カヨコの胸中には、果てしない緊張がずっと巣食っている。時間の感覚はとうになくなっていた。どれだけの時間が経ったか、時計もない地下牢で知る術はない。
剥き出しのコンクリート壁に囲まれた空洞は、通路が通る面だけ鉄格子となっている。天井に埋め込まれた電球だけが、牢屋内を照らしている。軍紀に反した行動をとった兵士が入る部屋なのだろう。格子の内側は何もなく、ただ息が詰まりそうなほどの圧迫感が支配する。
アルがトロッコでどこかへ連行されてから、カヨコたちも後を追うように別のトロッコへと乗せられた。ただし再開は叶わず、連れてこられたのは地下牢だった。バットはここへカヨコとシュウが入るのを見届け、それから意識が戻らないムツキとハルカを床へ横たえると、厳重に鍵を閉じていった。武器がなければどうにもならないと思われたのか、牢屋へ着いた時点で手枷は外されていた。あれから何度か試したが、かなりややこしくごつい錠で、素手では開けられそうにない。
ここへ来る途中、広大なドームの隅を通ったとき、中央にミサイルらしき物体が配備されているのを見た。ちょうど真上に天蓋があったため、どこかへ運ばれたりせず、あの場から発射されるのだろう。大きさから見積もる限り、おそらく弾道ミサイルだ。同乗していたバットによれば、弾頭に衛星兵器を積んでるらしい。遺産とも関係あるかもしれない。
アルは無事だろうか。バットの言い草からして、コガネの下へ連れていかれたと見て間違いない。この絶望的な状況と相まって、不安だけが募っていく。最悪の事態が脳へよぎるたび、ネガティブな想像をしてしまう自分が嫌になる。
ムツキとハルカは監禁されてから、しばらく経った辺りで目を覚ました。最初こそ希望を持っていたムツキだったが、あまりにアルの合流が遅く、時折心配そうな色が浮かぶ。とはいえハルカとシュウの二人に比べれば、ずっと平静を保っていた。シュウは牢屋へ閉じ込められてから、しきりにカヨコへ不安をぶつけていた。このままじゃ終わりだとか、どうすれば逃げ出せるかとか、うわごとのように繰り返す。ハルカはもっとずっと深刻で、いつもの凶暴さが鳴りを潜めて、折りたたんだ膝を抱えたまま縮こまってしまっていた。この環境に完全に参っている、励まそうにも空虚な文句しか浮かばず、牢屋は沈んだ空気が支配している。
廊下に見張りはいなかった。NASSも人手不足か。これまでの戦闘で、便利屋が大勢倒しまくったからだろうか。もしくは監視する必要すらないと思われているのか。自分たちの武器は、目の前の廊下の古ぼけた机にまとめて置いてある。鉄格子から三メートルもないが、向こうまで届くような棒などない。反撃手段が目先にありながら、自分たちでは手に取ることもできない。拷問に等しい光景だった。
シュウがうろたえ気味にいった。「なんとかならないんですか。このままじゃ破滅です」
カヨコは首を振った。「いまの私たちにできることがある?ここから脱出できなきゃ、わめいたところでどうにもならない」
「鍵は本当に突破できないんですか、ムツキさん。あなたが頼みの綱なんです」
「相手は針金一本じゃびくともしないような錠だよ?」悲痛な叫びを向けられたムツキは肩をすくめた。「今は待つしかないよ」
「待つ?何をですか」
通路から靴音が聞こえた。音に反応したムツキが振り向いた。「来たかな?」
駆ける音がますます迫り、廊下の奥から人影が飛び出した。シュウがあっと声をあげた。カヨコも目を見開いて、格子越しに相手の顔を見とめた。
扉に立つ人影は、アサルトライフルを俯角に構えていた。アサルトライフルの銃声を響かせ、錠を破壊するや扉を蹴り開けた。
カヨコは思わず声を発した。「サオリ!?」
