The Reversed Star――逆位置の星―― 作:ほいみん
山門戦でアトラスが「一拍の差で届かなかった」場合の分岐であり、本編とは異なる暗い可能性を描いています。
直接的な描写はありませんが、強制受肉・所有・婚姻の強要を含むためご注意ください。
本編の光をより濃く味わうための影としてお読みください。
まつろわぬ花嫁――山門戦・届かなかった海IF――
山門の石段は、海の匂いを残して砕けていた。
夜はまだ明けない。
冬木の空は黒く、雲は低く、風は乾いているはずだった。けれど山門の下には、明らかにこの土地のものではない潮があった。石畳の割れ目に入り込み、崩れた段の縁を濡らし、月も星も映さぬまま、深い紺だけを沈めている。
その中心に、青い火の残滓が揺れていた。
赤くはない。
燃え上がる火ではない。
海底で、世界の熱だけが沈んでいくような青だった。
それは、開かれなかった終末の名残だった。
火天八紘。
大洋王アトラスは、その名へ手をかけ、しかし開かなかった。
開けば届いたかもしれない。
開けば、この山門ごと、夜ごと、黄金の王ごと、勝敗の盤面を沈められたかもしれない。
だが、それは勝敗ではない。
終末を、勝つための道具にはしない。
その裁定は、確かに下された。
ただし、一拍遅れた。
王宮外壁の演算。
火天八紘の閉鎖。
三叉槍へ流していた魔力の再配分。
紺碧の城塞を己の肉体へ戻す処理。
そのすべてが、ほんの一拍だけ遅れた。
たったそれだけの差だった。
それだけで、槍は届かなかった。
黄金の鎖が、濡れた石段の上に垂れている。
天の鎖は、海の湿り気すら許さぬように冷たく光っていた。
アトラスの三叉槍は、少し離れた石段に突き立っていた。穂先にまとわりついた水が、ぽたり、ぽたりと落ちている。
その音だけが、しばらく山門に残った。
アトラスは膝をついていなかった。
膝をつく前に、鎖が彼女の身体を縛っていたからだ。
紺碧の鎧は、肩から胸甲にかけて深く裂けていた。完全に壊れたわけではない。けれど、王宮外壁としての密閉性は失われ、内部の淡い光が罅の隙間から漏れている。上背を補っていた足元の外装も片方が砕け、王としての高さはわずかに傾いていた。
それでも、アトラスは顔を上げていた。
黄金の王を見上げていた。
ギルガメッシュは、石段の上に立っていた。
赤い瞳が、青い火の残滓を見下ろし、それから大洋王へ向けられる。
その目には、勝者の退屈はなかった。
むしろ、惜しいものを見た時のような光があった。
「届かなかったな、大洋王」
声は低く、よく通った。
アトラスは答えなかった。
鎖が鳴る。
それは彼女の返答ではない。身体がわずかに動いた結果、金属が擦れただけだ。
ギルガメッシュは笑った。
「火を開けば、届いたかもしれんぞ」
アトラスの瞳がわずかに細くなる。
「火天八紘は、開かぬ」
声は掠れていた。
けれど、言葉は折れていなかった。
「その裁定は、今も棄却しない」
「ほう」
ギルガメッシュは愉快そうに片眉を上げた。
「敗れてなお、そこは譲らぬか」
「敗北と、裁定の撤回は同義ではない」
「ならば、勝敗は認めるか」
アトラスは一瞬だけ沈黙した。
石段の割れ目に、海水が落ちる。
ぽたり、ぽたりと、夜が数えられる。
「……認める」
その言葉は苦かった。
「己は、お前に届かなかった」
ギルガメッシュの笑みが、深くなる。
「よい」
それは、褒め言葉ではなかった。
少なくとも、アトラスにはそう聞こえなかった。
「届かなかった海ならば、我が蔵に置くまでよ」
空気が変わった。
アトラスは顔を上げたまま、黄金の王を見た。
「その分類を棄却する」
「貴様の棄却で、我の裁定が変わると思ったか」
「己は、財ではない」
「まだ言うか」
ギルガメッシュは石段を降りる。
一段。
また一段。
そのたびに、砕けた石が金の靴に踏まれて音を立てた。
