サイバーパンクな世界でスラムの少年が成り上がるやつ 作:ジョニー
「来るぞ! 全員散れ!」
鋭い怒号が湿った霧を切り裂く。
目の前の物体から感じる強烈な殺意を感じ、ジンが地面を蹴り右側へ大きく跳躍した。
四本足の奇怪な獣の形へと変貌した紫の流体が、凄まじい駆動音を響かせながら突進してきた。その速度はジンの目をもってしても、コンマ数秒の猶予しか与えられないほどの爆発力だった。
しかし、その牙が最初に狙った獲物は一番近くにいるジンではなかった。
(まずい…!)
次の瞬間、世界のすべてを押し潰すような鈍く重い衝撃音が夜の闇に響き渡る。
「なッ、嘘、こっち!?」
カイルが悲鳴のような声を上げる。
流体の獣が激突したのは彼らの唯一の足であり、生命線でもある灰色の大型輸送車だった。
液体のはずの身体は、衝突の瞬間に強固な装甲をも穿つほどの超硬度へと変質していた。装甲車の中央部がまるで大型のプレス機にかけられたかのように一瞬でひしゃげ、弾き飛ばされる。
ベキベキとフレームがへし折れる不快な金属音が響き、歪んだ車体から火花が飛び散った。
そして潰された衝撃で燃料タンクが完全に損壊し、露出したバッテリーの火花がガソリンに引火する。
「伏せろッ!!」
ジンの叫びと同時に世界が真っ赤に染まった。
轟音。鼓膜を破らんばかりの爆発音が下水処理場のコンテナ群に反響する。輸送車は一瞬にして巨大な火の玉と化し、激しい爆風があらゆる方向に吹き荒れた。
「うわああああっ!?」
ルーフの上でライフルを構えていたカイルの身体が、爆風の直撃を受けて木の葉のように宙を舞った。炎の渦に呑まれかけながら彼の身体は放物線を描き、コンテナの向こう側の完全な暗闇の奥へと吹き飛ばされていく。
「カイル!」
ジンが叫ぶが応答はない。通信からはザザ、という激しいノイズが返ってくるだけだった。
「チッ……!」
ジンは口の中に溜まった鉄の味を吐き捨て、ハンドガンを構え直した。
彼らの周囲に広がっていた湿った霧は、車の爆発による熱風で一瞬にして吹き飛ばされている。赤黒い炎が揺らめく中、輸送車を紙切れのように引き裂いた『それ』はゆっくりとこちらへ向き直る。
「偶然じゃない。こいつ、明確に俺たちの退路を断ちに来やがった…」
ジンは冷や汗が背中を伝うのを感じながら、五感を限界まで研ぎ澄ませる。
自分達の『足』は失われた。この開けた下水処理場で実体を持たない化け物と正面から戦うしかない、最悪のゲームが強制的に開始されていた。
--------------------
「前に出る!」
ジンは叫ぶと同時に手にした小口径のハンドガンの引き金を絞った。
寸分の狂いもない精密射撃。放たれた三発の弾丸は正確に流体獣の頭部、胸部、そして前足の関節に命中する——はずだった。
パス、パス、パス。
奇妙に抜けた音が響く。
弾丸は文字通り紫色の流体を透過した。水面に小石を投げ込んだときのように、わずかな波紋がその表面に広がっただけで、弾丸はそのまま獣の身体を通り抜け背後のコンクリートの床に虚しく跳ね返った。
「クソが、何なんだよこの化け物」
ジンは毒づきながらバックステップで獣の爪を避けた。
獣が前足を振り下ろした場所のコンクリートがまるで豆腐のように深く抉れる。実体を持たない流体でありながら攻撃の瞬間だけは超重量の質量兵器へと姿を変える、それはあまりにも理不尽な特性だった。
「下がれ、ジン!」
地鳴りのような咆哮とともにブルースの巨大な体躯が前に出た。
彼の手には自身の身の丈ほどもある大型大口径砲が握られている。戦車の装甲すら易々と消し飛ばす、十三地区でも最大級の火力を誇る重火器だ。
ブルースが流体獣の胴体のド真ん中に砲口を向ける。
「吹き飛べ」
鼓膜が震えるほどの爆音が炸裂した。
強烈なマズルフラッシュが辺りを白く染め、大口径の榴弾が流体獣のど真ん中で炸裂する。凄まじい衝撃波が巻き起こり、下水処理場の古いコンクリート床が派手に砕け散った。
その圧倒的な破壊力によって紫色の身体は木端微塵に引き裂かれ、無数の、何千、何万という微細な紫色の欠片となって四散した。
「終わったか…? …いや、まだだ!」
ジンの空間認識が四散した欠片のいくつかが「異常な軌道」を描いているのを察知した。
爆風に従って飛び散ったはずの欠片のうち、数滴の大きな塊が空中で不自然に静止したのだ。そして、それらは瞬時に鋭い針のような形状へと変質し、ジンの死角——まさに首元を狙って弾丸以上の速度で射出された。
ジンは思考よりも先に身体を動かす。
ヒュッ、という空気を切り裂く鋭い音が耳元をかすめた。