サオリは自分で助けておきながら、牢屋にいた四人へ怪訝な顔を向けた。なぜここにいるんだといいたげな様子だったが、目的を思い出したようで、放置されていた武器類へ振り返った。手近な拳銃や機関銃を掴み、カヨコとムツキへ手渡してきた。
ムツキはサオリが来ることをわかっていたようだった。さっきドームを渡ったときに見かけたのか。ただちに銃を受け取ると、廊下へ繰り出して敵を警戒する。
シュウとハルカも慌てて立ち上がった。サオリに促されるまま廊下へ出て、自分の武器を取り返す。シュウは手短な礼をサオリへいった。ハルカは思い出の品を取り戻したみたく、散弾銃を抱きかかえた。
カヨコは何故サオリが、NASSの根城にいるのかわからなかった。正体がばれるといけないから、電送で命令を受け取っているのではなかったのか。カヨコは尋ねた。「どうしてサオリがここに?」
「NASSの全隊員が招集されたんだ。ここへ来るようにと」
そうなると今この地下基地には、NASSの軍団が集結していることになる。だが護送トロッコから見た限り、ドーム内には十人もいなかったはずだ。
「その全隊員って?」
「ああ、私も大人数だと決めつけてたが、やつらはとても軍団を名乗れるような数じゃない。隊員同士の接触を禁じて、細かいグループに分断していたのは、兵士が怖気づかないようにするためだ」
そういうわけだったか。やたらに事件を起こしていたのも、NASSを実態以上の大組織に見せかけるために過ぎない。ゲヘナのごろつきを兵士に迎えたとしても、せいぜい百人が限度だろう。それ以上学生が消えれば、風紀委員会に察知される可能性が高い。一人の捕虜も出さなかったから、兵員の使いまわしができていたはずが、客船での失敗で大勢の兵士を失った。物量作戦を取れなくなった都合から、それ以降の襲撃は小隊に頼らざるを得なかったのだ。
ムツキがいった。「それなら今が一掃するチャンスじゃないの?」
「基地のNASS兵士は、もう二十人ほどしかいない。それだけの人数なら、私とお前たちだけでも充分対処できるはずだ。そうだろう、便利屋68?」
気分が著しく高揚する。カヨコはグリップへマガジンを叩きこみ、スライドを後方へ引いた。「もちろんだよ、行こう。コガネの企みを止めなきゃいけない」
そう答えた直後、騒々しい靴音が一斉に響いてきた。廊下の奥にNASSの兵士が殺到し、アサルトライフルでこちらを狙う。ムツキが一歩先んじて振り向いた。機関銃の弾を奥へばらまくと、敵は廊下の角へ身を隠す。その隙にハルカが奥へ突進した。奥から重い発砲音が轟き、兵士たちの群れが吹き飛び散らされる。
カヨコは後を追って走り出した。拳銃を矢継ぎ早に撃つと、角から姿を見せた兵士が地面へ倒れ込む。
硝煙のもやが薄く幕を張る。累々と横たわる兵士の上を通り抜け、カヨコはドーム内へ飛び出した。ハルカがなぎ倒した兵士を含めて地面に倒れている敵数は十人、この地下基地でまだ半分以上が残っている。
注意を喚起された。ドームの中央、垂直にそそり立つミサイルの底から、排気が見て取れる。天井へ目をやると、天蓋が開口され、外には星々がのぞめる。カヨコのなかに悪寒が走った。燃料の注入が完了し、発射体勢に入っている。
拳銃で撃ったが、装甲板に跳弾の火花を散らすだけに終わった。異音に気づいた兵士があちこちで振り向き、遠くからアサルトライフルの掃射を向けてくる。ムツキとサオリが猛然と反撃した。距離が離れている分、そう弾など当たらない。ムツキは伏射の体勢で銃を固定し、一人ずつ着実に狙い撃った。トリガーを軽く引くたび、遠くで敵がぱたりと倒れる。
