数々の激戦をくぐり抜け、大切な仲間たちの最期を見送り、ついに自らも大往生を遂げたはずの伝説のパイロット、キラ・ヤマト。
しかし、次に彼が目を覚ましたのは、天国でも無の境地でもなく、見知らぬ部屋のベッドの上だった。
「……あれ……? 僕は、確かに死んだはずじゃ……」
身体を起こそうとして、激しい違和感に襲われる。
まず、視界に入る手が驚くほど白く、細い。 長年コックピットを握り、老境を迎えていたはずの自分の手ではない。
慌てて飛び起き、部屋の姿見に駆け寄ったキラは、鏡に映ったその姿に息を呑んだ。
そこにいたのは、燃えるような赤髪と、記憶の底に焼き付いて離れない、かつて自分が守れなかった少女の姿――。
「フレイ……!? どうして……そんな、まさか……っ!?」
喉から出た声は、間違いなく少女のものだった。
キラ・ヤマトの魂は、あの大戦の悲劇の象徴であり、自らの最初の恋人でもあったフレイ・アルスターとして、なぜか過去(あるいは並行世界)の目覚めを迎えてしまったのだ。
鏡に映るフレイ・アルスターの姿――その事実に激しい混乱を覚えながらも、数々の修羅場をくぐり抜けてきたキラの魂は、驚くほどの冷静さで次の行動へと移っていた。
まずは状況を把握しなければならない。
「……僕の知っている、あの地獄のような歴史と同じなのか?」
フレイの、まだ華奢で柔らかな指先をぎこちなく動かし、デスクの上に置かれた見慣れないデザインのノートパソコンを起動する。彼女の記憶が頭の片隅から自然と引き出され、パスワードは滑らかに入力できた。
画面に映し出された西暦、ニュースサイトのヘッドライン、そしてSNSのタイムライン。それらを猛烈な勢いでスクロールし、キラは情報を貪り食うように精査していった。
調べていくうちに、キラの眉間には深い皺が刻まれていく。
「……違う。何かが、僕の歴史と決定的に違っている……?」
画面に躍る世論は、彼が知る「人類同士の凄惨な殺し合い」とは、少し毛色が異なっていた。
確かに、遺伝子調整された「コーディネーター」と、非調整の「ナチュラル」の間の溝は深い。互いに対する偏見や、感情的な嫌悪感、差別意識はネットの至る所に溢れている。
しかし――決定的な一線を超えていなかった。
主要なニュースサイトの社説や、一般市民の書き込みの多くは、驚くほど冷めていた。
『いくらアイツらが気に入らないからって、本気で戦争するなんて馬鹿馬鹿しい。コストに見合わない』
『あんな怪物どもと握手する気はないが、物資の交易を止めてこっちの首を絞めるのは愚の骨頂だ』
プラントと地球連合。
この世界の両者は、互いを心底嫌い合いながらも、「戦争を起こすのはあまりにもコスパが悪く、双方にとって致命的な不利益にしかならない」という、極めて現実的で冷徹な損得勘定で繋がっていたのだ。
全面戦争に突入する代わりに、彼らは「必要最低限の交渉窓口」を中立地帯に設置し、冷え切った関係のまま、実利的な外交と貿易だけは淡々と続けていた。
「血のバレンタイン」のような、取り返しのつかない大惨事は起きていない。
地球が巨大レーザーに包まれることも、プラント核ミサイルが向けられることも、今のところなさそうだった。
「戦争に……なっていない?」
椅子の背もたれに身体を預け、フレイの身体を通して長い息を吐き出す。
張り詰めていた緊張が解け、一気に全身の力が抜けていくのを感じた。
「良かった……。あんな悲劇を、もう一度誰も経験しなくて済むんだ……」
ポロポロと、大粒の涙がフレイの瞳から零れ落ち、デスクのキーボードを濡らす。
かつて世界を背負い、戦い続け、仲間たちの死を看取ってきた老兵にとって、この「互いに嫌い合っているけれど、馬鹿馬鹿しいから戦争はしない」という冷淡な平和は、奇跡以外の何物でもなかった。
しかし、涙を拭ったキラの目が、ふと画面の一角に留まる。
中立コロニー「ヘリオポリス」の防衛体制に関する、小さな地方ニュースの記事だ。
「……待てよ。全面戦争はないとしても、軍事的な小競り合いや、技術の奪い合いまで消えたわけじゃない、よね……?」
この世界でも、ヘリオポリスでは地球連合の新型モビルスーツ開発が極秘裏に進んでいるのだろうか。そして、それを奪取するためにザフトのクルーゼ隊が動くとしたら――。
「僕は、フレイ・アルスターだ。大西洋連邦の、アルスター次官の娘……」
平和な世界への安堵と同時に、この身体が持つ「政治的価値」の重さが、キラの胸にドシリと伸しかかる。全面戦争がない世界だからこそ、この立場を利用してできることがあるはずだ。
「アスラン……それに、この街にいるはずの、もう一人の『僕』」
まだ見ぬかつての友と、そして若き日の自分を救うため、フレイの身体に宿った老兵キラは、静かに、しかし確かな意志を宿した目で画面を見つめ直した。
パソコンの画面を閉じ、キラは深く息を吐き出した。
