The Reversed Star――逆位置の星―― 作:ほいみん
※独自解釈/女性体オリジナルサーヴァント/ギルガメッシュ×アトラス/異性CP要素/神話・型月設定の独自再構成を含みます。
※本文制作に文章生成AI補助を使用しています。掲載イラストは作者による手描きです。
詳しい注意事項・AI使用表記・制作FAQはこちら:
【作品案内URL】
https://docs.google.com/document/d/1GdwYLijsN-D6iR4MKAlV2ziDaThI6rrddGUy8nim0KE/edit?usp=drive_link
アトラス設定資料はこちら:
【設定資料URL】
https://docs.google.com/document/d/1Gdk-aR_oVREDxgTlwfcmQzWDoM_qF-cY2UsIi8TS6_0/edit?usp=drive_link
召喚陣の光は、途中で色を変えた。
白でもない。
金でもない。
魔力の青でもない。
床に広がったのは、黒に近い海の色だった。
カルデアの召喚室に幾度となく満ちた霊子の光が、そこで別の深度を得る。
床面に刻まれた術式が円環を描き、霊子の風が渦を巻く。
その中心を、藤丸立香は見つめていた。
隣にはマシュがいる。
管制卓の向こうでは、ダ・ヴィンチがいつもより少しだけ真面目な顔で数値を追っていた。
「霊基反応、来るよ。クラスは……ランサー。けど、妙だな。神性反応がかなり強い。いや、これは……」
ダ・ヴィンチの声がそこで止まる。
磨かれたカルデアの床面が、一瞬、深度を持ったように揺らいだ。
床であるはずのものが底を失い、黒い水面のように沈む。
そこから、冷たい潮の気配が立ち上った。
波音はない。
だが、そこには確かに海があった。
深く、静かで、光の届かない海。
人の足を拒む深度。
墓標のように沈んだ都市の輪郭。
そしてその奥に、誰かが座るべき玉座の気配。
マシュが息を呑んだ。
「先輩……これは」
「うん」
立香は、召喚陣から目を逸らせなかった。
海が来る。
そう思った。
サーヴァントが現れる、というよりも。
英霊が形を取る、というよりも。
海そのものが、王冠を被って歩み出てくる。
黒に近い潮の光が、縦に裂けた。
そこから現れたのは、一人の槍兵だった。
三叉の槍を携えている。
全身を覆う鎧は、燃えるような輝きを湛えた紺碧。
ただし、それは火の色ではない。
水底に沈んだ炎の色。
夜の海面に雷光が一瞬だけ落ち、その光が冷えたまま金属となったような色。
その武具の造形は、立香の知るどの時代にも属していなかった。
古代とも違う。
中世とも違う。
近未来とも、神代とも言い切れない。
時代を推測しようとすると、逆に時間の方が手を離していく。
兜の下から長く伸びる髪は、淡い水青だった。
月光を沈めた海面。
あるいは青磁の奥、氷河の内側に閉じ込められた光。
少女の姿をしている。
けれど、第一印象は美少女ではなかった。
海底から来た王。
王権を持つ異物。
海そのものが、王冠を被って立っている。
そして、その目。
血色の瞳。
だがギルガメッシュの赤のように、宝石や火を思わせる輝きではない。
血を薄く海水へ溶かしたような、冷たい血色。
命の熱を含みながら、それを深海に沈めたような色。
その奥で、沈んだ星のような光が、かすかに揺れていた。
彼女は、召喚陣の中央に立ち、ゆっくりと立香を見た。
潮の気配が、まだ足元に残っている。
そして、言った。
「ランサー、大洋王アトラス。召喚に応じた」
声は低く、硬い。
古風でありながら、どこか機械的だった。
尊大で、緊張感が薄い。
まるで、王が王であることに疲れ、しかし王であることをやめる選択肢だけは持っていない者の声。
