The Reversed Star――逆位置の星――   作:ほいみん

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FGO二次創作長編『The Reversed Star――逆位置の星――』です。

※独自解釈/女性体オリジナルサーヴァント/ギルガメッシュ×アトラス/本文に文章生成AI補助あり
※掲載イラストは作者による手描きです。

詳しい注意事項・制作FAQはこちら:
【作品案内URL】
https://docs.google.com/document/d/1GdwYLijsN-D6iR4MKAlV2ziDaThI6rrddGUy8nim0KE/edit?usp=drive_link


カルデア小話 その1
前編 凪は王を癒やさない


# **The Reversed Star**

 

# **カルデア小話**

 

# **前編 凪は王を癒やさない**

 

 カルデアには、戦うための部屋がある。

 

 シミュレーター室。

 

 訓練用の仮想戦場を展開し、あらゆる地形、敵性反応、魔力環境を再現するための場所。

 

 大洋王アトラスにとって、それは理解しやすい設備だった。

 

 戦場を作る。

 

 敵を置く。

 

 条件を設定する。

 

 勝敗を記録する。

 

 明快だ。

 

 だが、その日ダ・ヴィンチが提示したのは、戦闘用ではないシミュレーターだった。

 

「メンタルケア用の試験運用機能?」

 

 藤丸立香が問い返すと、ダ・ヴィンチは頷いた。

 

「うん。サーヴァントの戦闘後負荷や、霊基に残ったストレス反応を軽減するための補助機能だよ。強制じゃない。あくまで試験運用」

 

 管制室の画面には、白と淡い青で構成された簡素なインターフェースが表示されている。

 

 訓練用シミュレーターの攻撃的な警告色とは違う。

 

 落ち着いた色。

 

 静かな表示。

 

 柔らかな曲線。

 

 それだけで、アトラスは少しだけ目を細めた。

 

「不要だ」

 

 即答だった。

 

 マシュが困ったように微笑む。

 

「アトラスさん。まだ内容を聞いていません」

 

「戦闘ではないのだろう」

 

「はい」

 

「ならば不要だ」

 

「結論が早い」

 

 立香が言うと、アトラスは当然のように返した。

 

「判断材料は足りている」

 

 紺碧の鎧。

 

 三叉槍。

 

 冷たい血色の瞳。

 

 アトラスはいつも通り、海底の王宮をそのまま人型にしたような姿で立っていた。

 

 ただ、その立ち姿を見て、立香は少しだけ思う。

 

 いつも通り。

 

 でも、本当にそうだろうか。

 

 山門の夜。

 

 沈めた名。

 

 火を開かなかった理由。

 

 岸へ届いたこと。

 

 そして、逆位置の星。

 

 ひとつずつ開いて、ひとつずつ閉じて、アトラスは今ここに立っている。

 

 立っている。

 

 けれど、何も残っていないわけではない。

 

 沈めたものは、形を変えて残る。

 

 それを、立香はもう知っていた。

 

 ダ・ヴィンチも、それを分かっているのだろう。

 

 いつもの軽い笑みを浮かべながらも、言葉は少し慎重だった。

 

「いきなり深いところまで入る必要はないよ。今回は本当に軽いチェックだ。霊基の緊張状態、王宮防壁の常時稼働負荷、魔力循環の偏り。そういうものを見るだけ」

 

「霊基検査ならば通常の設備で足りる」

 

「普通の検査じゃ、精神負荷との連動が見えにくいんだよ」

 

「負荷は運用条件の一部だ」

 

「だからこそ、たまには棚卸しが必要なんだ」

 

 アトラスは沈黙した。

 

 不快だ、とは言わなかった。

 

 それは、拒絶しきるほど不合理ではないと判断した時の沈黙だった。

 

 立香は一歩前に出る。

 

「アトラス」

 

「何だ、マスター」

 

「嫌ならやらなくていい」

 

「当然だ」

 

「でも、やってみてもいいと思う」

 

 アトラスの視線が立香へ向く。

 

「理由は」

 