「届いておれば、別の名もあっただろうな」
アトラスの瞳が揺れた。
ほんのわずかに。
だが、ギルガメッシュは見逃さなかった。
「貴様が我の膝を砕いておれば」
「あるいは、我は貴様を王としてのみ扱ったかもしれぬ」
夜が冷えた。
「だが、貴様は届かなかった」
ギルガメッシュの手が伸びる。
アトラスは退こうとした。
鎖がそれを許さなかった。
「届き損ねた海だ」
「ならば、我が名を与えてやろう」
「不要だ」
即答だった。
「名は、己が持つ」
「王名をか」
「そうだ」
「では個体名は」
アトラスの呼吸が、かすかに止まった。
ギルガメッシュの赤い瞳が、細くなる。
「そこを隠しておるから届かぬのではないか、大洋王」
「黙れ」
「命令か」
「裁定だ」
「ならば通らぬ」
黄金の王は、手をかざした。
背後の空間が開く。
王の財宝の門ではない。もっと暗いものが、山門の夜に滲み出る。
聖杯の泥。
黒い泥が、音もなく現れた。
それは水ではなかった。海でもなかった。
触れれば溺れるのではなく、意味ごと濁らされるものだった。
アトラスはその気配を見て、初めて眉を動かした。
「それは」
「この世の器だ」
ギルガメッシュは楽しげに言った。
「サーヴァントのままでは、蔵に置くには不安定でな」
「……侵略だ」
「所有だ」
「同義ではない」
「我にとっては同じことよ」
泥が近づく。
アトラスの鎧が、青く光った。
まつろわぬ者。
同胞を持たぬ特異な出自。
世界へ従属しない抵抗。
概念干渉に対する、王性の拒絶。
黒い泥は、彼女の精神へ入り込もうとした。
王宮記録の奥へ。
沈んだ国の記憶へ。
兄の名へ。
星詠みの詩へ。
火天八紘を閉じた裁定へ。
だが、海は濁らなかった。
泥は精神へ届かない。
それでも、泥は肉体を得る。
聖杯の黒が、喉を通った。
音はなかった。
叫びもなかった。
ただ、アトラスの身体が、サーヴァントの霊基から、この世の肉へと縫い留められていく。
鎧の罅から漏れていた青が、わずかに弱まった。
魔力の輪郭が、肉体の熱へ置き換わる。
水底のように冷たかった肌に、現世の血が通う。
呼吸が重くなる。
心臓が、本人の意思とは無関係に鼓動を刻み始める。
それは受肉だった。
アトラスは目を伏せなかった。
膝も折らなかった。
鎖に縛られたまま、黄金の王を見上げていた。
「……この受肉を」
声は、先ほどより低かった。
サーヴァントの響きではなく、肉体を持つ者の声だった。
「己の裁定とは認めない」
ギルガメッシュは笑った。
「認めずとも、身体はここにある」
「この婚姻を、契約とは認めない」
「ほう」
「この呼称を、己は受理しない」
「まだ呼んでおらぬぞ」
「先に棄却する」
その返答に、ギルガメッシュは声を上げて笑った。
「クハハハハ!」
山門に、黄金の笑いが響く。
「よい。泥を飲んでなお、その口か」
「泥は、己を侵していない」
「身体は侵したぞ」
「身体と主権は同義ではない」
ギルガメッシュの笑みが、ほんの少しだけ変わった。
興味。
苛立ち。
所有欲。
そして、まだ名前を持たない何か。
アトラスはそれを見た。
この男は、分岐点の向こうにいた。
届いていれば、おそらく違う裁定があった。
王として見たかもしれない。
財ではないと、知ったかもしれない。
主権を奪わず、境界線の前に立ったかもしれない。
だが、今ここにいる黄金の王は、そうではない。
一拍が遅れた。
槍が届かなかった。
それだけで、海岸線は変わった。
「大洋王」
ギルガメッシュは言った。
その呼び名だけは、奇妙なほど丁寧だった。
「貴様は美しい」
アトラスは答えない。
「沈んだ国を背負い、終末を持ちながら、なおそれを勝敗に使わぬ。実に愚かで、実に面白い」
ギルガメッシュは、鎖を指で軽く弾いた。
金属音が夜へ落ちる。
