The Reversed Star――逆位置の星――   作:ほいみん

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FGO二次創作長編『The Reversed Star――逆位置の星――』です。

※独自解釈/女性体オリジナルサーヴァント/ギルガメッシュ×アトラス/本文に文章生成AI補助あり
※掲載イラストは作者による手描きです。

詳しい注意事項・制作FAQはこちら:
【作品案内URL】
https://docs.google.com/document/d/1GdwYLijsN-D6iR4MKAlV2ziDaThI6rrddGUy8nim0KE/edit?usp=drive_link


第四節 玉手箱は開かれない

 宴は続いていた。

 

 笛の音。

 太鼓の音。

 弦を弾く音。

 杯の触れ合う音。

 笑い声。

 

 どれも華やかだった。

 

 けれど、そこには進行がなかった。

 

 曲は始まらない。

 終わらない。

 盛り上がりも、余韻もない。

 

 ただ、最も美しい一拍だけが取り出され、何度も何度も繰り返されている。

 

 立香は、宴の間の中央で足を止めた。

 

「……同じ音がしてる」

 

 マシュが盾を構えたまま頷く。

 

「はい。音響パターンが一定周期で反復しています。ですが、記録映像の再生ではありません。霊的残響が、その都度発生しています」

 

「毎回、本当に鳴ってるってこと?」

 

「はい。鳴っています。けれど、次へ進みません」

 

 ネモが端末を操作しながら、宴席の端を歩く。

 

 彼は食事に触れない。

 杯にも、飾りにも、置かれた楽器にも、一定以上近づかない。

 

「全体が循環してる。魔力も、音も、時間も。外へ出る流れがない」

 

「箱の中で回っている」

 

 アトラスが言う。

 

「うん」

 

 ネモは頷いた。

 

「玉手箱型疑似聖杯。たぶん、それがこの宮の核だ。聖杯反応はあるけど、願望器というより、保存装置に近い」

 

「保存装置」

 

 アトラスは、宴席を見た。

 

 舞手は笑っている。

 奏者は穏やかに目を伏せている。

 杯を持つ影は、今にも飲み干しそうな姿勢のまま、永遠にその前に留まっている。

 

「これは保存ではない」

 

 アトラスが言った。

 

 ニトクリスが彼女を見る。

 

「大洋王」

 

「保存とは、残すための処理だ」

 

 アトラスの声は硬い。

 

「これは、進行の拒絶だ」

 

 ギルガメッシュが笑う。

 

「言うようになったな。閉じることと残すことを混同していた王が」

 

 アトラスは振り返らない。

 

「否定はしない」

 

「ほう」

 

「だが、今は分類できる」

 

 短い言葉だった。

 

 立香は、それが小さくない変化だと分かった。

 

 アトラスはこの宮を理解している。

 理解してしまう。

 

 けれど、同じものとは見ていない。

 

 ニトクリスが杖を握り直した。

 

「忘れぬために形を残すことはあります。墓も、碑も、祈りも、そうです。ですが、終わりを拒むために時を止めるなら、それは弔いではありません」

 

「終わりを拒むため」

 

 立香は、御簾の向こうを見た。

 

 トヨタマヒメの姿はない。

 

 けれど、彼女の気配は宮全体にあった。

 

 穏やかで、優しく、どこまでも悲しい。

 

 悪意はない。

 

 だからこそ、足元から水が染みてくるように怖い。

 

 マシュの端末が再び鳴った。

 

「先輩、時間流に変化があります。私たちの周囲だけ、外部時間との同期が弱まっています」

 

「どういうこと?」

 

「この宮の時間に、少しずつ馴染まされているようです」

 

 ネモが顔を上げる。

 

「まずい。長くいるほど、帰る感覚が薄くなる」

 

 立香は自分の胸に手を当てた。

 

 帰る感覚。

 

 カルデアへ戻る。

 任務を終える。

 この特異点を修復する。

 

 もちろん、忘れてはいない。

 

 忘れてはいないはずなのに、宴の音を聞いていると、その輪郭が少しだけ遠くなる。

 

 ここは綺麗だ。

 食べ物は冷めない。

 海は荒れない。

 夕暮れは終わらない。

 誰も急かさない。

 

 少しだけ休んでもいいのではないか。

 

 そういう考えが、頭の片隅に浮かぶ。

 

 立香は唇を噛んだ。

 

「マシュ」

 

「はい、先輩」

 

「私、今ちょっと、休んでもいいかなって思った」

 

 マシュの表情が変わる。

 

「先輩」

 

「大丈夫。気づいたから」

 

 アトラスが立香を見る。

 

