サイバーパンクな世界でスラムの少年が成り上がるやつ 作:ジョニー
目を覚ましてジンが最初に知覚したのは鼻腔を突く奇妙な匂いだった。
いつも嗅いでいたあの錆びた酸性雨の泥臭さではない。アルコールのツンとした刺激、紫煙の焦げ臭さ、そしてどこか人工的な甘ったるい香水の匂い。
ジンは自分がまだ生きていることを理解した。意識の混濁した境界線の中でゆっくりと瞼を持ち上げる。
まず視界に入ってきたのは、歪んだネオンの光に照らされた見覚えのない薄暗い部屋だった。ベルベット調の赤いソファー。安物の革張りの椅子。
ジンは自分の身体の状況を確認しようと、まずは右手に力を入れた。指は動く。
「――無駄に動かないでください。縫合が解けます」
冷ややかで、完全に抑揚を排した少女の声。
ジンは心臓が跳ね上がるのを感じた。反射的にソファーから上半身を跳ね上げ、警戒体制をとる。スラムの泥鼠にとって、見知らぬ他人が視界にいるということは即座に「殺し合い」を意味するからだ。
「いッ……!?」
しかし戦闘態勢に移ろうとした瞬間、左脚の付け根から凄まじい激痛が走りジンは無様にシーツの上へと転がった。見れば、左脚の外骨格は取り外され代わりに黒いカーボン製の無骨な「固定用治具」が打ち付けられていた。
「言わんこっちゃない……。あなたのその旧式ポートと生身の肉の繋ぎ目は千切れかけのハンダ付け以下です。おとなしく寝ていなさい」
部屋の隅、ホログラムディスプレイの青白い光に顔を照らされながら、その少女――リリィはジンに視線すら向けずに淡々とキーボードを叩いていた。漆黒のタイトなタクティカルスーツはそのままに戦闘用バイザーだけを首元に下げている。
あの企業のビル最上階で自分と同じように床に伏せていたハッカーの少女だ。
「お前、あの時の……」
「お前ではなく、『リリィ』です。本来ならドブ底に捨てていくところですが、ゲイリーからの指示で不本意ながらここまで運ぶことになりました。感謝の言葉はいりませんので二度と私の視界で暴れないでくださいね」
ジンはなおも睨みつけようとしたが、その時VIPルームの防音性の高い重い扉が大きな足音と共に乱暴に開け放たれた。
「やっと起きたか、クソガキ。死に損ないの気分はどうだ?」
部屋に入ってきたのは仕立ての良い高価なコートを纏った男――ゲイリーだった。
乱れた様子など微塵もない、完璧に計算された大人の佇まい。その冷徹な双眸がソファーの上で這いつくばるジンを冷たく見下ろす。あの絶体絶命の瞬間、ジンの脳内に直接ノイズを響かせビルのシステムを暴走させて命を救った「声」の主その人だった。
「お前が、ゲイリーか」
「そうだ。挨拶は抜きにしよう。時間の無駄だ」
ゲイリーはカウンターに背を預け、懐から一本の煙草を取り出して火をつけた。紫煙が部屋の甘ったるい空気を侵食していく。
「お前をあの檻から引っ張り上げてやったのは、当たり前だがボランティアじゃない。俺はお前の命を買い取った。だから、お前はこれからその対価に見合うだけの裏の仕事をこなしてもらう。俺の猟犬としてな」
その言葉は冷酷な宣告だった。断れば今すぐこの場で左脚の治具を引き抜いて再びドブ底へ放り出す、そんな意味を込めた牽制。
ゲイリーはジンが狂犬のごとく牙を剥き、能力もないくせに「誰の指図も受けねえ!」と喚き散らすことを想定していた。そうなれば脳内のナノマシンを強制駆動させて肉体的な苦痛で調教するつもりだった。
しかし、ジンの口から漏れたのはゲイリーの予想を裏切る言葉だった。
「……分かったよ」
ジンは激しく歯噛みしゲイリーから視線を逸らしながらもぶっきらぼうに言い放つ。
「仕事はする。命令にも極力は従ってやる」