「己(おれ)は王を望んだ者ではない。王座が空いたゆえ、座った者だ」
立香は黙って聞いた。
マシュも動かない。
アトラスは続けた。
「沈んだ国、折れた王冠、届かなかった祈り――それらを海底に置き、なお裁定する」
その言葉の一つ一つが、召喚室の空気を沈めていく。
沈んだ国。
折れた王冠。
届かなかった祈り。
立香は、そのどれもまだ知らない。
けれど、それらが彼女の背後にあることだけは分かった。
アトラスは三叉槍をわずかに下げる。
「カルデアのマスター。汝が未来を望むなら、己の海を使え」
それは、申し出というより裁定だった。
「ただし、沈むな。己は、沈む者を拾うために来たのではない」
冷たい言葉だった。
でも、突き放すための言葉ではない。
立香は不思議とそう思った。
沈むな。
それは、彼女なりの条件なのだ。
立香は一歩前へ出た。
深海の気配が足元に絡む。
けれど、恐怖はなかった。
この海を前にして、怯えてはいけないと思った。
「うん。沈まない」
アトラスの血色の瞳が、わずかに揺れた。
立香は続けた。
「未来まで行くために、力を貸して。アトラス」
召喚室に、静かな間が落ちる。
アトラスは立香を見ていた。
測っているのか。
裁いているのか。
あるいは、沈むか沈まないかを確かめているのか。
やがて、彼女はほんの少しだけ目を伏せた。
「……よい返答だ」
その一言で、召喚室に残っていた海の色がわずかに薄くなる。
マシュがほっと息を吐いた。
「召喚、成功ですね。先輩」
「うん」
立香は頷いた。
けれど、胸の奥にはまだ、深海の冷たさが残っている。
アトラス。
大洋王。
この王は、カルデアに来た。
だが、彼女の海はまだ、どこか遠い海底に繋がっている。
「霊基安定を確認。マスター、マシュ、一旦そのまま待機して」
ダ・ヴィンチの声が戻る。
いつもの軽さはある。
けれど、そこに研究者としての緊張が混じっていた。
「これはなかなか、いや、かなり厄介な霊基だね」
アトラスが視線を向ける。
「万能を名乗る者か」
「そう。カルデアが誇る万能の天才、レオナルド・ダ・ヴィンチちゃんだ。よろしく、大洋王」
「己に過剰な自己紹介は不要だ」
「手厳しいなあ」
ダ・ヴィンチは笑いながらも、手元の解析結果から目を離さない。
「神性反応、極めて高位。海洋権能も確認。霊基の奥に王権に類する固定座標がある。さらに、内部に複数の記録層が畳み込まれている」
マシュが驚いたようにアトラスを見る。
「記録層、ですか」
「うん。個人の英霊というより、王宮、統治機構、沈没都市、記録保管庫……いや、うーん」
ダ・ヴィンチは困ったように笑った。
「霊基というより、沈没都市の王宮を丸ごと圧縮したみたいだね」
アトラスが言った。
「比喩が過剰だ」
ダ・ヴィンチはすぐに返す。
「外れてる?」
短い沈黙。
アトラスは視線を逸らさず、答えた。
「……外れてはいない」
「じゃあ比喩としては適切だね」
「過剰だと言った」
「でも外れてはいない」
「不快だ」
「それはごめん」
立香は思わず少し笑いそうになった。
マシュも小さく口元を緩める。
アトラスは無表情のままだが、怒っているわけではなさそうだった。
ダ・ヴィンチが再び真面目な声になる。
「ただ、注意点もある。アトラス、君の霊基は広域制御に特化している。戦場全体を沈める、圧をかける、領域を書き換える。構造を読む力は非常に高い」
「当然だ」
「でも、瞬間的な身体操作や純粋な武芸対応では、少し遅れる可能性がある。目の前の一手への反応より、盤面全体への処理を優先する傾向があるね」
「記録した」
アトラスはそれだけ言った。
否定しない。
気にしていないようにも見える。
けれど立香には、彼女がその指摘をただ受け流したのではなく、内部に格納したのだと分かった。
ダ・ヴィンチは頷く。
