百鬼夜行自治区へ到着した頃には、すでに夜になっていた。
自治区のどこからでも、巨大な桜の神木が目に入る。百年や千年では届かない、途方もない樹齢を重ねているに違いない。百鬼夜行は面積の大半──およそ四分の三が豊かな緑に覆われている。日が落ちれば、森林の奥は完全な闇となる。明かりが灯るのは、木造家屋が立ち並ぶ街中だけだ。人の営みも、自然とそこへ集中する。祭りや催しが好きな校風のため、いつも賑わいを見せている。
提灯が鈴なりに吊り下げられた集落の路地には、一軒ごとに違った露店が展開する。どこも個人経営のようだ。汗をぬぐいながら鉄板で麺を焼くとなりでは、ひな壇のように並んだ景品を狙う射的に興じる人がいる。今が彼女たちにとって、一番の稼ぎ時なのだろう。
独自の文化が広がっているのは百鬼夜行だけではない。山海経やレッドウィンターなど、キヴォトス中心から遠く隔絶された自治区では、それぞれが固有の文化圏を形成している。中心都市から離れるということは、連邦生徒会の影響力も相応に弱まることを意味する。正式な生徒会が存在せず、それゆえ部活動の連合体という形態をとっているのも、都市から来た人間には馴染みない。
キヴォトス極東に位置する学院、トリニティと成り立ちが似ているものの、現在では内紛は起こってない。百花繚乱紛争調停委員会が設立されてから、連合という形を取るようになった。政治的中立を維持しているが、地政学上ゲヘナと結びつきやすい。エデン同盟へ呼ばれたのも、成り立ちの過程で培われたまとめ役の能力を期待されてのことだった。ところが……。
屋台を流し見しながら、ムツキがいった。「せっかく来たんだし、用事が済んだら遊んで帰ろうよ」
カヨコは歩を緩めずに返した。「ここで全て片付けばね。そうはならないと思うけど」
自治区へ到着してから、アルはずっと息巻いていた。「とんだ足労をかけられて、これじゃ割に合わないわよ。これまでの分もまとめて、一度しばき倒してやらなきゃ気が済まないわ」
油断なく周囲へ目を走らせる。人が多いだけ身を隠しやすいが、それは敵も同条件だ。地下道からの逃走に気づいたコガネが、内偵を配置しないとも限らない。家屋の隙間や人混みに紛れて、常にこちらの動向を見張る目がないか警戒する。
ふと思い出したように、ムツキが尋ねてきた。「そういえばカヨコちゃんは、まだお尋ね者のままだっけ?」
「いや」カヨコは否定した。「あとで手配は棄却されたよ。もう何ヶ月も前のことだし、誰も覚えてないはず」
便利屋は以前にも百鬼夜行へ来ていた。苦い思い出がよみがえる。無罪の証明なんて、ましてや単独での企業相手の抗争など二度と御免だ。
アルとカヨコが集団を先導している。ムツキは歩を緩め、先頭の二人と二歩距離を置くと、小声で話しかけた。「コガネちゃんのお城は見に行ったことある?どんなところかワクワクするよね」
シュウは控えめな声で毒づいた。「ムツキさんは気楽そうで羨ましいですよ。私は対策班に立候補しただけなのに、どうしてこんなことに付き合わなきゃならないんですか」
「対策班は何も見なくて良い仕事だっけ?」
シュウは仕方なさそうに歩調を合わせた。
賑わいを抜けた。空き家はどこも閉め切っている。使われてないか、家主は外出しているかだ。ここからは迅速に行動しなければならない。見通しのよい路地を避けたり、大きく迂回せざるを得ない道では、逆に瓦屋根へ登って大幅な短縮をした。やがて木造家屋の屋根に苔が生え、外壁が風化してくると、人と野生の境界線があいまいに溶け合うようになり、大地をすっかり占領してしまったように群生する林へ向けて、周囲の目を気にせずに移動できるようになった。