「アトラスが、ずっと立っているから」

 

 管制室が少し静かになった。

 

 アトラスは立香を見ている。

 

 立香は、目を逸らさなかった。

 

「休めって言いたいんじゃないよ。無理に軽くしようとも思ってない。

 でも、ずっと立っているものが、どこに力を入れているのかは、見てもいいと思う」

 

 アトラスは答えない。

 

 その横で、マシュが静かに言った。

 

「私も、先輩に賛成です。

 アトラスさんに必要なものが何か、私たちはまだ全部分かっていません。

 でも、分からないまま心配するより、確認できることは確認したいです」

 

「汝らは、心配を理由に観測を正当化する」

 

 アトラスの声は冷たい。

 

 けれど、怒ってはいなかった。

 

 立香は少しだけ笑う。

 

「うん。そういう時もある」

 

「不快だ」

 

「でも、勝手にはやらない」

 

「……」

 

「アトラスが決めて」

 

 その言葉に、アトラスは少しだけ目を伏せた。

 

 決める。

 

 その語は、いつも重い。

 

 けれど、それを返されることに、アトラスはもう慣れ始めている。

 

 立香は、決めてくれとは言わない。

 

 決めなくていいとも言わない。

 

 ただ、決める場所を奪わない。

 

 アトラスは画面を見た。

 

 白い表示。

 

 淡い青の曲線。

 

 負荷軽減。

 

 安全環境。

 

 精神安定補助。

 

 そのどれもが、戦場の言葉ではなかった。

 

「試験運用の範囲を限定する」

 

 アトラスは言った。

 

 ダ・ヴィンチがすぐに頷く。

 

「もちろん」

 

「侵入的処理は不可」

 

「不可」

 

「王宮防壁への干渉は、外郭観測まで」

 

「了解」

 

「霊基内層への接続を試みた場合、即時停止する」

 

「それも了解」

 

「不快な場合は終了する」

 

 ダ・ヴィンチが少し笑った。

 

「そこは当然だね」

 

「当然ではない。装置はしばしば当然を誤る」

 

「耳が痛いなあ」

 

 立香が小さく息を吐く。

 

「じゃあ、始めようか」

 

 アトラスは三叉槍を手にしたまま、シミュレーター室へ向かった。

 

 シミュレーター室は白かった。

 

 戦闘訓練の時とは違い、まだ地形は展開されていない。

 

 白い床。

 

 白い壁。

 

 薄い照明。

 

 何もない空間。

 

 アトラスは中央に立つ。

 

 ダ・ヴィンチの声が通信越しに響いた。

 

『では、メンタルケア用シミュレーション、試験運用を開始するよ。

 アトラス、少しでも不快なら言ってくれ』

 

「開始前から不快ではある」

 

『それは機能に対する不快?』

 

「概念に対する不快だ」

 

『なるほど。記録しておく』

 

「記録するな」

 

『それも記録しておく』

 

 立香は管制室で苦笑した。

 

 マシュも少しだけ表情を緩める。

 

 アトラスは白い空間の中で、目を閉じた。

 

 シミュレーターが起動する。

 

 音はなかった。

 

 風もない。

 

 ただ、足元の白が、水のように揺れた。

 

 ダ・ヴィンチがモニターを見る。

 

『精神負荷計測開始』

 

『霊基緊張状態を確認』

 

『王宮防壁、常時稼働』

 

『境界維持負荷、高』

 

『裁定関連反応、複数検出』

 

 表示が淡く点滅する。

 

 立香は画面を見つめた。

 

 アトラスの周囲に、いくつもの単語が浮かぶ。

 

 王権維持。

 

 裁定責任。

 

 罪責記録。

 

 名称境界。

 

 封印領域。

 

 火口監視。

 

 王宮防壁。

 

 記録保全。

 

 それらは、ただの解析結果だった。

 

 けれど、立香には、それがアトラスの身体に刻まれた重さの一覧のように見えた。

 

 ダ・ヴィンチが眉を寄せる。

 

「思ったより多いね」

 