「うん。召喚直後の確認はここまでにしよう。マスター、マシュ、アトラスを一度居住区画へ案内してくれるかな。詳細な霊基チェックは後で行うよ」
「分かった」
「了解しました」
アトラスは召喚陣から一歩出る。
その足元に、ほんの一瞬だけ黒い海の色が滲んだ。
すぐに消える。
立香はその残像を見て、なぜか思った。
この人は、どこへ行っても海を連れてくる。
カルデアの白い廊下は、召喚室とは別の意味で冷たかった。
外の世界から切り離された施設。
人理を守るために作られた場所。
未来のために、過去へ潜る場所。
アトラスは、その廊下をゆっくり歩いていた。
淡い水青の髪が鎧の背に流れる。
三叉槍を携えた姿はあまりにも異質で、白い壁の中にあってもまったく馴染まない。
だが、浮いているわけでもなかった。
むしろカルデアの方が、彼女を前にしてほんの少し沈んで見える。
「アトラスさん」
マシュが遠慮がちに声をかける。
「カルデアには様々な時代、地域、神話のサーヴァントがいます。何か分からないことがあれば、私たちに聞いてください」
「分からぬことは多い」
アトラスは淡々と言った。
「だが、困ってはいない」
「そ、そうですか」
立香は少し笑った。
「カルデアは騒がしいけど、悪い場所じゃないよ」
「騒がしいのは好まぬ」
「うん、たぶんそう言うと思った」
アトラスの瞳が立香を見る。
「汝は、己を知ったように言う」
「まだ知らないよ。だからこれから知る」
アトラスはわずかに黙った。
何かを測るように。
「……よく沈まぬ娘だ」
「褒めてる?」
「観測だ」
「そっか」
立香が笑うと、アトラスはそれ以上何も言わなかった。
その時だった。
廊下の空気が変わった。
金色の圧。
人の気配というより、王の気配。
宝物庫の扉が遠くで開き、黄金の光が廊下を満たすような感覚。
立香はその気配に覚えがあった。
マシュもすぐに身構える。
「この霊基反応は……」
廊下の向こうから、ギルガメッシュが現れた。
黄金の鎧ではない。
カルデアで見慣れた装い。
けれどその王気は、服装などに左右されるものではなかった。
彼は歩みを止める。
赤い瞳が、アトラスを見た。
アトラスもまた、動きを止めていた。
その血色の瞳が、ギルガメッシュを捉える。
深海の底で、何かが揺れた。
アトラスが呟く。
「海が、荒れた」
ギルガメッシュの口元が吊り上がる。
「ほう」
その一音で、廊下の空気がさらに張り詰めた。
立香は二人を見比べる。
初対面のはずだ。
少なくとも、カルデアではそうであるはずだ。
けれど、この空気は初対面ではない。
海が岸を覚えているような。
岸が、かつて打ち寄せた波を忘れていないような。
そんな気配があった。
ギルガメッシュが言う。
「沈んだ国の墓守が、今度はカルデアへ流れ着いたか」
アトラスの瞳が細くなる。
「己は墓守ではない」
「では何だ」
「王だ」
即答だった。
迷いはない。
それを聞いて、ギルガメッシュは満足そうに笑った。
「よい。そこは忘れておらぬか」
「忘れて?」
アトラスの声がわずかに変わる。
ギルガメッシュは近づかない。
ただ、その場で腕を組み、彼女を見る。
「山門の夜を忘れたか、大洋王」
山門。
その言葉が落ちた瞬間、アトラスの周囲の空気が歪んだ。
立香には、何も見えないはずだった。
だが、一瞬だけ、白い廊下の向こうに別の景色が重なった。
夜。
石段。
山門。
冷えた空気。
黄金の門。
鎖の音。
裂ける空。
三叉槍が何かへ届く感触。
赤い瞳。
すべてが断片だった。
立香のものではない。
アトラスの内側から漏れた記録の欠片。
マシュが息を呑む。
「今のは……」
立香にも、今見えたものの意味は分からなかった。
あれが何の記録なのか。
誰の記憶なのか。
どこで起きたことなのか。
まだ、判断できない。
