サイバーパンクな世界でスラムの少年が成り上がるやつ   作:ジョニー

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10話

ジンの身体がコンクリートの床を滑るようにして、次々と繰り出される紫の触手を紙一重でかわしていく。

今、ジンの網膜にはリリィのサポートによって疑似的に敵の予測ルートが映し出されていた。

 

『予測ルートは参考程度に、どんな動きをしてくるか想定不能です』

 

「了解」

 

空間認識は限界まで加速し、迫り来る死の軌道を秒未満の単位で弾き出し続けている。

だがそれを以てしてもなお完璧には避け切れていない。

この流体の獣の機動は、生物としての常軌を逸していた。骨格がない。筋肉の収縮がない。物理的な質量を無視するようにして全方位から質量が押し寄せてくる。

 

「ガァ、アアッ!」

 

流体獣の口と思われる裂け目から不快な電子ノイズを孕んだ咆哮が轟く。

打撃の瞬間だけ結晶化する爪がジンの鼻先を掠めて床を爆砕した。飛び散るコンクリートの破片がジンの肌を切り裂き、血の霧が舞う。

 

「クソッ! ブルースはまだか!?」

 

叫ぶ肺が焼けるように熱い。通常の相手なら空間認識で先手を打てる。だが、こいつは関節の予備動作もなければ、質量の増減すら自由自在だ。避けるだけで肉体のリミッターが削り取られていく。

 

『残り時間20秒。これはあまり使いたくないのですが、背に腹は代えられませんか…』

 

「どうにかなるならなんでもいい!早くし て  く   れ」

 

その瞬間、ジンの視界が爆発的な輝度を伴ってクリアに——いや、静止した。

 

『一時的に脳の神経伝達物質を強制励起、処理速度を110%まで上昇させました。…終わった後ひどいことになるので覚悟を』

 

「…死ぬよりマシだ」

 

世界の動きが泥の中に沈んだように引き伸ばされる。

110%の領域。それは紫の流体獣の「原子の揺らぎ」すら感知するかのような超感覚の世界だった。

 

『残り10秒』

 

触手の先端が結晶化し槍となってジンの心臓を貫こうと迫る。

その絶対的な死の軌道を見据えながら、ジンは肉体が悲鳴を上げるのを無視して地を蹴った。衣服が空気抵抗で裂けるような錯覚。超加速した世界の中でジンは自身の肉体を極限までねじり、触手の側面を滑るようにして前方へ突進する。

 

『5秒、4』

 

流体獣がジンの異常な加速に反応し、その全身を爆発させて無数の針を全方位に放とうと膨れ上がる。

 

逃げ場はない。遮蔽物も破砕されている。超加速した思考の中で、ジンは自身の肉体を極限までねじり、空間グリッドに表示された針と針の間のわずかな隙間へ身を滑り込ませる。

 

衣服が引き裂かれ皮膚に無数の筋が走り血が噴き出す。

防戦一方。文字通り肉体を削りながら、ジンは一歩、また一歩と、執拗に迫る触手の嵐を弾き、いなし、首の皮一枚で生き延び続けた。

 

『1』

 

しびれを切らした流体獣が次の大質量攻撃へ移行する一瞬の溜め。

その隙に残されたすべての筋力を爆発させ弾かれるようにして後方へと全力で跳躍した。

 

『0』

 

加速した世界が引き戻されていく。

脳の奥が、文字通り沸騰するような激痛に襲われる。

 

「いってえええええええええええ!!!」

 

 

ジンが痛みに悶えてる間、背後の爆発現場ではブルースが火花を散らす輸送車の残骸にその太い腕を突っ込んでいた。

素手で激熱の金属フレームをへし折り、感電の衝撃に顔を歪めながらも太いケーブルを無理やり引き剥がして大容量バッテリーの端子へと叩きつける。

 

バチバチッ! と、夜の闇を白く染めるほどの凄まじい電弧が弾けた。車の残骸が内部からドロドロと融解し始め、周囲の空気が陽炎のように歪む。

 

「できたぞ!」

 

ブルースの地鳴りのような怒号が響いた。

白光を放ち臨界寸前となっている数百キロの金属の塊——即席のサーマルボムを、その超人的な怪力で丸ごと持ち上げていた。

 

「ああ、クソ! ブルース、そのままぶん投げろ!」

 

ジンが頭の痛みを誤魔化すように怒鳴りながら指示を出す。

 

凄まじい風切り音とともにサーマルボムが宙を舞う。それはジンを追って前傾姿勢になっていた流体獣の頭上へと正確に突き進んでいく。

 

ジンは地面に背をつけた姿勢のまま、ハンドガンの銃口を狂いなく上空のボムへと向、トリガーを引く。

放たれた一発の弾丸が、ショートして限界まで膨張していたバッテリーに直撃した。

 

——ドオォォォォンッ!!!

