サイバーパンクな世界でスラムの少年が成り上がるやつ 作:ジョニー
第十三下層区のドブ底を這う下水ダクトはネオンの光すら届かない完全な暗黒の世界だ。
激しくなる酸性雨の雨音とギャングたちの抗争によるものと思しき遠い爆音、それが反響音となって地下へと伝わってくる。
そんな暗闇の中、ジンは四肢を泥水に浸しながら狭い排気ダクトの中を這い進んでいた。
進むたびに左脚の太ももに突き刺さった外骨格パーツが耳障りな金属摩擦音を立てる。
「クソ、黙って動けよ」
ジンは歯を食いしばり自分の太ももを強く叩く。
痛みを意識の底へ押し込める。生まれ持った高い空間把握能力によって『旧ミツバ・サイバーニクス』の内部構造が脳内に三次元マップとして描き出されていた。
地上は企業の自律型防衛ドローンが徘徊する危険地帯。だがこの下水ダクトからであれば、監視の目を完全に盗んで最上階の研究室まで直行できる。
(ハッ、大企業の警備が聞いて呆れるぜ。ギャングの臆病者どもがビビってただけだ。企業の包囲網なんてスカスカのザルじゃねえか)
ダクトの格子隙間から見えるビルの内部は静まり返っていた。
割れたガラス、剥き出しになった光ファイバー、壁に刻まれた企業のロゴ。かつて栄華を誇った最先端の実験施設も今や下層区の闇に埋もれた巨大な墓標に過ぎない。
ジンは音もなく格子を外し、最上階のフロアへと音もなく着地した。
懐からゴミ山で拾った九ミリ口径のハンドガンを抜き出す。スライドを引くと、チャキリと砂を噛んだような嫌な音がしたが装填は完了した。
(罠だろうが関係ねえ。チップを奪って金も力も全部俺のモノにしてやる)
急激に売れ始めたスラムでの名声とこれまで生存本能だけで生き延びてきた事実。
それが少年の胸の中で肥大化した「慢心」となり、現実への警戒感を確実に狂わせていた。
ジンは端末のシグナルが示す、最上階奥の研究室の扉を強引に抉じ開けた。
部屋の中央、ひっくり返った実験デスクの傍らにその死体はあった。
仕立てのいい、だが血と泥で汚れたスーツ。この地区の裏社会のバランスを保っていた『仲介役』の老人だ。死後数日が経過しており、スラムの冷気の中でも独特の死臭を放ち始めている。老人の後頭部にはサイバーウェアのデータポートが埋め込まれており、その中に銀色のデータチップが差し込まれたままになっていた。
「場所はデータ通り……。あの死体で間違いないな」
ジンは周囲に視線を走らせる。罠の気配はない。
老人の死体に近づき後頭部のロック機構を強引にこじ開ける。
カチリ、と金属が噛み合う小さな音がして、細長い銀色のデータチップがジンの手のひらに落ちた。
「よし、手に入れたぞ……!これさえあれば、あの闇医者に脚を診せられる。もっと強い武器だって――」
チップの冷たい感触にジンの顔に笑みが浮かんだ、その瞬間だった。
ピッ――ピピピピピピピピピピピピピピピッ!!!
ジンの手の中にあるチップではなく、老人の死体の胸の奥から鼓膜を鋭く刺すような電子アラート音が鳴り響いた。
老人の衣服を割いて現れたのは肉体に直接埋め込まれた軍用の生体センサー。それが赤色のLED光を猛烈な速度で明滅させている。
「なっ……!?」
ジンの危機察知能力が一瞬にして最大レベルの警報を脳内で鳴らした。
発信機の信号はギャングが言っていたような「死体の位置を知らせるものだけ」ではなかった。
チップが引き抜かれた瞬間に周囲の『捕食者』を呼び寄せ、侵入者を確実に圧殺するための――凶悪な「檻のスイッチ」だったのだ。
『警告。対象のバイタル完全停止、およびデータの移動を確認。……プロトコル・ハウンド起動。これよりエリア内の害獣を駆除します』
ビルのスピーカーから感情の起伏が一切ない、冷酷な機械音声が流れた。
同時に部屋の頑丈な防弾隔壁が凄まじい風切り音を立てて上から滑り落ちてくる。
「クソッ!!」
ジンは反射的に地を蹴り閉まりかける隔壁の隙間へと飛び込もうとした。しかしその瞬間、背後の強化ガラスが轟音とともに一斉に粉砕された。
ガラスの雨が降る部屋に突入してきたのは、スラムのゴロツキとは根本的に異なる「本物の暴力」だった。
漆黒の複合装甲サイバーウェアで全身を固めた企業の傭兵部隊。その数、三人。さらに彼らの頭上には赤外線センサーを不気味に発光させる二機の戦闘用ドローンが静空飛行している。
彼らの動きには一切の無駄がなかった。着地と同時に完璧な射撃陣形を組み、ジンの退路を瞬時に封鎖する。
「チッ、死ねよッ!!」
ジンは咄嗟に身を隠した実験デスクの陰からゴミ拾いのハンドガンを突き出し、先頭の傭兵に向けて引き金を引いた。
――ドンッ! ドンッ!