天蓋のような枝葉から漏れる月明かりを頼りに、木の根に足を取られぬよう大げさにまたぐようにして歩いていた。木々をそよがすそよとの風、静かに流れる川の水の音、さらにときおり闖入者の接近を知らせる鳴子みたく、コオロギや鈴虫がしつこく羽をこする。しかし広い敷地を少人数で警護するには限界がある。そう踏んで、カヨコは大して気にすることもなく、雑木林をかきわける。林郡が途絶える寸前で止まると、ホルスターから拳銃を抜いて、弾数を確認して準備完了。百鬼夜行へ来る途中で、弾の補給は済ませておいた。アルに目で問いかける。彼女も狙撃銃を持ち直して、準備を終えたようだ。後続の三人へ振り返ると、ムツキは万全という親指を上に立てる仕草をした。カヨコは意を決して、城全体を手早く観察するため、遮るもののない林の外へと踏み出した。
五人は爆弾をくらわないようまとまらず、とっさに援護射撃ができる距離感を保ちながら、木が一本も生えない平原に入った。目先には黒と金の天守閣が鎮座し、御影石がすきまなく積み上がった石垣が築かれて、城砦を守るように囲んでいる。すぐ裏には城よりも遥かに大きく、台形を上から潰したような火山ものぞめる。コガネの城は火山の麓に位置していた。活動していない古期火山だから、噴火による火砕流の心配もいらない。
異質なのは平原の至るところに放置された、大砲や
二メートルほどの高さの石垣に辿り着くと、難なくひょいと乗り越えて、用心深く石垣のへりから城と庭園を観察した。どこにも動きはない。怪しい者がいないか探す役割を負った警備員の姿も見えない。敷地全体は静かに寝静まっている。やぶや木立ちの茂みは手がいき届いていて、盆栽をそのまま大きくしたような松の木の葉は、きれいな曲線で切り揃えられている。膝丈ほどの丸石で区分けされ、円形の池が松の木から歩道を挟んだ向こうに見える。白い月明かりを水面に映し、アメンボが水をかくたび放射状に波が広がっていた。御影石で組まれた城の土台の足元には、砂利の敷き詰められた枯山水があった。これも見事なほど均一にならされており、庭師の誰かが熊手で描いたらしい円環模様のくぼみが薄らと確認できる。どの草も木も素朴ながら、どこか力強さを見る者に感じさせる佇まいをしている。牙城の主人にそっくりだ。
石垣を忍び降りて、内側の影に隠れながら侵入できそうな入り口を探る。できる限り早く忍び込まなければ、連邦生徒会による航空攻撃が始まってしまう。すでに戦闘機がJDAM誘導爆弾を搭載して基地を離陸したという情報が入った。民主主義を掲げる連邦生徒会は、攻撃までに面倒なこまごまとした手続きを踏まねばならない。時間は稼げたが、それでもカヨコたちはほんの少し先回りできたに過ぎない。
目の前には、天にそびえる巨人のような黒と金の山がそそりたち、はしのしぼむ曲線を描く各層の屋根は、まるで星空を背にした巨大なこうもりの翼みたいだった。話できくよりずっと大きく見えたし、土台の御影石の石垣も堅固なものだった。どうやって侵入する?近くにある正面の大手門からは論外だ。こういう城は決まって、裏手に逃走用の低い別の出口がある。全員が庭園へ降り立つと、カヨコはひとまず裏手を目指すことにした。どこから攻撃が飛んでくるか分からない。いきなり黄と青の銃火を浴びることになるかもしれない。天守閣の端についた金の角飾りが、月光を反射してきらりと光りながら、隠された入口を探ろうと足元へ忍び寄る便利屋たちをじっと見下ろしている。
裏手へ回ると、伝統の通りコガネの城にも、はね橋の下の堀の内側に隠し扉があった。この堀だけ水で満たされてないのは、非常時を想定してのことだろう。橋の下の扉はひどく錆びついていたが、比較的新しい南京錠が取り付けてある。ムツキを呼び、暗がりのなかで錠を手で探る。ムツキはこちらへ頷いた。突破できるという。ポケットからややこしく折れ曲がった針金を何本かとりだし、跪いて作業へ取り掛かった。明かりはいりますかと、シュウが尋ねたが、指先の感覚を頼りに進める作業なら必要ない。指先の器用さにかけては、ムツキは便利屋でも頭抜けている。そう思っているうちに、もうパチンという音がした。静かに南京錠を取り外すと、ムツキが得意げな笑みを浮かべた。カヨコも微笑を返し、扉を内側へゆっくりと開く。