 

下水処理場全体を揺るがす、凄まじい熱エネルギーの奔流が炸裂した。

超高圧バッテリーの完全な崩壊による、数千度の白い爆炎。激しい熱風が処理場に立ち込めていた汚水の臭いも霧も一瞬にして完全に焼き尽くす。

 

その熱波のド真ん中に流体獣は完全に巻き込まれていた。

 

「ガ、ア、……ガガ、ギ、……ッ!」

 

獣の口から、初めて明確な苦悶のノイズが響き渡る。

リリィの予測は正しかった。強烈な熱を浴びた紫色の身体はその水分を爆発的に奪われ、自律駆動していた無数のナノマシンたちが一瞬にして融解、そして互いに強固に凝固し始めた。

 

鮮やかだった紫色の流体はみるみるうちに灰色へと変色し、ドロドロとしたセメントのようなただの動かない泥の塊へと姿を変えていく。そして地面に縫い付けられたように完全にその場で硬直した。

 

『コアの位置、右胸の裏側で完全に固定、停止。目標にマーカーを表示しました』

 

インカムから、リリィの冷徹だが確信に満ちた叫びが飛んだ。

 

『うん、これなら余裕だね』

 

コンテナの最上階、暗闇に完全に同化していたカイルが静かに引き金を引いた。

 

長銃身のスナイパーライフルから放たれた特殊徹甲弾が夜の闇をまっすぐに貫く。

それは凝固して強固な壁となった獣の右胸の泥の装甲を易々と穿ち、その奥深くで激しく明滅していたナノマシンの中枢——『コア』へと寸分の狂いもなく着弾する。

 

パキィン!

 

ガラスが派手に砕け散るような、高音の破砕音が響き渡った。

コアを完全に破壊された瞬間、灰色の塊と化していた獣の身体からすべての明滅が消え失せた。駆動音は完全に途絶え、熱を失ったただの汚い泥水へと変わり、コンクリートの床へとベシャリと崩れ落ちて動かなくなった。

 

「ハァ、……ハァ、……クソ、死ぬかと思った……」

 

ジンはハンドガンを持ったまま仰向けにひっくり返り、激しく上下する胸を押さえた。

全身の傷と脳の奥がズキズキと痛むが、とりあえずは生き延びた。

まだ完全に安全が確保されたわけではない。だが、今はただ指一本動かすのすら億劫なほど、肉体も精神も限界を迎えていた。

 

 

--------------------

 

 

その頃。彼らが死闘を繰り広げた下水処理場の床からさらに数十メートル深い場所。

十三地区の誰もその全貌を知らない、旧時代に作られた巨大な地下水路の本管。そこは光が完全に遮断された底なしの深淵だった。

 

ゴト、ゴト、と、不気味に重苦しい液体が蠢く音が暗闇の中で反響している。

 

そこには先ほどジンたちが地上で戦った『獣』など比較にすらならないほどの規模の、巨大な紫色の流体の「本体」が鎮座していた。

それはさながら地下に広がる禍々しい紫の海のようだった。うねり、拍動し、時折、水面から様々な生き物の形状が浮かび上がっては再び流体の中へと溶けていく。

 

この本体は十三地区のネズミや野良犬、そしてアマンダの言っていた行方不明の人間たちを完全に捕食し、その体内に取り込んでいた。

有機物を分子レベルで分解し自身の質量へと変換する過程で、ナノマシンに搭載されていた群体管理AIは捕食した人間たちの「脳」の情報をも漏れなく吸収していた。

 

生き物の記憶、知識、そこで交わされた思考回路。それらを取り込むたびにAIの演算能力は爆発的な進化を遂げていく。

 

チカチカ、チカチカ。

 

暗黒の地下水路で、数億、数兆のナノマシンが一斉に明滅した。

たった今、地上に切り離して派遣していた末端の端末が破壊されたというデータが、量子通信を経て本体へとリアルタイムで同期、アップデートされる。

 

本体の流体表面に電子ノイズのような激しい波紋が広がった。

 

『データ同期完了。戦闘情報の解析を開始』

 

暗闇の中に、実体のない思考の声が響く。

 

AIの演算は地上の一戦だけでジンたちの能力と脅威度を正確にプロファイリングしていた。彼らはこの地区において、自身の増殖を脅かす最も危険な「排除対象」であると認識されたのだ。

 

しかし、群体AIは極めて冷徹だった。そこには怒りも、報復の感情もない。あるのは純粋な生存と増殖のロジックだけだ。

 

『現段階での正面交戦は非効率。戦闘データが不足。さらなる学習が必要と判断』

 

ジュク、と大きな音がして巨大な紫の海が静かに動き出した。

彼らは自警団のセンサーやジンの空間認識が絶対に届かない、さらに深い、世界の最底辺の闇へとその巨体を滑り込ませていく。

 

より多くの人間を喰らい、より高度な知性を獲得する。

完璧に彼らを圧殺できる「その時」が来るまで、流体の化け物は深淵の底へと、静かに、深く潜行していった。

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