ただ、ひとつだけ分かった。
この王は、ギルガメッシュと、かつてどこかで向き合っている。
アトラスは、わずかに額へ手を当てた。
その仕草は苦痛というより、欠落した記録を照合しようとするものに近い。
「……知らぬ」
低い声だった。
ギルガメッシュの笑みが深くなる。
「ならば、今覚えろ」
アトラスが顔を上げる。
「お前は、己を知っているのか」
「知っているとも」
「己は、お前を知らぬ」
「記録が欠けているだけだ」
「不快だ」
「それは結構」
立香は口を挟むべきか迷った。
だが、その前に管制室から通信が入る。
『マスター! マシュ! 聞こえる!?』
ダ・ヴィンチの声が緊迫していた。
「ダ・ヴィンチちゃん?」
『シミュレーターが勝手に起動した! 内部フィールドが海底都市に書き換わってる!』
「海底都市?」
立香は思わずアトラスを見る。
アトラスは動じていない。
「己の霊基に反応したか」
『たぶんね! 召喚時に霊基から漏れた記録層が、シミュレーターの環境構築機能に干渉してる。普通ならあり得ないんだけど、君の霊基は普通じゃない!』
アトラスは淡々と言う。
「沈んだ国の記録だ。通常は海底に固定している」
ギルガメッシュが笑った。
「召喚早々、墓を持ち込んだか」
「墓ではない。王宮だ」
「ならば、崩すなよ。大洋王」
アトラスはギルガメッシュを見た。
「お前に言われずとも」
「どうかな」
彼の声は楽しげだった。
立香は二人の間に走る火花のようなものを感じながら、通信へ答える。
「ダ・ヴィンチちゃん、私たちはどうすればいい?」
『暴走フィールドを安定化させたい。できれば内部へ入って、記録層の核を切り離してほしい。放置するとシミュレーターだけでなく、カルデアの訓練系統全体へ侵食するかもしれない』
「分かった」
マシュが頷く。
「先輩、同行します」
アトラスも槍を握り直す。
「己の記録だ。己が処理する」
ギルガメッシュが歩き出す。
「我も行く」
立香は少し驚いた。
「ギルガメッシュさんも?」
「当然だ。沈んだ王宮とやらが、どれほどのものか見てやる」
アトラスが言う。
「見世物ではない」
「ならば価値あるものとして扱え」
「不快だ」
「それも聞き飽きた」
シミュレーターの扉が開いた時、そこから流れ出たのは水ではなかった。
だが、空気が変わった。
塩の匂いはない。
潮風もない。
ただ、深度がある。
一歩踏み込むと、カルデアの白い壁は消えた。
そこは海底だった。
ただし、現実の海底ではない。
水の圧力は感じるのに、呼吸はできる。
視界は暗いのに、建物の輪郭は見える。
上を見上げても水面はなく、ただ黒く沈んだ空間が広がっている。
王宮があった。
沈んだ王宮。
高い柱は折れ、広場には亀裂が走り、石畳の隙間から青白い光が漏れている。
遠くには玉座の間らしき影があり、その上には折れた王冠のような紋章が揺らいでいた。
美しい。
だが、それ以上に重い。
ここには国があった。
祈りがあった。
期待があった。
そして、それらは沈んだ。
マシュが小さく言った。
「ここが……アトラスさんの王宮」
「記録層に過ぎぬ」
アトラスはそう言った。
だが、その声は普段よりも低かった。
ダ・ヴィンチの通信が入る。
『内部フィールド確認。これは……すごいな。シミュレーターに再現されたものとはいえ、情報密度が高すぎる。都市の一部、王宮機構、記録保管層、王権認証の残滓が混ざってる』
続けて、ダ・ヴィンチがわずかに声の調子を変えた。
『ただの環境構築じゃない。カルデアのシミュレーターの上に、彼女がかつて統治した世界のテクスチャが重なってる。戦場を、自分の深度へ引きずり込むタイプの王様だね』
ギルガメッシュは周囲を見渡した。
「ふん。陰気な宮殿だ」
「沈んでいるゆえな」
「沈めたのは貴様だろう」
