The Reversed Star――逆位置の星―― 作:ほいみん
※独自解釈/女性体オリジナルサーヴァント/ギルガメッシュ×アトラス/文章生成AI補助あり。
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沈んだ王宮は、消えなかった。
シミュレーターの暴走は止まった。
海底都市に書き換えられていた内部フィールドも、カルデアの白い訓練室へ戻った。
敵性反応は消失し、防衛機構の残滓もダ・ヴィンチの手で凍結された。
事件としては、解決した。
けれど、何かが残っていた。
カルデアの記録保管領域、その深い層に、ごく薄い影が滲んでいる。
音ではない。
映像でもない。
だが、近づくと、聞こえる気がする。
王を。
どうか、王を。
誰かが名を呼ぶ声。
祈りの形をした残響。
沈んだはずの王宮の、まだ沈みきらない記録。
ダ・ヴィンチは管制室の端末に向かいながら、小さく息を吐いた。
「うーん。やっぱり完全には消えていないね」
藤丸立香は、その隣に立っていた。
マシュもまた、少し緊張した面持ちで画面を覗き込んでいる。
「シミュレーターは安定したんだよね?」
「うん。暴走は止まってる。訓練系統への侵食もない。そこは大丈夫」
ダ・ヴィンチは指先で画面を操作する。
表示されたのは、青黒い波形だった。
通常の魔力反応とも、霊基反応とも違う。
何かが記録として残り、しかし完全なデータとしては定義しきれないもの。
「敵性反応はもうない。だけど、完全に無害とも言い切れない。これは攻撃じゃなくて、記録の残響だ。王宮に残っていた祈り、呼び声、未処理の王権ログ……そういうものが、カルデアの保管層に薄く滲んでいる」
マシュが眉を寄せる。
「祈りや呼び声……ですか」
「そう。死者そのものではない。意思を持って動いているわけでもない。でも、記録された時点でそこに感情があったなら、ただのデータとも言い切れない」
部屋の奥に立っていたアトラスが、静かに言った。
「削除せよ」
その声に迷いはなかった。
昨日召喚されたばかりの大洋王は、今日も眠たげな表情のまま、三叉槍を携えて立っている。
燃えるような輝きを湛えた紺碧の鎧。
淡い水青の髪。
血を薄く海水に溶かしたような、冷たい血色の瞳。
彼女がそこに立っているだけで、管制室の空気は少し深くなる。
ダ・ヴィンチは振り返った。
「簡単にはできない。というより、削除していいものか判断が必要だ」
「不要だ。記録層は己(おれ)が処理する」
「アトラス」
立香は彼女を見る。
アトラスは立香へ視線を向けた。
「何だ」
「処理って、消すってこと?」
「漏出した記録は、現在の戦場に不要だ。不要なものは除く」
「でも、それは……」
言いかけて、立香は言葉を探した。
あの海底王宮で聞こえた声。
王を求める残響。
兄王らしき影。
折れた王冠。
あれらを、ただ不要と呼んでいいのか。
分からない。
けれど、分からないまま消していいとも思えなかった。
立香は一度、息を吸った。
「それは、アトラスが沈めたものなんでしょう」
アトラスの瞳が、わずかに細くなる。
「そうだ」
「だったら、消す前に知りたい」
「知る必要はない」
「必要かどうかじゃなくて」
立香は、青黒い波形を見る。
そこにはまだ形のない声がある。
誰かが王を呼んでいる。
もう届かなかったかもしれない祈りが、残っている。
「マスターとして、知りたい」
管制室に、短い沈黙が落ちた。
マシュが立香を見る。
ダ・ヴィンチも手を止める。
アトラスは、立香を見ていた。
冷たい血色の瞳。
深海の底に薄く血を溶かしたような目。
「汝は、沈まぬと言った」
「うん」
「ならば、海底を覗き込む必要はない。沈まぬ者は、海の底を知らずともよい」
その言葉は、拒絶だった。
だが、立香には分かった。
それは突き放すためだけの拒絶ではない。
沈むな、と言った王がいる。
沈む者を拾うために来たのではない、と告げた王がいる。
ならば、その王はきっと、誰かが自分の海へ沈んでくることを望んでいない。
だから立香は、首を横に振った。
「沈まないよ」
アトラスは何も言わない。
「でも、見ないとは言ってない」
マシュが小さく息を呑む。