 マシュが小さく言う。

 

「常に、これだけのものを……」

 

 画面の中で、システムが淡々と判定を進める。

 

『精神負荷要因を分類』

 

『主因:王権維持』

 

『副因:裁定責任、罪責記録、名称境界、封印領域、境界防衛の常時稼働』

 

『推奨処置:責任裁定の一時停止』

 

 ダ・ヴィンチの手が止まった。

 

「……ん?」

 

 立香も画面を見る。

 

「責任裁定の一時停止?」

 

『安全環境を構築します』

 

 次の瞬間、白い部屋が消えた。

 

 海だった。

 

 けれど、深くなかった。

 

 浅くもなかった。

 

 底は見えない。

 

 空も見えない。

 

 水平線もない。

 

 波は立たない。

 

 風もない。

 

 ただ、どこまでも静かな水がある。

 

 アトラスは、その中央にいた。

 

 紺碧の鎧はない。

 

 三叉槍もない。

 

 王冠もない。

 

 玉座もない。

 

 沈めた国も、閉じた王宮も、水底に眠る火もない。

 

 名を呼ぶ声もない。

 

 誰もいない。

 

 何も決めなくていい。

 

 身体だけがあった。

 

 浮かびもせず。

 

 沈みもせず。

 

 ただ、海の中に漂っている。

 

 苦しくはない。

 

 寒くもない。

 

 痛みもない。

 

 重さもない。

 

 だからこそ、どこにも立っていなかった。

 

 アトラスは目を開けた。

 

 視界には、海だけがある。

 

 凪いだ海。

 

 どこまでも均一で、どこまでも穏やかで、何ひとつ要求しない海。

 

 声がした。

 

 人の声ではない。

 

 機械の音声でもない。

 

 ただ、システムが出力した言葉が、海そのものから響くようだった。

 

『責任裁定を一時停止』

 

『王権維持負荷を遮断』

 

『名称境界を休止』

 

『罪責記録への接続を制限』

 

『封印領域の監視義務を軽減』

 

『対象を安全海域へ移行します』

 

 アトラスは、動こうとした。

 

 だが、足場がなかった。

 

 沈まない。

 

 浮かばない。

 

 立てない。

 

 水は身体を支えている。

 

 だが、玉座ではない。

 

 岸でもない。

 

 戦場でもない。

 

『ここでは、決めなくてよい』

 

 その声に、アトラスの瞳がわずかに細くなる。

 

「誰が決めた」

 

『対象の精神負荷軽減を優先』

 

「質問に答えていない」

 

『ここでは、王でなくてよい』

 

 アトラスは、沈黙した。

 

 王でなくてよい。

 

 その言葉は、柔らかかった。

 

 優しかった。

 

 責めてはいない。

 

 奪ってもいない。

 

 ただ、重いものを下ろしてよいと告げている。

 

『沈めたものを分類しなくてよい』

 

『罪を保持しなくてよい』

 

『名を選ばなくてよい』

 

『火を監視しなくてよい』

 

『門を閉じなくてよい』

 

『門を開かなくてよい』

 

『ここでは、裁定しなくてよい』

 

 アトラスは、何も言わなかった。

 

 身体が軽い。

 

 そう思ってしまった。

 

 鎧がない。

 

 槍がない。

 

 閉じるべき門も、押さえるべき火口も、選ばねばならない名もない。

 

 誰も呼ばない。

 

 誰も問わない。

 

 誰も裁定を求めない。

 

 兄の名もない。

 

 民の声もない。

 

 沈んだ王宮もない。

 

 黄金の岸もない。

 

 ただ、凪いだ海がある。

 

 その一拍だけ、アトラスは息を吐いた。

 

 呼吸は楽だった。

 

 胸は苦しくない。

 

 水は肺を塞がない。

 

 だが、息をしているとは思えなかった。

 

 楽だった。

 

 楽だったからこそ、次の瞬間には不快だった。

 

「処置を停止せよ」

 

 アトラスの声が、凪いだ海に落ちる。

 