排気音の轟音が高まり、煙がドームの底へ急激に広がる。割れ気味のアナウンスが何事か告げた。巨大な機体が浮き上がろうとしている。
ミサイルを固定する発射台は、すでに切り離されていた。カヨコはミサイルへ近づこうとしたが、爆音と強烈に吹きつける熱風のせいで接近できない。機体下部のブースターが台座から浮き上がった。みるみるうちに上昇していく。サオリが仰角に狙って攻撃したが、ミサイルの飛行にはなんの危なげもなかった。客船を標的にした巡航ミサイルの時のように、レーダーを操作しても軌道を変えられそうにない。
ミサイルの機影は上から糸で引っ張られるように、天蓋を接触することなく通過した。噴射音が遠ざかる。カヨコは茫然と立ちすくんでいた。発射を許してしまった。ドームは灰一色の排煙が蔓延し、全く先が見通せなくなってしまった。焼けたゴムみたいな臭いが辺りを覆う。
静寂が支配する。先ほどの喧騒が嘘のように、銃声が一斉に止んでいた。拭い去ったはずの絶望が、再び足首を掴んだ。何もできなかった。雷帝の遺産が宇宙で自立すれば、コガネはその威力を全世界へ知らしめるだろう。後悔がなかにうずまく。もっと上手くやれたのではなかったのか。もっと早く牢屋から脱出できれば、指令室へ乗り込み、発射を阻止できたはずだ。ミサイルへ破壊工作を施すことだって可能だった。
指令室。カヨコはふと顔を上げた。煙幕の向こう、指令室では今もミサイルの軌道を追っているはずだ。衛星を宇宙まで運び、無事に軌道へ乗ったことを確認するまでは、向こうも安心できない。ミサイルは多段式だった。エンジンや衛星の切り離しには、何らかの操作が必要なはずだ。上手く切り離せなければ、他の機材に悪影響を与え、もしかすると空中分解まで追いやれる。
カヨコはいった。「指令室へいこう。衛星の起動を食い止めないと」
サオリは煙幕のなかへ駆けていった。「突入する。いくぞ」
アサルトライフルを構えると、サオリは煙の向こうへ消えた。銃声が鳴り響く。カヨコはただちに後を追った。行く手は下り坂だった。ミサイルがあった台座の近くへ駆けていく。
一寸先までも煙に巻かれ、足元の確認もままならない。それは敵も同条件だった。繰り返す銃声と銃火を頼りに位置を特定し、すかさず銃弾を叩きこむ。命中する前に仕留める。カヨコの頭にあるのはそれだけだった。
火薬のにおいが立ち込める。真上を仰ぎ見ると、天蓋が閉ざされていた。撃ち合いもまばらになりつつある。このまま視界が悪い状態を維持し、少しでも足止めする気だろうか。
いや、違う。咳がきこえる。背後に立つムツキとハルカがむせていた。煙の向こうでも敵が喉を押さえ、両膝をついて倒れる者もいる。サオリも同様の反応を示し、すぐさま黒いマスクで口元を覆った。
カヨコも息苦しさに気づいた。逃げねばならないと脳が警鐘を鳴らすが、すぐに行動へ移せない。ぼうっとしたまま数秒が過ぎ、はっと我に返った。
「窒息する」サオリがいった。「急げ。指令室だけは換気されてるはずだ」
カヨコがムツキとハルカへ促す。ハルカが袖で口元を押さえながら、先陣を切って走り出した。まともな空気を吸わねば息が詰まる。排気煙を除去する換気口が止まっただけじゃ、こうはならないはずだ。二酸化炭素か何かが送り込まれているとしか考えられない。
カヨコはムツキに肩を貸した。ふとシュウがいない事に気づいた。濃煙のなかではぐれてしまったのか。サオリも不在に気づき、周りへ呼びかけた。「シュウ、どこだ!酸欠になるぞ」
心配したハルカが足を止め、こちらへ振り向こうとした。ところがその瞬間、日焼けした筋肉質な足が正面の煙から、ハルカの顎目掛けて蹴り上げてきた。ハルカは回避しきれず、剛脚を喰らって大きくのけぞった。