立香は続けた。
「アトラスの海に沈むつもりはない。でも、隣に立つなら、そこに何があるのか知りたい」
アトラスは、しばらく黙っていた。
表情は動かない。
けれど、その沈黙は、さっきより深かった。
「……よく沈まぬ娘だ」
「褒めてる?」
「観測だ」
昨日と同じ答え。
けれど、少しだけ響きが違うように聞こえた。
ダ・ヴィンチが、ゆっくり息を吐く。
「なら、やっぱり別の視点が必要だね。これを単なる記録として処理するのではなく、祈りや死者の残響として見られる誰かが」
マシュが静かに口を開いた。
「先輩。もし可能なら、あの残響を別の視点から見ていただける方に相談するのはどうでしょう」
「別の視点?」
「はい。死者や墓、王としての責任について、深く理解されている方に」
立香は少し考え、それから頷いた。
「ニトクリスさん」
アトラスの瞳がわずかに動いた。
「誰だ」
「エジプトの女王。死者の世界や冥界に関わる力を持つサーヴァントだよ」
アトラスは少し沈黙した。
「王か」
「うん」
「ならば、呼べ」
短い返答だった。
否定ではない。
立香はすぐに通信を入れた。
ニトクリスは、程なく管制室に現れた。
いつものように背筋を伸ばし、王としての気品をまとっている。
だが、管制室へ一歩入った瞬間、その表情が変わった。
笑みが消える。
彼女の目が、空気の奥を見る。
立香は、その変化に気づいた。
「ニトクリスさん」
「マスター。事情は聞きました」
ニトクリスは頷き、それからアトラスへ向き直る。
初めて会う二人の王。
片方は砂と墓と冥界を知る女王。
片方は海底に沈んだ王宮を抱える大洋王。
ニトクリスは、深く礼をした。
「あなたが、大洋王アトラスですね」
アトラスは彼女を見た。
「そう呼ばれている」
「沈んだ王宮の気配がします」
ニトクリスの声は静かだった。
責める響きはない。
好奇心もない。
ただ、死者の前に立つ者の慎みがある。
「いえ……王宮だけではありません。葬られた祈りの気配です」
アトラスの血色の瞳が、細くなる。
「墓ではない」
即座の否定だった。
墓と呼べば、そこにあった政も、祈りも、王座も、すべて死者のための場所へ分類される。
アトラスにとって、それは違った。
墓ではない。
王宮だ。
アトラスは、そこだけは譲らない。
ニトクリスは一度まばたきをした。
そして、静かに頷く。
「では、王宮なのですね」
「そうだ」
「ならば、なおさら丁重に扱わねばなりません」
アトラスは黙った。
拒絶されると思っていたのかもしれない。
あるいは、墓ではないと言った時点でそれ以上の会話は不要だと考えていたのかもしれない。
ニトクリスは、そのどちらでもない場所へ言葉を置いた。
ダ・ヴィンチが小さく笑う。
「助かったよ、ニトクリス。アトラスの記録層は、魔術的にも霊基的にもかなり特殊でね。私の解析だけだと“記録”としての処理に寄りすぎる。君には、そこに残っている祈りや死者の気配を見てもらいたい」
「承知しました」
ニトクリスは端末の前へ進む。
アトラスも動いた。
「己も立ち会う」
「もちろん」
ダ・ヴィンチが頷く。
「これは君の王宮だ。君なしで処理するつもりはないよ」
「己の王宮ではない」
「え?」
立香が思わず声を漏らした。
アトラスは画面に映る青黒い波形を見ている。
「これは沈んだ国の記録だ。己が持ち歩くべき所有物ではない」
ニトクリスが、少しだけ目を伏せる。
「それでも、あなたの霊基から漏れたのでしょう」
「そうだ」
「ならば、あなたが扉なのでしょうね」
アトラスは答えなかった。
ダ・ヴィンチが操作を始める。
「じゃあ、残響を可視化する。危険があればすぐ停止するから、全員注意して」
管制室の照明が少し落ちた。
端末の上に、青黒い光が浮かび上がる。
それは最初、ただの霧だった。
やがて形を取る。
広場。
石畳。
折れた柱。
沈んだ旗。
水の中に溶けたような人影。
シミュレーターで見た王宮よりも、ずっと小さい。
けれど、こちらの方が静かだった。
戦場ではない。
防衛機構もいない。
ただ、記録だけがある。
玉座へ続く廊下に、人々の影が並んでいた。
顔は見えない。
声も明確には聞こえない。