アトラスは答えなかった。
その沈黙に、立香は何かを感じた。
肯定でもない。
否定でもない。
それは、既に下された裁定が、今さら言葉を必要としないという沈黙だった。
広場の奥から、敵性反応が現れる。
人影のようなもの。
王宮の守衛なのか、記録層の防衛機構なのか。
青白い光で構成された複数の影が、槍や剣の形を持って近づいてくる。
ダ・ヴィンチが叫ぶ。
『防衛機構だ! シミュレーターが敵性体として出力してる!』
「マシュ!」
「はい!」
マシュが前に出る。
盾が防衛機構の一撃を受け止めた。
アトラスは三叉槍を掲げる。
「己が領域で騒ぐな」
その声とともに、広場全体に見えない圧が落ちた。
深海圧。
敵性体の動きが鈍る。
関節が軋み、武器の先が沈み、青白い影が足場へ縫い止められる。
アトラスは広場全体を見ていた。
敵そのものではない。
敵の配置。
王宮の亀裂。
記録層の流れ。
シミュレーターの歪み。
すべてを同時に読んでいる。
「左後方、三。右奥に核反応。正面は囮」
アトラスが淡々と言う。
立香はすぐに指示を出す。
「マシュ、左後方を抑えて! ギルガメッシュさん、右奥を!」
「我に命じるとはな」
そう言いながら、ギルガメッシュはすでに宝具を射出していた。
黄金の剣が右奥の柱を貫く。
そこに潜んでいた核反応が砕け、防衛機構が一斉に揺らいだ。
マシュも左側の敵を押さえる。
アトラスの深海圧が広場全体を制御し、敵の動きを封じていく。
強い。
立香はそう思った。
アトラスは、一対一の瞬間的な斬り合いではない。
戦場そのものを沈める。
敵が動く前に、場の条件を変える。
王宮の広場は、彼女の掌の中にあるようだった。
だが、次の瞬間。
天井に当たる場所から、細い影が落ちた。
深海圧の影響を受けにくい、高速型の防衛機構。
槍先が、立香の背後を狙っている。
アトラスの反応が、一拍遅れた。
彼女は広場全体を読んでいた。
核と記録層と敵陣の構造を把握していた。
だが、目の前の一瞬だけ、身体が遅れた。
「マスター!」
マシュが叫ぶ。
その影が立香へ届くより早く、黄金の鎖が走った。
続いて宝具が突き刺さる。
高速型の影が空中で砕け散った。
ギルガメッシュが言う。
「遅い」
アトラスは影の残滓を見ていた。
「必要な処理だった」
「戦場は貴様の演算を待たぬ」
アトラスは短く答えた。
「記録した」
ギルガメッシュは鼻を鳴らす。
「記録で済むうちはよいがな」
立香は二人を見る。
ギルの言葉は厳しい。
だが、それは嘲笑ではなかった。
欠点を見抜き、突きつけている。
それをアトラスも否定しない。
マシュが立香のそばに戻る。
「先輩、お怪我は?」
「大丈夫。ありがとう、マシュ。ギルガメッシュさんも」
「礼など不要だ。目の前でマスターを落とされては、我の目が腐る」
「言い方」
立香が苦笑すると、ギルガメッシュは笑った。
アトラスは何も言わない。
ただ、次の瞬間から彼女の制御は変わっていた。
広場全体を沈める圧の中に、立香とマシュの周囲だけ小さな流れが作られる。
敵の急襲が入り込む前に、海流がそれを逸らす。
記録した。
それは本当に、次の処理へ反映されていた。
防衛機構を退けながら、彼らは王宮の奥へ進む。
玉座の間に近づくにつれ、景色はさらに濃くなった。
壁に刻まれた文字。
沈んだ旗。
水の中で揺れる幻影のような人々。
祈る声。
名を呼ぶ声。
王を求める声。
マシュが表情を曇らせる。
「声が……」
「聞くな」
アトラスが言った。
「これは残響だ。現在の意思ではない」
しかし、その声は消えない。
王を。
王を。
どうか、王を。
玉座の前に、影が立っていた。
他の防衛機構とは違う。
輪郭は曖昧だが、王冠に似た光を戴いている。
その姿には、どこかアトラスに似た気配があった。