紙一重。本当にあと数ミリ反応が遅れていれば、ジンの首筋は完全に消し飛ばされていただろう。地面を転がりながら頬に手を当てると、鋭利な刃物で切り裂かれたような細い傷からタラリと熱い血が流れ落ちていた。
「クソッ、今の死んでたぞ! ブルース!そっちは無事か!?」
「問題ない」
ジンが立ち上がりながら前方を見ると、絶望的な光景がそこにあった。
ブルースの大口径砲によってバラバラに吹き飛ばされたはずの紫色の欠片たちが、まるで磁石に吸い寄せられるかのように、猛烈な勢いで一箇所へと集まり始めていたのだ。
ジュクジュク、という無数の細かな機械の駆動音が不快に響く。
地面に散らばった液体も、空中に舞った飛沫も、すべてが意思を持つようにして元の場所に引き戻され、数秒もしないうちに、再び元の「四本足の獣」の姿へと再構成されていく。
「…おいおい、嘘だろ。どうすりゃ死ぬんだ、この生き物は」
ただ、大口径砲の凄まじい爆発エネルギーと熱に晒されたためか、再構成された獣の体積は、最初の状態よりもほんの数パーセントだけ減少しているように見えた。
「続けるか?」
「…いや、大口径はなしだな。あれをもう一回避けきれる自信はねえ」
ジンはハンドガンを構えたまま、じりじりと後退した。
通常の物理攻撃をいくら繰り返しても、こいつを完全に無力化することはできない。
攻略方の見えない敵に焦りだけが募っていく、そんな最悪の状況。
『――分析完了』
しばらく沈黙していたインカムからリリィの声が響く。
「リリィ、あいつの正体はなんだ。何をやったら死ぬ?」
ジンは視線を獣から外さずに問いかける。
『あれの内部、流体の中に一つだけ他の部分とは明らかに違う高密度のナノマシン集合体を見つけました。それがコア、人間でいう脳ですね。それを破壊すれば確実に止まります』
『なら、そこを狙い撃てば終わりだね』
ザザ、というノイズ混じりの無線が入った。カイルの声だ。爆風で飛ばされはしたものの彼は持ち前の隠密技術を使い、長距離射撃が可能なポジションへと音もなく移動していた。
『…コアは流体の中で絶え間なく位置を移動しています。カイルの腕でも、動く液体の中にある数センチの的をブラインドで撃ち抜くのは無謀かと』
「じゃあ逃走に切り替えるか…?」
『いえ、見た目通り、あの身体の大部分はただの水分です。さっきブルースが大口径を撃ったとき少しだけ質量が減ったのは熱で水分が蒸発したからです。つまり一定以上の「大量の熱」を一気にぶつければ水分がなくなり、内部のナノマシンが熱で凝固して動きが鈍る。そうなればコアの動きも止まるはずです』
「なるほど、熱か…」
ジンは周囲を見回すが、そこに広がるのは下水処理場の冷たい空気だけだった。手元にあるのはハンドガンとブルースの大口径砲のみ。
「…リリィ。それでその大量の熱を出せるような装備は?」
『…全部、さっき爆発した車の荷台の中ですね』
リリィの言葉に一瞬の沈黙が流れた。
弱点は分かった。しかし、それを突くための武器は戦闘開始と同時に完全に破壊されていたのだ。敵の戦術の確かさにジンは奥歯を噛み締めた。
『いや、まだ方法はあるよ』
カイルの声が、冷徹に作戦を組み立てていく。
『さっき大破した輸送車。吹っ飛ばされる時に見えたけど、メインの超高圧バッテリーはまだ生きてた。あの残骸のバッテリーの電極を無理やり直結させて、残ったガソリンの残渣と冷却液を内部でショートさせれば凄まじい熱量を撒き散らす即席のサーマルボムになるんじゃないかな』
「ブルース、いけるか?」
「…一分は必要だ」
「一分だな、了解した」
ジンはハンドガンのグリップを強く握り直した。
「よし、ブルース、準備を始めてくれ。カイルはいつでも撃てるように準備を」
『オーケー』
カイルの気配が完全に闇の中に溶けていく。
「さてと、こういうのは数週間前の大型機以来か?ちょっと前の出来事なのに懐かしい気分だ」
『こんな時に思い出話とは案外余裕そうですね?』
「ハッ、こんなの余裕に決まってんだろ。成長してんだよ、俺も」
『確かに文字は読めるようになってきましたね。残念ながら計算のほうはまだまだですが』
「そんだけできりゃこんな化け物余裕だろ。 ――よし、行くぞ、リリィ」
流体の獣が邪魔なブルースの動きを察知したのかその頭部を動かした。だがそれよりも早くジンが地面を強く蹴って前に出る。
『——戦術支援プログラム、同期。いつでもいけます』
「てめえの相手はこっちだ、来いよバケモン!殺し合いだ!」
ハンドガンを連射し透過すると分かっていても、殺意を込めてその顔面に弾丸を浴びせかける。
獣が激しい駆動音を立て標的をジンへと固定した。一分間の命がけの時間稼ぎが始まる。