それでも、祈っていることは分かった。
王を。
王を。
どうか、王を。
マシュが小さく息を吸った。
「これは……亡くなった方々の声、なのでしょうか」
ダ・ヴィンチが答える。
「正確には、死者そのものじゃない。記録だ。でも、記録された時点でそこに感情があったなら、ただのデータとも言い切れない」
ニトクリスは光の中の影を見つめていた。
「死者の声ではなくとも、死者へ向けられた祈りは残ります」
アトラスが言う。
「祈りは届かなかった」
淡々とした声だった。
だが、その言葉はあまりに重かった。
その声に揺れはなかった。
けれど、揺れないように作られた声だと、立香には思えた。
ニトクリスはアトラスを見る。
「届かなかった祈りも、祈りです」
アトラスの表情は変わらない。
「届かぬ祈りに意味はない」
「そうでしょうか」
「祈りは、結果を変えなかった。王を救わず、国を保たず、未来を繋がなかった」
その言葉に、立香は胸の奥が冷えるのを感じた。
アトラスは希望を否定しているわけではない。
もっと冷たい場所から話している。
祈りが、願いが、期待が、善意が。
それらが何も救えなかった場所を知っている。
ニトクリスは静かに言った。
「祈りは、必ずしも結果を変えるためだけにあるのではありません」
「不合理だ」
「ええ。祈りとは、不合理なものです」
アトラスはわずかに眉を動かした。
ニトクリスは続ける。
「ですが、王は時に、その不合理な祈りを預かる者でもあります」
光の中で、折れた王冠が揺れた。
アトラスの視線がそこへ向かう。
王冠。
それは、彼女が望んだものではない。
空いたから座った王座。
落ちぬよう支えた王冠。
ニトクリスは、さらに深く光の残響を見つめた。
「この王宮は、墓の気配を帯びています」
空気が止まった。
アトラスの声が落ちる。
「己は墓守ではない」
「ええ。あなたは王です」
ニトクリスは即座に答えた。
迷いはなかった。
「墓とは、慰めだけの場所ではありません。忘れぬための場所です。名を置く場所。祈りを置く場所。王が、ここに在ったものを在ったと認める場所です」
「己は背負ったのではない。沈めた」
「ならば、なおさらです」
その言葉は、刃ではなかった。
しかし、深く届いた。
アトラスは何も言わない。
立香は、息をするのも忘れそうになった。
ニトクリスはアトラスを責めていない。
慰めてもいない。
ただ、王として知っていることを告げている。
死者を持つ王が、どう立つのか。
ニトクリスの言葉が、管制室の空気に沈む。
誰もすぐには答えなかった。
その沈黙を裂くように、管制室の扉が開いた。
黄金の気配が入ってくる。
ギルガメッシュだった。
彼は面白がるように、しかし油断なく残響の光を見た。
「ほう。墓を墓と呼ばれて、まだ否定するか」
アトラスが振り返る。
「英雄王。お前は黙っていろ」
「断る」
ギルガメッシュは悠然と歩み寄る。
「墓守ではないと言うならば、墓に何を置いたのか答えよ」
「王宮だ」
「ならば、その王宮に眠るものは何だ」
アトラスは答えなかった。
即答しなかった。
ギルガメッシュの赤い瞳が、細くなる。
立香には、その沈黙が分かった気がした。
王宮に眠るもの。
それは、記録。
統治機構。
折れた王冠。
祈り。
そして、戻らない人々。
アトラスはそのどれも知っている。
だが、それを一語で呼ぶことだけを拒んでいる。
ニトクリスが、静かに言葉を引き取った。
「王宮であり、墓でもあるのでしょう」
誰もすぐには答えなかった。
言葉が、深く沈む。
ニトクリスはアトラスを見た。
「王宮であり、墓でもあるのでしょう。王の場所とは、時にそういうものです。そこには政があり、祈りがあり、名があり、死者があります。そして王は、そのすべてから目を逸らすことを許されません」
アトラスが言う。
「己は目を逸らしていない」
「ええ」
ニトクリスは頷いた。
「だから、あなたは王なのです」
アトラスの瞳が、わずかに揺れた。
ギルガメッシュが、低く笑う。
「聞いたか、大洋王。王を名乗るには、随分と面倒なものまで付いてくるらしい」
「お前に言われるまでもない」
「ならば抱えていろ。沈めたものが浮かばぬようにな」
アトラスはギルガメッシュを見た。