ジンの並外れた動体視力は弾丸が男の胸元へと正確に向かう軌跡を捉えていた。スラムの悪党なら、これで確実に心臓を撃ち抜かれて絶命しているはずの一撃。
(ハハッ!全く反応できてねえ!)
だが弾丸が傭兵の装甲に接触する直前、男の表面にハニカム状の青白い光の壁が展開した。
――バキィィンッ!
火花が散り、九ミリ弾は歪に潰れて床へと虚しく転がった。最新鋭の電磁シールド。実弾の運動エネルギーを瞬間的に拡散し無効化する企業の防衛技術だ。無防備に弾丸を受けたはずの男の装甲には傷一つついていなかった。
「嘘だろ…!?」
ジンの顔から血の気が引く。
間髪入れず傭兵の一人が腰のグレネードランチャーを起動した。
着弾と同時に部屋中に灰色の濃霧が爆発的に広がっていく。
「げほっ、ごほっ…なんだこれ、煙…」
ただの煙ではない。ジンの脳内に異変が起きた。
いつもなら網膜の裏に火花散るように交差するはずの敵の「弾道予測線」。それが激しいノイズに覆われて完全に消滅したのだ。
(何だ!? 何が起きてるんだ!?)
企業製のECM煙幕だった。空気中に散布された微小なナノ粒子が、ジンのような非正規のデータポートや、生体電流による空間把握能力を完全に妨害し無効化する。
「探知完了。一匹。右脚に非正規の拡張パーツ。さっさと終わらせるぞ」
濃霧の向こうから、冷酷な無線音声が聞こえる。彼らは煙など存在しないかのようにジンの位置を完全に捕捉していた。
――バラバラバラバラバラバラッ!!!
ドローンと傭兵のスマートサブマシンガンが一斉に火を噴いた。
どこに弾が飛んでくるか分からない。ジンは野生の勘だけを頼りに真横のコンクリート柱へと身体を投げ出した。
ジンの背後で頑丈なはずのコンクリート柱が凄まじい勢いで削られ、鉄筋が剥き出しになっていく。企業の使うスマート弾は跳弾すら計算されてジンの退路を正確に削り取っていた。
「が、あッ……!」
掠った弾丸がジンの生身の肩の肉を削ぎ落とし、鮮血が舞う。
圧倒的な格差だった。
武器の質、技術力、戦術、そのすべてにおいてスラムのゴロツキと企業の本物は次元が違った。自分が今まで「力」だと思って慢心していたものは、彼らの前ではただの泥鼠の悪あがきに過ぎない。
(これが……本物の、企業……!)
全身の毛穴が開き、心臓が壊れたポンプのように拍動する。呼吸が浅くなり視界が恐怖で狭まっていく。
(――死ぬ)
このままではただ駆除されるだけのゴミとしてここで肉片にされる。
「退路の遮断を確認。排除シークエンス、実行」
一人の傭兵がコンクリート柱の陰に隠れるジンに向けて、確実に息の根を止めるための重構成レーザーライフルを構えた。銃口が青白いエネルギーをチャージし始める。
(死んでたまるか…!)
逃げるには真上へ跳び、天井のダクトへと逃れるしかない。
生き延びるために左脚の外骨格に最大出力を命じる。
だが、ジンの脳が命令を下したその瞬間――。
ガキィィィィィンッッッ!!!
「が、はあぁぁぁぁぁぁぁぁっッッ!!!」
ジンの口から血を吐くような悲鳴が漏れた。
左脚の外骨格パーツが激しい爆発のような火花と白煙を上げ、完全に機能停止したのだ。
自己流のデタラメなメンテナンス。コードの接触不良、許容量を超えた過電流。騙し騙し使ってきたそのすべてのツケが、この最悪の瞬間に致命的な「システムエラー」となってジンを襲った。
外骨格の強固なフレームが異常収縮しジンの生身の太ももの骨を容赦なく締め上げる。メキメキ、と嫌な音がして、ジンの身体は跳躍することすら叶わず床へと無様に転がり落ちた。
「動け…! 動け動け動けよ!!!」
ジンは狂ったように動かなくなった左脚の鉄屑を拳で殴りつけた。
だが冷たい金属はパチパチと虚しい火花を散らすだけで、二度と駆動する気配を見せない。
「対象の戦闘能力喪失を確認。 …了解。 チッ、捕獲に切り替えだとよ」
「はぁ? またかよ…」
レーザーライフルを構えた傭兵とは別に視界の端から黒い装甲のブーツが近づいてくる。
バイザーにはジンの絶望した顔が写り込んでいた。
「…おいガキ、死にたいならここが最後のチャンスだぞ」
「ハァハァ……。な、何が言いたいんだよ」
「死ぬより辛い目に会いたくねえなら全力で反抗しろ、そうすりゃこっちも事故でお前を殺してやれる」
憐れみを込めた傭兵の銃口がジンの額の中心へと正確に向けられた。
完全な詰み。逃げ場も、武器も、脚もない。
だが。
ジンの瞳の奥にある「狂気」だけはまだ死んでいなかった。
(ここで終わる? 俺が? 誰かに怯えて奪われて、ドブ底で死を待つだけのガキのままで終わるのか……?)