状況は少し見えてきた。だが、ネットの情報だけでは国家の「本当の力関係」や「裏の動き」までは掴みきれない。
「もっと生の情報が必要だ。……幸い、この家には最高の発信源がいる」
フレイの父親、ジョージ・アルスター。地球連合(大西洋連邦)の事務次官であり、政治の中枢にいる男だ。
キラはクローゼットを開け、フレイが普段着ているであろう可愛らしい服を手に取った。
「……こういう服、着るのなんて初めてだな」
心の中で苦笑しながらも、老境の精神力で羞恥心をねじ伏せ、手際よく着替える。鏡の前で髪を整え、記憶にある「あの頃のフレイ」の仕草を頭の中でシミュレーションした。
少し高めの、甘えるような声を喉の奥で調整する。
「よし……いこう」
部屋を出て階段を下りると、一階のリビングから、高級な珈琲の香りと共に新聞をめくる音が聞こえてきた。ソファに腰掛けているのは、紛れもないジョージ・アルスターその人だった。
かつての歴史では、地球軍の第8艦隊と共に宇宙の塵となり、フレイの心を決定的に壊す引き金となった父親。その姿を生で目にした瞬間、キラの胸にツンとした痛みが走る。だが、それを表情には出さない。
「パパ、おはよぉ」
フレイ特有の、少し気だるげで、父親に全幅の信頼を置いている娘の声を完璧に再現して、キラはリビングへ歩み寄った。
ジョージは新聞から顔を上げ、目元を優しく崩した。
「おや、フレイ。おはよう。今日は一段と早いじゃないか。ヘリオポリスでの学校は楽しいかい?」
「うん、まぁまぁかな。……ねぇパパ、ちょっと聞いてもいい?」
キラはキッチンから自分の分のジュースをグラスに注ぎ、何気ない風を装ってジョージの隣のソファに腰掛けた。少し首を傾げ、世間話の延長を装う。
「さっきね、ネットのニュースを見てたんだけど……。プラントの人たちって、やっぱり私たちのこと嫌いなのかな? ニュースだと、お互いに窓口だけ作って冷え切ってる、みたいなこと書いてあって」
「ハハハ、朝から難しいニュースを見ているんだね」
ジョージは苦笑し、珈琲カップを置いた。
「まぁ、大衆の感情なんてそんなものさ。あちらの調整品(コーディネーター)どもは我々を見下しているし、こちらの過激派は彼らを化け物扱いしている。だがね、フレイ。政治も経済も、感情だけでは動かないんだよ。戦争をするには金がかかる。勝っても負けても、地球のインフラとプラントの生産力が壊れてしまえば、結局どちらも飢えるだけだからね」
「へぇ……じゃあ、本当にお互い、戦争する気はないの?」
キラはストローをくわえながら、上目遣いで父親を見た。無邪気な少女が、大人の世界に少し興味を持った、というポーズだ。
「大っぴらにドンパチやる気は、双方の偉い方々にはないよ。ただね……」
ジョージは少し声を潜め、父親としての顔から、一瞬だけ「政治家」の顔を見せた。
「『抑止力』というのは常に必要なんだ。相手が攻めてこないのは、こちらが相応の力を持っていると信じているから、あるいは、不意を突く準備をしているからだ。だからこそ、我が大西洋連邦も、ただ指をくわえているわけじゃない」
(抑止力……。やっぱり、裏では動いてるんだ)
キラの背筋に、冷たいものが走る。
「じゃあ、パパたちも、何か新しい武器とか作ってたりするの? 攻められないように」
「おっと、それは国家機密だよ、フレイ。……まぁ、ここヘリオポリスがなぜ『中立』を保てているのか、その理由の一部には、我が国との『密接な協力関係』がある、とだけ言っておこうか」
ジョージは悪戯っぽくウインクしてみせた。
ビンゴだ、とキラは確信した。
世界情勢は違えど、ヘリオポリスの地下で地球連合軍の新型モビルスーツ――「G兵器」の開発が進んでいる事実は変わらない。全面戦争の抑止力という名目で、やはりあの兵器は作られているのだ。
「ふーん……。よくわかんないけど、パパが危ない目に遭わないなら、それでいいや」
キラはそう言って、フレイらしく無邪気に笑ってみせた。
「ありがとう、優しい子だね。パパは大丈夫さ。ヘリオポリスにいる限り、安全だよ」
娘の頭を優しく撫でるジョージ。その手の温もりを感じながら、キラ(中身)は固く決意していた。
(ザフトがこの開発を察知すれば、全面戦争は避けたがっていても、機体の強奪や破壊のために特殊部隊を送り込んでくる可能性は極めて高い。そうなれば、このコロニーは戦場になる……!)
かつてのように、逃げ惑う一般市民の列の中でフレイと父親が引き裂かれるような悲劇は、絶対に起こさせない。
「じゃあパパ、私、学校の友達と約束あるから、ちょっと行ってくるね!」
「ああ、気をつけていくんだよ」
父親に見送られながら、フレイの身体を躍動させて玄関を飛び出したキラ。
その瞳には、かつて戦場を終わらせた伝説のパイロットとしての、鋭い光が宿っていた。まず会いに行くべきは――この街のどこかにいる、若き日の「自分」だ。