けれど、立香は直感する。
これはアトラスではない。
もっと柔らかい。
もっと人々に向けて開かれていた王。
祈りを受け止め、期待を背負い、それに潰された誰か。
影が口を開く。
『アトラス』
ただ一言。
その呼びかけで、アトラスが止まった。
深海圧が一瞬、弱まる。
防衛機構の残滓が蠢く。
マシュが盾を構える。
「アトラスさん!」
アトラスは動かない。
血色の瞳が、影を見ている。
「兄……」
ごく小さな声だった。
立香は息を呑む。
兄。
ギルガメッシュの声が飛んだ。
「幻に膝を折るな、大洋王」
その言葉が、鋭く響いた。
アトラスの瞳が動く。
ギルガメッシュは玉座の影を睨んでいる。
「王宮の残滓が見せる影に、玉座を返す気か」
アトラスはしばらく黙った。
影はもう一度呼ぶ。
『アトラス』
その声は優しい。
だからこそ、重い。
アトラスは槍を握り直す。
「兄は、己に裁定を委ねぬ」
血色の瞳が、影を正面から捉えた。
「兄であれば、己へ戻れとは言わぬ。王座を返せとも言わぬ。民の祈りを再び背負えとも言わぬ」
影が揺らぐ。
アトラスの声が、深く沈む。
「ゆえに、これは己の裁定だ」
彼女は一歩前へ出る。
深海圧が戻る。
いや、先ほどよりも深い。
玉座の間全体が、水底へ沈む。
「沈んだものは、王座を奪う理由にはならぬ」
影が歪む。
折れた王冠の光が砕ける。
だがアトラスは、影を破壊しなかった。
槍を突き立てる先は、影ではない。
玉座の下。
シミュレーターへ漏れ出している記録層の接続点。
「記録層を切断。王宮座標を海底へ再固定する」
ダ・ヴィンチが通信越しに反応する。
『接続点を特定したのか! 補助するよ。シミュレーター側の制御を一時的に開く。アトラス、切断のタイミングを合わせて!』
「不要と言いたいところだが」
アトラスは目を細める。
「今は要る」
「素直でよろしい!」
ダ・ヴィンチの操作で、玉座の下に術式が浮かび上がる。
アトラスの三叉槍が、それを深海の圧で押し込む。
ギルガメッシュが宝具を放ち、周囲から迫る防衛機構を砕く。
マシュが立香の前で盾を構え、立香は霊基安定の補助指示を送る。
「アトラス、今!」
立香の声に、アトラスが槍を振り下ろす。
「これは過去だ」
槍先が、接続点を貫いた。
「現在の戦場ではない」
玉座の間が震える。
沈んだ王宮が、さらに深く沈んでいく。
折れた王冠。
祈る声。
兄王の影。
すべてが黒に近い海の奥へ戻っていく。
破壊ではない。
封印でもない。
再固定。
あるべき深度へ戻す処理。
影が最後に揺れた。
アトラスを見ているようにも、見ていないようにも見えた。
そして消えた。
シミュレーターの海底王宮が、青白い光の粒となって崩れていく。
カルデアの白い壁が、少しずつ戻ってくる。
深度が失われる。
潮の気配が消える。
ただ、立香の胸の奥には、沈んだ王宮の重さが残っていた。
シミュレーターが完全停止した時、四人は訓練室の中央に立っていた。
ダ・ヴィンチの通信が安堵の声を漏らす。
『シミュレーター安定化。記録層の侵食、停止。お疲れさま、みんな』
マシュが盾を下ろす。
「先輩、ご無事ですか?」
「うん。マシュも大丈夫?」
「はい」
アトラスは槍を下ろした。
その表情は変わらない。
だが、立香には分かった。
彼女は今、ただの戦闘を終えたわけではない。
自分の海底から漏れ出した過去を、もう一度沈めたのだ。
ギルガメッシュが言う。
「未熟だな」
アトラスは彼を見る。
「否定しない」
即答だった。
ギルガメッシュは笑う。
「だが、偽物ではない」
その言葉に、立香は少し驚いた。
アトラスも、わずかに沈黙する。
ギルガメッシュは続けた。
「王冠を欲したのではない。王冠が落ちぬよう支えている類だ」
彼の赤い瞳が、アトラスを射抜く。