転倒した地面は剥き出しのコンクリートだった。激痛を受けながらも、ハルカは即座に跳ね起きる。サオリが足を止めた。カヨコとムツキも立ち止まらざるを得なかった。煙からのぞいた軍用ブーツが、手から離れた散弾銃を蹴る。地面を転がった散弾銃は、白煙のなかへ見えなくなった。
頭を振って、焦点を無理やり合わせる。敵が複数いることを警戒したが、立ち塞がっているのは一人だった。だがこの状況では、もっとも相対したくない人物だ。豹藤ギルが仁王立ちで睨みつけていた。
この脅威を排除しなければ、指令室へは向かえない。このままドーム内へ足止めされるのも好ましくない。現にこうしている今も酸素が薄くなり、失神の可能性が刻一刻と迫っている。全滅の危機に瀕しているときに、まともに相手などできない。
ギルはじっと動かず、鋭い眼光を向けていた。面頬にガスマスクのような仕掛けでもあるのだろうか。睨み合いに時間など費やせない。カヨコは拳銃を向けようとした。最悪動きを止められれば、その隙に指令室へ逃れられる。
ところが何者かにフードを掴まれ、後方へ引っ張られると、いきなり背負い投げを仕掛けられた。天井が回転するや、カヨコは正面から地面へ叩きつけられた。衝撃で拳銃を手放してしまうが、痛む体に鞭打って、なんとか仰向けに転がる。
投げ飛ばしたのは龍ヶ崎シュウだった。窒息を防ぐガスマスクを着けている。激痛が痺れに変わる前に強引に起き上がるや、シュウは素早いボディーブローを浴びせてきた。
奇襲に転じた同僚を見て、サオリは何秒か状況の把握が遅れた。ようやく飲み込めると、シュウの背へ銃口を向けようとしたが、すかさずギルが割り込んだ。サオリの胸倉をつかみ、そのまま頭突きを喰らわす。シュウはカヨコを集中的に狙いつつ、いきなり後ろ蹴りを放った。もろに受けたムツキの軽い体は後方へ飛んだ。
状況は最悪だった。誰もがふらつく足で、苦し気に呼吸しながら抵抗する。密閉された空間だけでも脅威だが、ギルは銃も持ち出さず、素手でハルカとサオリを蹂躙していた。助太刀に入ろうにも、シュウの猛攻がそれを許さない。目がかすむ。カヨコは限界が近いことを自覚した。体格の小さなムツキに至っては、すでに自力で立ち上がれなくなっている。
カヨコは腕で顔を死守しながらいった。「どうかしてるよ、シュウ。百鬼夜行に染まりすぎたんじゃないの」
シュウは耳に入ってないかのように無視した。カヨコはとにかく、シュウへ反撃できる隙を待った。やがて攻撃が止み、カヨコが飛び掛かろうとした瞬間、シュウは一気に体を沈め、低い姿勢で足掛けを喰らわす。カヨコは反応しきれず、意志に反して体が宙を舞った後、背を硬い地面に叩きつけた。思わず咳き込み、おかしなむせ方をする。勢いで後頭部を打った震動が、普段よりも長く持続する。光のない目が見下ろしてきた。
急いで起き上がろうとしたものの、それより早くシュウがカヨコを掴み上げると、茫然とするカヨコの腹に勢いよく膝蹴りを喰らわせた。一発で息が詰まる威力だった。口の中に嫌な酸味と、血の味が広がる。カヨコは両手で拳を作り、シュウの脇腹に殴りかかったが、まるで力が入らない。全身の神経がわずかに麻痺し始めた。再び膝蹴りがみぞおち深く入り、相手へもたれかかるように体が勝手に傾く。もう戦闘でも何でもない、一方的な暴力だった。
揺れる視界の端でも、もう一つの抵抗劇が繰り広げられていた。ギルは左右の凶悪な拳を次々に放ち、まだ体が頑丈なハルカを打ちのめす。背後からサオリが腕を首に絡ませ、絞め技をかけようとするが、ギルの背負い投げで握力の入らない腕が引きはがされる。仰向けに倒れたサオリの顔面へ、ギルが垂直に拳を叩きこもうとしたが、とっさに横へ転がると手は地面を強打した。震動がここまで伝わり、コンクリートへめり込んだギルの拳は、少しも傷つかず赤くなってない。ギルは持ち直すと、逃れたサオリをなおも執拗に責め立てる。