「だが、届かなかった」
「……繰り返すな」
「事実だ」
アトラスの瞳に、冷たい赤が宿る。
血を薄く海水へ溶かしたような色。
泥にも濁らず、敗北にも曇らず、ただ冷たく、王として燃えている。
ギルガメッシュはそれを見て、満足げに言った。
「ならば、我の傍で抗え」
「断る」
「断りは聞かぬ」
「婚姻ではない」
「我がそう呼ぶ」
「契約ではない」
「我がそう定める」
「己は、お前の財ではない」
「ならば、そうでないことを示せ」
ギルガメッシュは身を屈めた。
いつもの鎧は砕け、上背を補う外装も失われ、受肉した大洋王の身体はひどく小さく見えた。
それでも、アトラスの視線は落ちていなかった。
黄金の王は、その小さな身体を見下ろしながら、低く囁く。
「我の花嫁」
その呼称は、甘くはなかった。
祝福でもない。
求愛でもない。
それは、王による所有宣言だった。
山門の夜に、黒い泥と黄金の鎖と砕けた石段を証人として、一方的に投げられた名だった。
アトラスは、ゆっくりと息を吸った。
受肉した身体が、その息に従う。
肺が動く。
喉が震える。
心臓が一度、重く脈を打つ。
そのすべてが、彼女の望んだものではなかった。
それでも、声は彼女のものだった。
「花嫁ではない」
ギルガメッシュの瞳が細くなる。
「ほう」
「己は、お前にまつろわぬ」
鎖がわずかに震えた。
泥が足元で波打った。
青い火の残滓が、消えかけながらもう一度だけ光った。
アトラスは続ける。
「この身が現世に縫い留められようと」
「泥が器を満たそうと」
「黄金が己を囲おうと」
「己の裁定権は、お前に渡さない」
ギルガメッシュは黙って聞いていた。
「婚姻を棄却する」
「所有を棄却する」
「花嫁の呼称を棄却する」
そして最後に、彼女は王名で告げた。
「大洋王アトラスは、いかなる蔵にも収まらぬ」
夜が沈黙した。
ギルガメッシュは、しばらくその瞳を見ていた。
身体はそこにある。
聖杯の泥は肉を与えた。
鎖は動きを縛った。
敗北は確かに刻まれた。
だが、海は収まらなかった。
蔵に置くには、あまりにも深すぎる。
名を与えるには、あまりにも拒みすぎる。
花嫁と呼ぶには、あまりにも王だった。
黄金の王は、喉の奥で笑った。
「よい」
それは、今度こそ褒め言葉に近かった。
「ならば抗え、まつろわぬ花嫁」
「その呼称も棄却する」
「何度でも呼んでやる」
「何度でも棄却する」
ギルガメッシュは、愉快そうに立ち上がった。
山門の夜はまだ明けない。
聖杯の泥は黒く沈み、黄金の鎖は冷たく光り、砕けた石段には海水が残っている。
届かなかった大洋王は、現世に縫い留められた。
黄金の王は、彼女を花嫁と呼んだ。
けれど、その瞳は濁らなかった。
その王名は折れなかった。
その海は、蔵に収まらなかった。
花嫁と呼ばれた王は、まつろわぬまま、黄金を見上げていた。
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冬木編『The Reaching Shore――届かせるもの――』連載開始しました。
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アトラスのキャラクター性・内面
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ギルガメッシュとの関係性
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王としての在り方・王権のテーマ
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ストーリーの展開
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