「重い。暗い。面倒だ。だが、王だ」
召喚室で、アトラスは自分を王だと言った。
廊下で、ギルガメッシュに問われてもそう答えた。
そして今、ギルガメッシュがそれを認めた。
アトラスは静かに言う。
「お前の認定は不要だ」
「ならば聞き流せ」
ギルガメッシュは当然のように返した。
アトラスは黙る。
聞き流せばいい。
そう言われているのに、聞き流せていない。
立香には、それが分かった。
表情には出ない。
声にも出ない。
けれど、アトラスの沈黙はほんの少しだけ深くなった。
ギルガメッシュは踵を返す。
去り際、彼は振り返らずに言った。
「山門の夜、貴様は我に届いた」
アトラスの目が細くなる。
また、断片が浮かぶ。
夜の石段。
山門。
黄金の門。
鎖の音。
赤い瞳。
三叉槍が空を裂く感触。
届いた。
その言葉だけが、深海へ沈まずに残る。
ギルガメッシュは続ける。
「だが、届いただけで満足していた」
アトラスの声が低くなる。
「……届いた、という言葉は不快だ」
ギルガメッシュが足を止める。
「ほう」
「勝敗を曖昧にする」
静かな言葉だった。
だが、そこには先ほどの深海圧に似た重さがあった。
立香は、その言葉の温度に気づいた。
それまでアトラスは、名も、王座も、国も、すべて裁定の言葉で語っていた。
けれど今だけは違う。
勝敗。
それは、この王が初めて見せた、個人的な執着に近かった。
ギルガメッシュが振り返る。
赤い瞳が愉快そうに細められている。
「ならば、何を望む」
それは命令ではなかった。
断罪でも、救済でもない。
ただ、答えを本人の側へ押し戻す問いだった。
アトラスは、迷わなかった。
「次は、膝だ」
立香は息を呑んだ。
マシュも目を見開く。
ギルガメッシュは、一瞬沈黙した。
次に、笑った。
「クハハハハ!」
訓練室に、英雄王の笑い声が響く。
「よい。ようやく海が勝敗を欲したか」
アトラスは表情を変えない。
だが、その血色の瞳には、初めて微かな火が見えた。
冷たい海水に溶けた血の色。
その奥に、水底の炎が灯る。
ギルガメッシュは言った。
「ならば来い、大洋王。今度は届くだけでは済ませるな」
アトラスは短く答える。
「当然だ」
ギルガメッシュは満足げに笑い、今度こそ去っていった。
黄金の気配が廊下の向こうへ消える。
訓練室には、しばらく沈黙が残った。
立香はアトラスを見る。
「アトラス」
「何だ」
「山門の夜って、何?」
アトラスは少しだけ沈黙した。
「知らぬ」
そして、続ける。
「だが、海は岸を覚えていることがある」
立香は、その言葉を聞いた。
すべては語られない。
山門の夜に何があったのか。
なぜアトラスの記憶は欠けているのか。
彼女の槍はどこまで届き、届いた先で何を得られなかったのか。
今はまだ、分からない。
けれど、一つだけ分かった。
山門の夜に、海は一度、黄金の岸へ届いた。
そして今、その海はもう、届いただけでは満足しない。
アトラスは訓練室の出口へ歩き出す。
マシュが立香の隣で小さく言った。
「先輩」
「うん」
「すごい方が、来ましたね」
立香は頷く。
「うん。すごく、重い人だ」
でも、と立香は思う。
沈まない、と答えた。
未来まで行くために力を貸して、と言った。
そしてアトラスは、よい返答だと認めた。
ならば、自分は沈まない。
この海を、使う。
この王と、未来へ行く。
アトラスがふと足を止める。
「マスター」
「何?」
「先刻の返答を忘れるな」
「沈まない、ってやつ?」
「そうだ」
立香は笑った。
「忘れないよ」
アトラスは、それ以上何も言わなかった。
ただ、訓練室の扉が開いた時、その背に揺れる淡い水青の髪が、深海の中でほんの少しだけ光ったように見えた。
海は黄金の岸を覚えている。
そして岸もまた、海が届いた夜を忘れてはいなかった。