目にできたのは、そこまでだった。シュウに突き飛ばされ、カヨコは天井を見上げながら背中から倒された。身じろぎ一つ取れずにいると、シュウが馬乗りになり、両手で首を絞めてきた。全体重と力のかかった容赦のない圧迫だった。気管がつぶれる。両腕に抵抗のための力すら入らなくなり、両脇に投げ出されるだけになった。ただ呻くことしかできない。手を汚すことを何とも思ってなさそうな、シュウの顔が歪んで見える。涙が勝手ににじみ出てきた。意識を繋ぎ止めるのも限界だった。気を失ったが最後、永遠の暗黒の淵へ突き落とされる。分かっていてもどうにもできない。恐怖が全身を包み込んだ。
不意に硬いものを強打したような鈍い音が耳に入った。カヨコはびくっとしたが、次には喉にかかっていたシュウの両手が離れた。
頭部を殴打されたシュウは、敵愾心をむき出しにした表情で振り向いた。だが姿を見とめた途端、凍りついたようにすくみあがる。何らかの行動を起こすより早く、爆発のような発砲音があがった。馬乗りになっていたシュウは喘鳴を発し、カヨコの眼前を越えて遠くへ弾け飛んだ。
カヨコは衝撃を受けた。長身瘦躯を青いマントと白の戦闘服に包んだ人物が立っていた。左へ流した白髪、一本筋の通った青いメッシュ。常に冷静沈着な顔。青銅色の瞳は少しの感情も映さない。
氷野イサミは吹き飛んだシュウを眺めていた。やはりガスマスクをして、密閉されたドームでも自由に動き回れるようにしている。
シュウがどうなったか、カヨコはわからなかった。イサミは紫の散弾銃──ハルカのブローアウェイだ──を右手に持ち、脇へ垂れ下げている。その手がぱっと跳ね上がると、再び銃声がドームへ反響した。シュウの短い唸りが聞こえ、地面へどさりと倒れる。それきり何も喋らなくなった。
カヨコが茫然としていると、イサミが歩み寄ってきて、口に何かを押し当てた。つかの間抵抗したが、すぐにそれが小型のガスマスクだと分かった。ようやく正常な呼吸へ戻り、少しずつ全身に生気が蘇ってくる。イサミは手を差し伸べた。カヨコは手を取った。体が引き起こされたが、まだ自力では立てず、イサミへ寄りかかる。
まだ味方かどうか確定してない以上、信頼してしまいたくなるのを堪えた。それでもカヨコは心の底から安堵した。助かった。
頭上からイサミがいった。「油断するな、まだ終わってない」
カヨコが顔を上げると、イサミは左手で武器を渡してきた。グリップを握った瞬間、馴染みのある感覚に気づく。カヨコの愛銃──デモンズロアだった。カヨコは周りへ目を走らせる。
ムツキもマスクを装着していて、ようやく意識が戻ったようだった。ハルカとサオリもマスクを受けとり、片膝をついたまま肩で息をしていた。煙が立ち込めるなか、大きな人影が至近距離で組み付いている。灰色の長髪を揺らすギルは、真正面から食いかかる人物にかかりきりだった。
応戦していたのは風紀委員会の三年生、腕力にものをいわせる黒髪の短髪だった。荒々しく削られた花崗岩のような顔立ちに、口元の擦過傷が勲章みたく刻まれている。
荒切バットはギルの動きを封じながらいった。「さっさと指令室へ行け!こいつは俺たちが引き受ける」
「おい待てバット」イサミが低い声で抗議した。「私まで巻き込むな。そいつの相手は貴様一人でしろ」
「つれないな。お互い騙し合ってたんだから、このくらい引き受けても罰は当たらないと思うがね」
「一人ずつ相手取る話だっただろう。私は自分のすべきことはこなした、そいつはお前の仕事だ」