「沈めたものを浮かばせるつもりはない」
「ならば、今のこれは何だ」
ギルガメッシュが残響の光を示す。
アトラスは沈黙した。
ダ・ヴィンチが、少しだけ声を和らげる。
「アトラス。これは完全な暴走じゃない。君が召喚されたことで、王宮の記録がほんの少しだけ現在側に滲んだ。たぶん、君自身も意図していなかった。でも、だからこそ処理が必要だ」
「削除する」
アトラスの返答は硬かった。
ニトクリスが静かに首を振る。
「削除すれば、静かになるでしょう。ですが、それは沈めることとは違います」
「同じだ」
「いいえ。違います」
ニトクリスの声には、王としての威厳があった。
「沈めるとは、場所を与えることです。墓とは、死者を忘却へ捨てる穴ではありません。名を置く場所。祈りを置く場所。王が、ここに在ったものを在ったと認める場所です」
「認めて、何が変わる」
「何も変わらないこともあります」
「ならば無意味だ」
「それでも、変わらぬものを見届ける者が必要です」
管制室の空気が、深く静まる。
ギルガメッシュは口を挟まない。
立香も、マシュも、ただ聞いている。
アトラスとニトクリス。
二人の王の間に、死者のための沈黙がある。
やがて、アトラスが言った。
「己は、弔いの王ではない」
「ええ」
「祈りを聞く王でもない」
「そうかもしれません」
「己は、決定する王だ」
「ならば、決定してください」
ニトクリスは、まっすぐに言った。
「この残響を、どう扱うのか。削除するのか。捨てるのか。あるいは、安置するのか」
アトラスは残響の光を見る。
沈んだ広場。
折れた王冠。
玉座へ向かう祈り。
顔のない民の影。
そのどれもが、彼女へ何かを求めているわけではない。
ただ、そこにある。
あったものとして、残っている。
アトラスはゆっくりと三叉槍を持ち上げた。
立香が一瞬身構える。
だが、槍先は残響を破壊するために向けられたのではなかった。
彼女は低く言う。
「削除はしない」
ダ・ヴィンチが目を細める。
「じゃあ、どうする?」
「隔離し、封じる。だが、破棄はしない」
ニトクリスが静かに微笑んだ。
「安置、ですね」
「違う。記録保全だ」
「ええ。そういうことにしておきましょう」
「不快だ」
「申し訳ありません」
そう言いながら、ニトクリスの表情は穏やかだった。
ダ・ヴィンチがすぐに操作を始める。
「了解。カルデア保管領域内に隔離区画を作る。外部干渉は遮断、閲覧にはマスター権限とアトラス本人の許可が必要。記録形式は……そうだね、王宮座標に紐づけて、墓所――」
「王宮だ」
「はいはい、王宮区画ね」
ギルガメッシュが笑う。
「言葉ひとつに拘るな、大洋王」
「拘っているのはお前たちだ」
「そうか。ならば我もそういうことにしておこう」
アトラスは返答しなかった。
だが、先ほどのような拒絶の硬さは少しだけ薄れていた。
ダ・ヴィンチの補助で、残響の光が少しずつ収束していく。
消えるのではない。
圧縮され、形を整えられ、カルデアの記録保管層の奥へと移されていく。
立香には、それが棺のようにも、小さな王宮の模型のようにも見えた。
青黒い光の中で、最後に人影が揺れる。
王を。
その声はもう、遠い。
マシュが一歩前へ出た。
そして、深く一礼した。
「忘れません」
アトラスが彼女を見る。
マシュは頭を下げたまま続ける。
「すべてを知ることはできなくても、ここに祈りがあったことは」
「汝が背負う必要はない」
「背負うのではありません」
マシュは顔を上げた。
「覚えます」
アトラスは、少しだけ沈黙した。
立香も隣で頷く。
「私も。全部は分からない。でも、ここに何かがあったことは忘れない」
「不要だ」
アトラスは言った。
けれど、それは先ほどの「削除せよ」とは違う響きだった。
強い拒絶ではなく、どこか困惑に近い。
マシュが微笑む。
「それでも、覚えます」
立香も笑った。
「うん。私たち、けっこうしぶといから」
アトラスは二人を見る。
それから、低く呟いた。
「……よく沈まぬ娘らだ」
立香はすぐに聞き返す。
「それ、褒めてる?」
「観測だ」
「そっか」
マシュが小さく笑った。
ダ・ヴィンチも端末の向こうで肩をすくめる。