「沈まぬ娘」

 

「止まらないって言ったからね」

 

 立香は深く息を吸った。

 

「でも、これ、たぶん気づかないと危ない」

 

「そうだね」

 

 ネモが言う。

 

「攻撃じゃない。誘惑でもない。ただ、ここにいることを自然にされる」

 

 ギルガメッシュは不快そうに眉を寄せた。

 

「退屈な手だ。毒にも酒にも及ばぬ」

 

「そう言うわりには、少し顔が怖いよ、英雄王」

 

 ネモが言った。

 

 ギルガメッシュは笑う。

 

「我を留めようなどという宮に、褒美をやると思うか」

 

「褒美じゃなくて、警告を出しそうだから怖い」

 

「船長、貴様はなかなかよく見る」

 

「安全確認だから」

 

 ギルガメッシュは低く笑った。

 

「ならば安全のために記しておけ。あの姫は、我の蔵には不要だ」

 

 アトラスが即座に言う。

 

「誰も収納を求めていない」

 

「時を箱にしまう女だ。蔵の趣味としては二流よ」

 

「お前が言うな」

 

 立香は少しだけ笑った。

 

 その笑いで、意識が戻る。

 

 笑える。

 なら、まだ止まっていない。

 

 その時、宴席の一角から、杯が差し出された。

 

 人影の一つが、立香へ向かって微笑んでいる。

 

 顔は曖昧だ。

 けれど、笑みだけは優しい。

 

「お飲みください」

 

 声がした。

 

 その声は、トヨタマヒメのものではない。

 宴に属する誰かの声だった。

 

「喉が渇いているでしょう」

 

 立香は一瞬、手を伸ばしかけた。

 

 マシュが盾を前に出す。

 

「先輩、触れないでください」

 

 杯の中には、透明な液体があった。

 

 水のようにも見える。

 酒のようにも見える。

 光そのもののようにも見える。

 

 ネモが計器を向けた。

 

「時間流が閉じてる。飲んだら、この宴の周期に組み込まれるかもしれない」

 

「お断りします」

 

 マシュがはっきりと言った。

 

 杯を持つ影は、微笑んだまま止まった。

 

 そして、もう一度、同じ動きで杯を差し出す。

 

「お飲みください」

 

 同じ声。

 同じ角度。

 同じ優しさ。

 

 立香は背筋が冷えるのを感じた。

 

「これ、悪気ないんだ」

 

「ないね」

 

 ネモが答えた。

 

「だから、断っても理解しない」

 

 ニトクリスが杖を掲げる。

 

「失礼いたします」

 

 彼女の魔力が、杯の前に薄い障壁を作る。

 

 杯を持つ影は、その障壁に触れた瞬間、かすかに揺らいだ。

 怒りはない。

 抵抗もない。

 

 ただ、また同じ位置へ戻る。

 

「お飲みください」

 

 ニトクリスの表情が険しくなる。

 

「これは、祈りではありません。もてなしの形をした拘束です」

 

 アトラスが三叉槍を握る。

 

「破壊するか」

 

「待って」

 

 立香は言った。

 

「まだ、全部敵って決めたくない」

 

「足止めだ」

 

「うん。でも、たぶんこの人たちは、止めている側じゃなくて、止められている側だと思う」

 

 アトラスは黙った。

 

 立香は宴の人影を見た。

 

 同じ笑顔。

 同じ声。

 同じ杯。

 

 彼らは誰かを閉じ込めようとしている。

 だが同時に、彼ら自身も閉じ込められている。

 

 マシュが頷く。

 

「先輩の判断に賛成します。敵性反応は、いまだ検出されていません」

 

 ギルガメッシュが退屈そうに言う。

 

「敵ではないから斬らぬ、か。面倒なことだ」

 

「英雄王は斬りたいんですか?」

 

「斬る価値もない。だが、留められるのは不愉快だ」

 

「それは分かる」

 

 立香は苦笑した。

 

 アトラスは、杯を持つ影を見つめたまま言った。

 

「ならば、中枢へ向かう」

 

「うん」

 

「止めるものを止める」

 

 ネモが一瞬だけアトラスを見る。

 

「それ、ちょっとややこしい言い方だね」

 

「正確だ」

 

「まあ、正確ではある」

 

 彼らは宴席を抜け、奥へ進んだ。

 

 廊下は長かった。

 

 朱の柱が等間隔に並び、床には波と星の文様が続いている。

 壁には絵が飾られていた。

 

 海辺に立つ男。

 水の宮へ招かれる男。

 宴。

 姫。

 帰還。

 箱。

 

 絵巻のような連なりだった。

 

