サイバーパンクな世界でスラムの少年が成り上がるやつ 作:ジョニー
8話
深夜の十三地区。その最底辺を流れる排水路は、世界のあらゆる汚濁を煮詰めたような場所だった。
上層区のビル群から吐き出された有害な化学物質、錆びついたジャンクの酸化鉄、そして行き場を失った人間の生活排水。それらが混ざり合い、ヘドロとなってドブ川の底に沈殿している。
「おい、早くしろよ。こんな臭い場所に長居したくねえ」
防護マスク越しに濁った声を漏らしたのは継ぎはぎのレザージャケットを着た男だった。名をトンプソン、かつてはアイアンファングの末端に籍を置くゴロツキだったが、組織の事実上の崩壊に伴い今やただの野良犬に成り下がっていた。
「分かってんだよ。だがよ、あのアマンダのクソ女の目が光ってて地上の倉庫には近づけねえんだ。ここを通るしかねえだろ」
もう一人の男が水路の壁面に設置された錆びついたバルブを回している。彼らはアマンダの自警団の目を盗み、他地区へ横流しするための違法薬物を密輸している最中だった。
夜霧が水面を低く這っている。
月光すら届かない地下水路の暗闇はいつも通り静まり返っているはずだった。
——ボコ、と。
不意に異質な音が湿った空間に響いた。
それはヘドロからガスが抜けるような音ではなかった。もっと規則的で、それはまるで何かが呼吸を始めたかのような不気味な泡立ちの音だった。
「…あァ? 何だ今の音」
バルブを回していた男が手を止め、ライトの光を水面へと向けた。
強力なLEDの光がドブ川の一角を照らし出す。
そこには周囲のヘドロとは明らかに異なる「何か」が存在していた。
それは、鮮やかで、そしてどこまでも禍々しい紫色の液体だった。
液体は物理法則を無視し、水面から数センチほど自律的に盛り上がっている。まるで意思を持つ生き物のように、細かく刻むような拍動を繰り返していた。
ライトの光を浴びたその表面で無数の微細な金属結晶のようなものがチカチカと明滅する。
「おいトンプソン、これを見ろ。何だこの色、薬品の不法投棄か?」
「知るかよ。気味が悪い、早くずらかるぞ」
トンプソンが不穏な気配を察知し相棒の肩を掴んだ、その瞬間だった。
ゾワリ、と水面が波立った。
紫色の液体は突如としてその体積を爆発的に膨張させた。水路の泥水を巻き込みながらそれは一本の巨大な触手、あるいは飢えた獣の顎のような形状へと瞬時に変貌する。
「なっ——」
悲鳴すらまともに上げられなかった。
触手と化した液体が弾丸のような速度でバルブの前の男へと飛びかかった。
男の顔面を紫の流体が完全に覆い尽くす。
「が、あ、……ッ!?」
男の身体が激しく痙攣した。しかし、その肉体から発せられるはずの「声」は流体の内部に完全に吸い込まれて響かない。
トンプソンの目の前で信じがたい光景が繰り広げられていた。
男の衣服が、皮膚が、肉が、そして骨までもが、ジュクジュクという微細な駆動音とともに、まるで強力な酸に融解されるようにして消滅していく。いや、融解というよりは、文字通り粒子レベルで噛み砕かれ、紫の流体の中に吸収されているようだった。
わずか三秒。
男の質量は完全に消失し、そこには人が居た痕跡が何一つ残っていない。
「ひっ、……あ、あああぁぁぁッ!!」
トンプソンは腰を抜かし尻餅をついた。
目の前の「それ」は人間一人を完全に捕食したことでさらにその輝きと質量を増していた。今やそれは四つん這いの獣のような形をとり、無数のナノマシンを駆動させながらじっとトンプソンを見つめている。
目も口もないはずなのに明確な殺意の視線。
「来るな、来ないでくれぇッ!」
トンプソンは必死に這いずり逃げようとした。
しかし紫の影が動いた瞬間、彼の視界は完全な暗黒へと染まり二度と戻ることはなかった。
水路には再び静寂が戻る。
そこには血痕も、肉片も、争った痕跡すら何一つ残されていない。ただ蛍光灯の光だけが不自然なほど綺麗に洗い流されたコンクリートの床を虚しく照らし続けていた。
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「——っていう感じの噂がここ数日で急に浮上してるの」
十三地区の中心、劇場跡地の『フルール』暫定本部でジンはアマンダと向き合っていた。
「…噂は噂だろ? それに行方不明事件って、別にスラムじゃそんなに珍しくもない」