「トリニティは融通が利かなくて困る」バットは肩をすくめ、カヨコを見た。「さっさと行け。ここはもうじき自爆する。大好きな社長を迎えにいってやれ」
「これは一体どういうことなの?」そう聞いたが、カヨコはすでに二人へ信頼のような情を抱きかけていた。
イサミが答えた。「詳しくは追って説明する。だが、まだ分からないか?コガネは最初から、お前たちを信頼せず利用する腹積もりだった。それでシュウを投入したんだ。お前たちは全員揃って、シュウを欠片ほども疑ってなかったから、何から何までつまびらかに話したな。龍ヶ崎シュウは最初から、コガネの忠実な部下だ。身内だけの対策班に、間違ってもサオリなどを送り込ませないよう、アリウス分校に取り入らせたんだ。やつこそ、真の裏切者だ」
カヨコはようやく酸素が渡ってきた脳で、必死に思考を巡らせた。客船、埠頭、百鬼夜行までの行程を反芻する。理解が及び、カヨコは歯噛みした。シュウは無害を装いながら、裏で情報をコガネへ流していたのだ。
バットが大声でいった。「ようやく気付いたなら、後悔する前に足を動かせ。もたもたしてるとこいつを押し付けてやるぞ」
拘束していたギルを放すと、バットは腹目掛けて思い切りタックルした。ギルは踏みとどまりきれず、足早に後退する。その先にはイサミが立っていた。小さく悪態をつき、横へ飛び退くと拳銃を取り出す。そのまま二人の背を追って、煙のなかへ消えていった。
カヨコは指令室へ向けて走り出した。ムツキ、ハルカ、サオリが後へ続く。行く手に角ばった構造が浮かび上がる。指令室は近い。敵も全力で死守してくるだろう。速度を落とすと、ハルカとサオリが追い抜いた。
側面の扉は開け放たれ、銃器を俯角に構えた兵士たちが陣形を組んでいた。十人それぞれの銃口が、突っ込んでく二人へ向けられる。だが固まっているなら、むしろ好都合だ。ムツキの掛け声に合わせ、ハルカとサオリが左右へ飛び退くと、振りかぶったボストンバッグが陣形へ投げ出された。兵士たちは驚きつつも、宙を舞って迫る黒いバッグを狙い、一斉掃射を浴びせた。バッグはたちまち蜂の巣にされるが、あれの中身を敵は知らない。細かい穴から火が噴き出た直後、手榴弾とは比較にならない大爆発がドーム全体を揺るがした。陣形は見る影もなく崩れさり、側面外壁が吹き飛ばされ、コンピュータや制御盤ひしめく室内があらわになった。
カヨコは拳銃を構え、粉塵が舞う部屋のなかへ駆けこんでいった。
指令室へ連行されてからというもの、アルの情緒は暴れるジェットコースターのごとく上下を繰り返していた。ミサイル発射を為すすべなく眺めて絶望し、煙の向こうから反撃に打って出た社員たちを見て希望を抱いた。その後コガネがギルへ全員の始末を命じ、シュウが寝返って、仲間が傷つけられる様をまざまざと見せつけられていた。自分と引き換えに仲間は見逃すよう懇願したが、コガネは全く聞き入れようとしなかった。秘密を喋れば助けてやる、その一点張りだった。アルにしてみれば、遠回しに死刑宣告を受けたようなものだった。本当のことを伝えたところで、聞き入れられるはずがない。
ところが奇跡が起きた。アルは眼前の光景が信じられなかった。コガネも同じく驚いた様子で、シュウを始末したイサミを眺めた。イサミとバットの裏切りが確定すると、コガネは踵を返して指令室を後にした。部屋の守りに兵士の大部分を当てて、衛兵二人にアルを引き連れさせた。アルは訳も分からず、コガネの後に続いて廊下へ出た。