 だが、最後の絵だけが欠けている。

 

 箱を開ける絵がない。

 

 立香は足を止めた。

 

「玉手箱って、開けるものじゃなかったっけ」

 

 ネモが絵を見る。

 

「この宮では、開けないことが正しいんだろうね」

 

 ニトクリスが目を伏せる。

 

「開ければ、時間が流れる。老いも、別れも、終わりも来る」

 

 マシュが言う。

 

「だから、開けない」

 

 アトラスが壁画を見た。

 

「閉じた箱は、外へ届かぬ」

 

 ギルガメッシュが鼻で笑う。

 

「箱とは開けるためにある。開けぬ箱など、財としても二流だ」

 

「開けたら怒るくせに」

 

 立香が言うと、ギルガメッシュは当然のように返した。

 

「我の箱ならな」

 

「横暴」

 

「王だからな」

 

 アトラスが言う。

 

「便利に使うな」

 

 ギルガメッシュは笑った。

 

 その笑い声が、廊下に響く。

 

 だが、響きは途中で止まった。

 

 反響が返ってこない。

 

 音が、廊下の奥へ吸い込まれるように消える。

 

 ネモが立ち止まった。

 

「ここから先、時間流がさらに濃い」

 

「濃い?」

 

「進みにくくなる」

 

 マシュが端末を見る。

 

「帰還座標との同期、さらに低下。レイシフト帰還路に干渉が出ています」

 

 立香は拳を握った。

 

「急ごう」

 

「急ぐ必要はありません」

 

 声がした。

 

 トヨタマヒメの声だった。

 

 廊下の奥、御簾の向こうではない。

 壁画の中から聞こえた。

 

 海辺に立つ男の絵。

 宮へ向かう舟の絵。

 宴の絵。

 姫の絵。

 

 それぞれの絵から、同じ声が響く。

 

「ここでは、急ぐ必要がありません」

 

 ネモが低く言う。

 

「出たね」

 

 トヨタマヒメの声は穏やかだった。

 

「疲れたなら、休めばよいのです」

「喉が渇いたなら、飲めばよいのです」

「楽しいなら、もう少し留まればよいのです」

「夕暮れは、まだ終わりません」

 

 立香の脳裏に、海辺が浮かんだ。

 

 白い砂浜。

 溶けないアイス。

 崩れない砂の城。

 沈まない身体。

 終わらない夏。

 

 それは、とても優しい。

 

 優しすぎる。

 

 マシュが立香の前へ出た。

 

「先輩、私を見てください」

 

「マシュ」

 

「カルデアに帰りましょう」

 

 その一言で、立香の中の輪郭が戻った。

 

 カルデア。

 管制室。

 ダ・ヴィンチの声。

 マシュの手。

 帰る場所。

 

「うん。帰る」

 

 立香は言った。

 

「でも、そのために進む」

 

 アトラスが、わずかに頷いた。

 

「帰るために進む」

 

 ネモが続ける。

 

「船の基本だよ」

 

 ギルガメッシュが笑う。

 

「当然だ。帰る場を持たぬ者が、宴など開くな」

 

 その瞬間、廊下の灯が一斉にともった。

 

 揺れない灯。

 同じ高さ。

 同じ光量。

 同じ色。

 

 廊下の奥に、いくつもの人影が現れる。

 

 舞手。

 奏者。

 給仕。

 笑う客。

 

 全員が同じ笑顔を浮かべている。

 

 敵性反応は、まだない。

 

 だが、進路を塞いでいた。

 

 マシュが盾を構える。

 

「道を塞がれました!」

 

 ネモが端末を見て叫ぶ。

 

「防衛反応じゃない。歓迎反応だ。進もうとする僕たちを、宴に戻そうとしてる!」

 

「歓迎で道を塞ぐな」

 

 ギルガメッシュの声が低くなる。

 

 アトラスは三叉槍を構えた。

 

 青い魔力が、槍の穂先に灯る。

 

「どけ」

 

 人影たちは微笑んだまま、一斉に杯を差し出す。

 

「お飲みください」

「お座りください」

「お休みください」

「まだ、夕暮れです」

「まだ、帰る時ではありません」

 

 アトラスの目が冷たくなる。

 

「帰る時を、宮が決めるな」

 

 彼女は踏み込んだ。

 

 三叉槍が床を叩く。

 

 水が走った。

 

 だが、深海圧ではない。

 沈める水ではない。

 

 足元の文様をなぞるように、薄い波が廊下を走り、人影たちの足元を揺らす。

 

 彼らは倒れない。

 

 ただ、一瞬だけ、同じ動作からずれた。

 