ジンが淡々と言うとアマンダは首を横に振った。
「ただの失踪なら私もわざわざあなたを呼ばないわ」
「…呼び出しの理由ってこれなのか?え、マジでか?」
「ええ、本気よ。まずはこれを見て」
アマンダはコンテナのデスクの上に数枚の現場写真を放り出しながら、きっぱりとしたトーンで言った。デスクの前に立っているのはジンは差し出された写真を手に取り鋭い視線を落とした。
写真に写っているのはただの何の変哲もない水路や給水施設の裏口。争った形跡どころか、ゴミ一つ落ちていない奇妙なほど清潔な空間がそこにあった。
「目の前から忽然と姿を消したって報告されてる住人が、判明しているだけで十一人。それはその失踪した現場の写真よ」
「目の前から…?」
「ええ、数秒目を離したらいつの間にかって話よ。そして何よりも不自然なのは失踪したっていう現場を調べさせても血痕はおろか衣服の破片や持ち物、そもそもそこに人間が居たっていう痕跡すら現場に一切残っていなかったこと」
「そりゃまた随分手際がいいな」
「住人の間では人を浚う悪魔だのって話になってて、おびえて外出を控える者が増えてる…。せっかく掴みかけた地区の統制が、こんなくらだらない噂のせいで揺らぐのは御免なの」
アマンダは腕を組み不快そうに眉をひそめた。彼女の瞳には地区の代表としての責任感と正体の見えない脅威に対する苛立ちが混在していた。
「というわけで、ジン。この都市伝説の調査をお願い。こっちからはリリィを出すわ」
「…まあ、わかった、一応調べてみる」
ジンはデータパッドに事件のロケーション情報を転送するとアマンダに背を向けた。
劇場を出る少年の背中を見送りながらアマンダは小さく呟いた。
「気をつけてね、ジン。 …なんだか嫌な予感がするのよね」
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十三地区の外縁へと向かう一本の荒涼とした直線道路。そこを灰色の装甲を施された旧式の大型輸送車が、凄まじいエンジン音を響かせながら爆走していた。
路面の凹凸をまともに拾い車内が激しく揺れる。
「ぐえ…。うわ、ミスった最悪…。いつも言ってるけどもうちょっと安全運転には出来ない?」
助手席でシートを限界まで深く倒し、携帯端末の画面に没頭していた青年——カイルが、衝撃で端末を取り落としそうになりながら文句を言った。
ハンドルを握っているのは筋骨隆々の巨体にグラサン、そして見事なスキンヘッドが特徴の男——ブルースは、カイルの文句を完全に無視し表情一つ変えずにアクセルをさらに踏み込んだ。
「……フン」
鼻で短く息を鳴らす。それはブルースの「仕様がない」という意思表示だった。
「ハァ、あとちょっとでノーミスだったのに…、まあいいや。ねえ、ジン。アマンダさんの依頼じゃ断れないのは分かるけどさ、都市伝説の調査とかわざわざ僕たちまで連れて行く必要ある?」
カイルは拾い上げた端末をポケットに放り込み、後部座席に座るジンへと振り返った。数週間前にゲイリーの紹介でジンと組んで以来、彼らはいくつかの修羅場を共にしており、今ではすっかり遠慮のない距離感で接している。
「下っ端でダメだったから俺らの出番なんだよ。嫌なら車から降りて歩いて帰れ。誰も引き止めねえよ」
ジンは手元でハンドガンのマガジンをチェックしながら軽口を返す。
「うちの小っちゃいリーダーは相変わらず冷たいねえ。ちょっとした冗談だってば、もっとコミュニケーションとってこうよ。…戦場では息ピッタリなんだけどなあ」
カイルはヘラヘラと笑いながら、座席の横に立てかけられた長銃身のスナイパーライフルを愛おしそうに撫でた。やる気のない外見に反してそのライフルは丁寧にメンテナンスされており、彼の狙撃の腕が本物であることを無言で証明している。
『安心してください。サボったことは私からちゃんとボスに伝えておきます』
リリィが通信越しに淡々とした、しかし容赦のないトーンで口を挟んだ。
「あはは…。それは勘弁、いやマジで」
『ただでさえ仕事しないんですから、少ない仕事くらい真面目に働いたらどうですか?』
「うへぇ、相変わらずリリィは言うことがキッツいなぁ」
カイルは肩をすくめて苦笑いする。
ジンはそのやり取りを背中で聞きながら、フゥ、と小さくため息をついた。
カイルの軽口もリリィの容赦のないツッコミもここ数週間で完全に見慣れた光景だった。
ガガガガッ!