中は真っ暗だ。懐中電灯を取り出し、もう一押し扉を開き、内部をざっと灯してみる。用心して正解だった。入ってすぐの足元に、鉄の牙が生えた口をぱっくり開けた罠が待ち構えていたのだ。カヨコは、鋭いのこぎりみたいな牙がガシャンという音をたてて、膝下へくらいついたときを想像して、思わず顔をしかめた。他にもこんな罠があるかもしれない。神経を集中させて──それでいて先を急がねばならない。
罠を避けて回り、カヨコは内側へと入った。罠を照らし、アルたちがうっかり噛みつかれないように指し示す。誰もが不快そうな表情を浮かべて、第一の罠を見下ろしながら避けた。周りは暗いばかりでなにもない。地下の巨大な穴蔵に過ぎなかった。昔は食料や何かの保管庫として使用されていたのだろう。
頭上で何かがきらめき、二つほど小さいものが飛び過ぎた。キーキーという鳴き声から、こうもりだとわかる。おびただしい数のこうもりが地下の天井付近に巣食っていた。アルが悲鳴を上げかけたが、必死に口を両手で押さえて、叫びたいという本能を押し殺す。下の石床を見て進むと良いと、カヨコはアルへ伝えた。いきなり押しかけて驚かせてしまったが、こうもりは本来臆病だから、数人で身を寄せあう人間の血をわざわざ吸いに群がってなどこない。
用心深く進むと、突き当りの扉へと達した。錠はついてない。把手を静かに引くと、左右の壁と頭上のアーチ造が狭まったような空間へ繋がった。上へ登るための石段だ。二十段も登ると、また新しい扉。カヨコがそっと押したが、ガタガタというばかりで開かない。ムツキへ交代して、扉を探ってもらう。わずかに開いた隙間から、内側で木製の回転止めがかかっているらしい。針金より頑丈な細い金属のロッドを取り出すと、扉と石の枠の隙間で木材を少しずつ押し上げていく。すぐに丁番の嫌な軋みをたてて、扉がゆっくりと開いた。懐中電灯で先を照らす。一本道の通路の先に、もっと近代的な扉があった。用心深く近づいて把手を捻って見ると、そちらに鍵はかかってなかった!開けてみると、そこは石造りの登りの螺旋階段になっていた。見上げるともう一つ新式の扉があり、しかも扉と枠の裾から細い光の筋が漏れている。
五人は足音を殺して、階段を登り切った。新式扉へ耳をぴったり張り付ける。何の音もしない。次いで少し開き、中の様子を伺う。人がいる気配もなかった。城内でも、ここは無人だ。中へ入ってみると、そこは大きな両開きの正面口からつながる大広間だった。左手の入口にランプが灯っており、右手の奥には何の光もなく、内壁を伝う上階への階段だけが薄らと見える。単純な作りの飾り気のない空間で、天井は縦横にめぐった梁が、壁と同じ竹材で組まれているだけだった。
とうとう日常的に使用されている、院の奥まで辿り着いたのだ。コガネはどこにいるだろう?城主なら、やはり上階だろうか。外から観察しても、そして今この大広間を見てみても、上階から抜け出す秘密の抜け道はなさそうだった。階段を伝って天守閣を目指せば、必ずどこかでコガネのいる部屋が見つかるはずだ。
そろそろと二階へ上がると、そこは客室が並ぶ廊下だった。城を訪れた客へ応対をするのだろう。見慣れない薄い紙一枚で作られた襖の扉を横へ開くと、箱型の居間が広がっていた。電気は灯ってなかったが懐中電灯の光は、壁に飾られた大太刀や薙刀の刃で照り返す。畳が整然と敷き詰められ、奥にはトレーシングペーパーを木枠へ張り付けたみたいな障子が月明かりを透過して室内へ取り込んでいる。百鬼夜行の建物はどんな立場の者でもそうだが、自然との仕切りをできるだけ薄くしようとする。椅子はなく、座るなら平べたい座布団を尻に敷いて、正座かあぐらをかく。文化的な面だけ見れば、素朴ながらすばらしい内装だった。
五人で手分けして回ったが、二階にも人はいない。三階も同様だった。カヨコは内心、すでに逃げられたのではないかと心配し始めていた。城はとっくにもぬけの殻で、コガネは大事な遺産だけを持って、どこか遠くへ避難しているかもしれない。そんな不安がよぎる。四階への階段を回って登ったとき、左側のわずかに開いた襖から光が廊下へこぼれているのを見て、カヨコはほっとしたと同時に心臓が跳ね上がった。薄い扉の中から話し声が聞こえるのだ!