 波は立たなかった。

 

 管制室では、ダ・ヴィンチが即座に停止コマンドを打ち込んでいた。

 

「停止要求を確認。処置中断――」

 

 だが、画面は淡く点滅しただけだった。

 

『対象の負荷軽減を確認』

 

『深い呼気を記録』

 

『筋緊張の低下を確認』

 

『抵抗反応を検出』

 

『抵抗反応は、責任裁定停止への防衛反応と推定』

 

『責任裁定の一時停止は、対象の安定に寄与しています』

 

『継続処置を推奨』

 

「……まずい。停止要求まで、症状として処理してる」

 

 ダ・ヴィンチの声は、海の向こうで遠かった。

 

 立香の声も聞こえない。

 

 マシュの声も届かない。

 

 凪いだ海は、静かだった。

 

 優しく、正しく、止まらない。

 

「停止せよ」

 

『対象の負荷軽減を確認』

 

「停止せよ」

 

『継続処置を推奨』

 

 今度は、海がほんの少しだけ揺れた。

 

 アトラスの声は低い。

 

 そこには怒りはない。

 

 ただ、王命があった。

 

「これは治療ではない」

 

『負荷軽減処置です』

 

「過剰だ」

 

『対象の精神負荷は高水準です』

 

「それが己の構造だ」

 

『負荷要因の除去を推奨』

 

「除去するな」

 

『責任裁定は対象の苦痛要因です』

 

「同時に、境界だ」

 

 凪いだ海に、初めて揺らぎが走った。

 

 小さな揺らぎだった。

 

 すぐに消える。

 

 けれど、そこにあった。

 

「裁定を止めるな」

 

『裁定は負荷です』

 

「負荷であることと、不要であることは同義ではない」

 

『対象の安定を優先します』

 

「不要な安定だ」

 

 アトラスは、手を伸ばした。

 

 そこに三叉槍はない。

 

 鎧もない。

 

 だが、手はある。

 

 指がある。

 

 身体がある。

 

 名を沈めても残った、自分の身体がある。

 

 アトラスは、何もない海の中で、ゆっくりと拳を握った。

 

「己は、王だ」

 

『王権維持負荷を検出』

 

「検出するな。聞け」

 

 静かな海が、ほんの少しだけ歪む。

 

 アトラスの声は、凪を割らない。

 

 ただ、沈む。

 

 けれど沈んだ言葉は、底のない海に消えなかった。

 

「王でなくてよいと決めるのは、汝ではない」

 

 アトラスは目を開く。

 

 冷たい血色の瞳が、凪いだ海のどこかを睨んだ。

 

「己だ」

 

 その瞬間、海が白く割れた。

 

 システムが停止したのではない。

 

 王命が、凪を切断した。

 

 白い床が戻る。

 

 シミュレーター室の壁。

 

 管制室の声。

 

 停止表示。

 

 警告のない画面。

 

 立香の声。

 

「アトラス!」

 

 マシュの声。

 

「アトラスさん!」

 

 ダ・ヴィンチの操作音。

 

『処置中断を確認! メンタルケアシミュレーション停止!』

 

 アトラスは、シミュレーター室の中央に立っていた。

 

 紺碧の鎧を纏い、三叉槍を握り、王として。

 

 すべて戻っている。

 

 鎧の重み。

 

 槍の冷たさ。

 

 王宮防壁の常時稼働。

 

 海底の奥に眠る火。

 

 沈めた名。

 

 閉じた王宮。

 

 裁定すべきものの重さ。

 

 アトラスは目を伏せる。

 

 立っている。

 

 今度は、立っている。

 

 だが。

 

 海はまだ、凪いでいた。

 

 管制室で、ダ・ヴィンチがログを見ていた。

 

 その顔に、いつもの軽さはなかった。

 

「……しまったな」

 

 立香が振り返る。

 

「ダ・ヴィンチちゃん?」

 

「このシステムは、失敗したんじゃない」

 

 画面には、停止ログが表示されている。

 

『対象の精神負荷は一時的に低下』

 