「……ほう?」
ゲイリーは煙草を挟んだ指を止め微かに眉を動かした。思ったよりも遥かに反発が少ない。
ジンという少年は壊滅的なまでに粗暴で、傲慢で、手の付けられない狂犬だ。しかしその内面には、スラムの泥水の中で歪にねじ曲がった一筋の「狂信的なまでの義理堅さ」が刻まれていた。
――命の恩は、命でしか返せない。
――返すまではその相手に牙を剥かない。
それがジンがドブ底で誰の教えも受けずに生き延びるために、自らに課した唯一の絶対的な行動規範だった。どんな悪党であれ、裏切り者であれ、自分に「本物の貸し」を作った相手に対してだけはそれを清算するまで大人しく従う。それがジンの持ついびつなまでの矜持だった。
ゲイリーの指示に従ったからこそ、自分はあの企業の鉄壁の檻から生きて戻ることができた。それは紛れもない事実なのだ。
「勘違いすんなよ、飼い犬になったわけじゃねえからな」
ジンは包帯まみれの胸元を抑えながら、ゲイリーを睨み据えた。
ゲイリーは一瞬ジンの瞳の奥にある奇妙な「一貫性」を値踏みするように見つめ、それからフッと満足そうに口元を歪めた。
「上等だクソガキ。口の利き方はまた今度教育してやるよ。……おいリリィ、こいつを『ドク』の店へ連れて行け。今のままじゃ仕事どころかガキの使いですらまともにこなせるか怪しいもんだからな」
「なんで私が……」
「仕事だ、仕事。アマンダから許可は取ってる」
ゲイリーはそう言い残すと背を向けてVIPルームを出ていった。
リリィは作業していたホログラムディスプレイを乱暴に閉じ、部屋を出ていくゲイリーの背中に向けて呪詛を吐き捨てる。
「FXXK!」
ジンはぽかんとリリィの横顔を見た。
「……なに見てるんですか。早く立ち上がりなさい、私も暇じゃないんですよ」
少女は戦闘用バイザーを乱暴に跳ね上げ足早にドアへと向かっていく。
「ちょ、ちょっと待てよ!」
ジンは慌ててソファーから這い出ようとしたが、新調されたばかりのカーボン製の治具が「ガチリ」と嫌な音を立てて噛み合い、一瞬だけ身体のバランスが崩れた。
その様子を気にした気配も見せずにリリィは先へと進んで行く。
「どいつもこいつも偉そうに上からモノ言いやがって…」
身長差によって文字通り「上から」見下ろされたジンは悔しそうに悪態をつきながらも左脚の治具を強引に床へと踏み降ろす。歩調を早めるリリィの背中を少し見上げながら必死に足音を響かせて追いかけていった。
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第十三下層区のさらに奥、ネオンの明かりすらも届かない地下の最暗部。
酸性雨が漏れてコンクリートを侵食し、カビと重金属の匂いが立ち込める通路の突き当たりに、その「店」はあった。
錆びついた鉄扉にスプレーで殴り書きされた『バイオ・スチール』の文字。
リリィが扉の横の旧式インターホンを蹴りつけると、ガガッ、という不快なスピーカーのノイズと共に油の切れた重い扉が内側から開いた。
「キィハハハハ!誰かと思えばアマンダんとこのお人形ちゃんじゃねえか!今日はどんな死に損ないを担ぎ込んできたんだぁ!?」
奥から現れた影を見てジンは本能的に息を呑む。
そこにいたのは人間と呼ぶにはあまりにも「鋼鉄」に偏りすぎた怪人だった。
『バイオ・スチール』の主である闇医者――通称『ドク』。
彼の肉体は自ら行った違法な過剰改造の果てに、生身の部分がほとんど残っていなかった。
右腕は大型の解体用高周波ブレードと一体化し、左腕には数条の医療用レーザーとバーナーが直接埋め込まれている。