突如としてブルースが激しいブレーキを踏み、輸送車を横滑りさせながら停車させた。全員の身体が前に慣性で持っていかれる。
ブルースは無言でグラサンを指で押し上げ、バックミラー越しにジンと視線を合わせた。
「着いたぞ」
その低い地鳴りのような声が車内に響いた。ブルースが言葉を発したということはそこが戦場であるという意味だった。ブルースはシートの横から自身の身の丈ほどもある大型の重火器のロックをカチャリと外した。
「よし、仕事の時間だ」
ドアを開け、夜の冷気の中へと足を踏み出した。
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第八ブロック、下水処理場周辺。
そこは街灯のほとんどが破壊され、放置された錆びついたコンテナと巨大な排水パイプが入り組む迷路のようなエリアだった。周囲には強烈な化学薬品とドブの臭いが立ち込め、湿った霧が視界を遮っている。
「うわ、最悪。臭いし靴が汚れそうだし…。早く終わらせて帰ろう」
カイルは不満を口にしながらも輸送車のルーフへと身軽に飛び乗り、ライフルを構えて周囲のビルやコンテナの上へと視線を走らせた。その瞬間、彼の細い瞳から完全に気だるさが消え、獲物を狙う仕事人の鋭さが宿る。
「うーん、霧が濃いな。目視では厳しいかも、リリィ、そっちの端末でスキャン回して」
カイルがルーフの上から無線越しにリリィへ頼む。
『了解』
通信の向こうでリリィの冷淡な声が響き、即座に高出力のスキャンが開始された。
ブルースは重火器を抱え、輸送車の影で周囲を油断なく警戒している。その巨体はそれだけで強固な障壁のようだった。
その間、ジンは目を閉じ自身の空間認識能力を周囲へと拡張させた。
歪みのない三次元のグリッド線が静かに展開していく。入り組んだコンテナの配置、排水パイプの湾曲、霧の密度、そして仲間たちの位置。半径百メートル以内のあらゆる「質量」と「位置」が、完璧な立体マップとして脳内に描かれる。
「リリィ、どうだ」
ジンは目を開けずに問いかけると、リリィのどこか気味の悪さを噛み潰したような声が報告が入る。
『情報通り一部分だけ綺麗に消えすぎてて、まるで現場の空間ごと貪り食われたみたいですね…。もう少し詳しく調べてみます』
「貪り食われた、ねぇ。そんな怪物が本当にいるならお目にかかりたくないな」
ルーフの上のカイルが無線越しに皮肉気な声を出す。
ジンは脳内の立体マップをさらに微細に走査した。
風の動き、パイプを流れる水の音。何も異常はない。いつもの十三地区の澱んだ夜だ。
(ここはハズレか…)
そう思い探索を切り上げようとしたその瞬間、脳内マップの片隅で突如として「不自然な体積の移動」が感知された。
「……ん?」
ジンは眉をひそめる。
彼がマッピングしていたすぐ近くのオープン水路の水位。それが物理法則を完全に無視して不自然な流れとなっている。
「待て…、水路に何かいるぞ?」
ジンの言葉にカイルが即座にライフルの銃口を水路へと向けた。ブルースもまた無言で重火器のセーフティを解除する。
『ジン、目視で何か確認できますか?こっちのスキャンには何も映ってません』
彼女の優秀なセンサーが何も捉えていないことに不気味な違和感を覚えながらも、動いてる何かに意識を集中させる。
「これはなんだ…? …水、か?」
直後水路のコンクリートが爆発したかのように弾け飛び、大量の紫色の液体が巨大な触手となって夜空へと突き出された。
霧を引き裂き現れたその流体は、月光を浴びて、表面の無数のナノマシンがギラギラと金属的な輝きを放っている。
「うわ、何これキモっ!」
カイルがいつもの調子で叫びながらも、指先は完全に独立したプロの動きを見せた。
ライフルの鋭い銃声が夜の闇を切り裂く。放たれた特殊徹甲弾は、寸分の狂いもなく、空中を蠢く紫の流体の「中心」を射抜いた。
しかし——。
弾丸は、激しい水しぶきをあげるようにして、紫の液体をただ「透過」した。
液体は弾痕を一瞬で塞ぎ、何事もなかったかのように再び集束する。それどころか流体は、コンクリートの床に降り立つと無数のナノマシンを急激に駆動させ、四本足の奇怪な狼のような形態へとその姿を劇的に変化させた。
「グルルル……」という、機械の駆動音と獣の唸り声を混ぜ合わせたような不快な音が、その液体の塊から響く。
「…ちょっとこれはファンタジーがすぎるんじゃない?」
苦笑いを浮かべたカイルの無線から明らかな動揺の気配が漏れる。
そんな中、リリィはベース拠点のモニターに送り込まれてくるエラー寸前の数値を凝視し、その瞳に戦慄を走らせた。
『なにこれ、生物なんかじゃない。全部ナノマシンで構成された、自律型の流体兵器…?』
リリィの声が冷徹さを失い張り詰める。
『全員、一瞬でも触れたら死ぬと思ってください。実体を持った重機を踏み潰すのとはワケが違いますよ』
目の前に現れたのは十三地区の技術力では逆立ちしても作れない、メガコーポの「不気味な科学の暴力」。その正体不明の未知の兵器を前にジンはハンドガンを構え、鋭い視線で目の前の敵を睨みつける。
紫の獣がその体躯を大きく跳ね上げジンたちに向かって牙を剥いた。