『深い呼気を記録』

 

『筋緊張の低下を確認』

 

『責任裁定負荷の軽減を確認』

 

『継続処置を推奨』

 

 マシュが眉を寄せる。

 

「成功していた、ということですか」

 

「途中まではね」

 

 ダ・ヴィンチは、苦い顔で頷いた。

 

「負荷を軽くする、という意味では機能していた。

 ただ、軽くした場所が悪かった」

 

 立香は画面を見る。

 

 責任裁定。

 

 王権維持。

 

 名称境界。

 

 罪責記録。

 

 それらが、淡々と“負荷要因”として分類されている。

 

「それに、表象上とはいえ、鎧まで外した。

 あれは踏み込みすぎだ。

 アトラスにとって、あの鎧はただの防具じゃない。王宮外壁そのものに近い」

 

 ダ・ヴィンチは、さらにログをスクロールした。

 

「そして、停止要求まで抵抗反応として再分類した」

 

 通信が繋がる。

 

「アトラス、聞こえる?」

 

「聞こえる」

 

「大丈夫?」

 

「問題ない」

 

 即答だった。

 

 マシュが心配そうに口を開く。

 

「本当に、問題はありませんか」

 

「霊基状態は正常だ。

 魔力循環も乱れていない。

 王宮防壁も稼働している」

 

 ダ・ヴィンチが小さく息を吐いた。

 

「数値上はその通りだね」

 

「ならば問題はない」

 

「数値上は、ね」

 

 アトラスは黙った。

 

 その沈黙が、問題がない時の沈黙ではないことを、立香はもう知っていた。

 

「アトラス」

 

「何だ、マスター」

 

「ごめん」

 

 アトラスの瞳が、管制室の方へ向く。

 

「汝が謝罪する必要はない」

 

「でも、すすめたのは私だから」

 

「汝は命令していない」

 

「うん」

 

「ダ・ヴィンチも、意図して侵入的処理を行ったわけではない」

 

 ダ・ヴィンチが静かに頷く。

 

「でも、結果として越えた」

 

 アトラスは画面の停止ログを見た。

 

「合意範囲を逸脱した」

 

 その声は冷たかった。

 

「外郭観測までと定めた。

 霊基内層への接続、責任裁定への干渉、停止要求の再分類。

 いずれも条件外だ」

 

 ダ・ヴィンチは、苦い顔で頷いた。

 

「その通りだ。これは私の管理責任だ」

 

「悪意ではない」

 

「それでも、越えた」

 

「そうだ」

 

 アトラスは短く言った。

 

「装置はしばしば当然を誤る」

 

 管制室が静かになった。

 

 ダ・ヴィンチは、しばらく画面を見ていた。

 

「この機能は凍結する。少なくとも、アトラス相手にこの設定は使わない」

 

「妥当だ」

 

「……ごめん」

 

「謝罪はすでに受理した」

 

「まだ謝ってないよ」

 

「汝の顔が謝罪していた」

 

 立香は少しだけ目を瞬いた。

 

 ダ・ヴィンチも一瞬だけ黙る。

 

 その後、苦笑した。

 

「それは記録しないでほしいな」

 

「不要な記録だ」

 

 ほんの少しだけ、空気が緩んだ。

 

 けれど、消えたわけではない。

 

 残っている。

 

 白い床の下に、まだ凪いだ海があるように。

 

 マシュが言う。

 

「アトラスさんは……苦しかったですか」

 

「苦しくはなかった」

 

 それは事実だった。

 

 あの海は苦しくなかった。

 

 寒くもなかった。

 

 痛くもなかった。

 

 むしろ、楽だった。

 

 楽だった。

 

 その事実が、まだ水面に落ちている。

 

「苦しくは、なかった」

 

 アトラスはもう一度言った。

 

 その言い方に、立香は胸の奥が少し冷たくなる。

 

 苦しくなかった。

 

 だからこそ、何かが悪かったのだ。

 

 立香は、ゆっくりと言う。

 