胸部は装甲板で覆われ剥き出しの油圧シリンダーが呼吸のたびにプシュー、プシューと煤けた蒸気を吐き出していた。顔の右半分は完全に金属のプレートで覆われており、埋め込まれた三つの生体アイがそれぞれ独立してカチカチと不気味に明滅している。
下層区のあらゆるゴロツキから「腕は確かだが世界一いかれている」と恐れられる男だった。
「ドク。ゲイリーさんからの依頼です。これの左脚を最低限動くように補修してください」
「なんだゲイリーの野郎か!相変わらずケチな仕事を回しやがる。おい、そこのガキ!その手術台の上に転がれ!」
「手術台って、これただのまな板じゃねえか…。スラムの闇医者でももっとマシなもん使ってるぞ…」
ドクが解体用ブレードのような右腕で指し示したのは血痕と油汚れがこびりついた鉄製の手術台だった。ジンは顔をしかめながらも、新調されたカーボン製の治具を軋ませ台の上へと這い上がる。
「おい、痛くすんなよ、ブリキ野郎」
「あぁん? 生意気なガキだなあ! 麻酔なしで神経結合してやろうかぁ!?」
「それはもうやった、二度とごめんだね」
「キハハハ!そんな冗談言えるなら覚悟はバッチリだな!歯食いしばれ、そらいくぞ!」
ドクはゲラゲラと笑いながらジンの左脚の付け根にむき出しの太いケーブルを直接突き刺した。
激しい青白い火花が散りジンの全身が硬直する。脳の奥を直接太い針で抉られるような激痛。ジンは歯を食いしばり叫び声を喉の奥で押し殺した。
「……あぁ? おいおいおい……ちょっと待てよ……!?」
ドクの顔面を覆う三つの生体アイが突如として異常な速度でカチカチと回転し始めた。赤、青、緑のレーザーがジンの全身をスキャンしていく。ドクの口元から狂気じみた笑みが消え、代わりに底知れない困惑が浮かび上がった。
「おいおい、お人形ちゃん。このガキ何だ?」
「何って……、よくいるただの頭の悪いスラムのゴロツキですが」
「違う違う、そうじゃねえ! コイツ、神経の数値が狂ってやがる!」
ドクはジンの左脚のポートを金属の指先で手荒に弄り回した。
「おい小僧、お前元々ついてた脚どうやってつけた?」
「どうやって、って……無理矢理ぶっ刺した」
「クッ、クックック……キハハハハ!!! この旧式のゴミみたいなポートで、一世代前の軍事用暗号プロトコルと直接殴り合ったって? お前いかれてんな!」
ドクの生体アイがジンの脳神経組織のグラフィックを空中に投影する。そこには赤く焼け焦げ破壊されているはずの神経細胞が、驚異的な速度で「新しいバイパス」を形成しサイバーウェアを強引に侵食して繋ぎ止めている異常な光景が映し出されていた。
「こいつの神経組織、あらゆるサイバーウェアの『拒絶反応』をねじ伏せてやがる。適合率とかそういう生易しいレベルじゃねえ。自分の肉体を機械に合わせて無理やり『変形』させてるんだ! おいゲイリーの野郎、どこでこんな奇形を拾ってきた!?」
ドクはジンの顔を至近距離で覗き込み、鉄の指先でジンの頬を強くつねった。
「おい、ガキ。お前最高にいかれてんな! 通常の人間ならとっくに廃人だぞ! なのに何だそのギラついた目は! まだ誰かを噛み殺す気満々じゃねえか!」
「うるせえ、離せ……! お前にいかれてるとか言われたくねえよ!全身鉄屑野郎が!」
ジンはドクの鉄の手を振り払おうとしたが、生身の腕力ではビクともしない。
リリィはその光景を冷ややかに見つめながらもドクの言葉の意味を理解していた。目の前にいるこの粗暴な少年は、肉体的な意味において下層だけでなく上層にも通用するような「異常体質」を持っているのだ。
「よし、決まりだ!」
ドクは左腕のバーナーを起動し、激しい炎を噴射させた。