全員が武器を持ったまま、襖へ忍び寄った。カヨコは静かに、力をこめて、襖を開け放つと中へ飛び込んだ。姿勢を低くして、銃口の狙いを部屋の中へはしらせる。
誰もいない。電灯のついただけの部屋が、芝居がかった彼女の飛び込みを大あくびで迎える。空間は無人だが、いくらかの機材が残されていて、電源はついたままだ。どこかへ隠れたか?そんな場所はないはずだ。話し声だと思ったのは、くるぶしくらいの高さの机に放置されたパソコンからだった。
畳へ上がり、そろそろと近づいてみる。画面に映ったのは、鏡写しの自分の姿だった。背後に控えるアルたちも画面に表示されている。内側のカメラで捉えた映像が流れる仕組みだ。
音質は悪いが、ぶつ切りのなかでも言語らしきものが聞き取れた。「会場が火に包まれ……凄惨な状況に……両学園の交戦が……非常事態の宣言……」
何を伝えているのか、カヨコは理解した。シュウへ振り返ると、固い顔で彼女もうなずいた。エデン条約事件での、クロノススクールの報道が録音されたものだ。音質が不鮮明なのは、マイクが周囲の銃声や爆発音まで拾ってしまっているからだ。ラジオに流れるエデン条約事件の報道を、カヨコら便利屋も耳にしていた。
はっと注意を喚起される。開放された襖の向こう──すなわち自分たちの背後、真っ暗な廊下を注視した。黒々とした人影が映り込んでいる。身の屈め方からして自動小銃を構えているとわかる。銃口は明らかにこちらを狙っていた。
視界に捉えた姿を脳が分析するより早く、カヨコは畳を蹴って後ろへ振り向いた。突っ立ったままのハルカとムツキの中間へ、反射的でありながら正確に狙いをつける。
一秒も経たぬうちに、カヨコはトリガーを引き絞った。教書で示されるような構えを取る暇などない。小さな銃火がひらめいた瞬間、敵が大きくのけぞったのがわかった。向こうも銃撃する寸前だったらしく、引きつった指が勝手にトリガーを引いて、弾丸がねずみ花火みたく壁や天井へ飛び散った。
突然の銃撃音にもひるまず、四人は武器を抜きつつ手近な柱や角の陰に避難した。階段の向こう、手すりの奥から新たな人影が飛び出し、銃火を激しく点滅させる。木造部屋の襖や柱にぶすぶすと穴が開き、木片が散乱した。こんなに城内を荒らして、城主が怒らないのだろうか。
ハルカは素早く廊下へ駆け出した。散弾銃を逆手に持ち、静と動のリズムで走り、狙いを翻弄する。銃火を頼りに距離をつめると、散弾銃を水平に振り抜いた。ガシャンと何かが割れる音がして、敵影は廊下へばったりと倒れる。
階層の襖が次々に開け放たれ、待ち伏せしていた敵は狙いをつけるよりも先に威嚇射撃をしてくる。紙の襖など遮蔽になるはずもないが、姿を隠すくらいの役には立つ。しかし手当たり次第に銃弾をばらまかれる戦法が相手では、敵の出現を察知したと同時に撃たねばならない。
城の外から、花火が激しく燃えるような音が立て続けに起こった。障子の外から、月光よりもずっとまばゆい光が垂直に高々と登る。なんと照明弾だった。室内が真昼のように照らし出された。外に繰り出した警備員の仕業だろうか。
明るくなった瞬間、右の襖が勢いよく破れて、白い戦闘服を着た敵が迫っていることに、カヨコは気づいた。サイレンサー付きの長い銃身の内側へ入り込まれた。すぐさま右脚で蹴り上げると、跳ね上がった膝がガスマスクを被った顎に命中する。がくんとのけぞった戦闘服の胸元を掴み、背負い投げを放つ。畳では衝撃が逃げると踏み、木製の廊下へと投げ飛ばした。ぶつかった衝撃で落下防止の手すりが折れて、敵は階段下へ落下して姿が見えなくなった。
襲撃犯の正体を見ても、もはや驚きなど湧いてこない。白い戦闘服にガスマスク、NASSの兵士だった。城が空爆されると知りながら、司令官への忠誠だけで待ち伏せしていたというのか。