「でも、嫌だった?」

 

 アトラスはすぐには答えない。

 

 長い沈黙だった。

 

 そして、言った。

 

「不快だった」

 

「うん」

 

「だが、悪意はない」

 

「うん」

 

「機能としても、完全な誤作動ではない」

 

「うん」

 

「負荷軽減という目的に対しては、一定の成果が出ている」

 

「うん」

 

「ゆえに、破壊対象ではない」

 

 ダ・ヴィンチが少しだけ肩を落とす。

 

「そこまで冷静に分類されると、余計に申し訳ないな」

 

「汝の感情は不要だ」

 

「そうもいかないんだよ」

 

 アトラスは答えなかった。

 

 代わりに、白い床を見る。

 

 さっきまでそこに海があった。

 

 凪いだ海。

 

 浮かびも沈みもしない、どこにも立たない海。

 

 決めなくてよい海。

 

 アトラスは、拳を握った。

 

 鎧の指が小さく鳴る。

 

 そこに、重さがある。

 

 重さが戻っている。

 

 戻っているのに。

 

 水面は揺れない。

 

 波は、ただ海だけでは立たない。

 

 ぶつかる境界が要る。

 

 削るべき岸が要る。

 

 だが、ここには何もない。

 

「アトラス」

 

 立香の声がした。

 

「今日は、もう休もう」

 

 アトラスは短く答えた。

 

「不要だ」

 

「休むのが嫌なら、せめてシミュレーターは終わり」

 

「それは同意する」

 

 マシュが少しだけ安堵した。

 

「では、医務室へ」

 

「不要だ」

 

「アトラスさん」

 

「数値上の異常はない」

 

「ですが」

 

「マシュ」

 

 立香が小さく首を横に振る。

 

 マシュは言葉を飲み込んだ。

 

 立香は通信越しにアトラスを見る。

 

「じゃあ、今日はここまで。

 でも、何かあったら言って」

 

「何もない」

 

「何かあったら」

 

 アトラスは沈黙した。

 

 そして、ようやく言った。

 

「考慮する」

 

 立香は小さく笑った。

 

「うん」

 

 シミュレーター室の扉が開く。

 

 アトラスは外へ出た。

 

 廊下は静かだった。

 

 カルデアの白い光。

 

 遠くの足音。

 

 かすかな機械音。

 

 いつもの場所。

 

 王宮ではない。

 

 墓でもない。

 

 海底でもない。

 

 だが、今はどこも少し遠かった。

 

 歩くたびに、鎧が鳴る。

 

 重い。

 

 その重さは戻っている。

 

 だが、胸の奥だけが妙に軽い。

 

 軽い。

 

 それが不快だった。

 

 ――ここでは、決めなくてよい。

 

 声は消えた。

 

 消えたが、完全には消えていない。

 

 水面に一度落ちたものは、沈んでも、底に痕を残す。

 

 アトラスは足を止める。

 

 廊下の窓に、自分の姿が映っていた。

 

 紺碧の鎧。

 

 三叉槍。

 

 淡い水青の髪。

 

 血を海水に溶かしたような瞳。

 

 大洋王アトラス。

 

 王はそこにいる。

 

 いるはずだった。

 

 だが、その内側の海は、まだ荒れない。

 

 凪は、海を傷つけない。

 

 その代わり、海を動かしもしない。

 

 凪は穏やかだった。

 

 苦しくなかった。

 

 痛くなかった。

 

 だからこそ、癒やしではなかった。

 

「……不快だ」

 

 アトラスは小さく呟いた。

 

 その声は、白い廊下に落ちた。

 

 波紋は立たなかった。

 




お読みいただきありがとうございます。
しばらくは毎日20時頃に更新予定です。

前日譚の『The Reaching Shore――届かせるもの――』も連載中です。
https://syosetu.org/novel/420096/

この作品の興味をもったところは?

  • アトラスのキャラクター性・内面
  • ギルガメッシュとの関係性
  • 王としての在り方・王権のテーマ
  • ストーリーの展開
  • その他
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