「――ふざけるな」
ジンの喉から、ドスの利いた獣の唸りが漏れた。
「そんなの、死んでも御免だッ!!」
ジンは残った右腕で床に落ちていた錆びかけたハンドガンを拾い上げた。だがそれを傭兵に向けるのではない。
ジンはハンドガンの銃口を、自分の左脚の外骨格と生身の「生体コネクタ接続部」に向けて直角に押し当てた。
「動けポンコツが!!!」
引き金を、全力で絞る。
――ドンッ!!!
至近距離での実弾射撃。九ミリ弾が外骨格の主要制御基板を粉砕し、内部に溜まっていた大容量の生体電流バッテリーが瞬間的にショートを起こした。
凄まじい過電流と爆風がジンの太ももの肉を引き裂き、神経をズタズタに焼き切る。正気の沙汰ではない。生身の脚を完全に捨てる自殺行為。
だがその瞬間、安全装置の基板そのものが物理的に消滅したことで、外骨格パーツはジンの肉体を破壊しながら、本来の設計を遥かに超えた「一瞬だけの異常出力」で爆ぜる。
――ズドンッッッッ!!!
それは大砲が炸裂したかのような衝撃だった。
動かないはずの左脚が爆発的な推進力となってジンの身体を前方へと弾き飛ばした。
傭兵の想定を、企業の計算を、完全に超越した「自爆による超高速移動」。
「なっ――」
完璧なマシーンだった傭兵の動きが生まれて初めて微かに遅れた。
ジンの身体は弾道の射線を潜り抜け、傭兵の懐へと滑り込んでいた。激痛で白目を剥き、口から血泡を吹きながらジンは狂気混じりの咆哮を上げる。
「あああああがああァァァッ!!!」
ジンはちぎれかけ、火花と生血を撒き散らす左脚の外骨格を鞭のようにしならせて男の顔面へと振り抜いた。
自爆電流を帯びた金属の塊が、傭兵の頭部を強襲する。
――ガギィィィィィンッッ!!!
激しい金属音が研究室に響き渡る。
電磁シールドの上からではあるが外骨格の直撃を受けた傭兵の頭部バイザーが派手な亀裂を上げて粉砕された。男の身体が大きくよろめき壁へと激突する。
一矢、報いた。
スラムの泥鼠が最先端の技術を持つ企業のプロの顔面を確かに叩き割ったのだ。
だがジンの反撃もそこまでだった。
「がはっ…、つ、あ…」
床に叩きつけられたジンの左脚はもう人間の肉体の形を留めていなかった。
皮膚は焼け焦げて黒くなり引き裂かれた肉から骨が覗いている。
外骨格のフレームは歪み完全に沈黙していた。一歩も動けない。ハンドガンの残弾もゼロ。
バイザーを割られた傭兵が鼻から血を流しながら怒りすら見せずに再び立ち上がった。残りの二人の傭兵も銃口を微動だにさせずジンへと向ける。
ドローンがジンの頭上で照準をロックする。
今度こそ本当の終わりの瞬間だった。ジンの生存本能もこれ以上の打開策を何一つ提示しなかった。ジンは血に染まった視界の中で迫る死をただ見つめるしかなかった。
その絶体絶命の瞬間だった。
生まれてから一度もまともに使ったことのなかったゴミ拾いのための旧式データポートが突如として異常な高熱を帯びた。
『――ッッッガガガガガガギギギギギギギッッ!!!』
「あ、ががっ!? ああァッ!?」
脳髄に直接凄まじいボリュームの電子ノイズが叩き込まれる。あまりの衝撃にジンの身体が激しく痙攣した。脳のシナプスが無理やり外部から書き換えられるような暴力的で圧倒的な強制介入。
そしてノイズの嵐の向こうから、低く、異常なほど不遜で、この絶望的な状況すら鼻で笑うかのような、傲慢な男の声が響いてきた。
『――おい、クソガキ。死にたくなけりゃあ俺の命令に全力で従え』