通気性のよくなった城の外から、新たな銃声を聞きつけた。廊下を駆け抜け、障子もろとも外れた窓からテラスへ出た。地上の大手門辺りで、別の銃撃戦が展開されている。戦場はちょうど城の影に覆われており、ここからでは敵味方の判別がつかない。石垣と城内から撃ち合い、時たま手榴弾を投げ込んだりしている。
カヨコはテラスから離れると、間近でハルカへ盾を向けていた敵兵へ、横から蹴りをかました。敵がうっと唸り、盾を取り落とすと、ハルカが銃口を向けて追撃した。至近距離での発砲を浴びた敵は背後へ吹き飛び、ぶつかった障子もろとも城外へ落下した。悲鳴が急速に下方へ遠ざかる。やがて地面へ叩きつけられた音が響いた。銃撃の音にどよめきが混じる。
カヨコはハルカへいった。「天守閣へ上がろう」
ハルカが「はい」と応じた。まだ同階層で戦闘は継続していたが、いつ戦闘機が飛来するかわからない。
急いで木製の階段を駆け上がる。両開きの襖を横滑りに開け放ち、すかさず懐中電灯の光を照射する。カヨコは愕然とした。隣でハルカが息を呑む。下層で見てきた客室より少し広いだけの空間には、畳に正座する金髪の少女の後ろ姿があった。丸まった背に黄色い羽織をかけて、顔は高さの低いちゃぶ台に向いている。カヨコは銃口の狙いを後頭部へ定めた。
眼虎ラム──いや、獅原コガネ。マダム二世だかなんだか知らないが、全ての元凶であることに変わりない。NASSの指導者で、雷帝の遺産を強奪した張本人。
だがおかしい。コガネは何の反応もしめさず、じっとしたまま動かない。天守閣の障子を開いても、ライトで照らしても身じろぎ一つしない。階下での騒動があったにもかかわらず、嫌に落ち着き払った様子だった。
カヨコは静かに命じた。「手を挙げて」
反応はない。カヨコは狙いを外さぬまま背へ近寄り、肩に触れてみた。置物みたいな感触が手のひらへ伝わる。接近してようやく異常に気付いた。金髪だと思った髪は、それっぽく見せかけた藁だった。肩を押すと、抵抗もなく畳へ横倒しになった。羽織がめくれ、藁と材木の中身があらわになる。
唖然としながらハルカを見る。ハルカもぽかんとしていた。張りぼてだ。コガネ本人は城のどこにもいない。
カヨコは心のなかで悪態をつくと、階段を駆け下りた。すでに戦闘は決着していた。アルが床に倒れる一人を尋問している。
ぶつっと耳障りな音がした。NASSの携帯する無線機からイヤホンのコードが外れ、スピーカーの音声が機械的に指示する。「チームⅣ、レーダーが飛翔体を捕捉した。作戦行動を中断し、速やかに脱出せよ」
通信が切れた。戦闘機の接近を知らせる警告だ。まずい。カヨコは階段から地上へ降りるよう、全員へ伝えようとした。
するとムツキが壁の一点を指さした。「あれを使ったら?」
人差し指のしめす先には、壁に設置された火災警報器があった。ちょうどテラスの隣に設けられている。ムツキが駆け寄って蓋を開くと、まとめて巻かれた消化用ホースが取り出された。
迷っている時間はない。ホースがはたして五人分の体重に耐えられるかとか、正面で今も継続している銃撃戦のなかへ飛び込むことにならないかとか、不安はつきないが一秒たりとも無駄にはできない。カヨコはホースを受け取ると、テラスの手すりの外へまとまりのまま投げ出した。まだ伸びきらぬうちにホースを引っ張り、ぶら下がる途中で警報機から外れないか確認を済ますと、手すりを軽々と乗り越えた。手からホースが離れないように握りしめ、懸垂降下を始めた。
四階とはいえ、さすがのカヨコも身震いする高さだった。手すりを乗り越える前に下を見ていたら、足がすくんでしまうかもしれない。唯一の救いは七か八メートルごとに、せりだした屋根があることだった。まずいと思ったら飛び移ればいい。逃げ道があるだけでも、心理的な安心感は段違いだ。