「今日はとりあえずその辺に転がってた安物をつけといてやる! 立てば歩けるし、蹴ればそこらのゴロツキの骨くらいは砕ける。だがなぁ、お前にはこんなゴミは似合わねえ!」
ドクは三つの目を怪しく明滅させ、興奮を隠さず大声で喚き散らす。
「近いうちにお前みたいな怪物にしか乗りこなせない、とっておきにイカれた極上品を闇ルートから仕入れておいてやる。だからよぉ、それまでにゲイリーのつまんねぇ仕事で死ぬんじゃねえぞ? 後日、またここへ来い。お前の本当の『牙』を植え付けてやるからよぉ!」
激しい火花と金属を焼く匂いの中、ジンの左脚に無骨で頑丈な鉄のフレーム義肢が強引に結合されていく。
ジンは自分の肉体に新しい「武器」が刻み込まれていく感覚を確かにその爪に記憶していた。
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ドクの店を出た時、時計の針はすでに深夜を回っていた。
地下街の冷たいコンクリート通路を歩きながら、ジンの新しい左脚が一歩ごとに「ガシャン、ガシャン」と硬質な金属音を響かせる。安物の作業用パーツとはいえドクの腕は確かだった。激痛は完全に消え去り生身の右脚よりも遥かに力強く地面を蹴ることができる。
――グゥゥゥゥゥゥゥゥ……。
その時、静まり返った通路に地鳴りのような派手な音が響き渡った。
音の発生源はジンの腹だった。激しい戦闘による体力の消耗、そして丸一日の気絶。ジンの胃袋は今や完全に空っぽで文字通り限界を迎えていた。
「……自己主張の激しい腹の虫ですね」
「うるせえ。動いたら急に減ってきたんだよ。おい、メシだ。メシ食わせろ。ゲイリーの奴は俺の命を買ったって言ったんだから飯の保証くらいはついてるんだろ」
ジンは腹を抑えながらリリィを見上げる。リリィは溜息をつきながら首元のバイザーを小さく叩いた。
「あのツケまみれの男がそんな金持ってると思いますか?……いや、こんなこと行ってもしょうがないですか。まあいいです、付いてきなさい」
リリィが案内したのは地下街の片隅に店を構える下層区向けの安飯屋だった。
ネオンの看板には『ジャンク・フィード』と書かれ、店内には油の回った匂いと大釜から立ち上る怪しげな蒸気が充満している。客層はサイバーウェアのパーツを剥き出しにした炭鉱夫や疲弊した街の労働者ばかりだ。
二人は店内の隅にあるテーブル席についた。
リリィが手慣れた動作でテーブルのホログラムメニューを起動すると空間にいくつかの料理の立体映像と価格が表示される。
「注文を決めなさい。私は合成プロテインのスクイズで十分ですがあなたは何にしますか」
「…………」
ジンは表示された青白い文字の羅列を鬼のような形相で睨みつけたまま微動だにしなかった。
「何をしているのですか。早く決めてください。メニューが見えないのですか?」
「…チッ」
ジンはバツの悪そうな顔で視線をリリィから逸らし、ぶっきらぼうに吐き捨てた。
「どれが肉か分かんねえ」
「え?」
リリィの指先が空間でピタリと止まった。彼女は驚いたようにジンの尖った顔を見つめる。
ジンはそれが恥ずかしいことであるかのようにますます不機嫌そうに顔を歪めた。
「別に文字なんて読めなくたって今まで生きてこれた」
それはこの世界の下層区における残酷なまでの現実だった。教育を受けられず文字も読めない子供たちは企業の使い捨ての兵隊か、ギャングの鉄砲玉になるしかない。リリィはアマンダに拾われる前から最低限の電子教育を受けていたため、ジンのような「完全な文盲」の少年を目の当たりにして言葉を失ってしまった。
「…分かりました」
リリィの口調から、ほんの少しだけトゲが消えた。