 杯を差し出す角度が変わる。

 笑みの周期が乱れる。

 楽の音が、一拍だけ外れる。

 

 ネモが叫ぶ。

 

「今!」

 

 マシュが盾を構え、道を開ける。

 ニトクリスが祈りの光で、宴の影を押し留める。

 ギルガメッシュは宝物庫を開きかけたが、ネモが即座に振り返った。

 

「事前申請!」

 

「今か、船長!」

 

「今だよ!」

 

 ギルガメッシュは舌打ちし、宝物庫を閉じたまま、手元に出した黄金の杯を投げた。

 

 杯は廊下の床を跳ね、宴の人影たちの列を乱す。

 

「財の投擲だ。宝物庫展開ではない」

 

 ネモが一瞬だけ考える。

 

「……グレー」

 

「許可しろ」

 

「今回だけ」

 

「面倒な船だ」

 

 立香はその隙に走る。

 

 止まらない。

 

 廊下の奥へ。

 灯の先へ。

 玉手箱型疑似聖杯の反応が強まる方へ。

 

 背後で、宴の声が重なる。

 

「お飲みください」

「お座りください」

「お休みください」

「まだ、夕暮れです」

 

 その声は優しい。

 

 どこまでも優しい。

 

 だから、立香は叫んだ。

 

「帰るよ!」

 

 声が廊下に響く。

 

 今度は、ほんの少しだけ反響が返った。

 

 アトラスが立香の横に並ぶ。

 

「止まらぬと言ったな」

 

「言った」

 

「ならば、通す」

 

「うん」

 

 彼女たちは走る。

 

 その先に、箱があった。

 

 廊下の奥、円形の間。

 水面の中央に浮かぶ、貝と金の箱。

 

 浮かぶ。

 

 立香は一瞬、そう思った。

 

 だが、すぐに違うと分かった。

 

 箱は水面にあった。

 けれど、揺れていない。

 

 水に支えられているのではない。

 

 同じ場所に、固定されている。

 

 アトラスもそれを見た。

 

「玉手箱」

 

 ネモが端末を構える。

 

「疑似聖杯反応、最大。これが核だ」

 

 ニトクリスが息を呑む。

 

「けれど、開いていません」

 

 マシュが盾を構えたまま言う。

 

「封印状態、ということでしょうか」

 

 ギルガメッシュは箱を見て、つまらなそうに笑った。

 

「開かぬ箱に価値はない」

 

 その時、箱の前にトヨタマヒメが現れた。

 

 いつ現れたのか分からない。

 

 最初からそこにいたようにも見える。

 今、箱から立ち上がったようにも見える。

 

 彼女は玉手箱の前に立ち、両手を重ねていた。

 

「開けないでください」

 

 その声は、初めて明確に震えていた。

 

 立香は足を止める。

 

 アトラスも止まった。

 

 トヨタマヒメは続ける。

 

「開ければ、終わってしまいます」

 

 誰もすぐには答えなかった。

 

「宴も」

「夕暮れも」

「待つことも」

「あの方が帰った直後の、この時間も」

 

 トヨタマヒメは微笑もうとした。

 けれど、その笑みは崩れかけていた。

 

「私は、まだ出ていけないのです」

 

 アトラスは彼女を見る。

 

「竜宮をか」

 

「はい」

 

「あるいは、あの時をか」

 

 トヨタマヒメは答えなかった。

 

 それが答えだった。

 

 玉手箱の光が強くなる。

 

 円形の間の水面が、動かないまま光を返す。

 

 ネモが低く言う。

 

「このままじゃ、宮だけじゃない。外海まで固定される」

 

 マシュが続ける。

 

「微小特異点の範囲、拡大傾向。カルデアとの通信も不安定です」

 

 ギルガメッシュが赤い目を細める。

 

「そろそろ退屈を通り越して不快だ」

 

 ニトクリスは、トヨタマヒメを悲しそうに見た。

 

「豊玉姫。忘れぬための宮が、帰る者を奪ってはなりません」

 

 トヨタマヒメは首を振る。

 

「奪ってなどいません」

 

「では、なぜ道を閉じるのです」

 

「閉じてはいません」

 

 彼女は玉手箱を抱きしめるように手を重ねた。

 

「ただ、開けないだけです」

 

 アトラスの声が落ちる。

 

「同じことだ」

 

 トヨタマヒメが彼女を見る。

 

 アトラスは続けた。

 

「外へ流れぬ箱は、封鎖だ」

 

「あなたも、閉じたでしょう」

 

 トヨタマヒメの声が、初めて鋭くなった。

 