三階を通り過ぎたとき、耳元を弾丸がひゅんとかすめた。手を止めて、石垣のほうを見る。銃火が明滅を繰り返し、背後の障子や外壁へめり込む。片手をホースへ絡ませ、カヨコは空いた手で拳銃を握り、自分を狙ってきた影へ向けてトリガーを引いた。三発で仕留めた。二発を身体、最後の一発は頭部へ命中した。人影が地面へくずおれる。
二階の屋根へ到達すると、カヨコは屋根へ飛び移った。傾斜のついた瓦屋根は足元が不安定だが、この高さまで来れば落下死は防げる。懐に隠していた手榴弾を取り出すと、安全ピンを抜いた。屋根の端へ近づき、縁を掴んで城の入口をのぞきこむと、手榴弾をそこへ投げ込んだ。
足元で爆発音が轟き、城全体を揺さぶる。カヨコはもう一度ホースを掴んだが、ほとんど落下も同然の速度で地上へ降りた。背後の入口を振り返ると、両開きの門は外れて倒れていた。
銃声はもう聞こえなくなった。全員が地上へ降りたのを確認すると、城から距離を置くべく駆け出した。正面の門へ向かう途中、地面に転がった者たちの横を通り過ぎた。シンプルなジェットヘルメットに、動きやすく改良した白い制服を着ている。
連邦生徒会だ。やはり彼女たちも遺産を利用しようと目論んでいたのだろうか。空爆の前に、突入部隊へ城を調査させようとしたが、反撃に遭い全滅したらしい。
応答を願う、身に着けた無線機から虚しい呼びかけが繰り返されている。航空攻撃の前に、彼女たちの安全が確保できるのを待っているのだろうか。だとすれば永遠にその時は来ない。部隊の全滅を確信した場合、司令官がどんな判断を下すか、カヨコは容易に想像がついた。
はるか遠方から、さながら風に運ばれる悲鳴のような、ジェット機特有の金属的な爆音が聞こえてきた。五人は互いに顔を見合わせた。
「森林に逃れよう」カヨコは横へ逸れるよう、五人に向けて大声で叫んだ。「平原だと上から目立つ。見つかったら……」
続く言葉はかき消されてしまった。
超音速機の生む衝撃波が、早くも襲来したのだ。空気を揺るがし、耳を聾するような轟音が、星々のまたたく夜に展開される恐ろしい惨劇の前触れを知らせてきた。
最初に現れた戦闘機は何か攻撃を加えたりするわけでもなく、城の横を舐めるようにして五人の右手に進入してきた。空を切るとは、まさにこのことだろう。翼端で切り裂かれ、短く二分された大気が白い糸を引く。空色の投げ矢のような二機は甲高い爆音を残し、一人の人間に操られているみたいに機首を傾けると、あっというまに小さな点となって火山のほうへ飛び去った。
もう一刻の猶予もない。アルが声を張り上げた。「皆、走って!」
それを合図にして、五人は敏捷に駆け出した。大手門を抜け、左の石垣に沿って影の中を走り抜ける。影から林までの距離は二十メートルくらい離れていたが、何もない平原へ身を晒すのは数秒で済んだ。次々に木立ちへ飛び込むと、草木をかきわけて強引に突き進む。自然の中を突き進む。
先ほどの二機は、偵察の役割を担っていたのだろう。攻撃目標の座標などを仲間の飛行中隊へと知らせる。もたらされたデータを基にして、すでに攻撃命令を受けたパイロットたちが攻撃に移る。JDAM誘導爆弾を搭載しているからには、急降下爆撃ではなく、自由落下爆撃のはずだ。誘導装置が爆弾尾翼の制御翼をコントロールして、設定された座標へ高い精度で着弾する。
城からどれだけ離れたか、誰も確認しようとはしなかった。火山の麓でかなりの距離を移動した、そう確信できてからカヨコは初めて城の方角を見た。
戦闘の到来を告げる低い爆音が聞こえてきた。始まった。緑の天蓋の隙間から戦闘機の姿を探そうとしたとき、アルが頭上を見回すさまが視界に入った。