コガネは迷いなく進み続け、アルも彼女がどこを目指しているか察した。扉をくぐり、入った区画はレールとトロッコが設けられた空間だった。アルがバットに連れられ、護送されてきたのと同じ部屋だった。コガネは一人トロッコへ乗り込み、着物の懐を探る。取り出されたのは、アルのワルサーPPKだった。三歩離れた距離に立つアルへ、油断なく狙いを定める。
その時、外で爆発の轟音が響き渡った。手榴弾よりも、はるかに威力のある爆弾だ。コガネは衛兵二人を迎撃に向かわせた。衛兵が部屋を出ると、空間にはアルとコガネだけが向かい合う。
コガネはいった。「ここまでやるとはな。一体どこまで厄介な連中なんだ」
アルは負けじといい返した。「あなたの企みもここまでよ。指令室へ辿り着けば、遺産が自立する前に接続を断てる。あなたの分身は軌道を周回するデブリと一緒になるわ」
「本当にそう思うか?」コガネは首に下げた十字架を左手でいじる。「これがある限り、あの遺産は私の手中にあるも同然だ。何度でも再起できる。だが君はここで終わりだ、すぐに誰の記憶からも忘れ去られる」
アルは口元を歪めてみせた。不思議と余裕が生じたのだ。「これでもゲヘナじゃ指名手配されている身よ。残す名に困ったことはないわ。常に部下任せで、こそこそ動きまわるあなたと違ってね」
「いい残すことはそれだけか。虚しい人生だったな。さらば、陸八魔アル」
コガネがトリガーを引き絞ろうとしている。アルは何とか打開策を巡らせた。黒い銃口が正確に顔面を狙っていて、さらに後ろで手錠をかけられている。万事休すの状況だが、いざとなれば身をよじってでも食らいつく覚悟だった。身体の重要な部分以外はかすり傷だ。幸い足は自立できるほどに力を取り戻している。あの金色だらけの顔面にも、死に物狂いで蹴りぐらいは当てられる。
銃声が轟いた。アルはびくっとしたが、まだ自分が撃たれたわけではない。体のどこも損傷はなかった。コガネが顔をしかめ、狙いのずれた右腕を押さえた。拳銃が地面へ落ちて、乾いた音をたてる。だがトロッコははずみで動き出し、そのままレールの奥へ流されていった。
アルは戸口へ向いた。倒れた衛兵の上に立つカヨコが、拳銃をこちらへ向けていた。サイレンサーの口から硝煙が立ち昇る。後からムツキとハルカも顔をのぞかせた。こちらを見たムツキは、自制心を失ったように飛び出し、感極まった様子でアルへ抱き着いた。ハルカも後から走り出し、ムツキにかぶさるように抱擁する。まだ現実かわからず、アルはカヨコを見た。ようやく銃撃の姿勢を解くと、安心したように顔を綻ばせる。それだけで現実だと、全てを察した。抱き合う仲間の体温で、緊張がほどけていく。
カヨコの横から姿を現したサオリは、指令室へ置き去りにされていたアルの狙撃銃を持っていた。すぐにアルの枷は外された。手首は擦り傷だらけになっていたが、指は問題なく動く。ワルサーを拾い上げ、武器を取り戻すと、これからのことがそれほど怖くは思えなくなってくる。
カヨコが指令室の方向を見た。「社長、先に遺産をなんとかしないと」
アルはうなずいた。「指令室へ戻るわよ。自爆でもなんでもいいから、とにかく利用だけはさせないようにしなくちゃいけないわ」
廊下へ出ると、兵士たちの体があちこちに横たわっていた。司令塔がいなくなったことで、満足な迎撃もできずにやられたのだろう。やはり元がゲヘナのごろつきではこんなものか。
指令室へ到着すると、ただちに制御盤へ目を落とす。ミサイルから送られてくる座標によれば、すでに高度は千八百メートルに達していた。ミサイルの動向を注視していた作業員の辺りへ隈なく目を通す。あったわ!ガラスの蓋がかかった赤いボタンの上に、『自爆』と書かれている。アルはなんら迷わず蓋を開け、ボタンを押し込んだ。
室内に警報が鳴り響き、備え付けられたスピーカーが空電を発した。