「一番安くて一番量が多い、合成肉のタコスと大盛りの中華麺を注文します。それでいいですか?」
「お、おう。肉が入ってりゃ何でもいい」
やがて店の自動調理器からプラスチックの皿に盛られた料理が乱暴に運ばれてきた。
大盛りの麺類からは化学調味料の刺激的な匂いが立ち上り、合成肉のタコスからは不自然なほど赤いソースが溢れ出している。スラムの住人にとってはこれでも十分に「ご馳走」の部類だった。
「すげえ…!」
ジンの瞳が獲物を見つけた獣のように輝く。
テーブルに用意されていたフォークや箸には一切目もくれず、両手で直接タコスを掴むと口を裂けんばかりに大きく開けて文字通り喰らいついた。
「うめぇ!」
咀嚼もそこそこにジンは続いて大盛りの中華麺の皿を両手で持ち上げ、犬のように直接口をつけて麺を猛烈な勢いで啜り始めた。ズズズズッ!という下品な音が店内に響き渡る。
口の周りは赤いソースと油でドロドロになり頬には麺の切れ端が張り付いている。衣服の包帯にもスープの汁が容赦なく飛び散っていた。
「ちょっ!」
リリィは反射的に席を立ち上がり、懐から携帯用の除菌シートを取り出してジンの顔面に叩きつけた。
「フォークを使いなさい!箸が使えないならフォークです!なぜ両手で直接行くのですか!口の周りのソースを拭きなさい!そもそもちゃんと噛んでいますか?喉に詰まらせて死んだら洒落になりませんよ!」
「うるふぇえ!そんなのんびりしてたら横から他のヤツに奪われるだろうが!」
「ここは店です!誰もあなたの汚い食事を奪おうなどとは思いません!ほら、右手を使って、右手!」
リリィはお母さんのように、あるいは躾の厳しい猛獣使いのように次から次へと細かく注意を飛ばした。
ジンは「うるせえな!」と口答えをしながらも、リリィに言われるがまま不器用にフォークを握り直して麺を突き刺し口の周りをシートでゴシゴシと拭いた。
文句は言う。態度も最悪だ。しかしジンはリリィの指示にどこか素直に従っていた。
ジンの中にあったリリィに対する無意識の「警戒心」が、この美味い飯を前にして完全に消滅していたのだ。スラムの狂犬にとって「一緒に飯を食う、あるいは飯を奢ってくれる存在」は、少なくとも今すぐ背中から自分を刺してくる敵ではない、という原始的な信頼の証だった。
「はぁ…」
リリィはソファーに深く腰掛け、呆れ果てた溜息をついた。
あれほど鋭い殺気を放ち、企業のビルで自爆突撃を敢行し、「全員殺す」と吠えていたあの恐ろしい狂犬。その少年の正体が、いま目の前で口いっぱいに合成肉を突っ込んで「うめぇ、うめぇ」と貪り食っている。
その姿は狂犬などでは断じてなかった。
まともな教育も受けられず、常に飢えと隣り合わせで生きてきた「躾のなっていない、可哀想な小型犬」そのものだった。
「…本当に、ただの子供ですね、あなたは」
リリィのなかでジンに対する恐怖や、得体の知れない怪物への警戒感が完全に霧散した。残ったのは圧倒的なまでの「呆れ」とほんの少しの同情だった。
リリィは自分の前に置かれていた手付かずの合成肉のサイドディッシュの皿を見つめ、それからそれをジンの目の前へとスッと押し出した。
「私はプロテインだけで十分です。それもどうぞ」
「お、マジか!? てめぇ良い奴だな!」
「『てめぇ』ではなくリリィです。それと口の中のものは飲み込んでから喋りなさい」
ジンはリリィの小言などどこ吹く風で新しく差し出された肉に再び猛烈に喰らいついた。
酸性雨の降る冷酷な下層区の片隅。
大人の冷徹なチェス盤の上で踊らされる二人の少年少女の間に奇妙で、しかしどこか堅牢な「バディ」の絆がこの安飯屋のネオンの下で静かに産声を上げていた。