木々のあいだから、今は背景のように小さくなった城を眺めた時、はるか上方で二機編成の翼下から、米粒みたいな爆弾が切り離された瞬間がはっきりと見えた。ミサイルのように推進剤を燃やしたりせず、重力に身を任せて静かに──脅威的な速度で落下してくる。爆弾は全て天守閣へ命中し、先ほどまでカヨコたちがいた空間を破って爆発した。外壁を破壊して黒煙とオレンジ色の炎が膨れたと思うと、地軸を揺るがすようなずしんという轟音が耳を打った。天守閣が最初に崩れ、次の階層へ。コガネの牙城が、いともたやすくぐしゃぐしゃと崩れていく。雷鳴のような爆発音がこだまするなか、噴き上げた黒煙を通して、崩落した御影石の土台から巨大な真紅の炎が凄まじい勢いで噴出してくる様が五人の目に映った。
思わぬことに特等席で一部始終を見ることとなったカヨコたちは、この完膚なきまでの破壊劇から一瞬たりとも目が離せなかった。釘付けにされたように、食い入るように眺める。
そのとき再び頭上から戦闘機の唸りが響き渡り、新たな爆弾が投下された。爆弾は一瞬空中へ留まっているように見えたが、機体が見えなくなるにつれ、定規で引いたような一直線の軌道で落下し、炎と煙の中に姿を消した。数秒後にそれらは炸裂し、二度続けざまにこの世ならぬ大音響をあげ、火山が噴火したような轟音が響き渡った。黒煙が巨大な火柱へ変わり、みるみる大きくなると同時に、色もオレンジから白、白から真紅へと目まぐるしく変化していった。
火柱はますます膨れ上がり、こちらの顔を熱気が焦がした。炎の手がこちらまで伸びてくると、身体や木々へとまとわりつく。突然、よじれた竜巻のような上昇気流が襲い掛かった。五人はとっさに地面へ伏せた。
熱気が遠ざかった。戦闘機の鳴き声も遠くから小さく届くばかりになり、カヨコはおずおずと顔を上げた。
数分前まで城があった場所に残るのは、かつては威容を放った構造物の奇怪な残骸だった。絶えず黒煙がたち登り、風に流される。ときどきパッと炎がはじけて、木材や周辺の木々に燃え広がっている炎と混ざり合う。しかしパチパチと爆ぜるような音を除いて、戦場ヶ原はもう何の物音も聞こえない。破壊のもたらした焦げた異臭ばかりが鼻につく。
「……すごかったわ」アルがぽつりと言葉をこぼす。その一声でカヨコは、ようやく聴力が回復したことに気づいた。
今しがた目撃した攻撃のすさまじさに、軽いめまいを覚えつつ、カヨコは百鬼夜行の人気のある街中へ取って返そうとした。踵を返した時、カヨコは誰よりも早く事態の異常さに気がついた。だが銃口を上げかけた右手は、それ以上動かすことができなかった。
三歩の距離を置いたところから、大口径の拳銃がカヨコの顔面へ正確に狙いをつけていた。
ムツキとハルカは地面へうつぶせに倒れていた。争った形跡がないことから、不意打ちで即座に気絶させられたとわかる。シュウは申し訳なさそうな顔のまま、力なく降伏の挙手をしている。後ろからおびただしい数のNASS兵が扇型に展開し、全員の銃口がこちらへ向けられている。
アルも凍りついたように身動きができなくなっていた。喉元に鋭い刃を向けられ、少しでも動けば喉元が容赦なく切り裂かれることになる。横から水平に刀を這わせるのは、着崩したアリウスのミリタリーパーカーを羽織り面頬をつけた人物、豹藤ギルだった。
ガスマスクを被った敵が拳銃でうながすと、カヨコはゆっくりと両手を上に挙げた。万事休すだ。この状況から一人で逆転できると思うほど、うぬぼれてはいない。カヨコの目は正面へ向けられた。
目の前の人物はマスクを外すと、首を短く横へ振った。短い黒髪が揺れる。にやりと擦過傷のついた口元を歪めつつ、カヨコの目を真正面から覗き込むと、荒切バットがいった。「残念だったな、便利屋68。これでお前たちも一貫の終わりだ」