終点まではあと、どれくらいだろうか。
梅雨時期の杜若は監獄で揺らめくばかりだった。

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第1話

例年よりも長く続いた梅雨が、人間の気持ちまでを陰気臭くして町を包む。

そんなぼやけた空気に溶け込んでしまいそうな雰囲気とか、やわらかくてくもった声が好きだった。その儚さが好きだった。

だけど同じ時間を過ごせば過ごすほど。時計の針が何周も回るほど、目を離したら消えてしまいそうな、この手を離した瞬間にいなくなってしまうって。

何となくそんな感じがして、無性に胸がざわついて曇っていくのが分かった。

だから、「私も連れて行って」なんて、言ってみた。そしたらあの人ってば、一瞬すごく驚いて、それから下を俯いて、笑ったり、困ったりなんてするから。

受け入れちゃうんだ、とか。あぁ、多分もうここには帰ってこないかもとか。意外と他人事になったりした。

でも、何となくよかった。

別に、これがこの人を助ける方法なら、教えるなら、もう泣かないで済むなら、それ以外はもうどうだってよかった。

だけどいざここに立って、霧のかかったあなたの顔が思っていたよりもずっと、悲しく見えたから、そのぼんやりした輪郭をみるたびになぜだか涙があふれて仕方なかった。

やっと終わらせることができるってあんなに嬉しかったはずなのに。

もう少し後にしようだとか、もう少し生きてみようだとか、私が守るからだとか。そんなキザな言葉ばかりが浮かんでしまうことに自分で驚いていた。

それでも、終わりにできる。これで、きっと。

もう、逃げなくてもいい。

明日は何をしょう。何を食べよう。どこに行って、なんの夢を見よう。

そう思うのとは裏腹に、ずっと私は手が震えていた。汗がにじんで、脚も震えてきて。

心臓がはちきれそうでたまらなかった。逃げ出したい、ここからでさえ。死にたくない。

「行こっか。」

そんな自分の考えを飲み込むように自分で遮って、やっとの思いでひねり出した言葉。

だって、これが君の望んだことだったから。君が、決めたことだから。

そこに私の意志なんてものは関係ないし、私はそれを叶えるためだけにここにいる。

 

──────────。

 

一瞬なことのはずが、スローモーションみたいに遅く感じた。私は今、もうどうしようもない速度で墜ちているはずなのに。

でも、落ちているのなんて元からかも、なんて。

刹那、視界に映る君の顔が歪んでいるのが分かる。

そこにはもう、あの時の君はいなくて、子供みたいに怯える年相応な等身大の君がいた。

なんだ、ほんとは君だって怖かったんだ。

 

私ね。君に、嘘ついてたかも。

ほんとは、君だけ生き残んないかなって思ってた。どうにかして君のこと止められないか、助けられないかって、いろいろ考えたんだよ。

怖かった。君の手を離すのがどうしても怖くて、縋りたくなっちゃった。

一緒に逃げようって、その気持ちに嘘はないけど、これだけは、失敗しちゃえって思った。

バカみたいって、笑われるかなあ。

だって、どうしても君には死んでほしくなかったんだもん。生きてる方がずっと苦しくて地獄でも、君にこの痛みは味わってほしくない。

何もこんな苦しい死に方しなくたって、もっと、もっと楽に死んでほしい、苦しまなくても済むように。

こんなのは、一生味わわなくていい。

いっそ、私が殺せばよかったなんて考えがよぎったけど、それも違うって思ってやめた。

こんなことばかり考えているから、死んでも私=は君と同じところに行けないんだろうな。

天国に行けやしない、罪人だから。今頃、私のこと恨んでるかな。

そうだといいな。呪って、憎んでくれてるといいな。

多分これは、私が君に、君の手で終わらせてほしいって思っていただけ。

君の手で、私のことなんてすぐに殺せるのに。

恨まれて、憎まれて、嫌われて殺されれば。

そうすれば、一生一緒だったかもって。

君みたいないい人が、その感覚を忘れるはずはないから。私のことをずっと気に病んで、引きずってくれたりするだろうから。私っていう悪夢にうなされて、眠れない日が続いて。これじゃ、私が君のこと呪ってるみたいだね。

でも、罪人は私だけがいいな。君には、天国にいてほしいや。

地獄なんて、綺麗な君には似合わないよ。

 

サイレンの光が雨上がりのアスファルトを照らす。

身体がびりびりと連れて、視界が霞んでじわりとあたたかい液体が流れ出すのが何となくわかる。あたたかい、痛い、赤い。

視界はどんどんぼやけていって、意識が途切れていくのが分かる。

あの子の匂いがだんだん鉄の匂いに包まれていって、それを最後に、意識はぷつんっと真っ暗な夜に消えていった。

次に僕が目を覚ました時には、君はもうここにはいなかった。

病院の白すぎる天井は、死後の思い描いていた空っぽな空間とよく似ていた。

白昼夢でも見ているみたいだ。僕は生きていて、全身に管が刺されて、真っ白なこの監獄に閉じ込められたままなのに、君だけがいない。

意識がなくなる前の最後の記憶の君は、悲しそうな顔をして、僕の手を引いていた。

これでいいんだって、君は言っていた。

そんなはずがない。だってそれじゃあ、僕はここに、この地獄に取り残されたままじゃないか。僕はまた、僕だけがまた。

君は現世という監獄に僕を閉じ込めたまま、いなくなった。

君がいない現世は、地獄と何ら変わらない。

これが君の望んだ結末なのか?

状況は悪化しているばかりじゃないか。

世界は変わらず回って、僕はまた生きて、君だけが死んで。

どこからやり直せばいいのだろう。どこで、間違えたのだろうか。

君と出会ってから、それとも、僕が生まれてから?

雨は、ペトリコールと君の香りだけを残した。サイレンが耳を劈いた。

今はもう、薬品の匂いが染みついたこの檻でさえも、君の香りでいっぱいに感じる。

あの日の夢を毎日見る。

君がいる終点まで、あとどれくらいかかるだろうか。

僕はいつまでこうしていればいいのだろう。

もう少し、あともう少しここで、君の帰りを待つしかなくなってしまった。

この傷跡が、いつかふさがるその日まで。

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