に姿を見せない日陰者なんか気にしても仕方がない。南波クラビスだ。お前たちが持ち帰った指令書──その中で指令を受けていたアリウスの傭兵だよ」
アルはしっかりと立ち、バットの目をひたと見据えた。「つまりシュウが対策班の裏切者だといいたいのかしら?」
「あらゆる側面から見ても確実だろうな。やつの話した通りなら、クラビスは客船での任務を終えてから、次にトリニティ総合学園へ向かったらしい。標的は七宮スペルだ。そして通話を切った直後、盗聴器にノイズが走った。やつの悲鳴が聞こえて……カヨコ、お前ならわかるんじゃないか?NASSと通じているはずのシュウが襲われた。最終的に狙われているのは誰だ?」
「私たち?」カヨコは無表情でつぶやいた。
「そうだ、もちろん筋書きの上では我々だが、連中の本当の狙いはお前たちだよ、友よ。あの晩の自作自演で二人を始末したら、残る社長と平社員のほうも別の方法で消す算段だっただろうな。罪状は国家の敵、NASSの一大作戦を頓挫させたお前たちを逃がすまいと、連中はギルやクラビスのような切り札を次々に使ってくるぞ」
カヨコは目線を落として考え込んだ。「たしかに自作自演でも筋は通る。殺し屋に襲われた割に、シュウの傷は浅かった。殺意があるなら、辿り着く前に切り伏せられてたはず」
バットの顔に薄い笑みが浮かんだ。「なあ、友よ。お前らと同様、俺もかなりの場数を踏んできた。レッドグラード、ヴァルカン、エデン条約調印式、セバストポリ、ミッドウェイ。だが今度のは、性の悪さにかけては未曽有の陰謀だ。俺の助けが必要だぜ。俺のやり方に同調してくれるなら──つまり風紀委員会の指示通りにしてくれたらって意味だが──トリニティ潜入への手筈を整えてやる」
アルは小馬鹿にしたようにいった。「ずいぶん簡単にいってくれるわね。不可能にも近いことよ」
カヨコが口を挟んだ。「社長、バットの話はあながち間違いじゃない。ゲヘナが潜入工作員をトリニティへ送り込んでいるのは常識だよ。無論その逆も」
不穏な空気を感じる。アルは顔が強張ったのを自覚した。なぜこちらの悩みの種を知っているのか。密約にも似た依頼を、カンナが話すはずがない。あの会議室にも、盗聴器を仕掛けていたのだろうか。
カヨコは警戒心をあらわにした。「……バット、見返りに何を請求するつもり?」
「鋭いな、カヨコ。俺はお前らを尋問する気でいたが、万魔殿からの指示で方針が変わった。客船で隠密にミサイルを処理した腕前を評価して、ゲヘナのためにトリニティでスパイ活動をしてもらいたい」
「よりにもよって風紀委員会に素直に従う義理なんてない」
「もちろん、そうだ。しかしお前らは我々を頼らざるを得ない」
アルも認めざるを得なかった。バットの提案は、まさしく渡りに船だ。学籍の偽造も話を聞く限り可能なのだろう。ただ一つの怪しい点は、これが万魔殿からの提案だということだ。
アルは用心深く尋ねた。「具体的な内容は何かしら?」
バットの岩のような顔に微笑が浮かんだ。「シュウが裏切り者とわかった。ならば関係者を芋づる式に洗ってやるのさ。イサミは俺たちでも骨の折れる相手だが、イサミのいないトロントは別だ。いったい何を隠しているのか、お前たちに探ってもらいたい」
懸念は拭い切れないが、アルはこの時点で引き受けることに決めていた。難関だったトリニティへの潜入を手助けしてくれるというのだ。もちろんこちらを利用するつもりだろうが、何を考えていようと、常に用心を決め込んでいれば問題はないだろう。こちらもせいぜい風紀委員会を利用してやればいい。
だが行動を始める前に、どうしても確認しておきたいことがある。アルはバットの目を見た。「あなたたちのやり方に乗せてもらう前に、一つ聞いておきたいわ。ラムのことはどう思っているの?」
「ラム?」バットは怪訝な声で聞き返した。「あの百鬼夜行の城主か。しかし、そう聞いてはいるが、あいつがどういう素性の女かは、お前らがよく知ってるんじゃないか?」
「それはどういう意味かしら」
「たしかにあいつは百鬼夜行の城主だが、あいつの詳しい事は我々もよく知らないんだ。調書に書かれているようなこと以外はな。やつを信用したけりゃ、そうするがいいさ。だが気をつけろよ。お前らはもう陰謀の一部に入っているんだからな。
それにトロントは過激派連中の集まりだ、怪しまれた途端に紅茶へ毒でも盛られかねない。背後には気をつけておけよ」