 立香は息を呑む。

 

 アトラスは動かない。

 

「国を」

「王宮を」

「名を」

「海の底へ」

 

 トヨタマヒメは、悲しげに言った。

 

「あなたなら、分かるはずです。流れれば失われる。進めば遠くなる。開ければ終わる。ならば、閉じるしかない」

 

 沈黙。

 

 水面の上の箱は揺れない。

 

 アトラスは、しばらく何も言わなかった。

 

 やがて、短く答える。

 

「分かる」

 

 立香はアトラスを見た。

 

 その声には嘘がなかった。

 

 アトラスは分かっている。

 

 痛いほどに。

 不快なほどに。

 

 トヨタマヒメの瞳に、わずかな安堵が浮かんだ。

 

「ならば」

 

「だが、同じ裁定はしない」

 

 アトラスは三叉槍を構えた。

 

 深海の青が、槍の穂先に灯る。

 

 トヨタマヒメの表情が凍る。

 

 アトラスは言う。

 

「かつて己は、外へ流さぬために沈めた」

 

 水が、彼女の足元に広がる。

 

「だが、沈めたものは届かぬ」

 

 青い光が、円形の間を照らす。

 

「閉じたものも、届かぬ」

 

 玉手箱が、強く光った。

 

 トヨタマヒメは箱の前に立つ。

 

「開けないでください」

 

 アトラスは答えた。

 

「まだ開けぬ」

 

 立香が驚く。

 

「アトラス?」

 

「今開ければ、宮ごと時間が崩れる」

 

 ネモが端末を見て頷く。

 

「正しい。無理に開けたら、停止していた時間が一気に流れ込む。外海への反動も大きい」

 

 トヨタマヒメは一瞬、戸惑った。

 

 アトラスは続ける。

 

「だが、閉じたままにもせぬ」

 

 その言葉と同時に、竜宮が震えた。

 

 初めて、宮が揺れた。

 

 灯が一つ、かすかに揺らぐ。

 

 トヨタマヒメの瞳が見開かれる。

 

「いま、灯が」

 

 ネモが叫ぶ。

 

「外の海流が反応した! ほんの少しだけ、戻ってる!」

 

 アトラスは三叉槍を構えたまま言った。

 

「波を戻す」

 

 その声は、裁定だった。

 

 トヨタマヒメは玉手箱を抱く。

 

「やめて」

 

「否」

 

「お願いです」

 

「否」

 

「私は、まだ」

 

 アトラスは静かに言った。

 

「待つことを、宮に命じるな」

 

 その瞬間、円形の間の水面が割れた。

 

 敵性反応が、初めて明確に現れる。

 

 水面から、竜宮の衛士たちが立ち上がった。

 顔のない影。

 珊瑚の鎧。

 貝殻の槍。

 目はない。

 だが、全身が同じ言葉を放っていた。

 

 帰るな。

 

 マシュが盾を構える。

 

「敵性反応、確認!」

 

 ネモが舵のない場所で端末を握る。

 

「ようやく防衛機構が出た。いや、違う。これは玉手箱の自動反応だ!」

 

 ギルガメッシュが笑う。

 

「ようやく退屈せずに済むか」

 

 ニトクリスが杖を掲げる。

 

「弔いを拒む守りならば、王として退けます!」

 

 立香は前を見る。

 

 玉手箱。

 トヨタマヒメ。

 揺れない水。

 初めて揺れた灯。

 

 アトラスが言う。

 

「マスター」

 

「うん」

 

「開ける前に、流れを作る」

 

「分かった」

 

 立香は頷いた。

 

「みんな、戦闘準備!」

 

 竜宮の衛士たちが、一斉に槍を構える。

 

 宴の音が、遠くで鳴っている。

 

 同じ拍ではない。

 

 少しずつ、ずれ始めていた。

 

 トヨタマヒメは玉手箱を抱きしめ、震える声で言う。

 

「夏は、まだ終わっていません」

 

 アトラスは、三叉槍を構えた。

 

「終わる」

 

 冷たい声だった。

 

 だが、その冷たさの奥に、かつての沈没裁定とは違うものがあった。

 

「終わるから、次へ流れる」

 

 青い波が、止まった竜宮の床を走った。

 




アトラスの水着イラスト描きました。

【挿絵表示】


前日譚の『The Reaching Shore――届かせるもの――』も連載中です。
https://syosetu.org/novel/420096/

この作品の興味をもったところは?

  • アトラスのキャラクター性・内面
  • ギルガメッシュとの関係性
  • 王としての在り方・王権のテーマ
  • ストーリーの展開
  • その他
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