「記録隔離、完了。保全状態は安定。残響の漏出も止まったよ」
管制室の空気が、少しだけ軽くなる。
ギルガメッシュは踵を返した。
「用は済んだな」
「ギルガメッシュさん、もう行くの?」
「この陰気な場に長居する趣味はない」
アトラスが言う。
「ならば、なぜ来た」
ギルガメッシュは振り返り、笑った。
「墓守が墓の扱いで迷う様を見物にな」
「己は墓守ではない」
「ならば王だ。王ならば迷っても裁定しろ」
その言葉だけを残して、ギルガメッシュは管制室を出ていった。
アトラスはその背を見ていた。
怒っているようには見えない。
だが、聞き流してもいない。
立香は思う。
昨日、ギルガメッシュはアトラスを王だと言った。
そして今も、彼は王として扱っている。
言葉はきつい。
不遜で、容赦がない。
でも、そこには確かに認定がある。
ニトクリスのそれとは別の形の、王への認定が。
残響処理が終わった後、ニトクリスはアトラスと共に保管領域の最終確認へ向かった。
立香とマシュも同行する。
カルデアの奥、普段はあまり人の来ない記録保管区画。
白い廊下の先に、新たに封じられた小さな領域がある。
そこには扉があった。
実際の扉ではない。
霊子的な閲覧ゲートだ。
だが、立香にはそれが王宮の門のように見えた。
ニトクリスはその前で足を止める。
「大洋王」
「何だ」
「墓を持つことは、王の弱さではありません」
アトラスは即座に返す。
「己は墓を持たぬ」
ニトクリスは少しだけ微笑む。
「では、王宮を」
「そうだ」
「ならば、その王宮が静かであるように祈りましょう」
アトラスの血色の瞳が、ニトクリスを見る。
「祈りは届かぬことがある」
「それでも、祈る者はいます」
アトラスは答えなかった。
先ほどと同じ言葉を、もう一度言うことはしなかった。
ただ、その不合理を否定しないまま、扉の前に立っていた。
沈黙が落ちる。
だが、その沈黙は深海の重さだけではなかった。
何かが、ほんの少しだけ安置されたような静けさ。
ニトクリスは扉へ向かって静かに祈りを捧げた。
アトラスは祈らない。
ただ、そこに立っていた。
祈る女王と、祈らない大洋王。
その両方を、立香は見ていた。
マシュも隣で静かに頭を下げる。
やがて、保管領域の奥で、青黒い光がわずかに揺れた。
王宮が眠ったのだと、立香は思った。
それは墓ではない。
アトラスが、そう呼ぶことを許さなかったから。
けれど、ただの王宮でもない。
そこには祈りがあり、名があり、戻らない者たちがいた。
王宮であり、墓でもある。
その矛盾を、ニトクリスは責めなかった。
アトラスは認めなかった。
けれど、カルデアの記録層の奥で、その場所は少しだけ静かに眠った。
帰り道、立香はアトラスの背を見ながら言った。
「アトラス」
「何だ」
「残してくれて、ありがとう」
アトラスは足を止めない。
「礼を言うことではない」
「でも、消さなかった」
「記録保全が妥当と判断した」
「うん」
立香は頷いた。
「そういうことにしておく」
アトラスがようやく振り返る。
「汝もか」
「私も」
「不快だ」
マシュが小さく笑う。
「申し訳ありません、アトラスさん。ですが、私もそういうことにしておきたいです」
「……よく沈まぬ娘らだ」
ニトクリスが穏やかに言う。
「それは、とてもよいことです。大洋王」
アトラスは何も答えなかった。
ただ、廊下の先へ歩き出す。
淡い水青の髪が、白い光の中で静かに揺れる。
その背に、海底の王宮の影は見えない。
だが、立香には分かった。
彼女は今も、その奥に沈んだものを抱えている。
国を。
王冠を。
祈りを。
兄の影を。
そして、王宮であり墓でもある場所を。
その日、沈んだ王宮は墓とは呼ばれなかった。
アトラスが、それを許さなかったからだ。
けれど、カルデアの記録層の奥で、王宮は少しだけ静かに眠った。
アトラスが否定した王宮として。
ニトクリスが祈った墓として。
どちらか一方の名だけでは閉じられない場所として。
大洋王は否定した。
女王は祈った。
そして藤丸立香は、そのどちらも忘れないと決めた。
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