The Reversed Star――逆位置の星――   作:ほいみん

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FGO二次創作長編『The Reversed Star――逆位置の星――』です。

※独自解釈/女性体オリジナルサーヴァント/ギルガメッシュ×アトラス/本文に文章生成AI補助あり
※掲載イラストは作者による手描きです。

詳しい注意事項・制作FAQはこちら:
【作品案内URL】
https://docs.google.com/document/d/1GdwYLijsN-D6iR4MKAlV2ziDaThI6rrddGUy8nim0KE/edit?usp=drive_link


第五節 波は記憶を連れていく

 青い波が、止まった竜宮の床を走った。

 

 それは、沈めるための水ではなかった。

 

 深海圧で押し潰すものでもない。

 王宮ごと封じるものでもない。

 閉じたものを、さらに深く沈めるためのものでもない。

 

 薄い波だった。

 

 足元を撫でるように、文様の溝をなぞり、止まっていた水の気配を揺らす。

 波紋が一つ広がる。

 次の波紋がそれに触れる。

 触れた場所から、また小さな乱れが生まれる。

 

 竜宮の衛士たちが、その波を踏み越えて進んできた。

 

 顔のない影。

 珊瑚の鎧。

 貝殻の槍。

 

 彼らの動きは揃っていた。

 

 同じ歩幅。

 同じ角度。

 同じ速度。

 まるで一つの時刻から複製された影のように、全員が同じ瞬間をなぞっている。

 

 マシュが盾を構える。

 

「来ます!」

 

 衛士たちの槍が、一斉に突き出された。

 

 マシュの盾がそれを受け止める。

 

 金属音ではない。

 貝殻が割れるような、乾いた音が響いた。

 

「くっ……!」

 

「マシュ!」

 

「大丈夫です、先輩!」

 

 マシュは踏みとどまった。

 

 だが、衛士たちは止まらない。

 

 槍を引く。

 突き出す。

 引く。

 突き出す。

 

 同じ動作。

 同じ間合い。

 同じ衝撃。

 

 攻撃というより、反復だった。

 

 ネモが端末を見ながら叫ぶ。

 

「倒しても戻る! 同じ周期に復元されてる!」

 

 ニトクリスが魔力を放つ。

 

 黄金の祈りが、衛士の一体を包む。

 影は一瞬ほどけ、珊瑚の鎧が砕けた。

 

 だが次の瞬間、同じ場所に、同じ姿で立ち上がる。

 

「弔いが届きません!」

 

 ニトクリスの声が鋭くなる。

 

「彼らは死者ではありません。生者でもありません。宴の一部として、形だけを繰り返されています!」

 

 ギルガメッシュが低く笑った。

 

「つまらん兵だ。壊しても壊したことにならぬとは」

 

「壊すな」

 

 アトラスが言った。

 

 ギルガメッシュは目だけで彼女を見る。

 

「ほう?」

 

「壊しても戻る。ならば、壊すことは流れを作らぬ」

 

「ではどうする、大洋王」

 

 アトラスは衛士たちを見た。

 

 同じ歩幅。

 同じ槍。

 同じ動き。

 

「ずらす」

 

 短く、そう言った。

 

 ネモが顔を上げる。

 

「正解。周期を乱せば、玉手箱の制御に隙間ができる」

 

「隙間」

 

「流れは、隙間から入る」

 

 アトラスは頷いた。

 

「ならば、隙間を作る」

 

 立香は礼装を起動する。

 

「みんな、倒すより乱す! 同じ動きを崩して!」

 

「了解しました!」

 

 マシュが盾を構え直す。

 

 次の槍が来る。

 

 だが、マシュは真正面から受け止めなかった。

 盾を少しだけ斜めに傾ける。

 

 槍の軌道がずれる。

 

 一体目の槍が、二体目の槍に触れた。

 ほんのわずかな乱れ。

 

 それだけで、衛士たちの列に一拍の遅れが生まれた。

 

 ネモが叫ぶ。

 

「そこ!」

 

 アトラスの三叉槍が床を叩く。

 

 薄い波が、その遅れへ流れ込んだ。

 

 衛士の足元が揺れる。

 

 一体が、半歩だけ遅れる。

 別の一体が、槍を出す角度を誤る。

 反復が、綺麗な円から外れた。

 

 ニトクリスが杖を掲げる。

 

「今なら祈りが通ります!」

 

 彼女の魔力が、ほどけかけた影に触れた。

 

 衛士の姿が崩れる。

 

 今度は、すぐには戻らなかった。

 

 影の中から、小さな泡が立ち上る。

 

 泡は水面へ向かい、天井の青い光の中へ消えた。

 

 立香はそれを見た。

 

「消えた?」

 

「戻ったんだと思う」

 

 ネモが言う。

 

「宮の周期じゃなくて、海の流れに」

 

 ニトクリスが静かに目を伏せる。

 

「弔いではありません。ですが、留められていた形をほどくことはできる」

 

 アトラスは衛士たちを見る。

 

「流せ」

 

 その声は命令ではなかった。

 

 裁定でもあり、祈りでもあった。

 

「沈めるな。壊すな。流せ」

 

 ギルガメッシュが笑う。

 

「ようやく水辺らしい戦になったな」

 

「お前は見ているだけか」

 

 アトラスが返す。

 

「我が見ていることの価値を知らぬとは言わせぬぞ」

 

「便利に使うな」

 

「では要るか、我の手が」

 

 アトラスは一瞬だけ黙った。

 

 それから言った。

 

「宝物庫は使うな」

 

 ネモが即座に頷く。

 

「うん、助かる」

 

 ギルガメッシュは不満そうに目を細めた。

 

「船長の規則がまだ生きておるのか」

 

「ここに来た船で帰るまでは、航海中だよ」

 

「面倒な船だ」

 

「安全な船だよ」

 

 ギルガメッシュは小さく笑い、手を上げた。

 

 黄金の光が一瞬だけ滲む。

 

 ネモが振り向く。

 

「事前申請」

 

「開かぬ」

 

 ギルガメッシュは言った。

 

「ただ、投げる」

 

 彼の手には、どこから出したのか黄金の杯があった。

 

 先ほど廊下で使ったものと似ているが、より重く、装飾も鋭い。

 

 それを、ギルガメッシュは無造作に投げた。

 

 杯は衛士の槍に当たり、甲高い音を立てて跳ねる。

 跳ねた杯が別の衛士の足元に落ちる。

 足運びが乱れる。

 そこへマシュの盾が入る。

 

 反復が崩れた。

 

 アトラスの波が走る。

 

 ニトクリスの祈りが通る。

 

 衛士の影が泡になり、宮の天井へ上っていく。

 

 ネモが端末を見る。

 

「いい。制御周期がずれてきた。宮全体に微細な流れが戻ってる」

 

 立香は周囲を見た。

 

 円形の間の灯が揺れている。

 

 ほんの少し。

 消えそうなほど小さく。

 

 けれど、確かに揺れている。

 

 止まっていたはずの水面に、波紋がある。

 

 トヨタマヒメが玉手箱の前で息を呑んだ。

 

「やめてください」

 

 その声は、先ほどより弱かった。

 

 怒りではない。

 怯えだった。

 

「このままでは、戻ってしまう」

 

 立香が振り向く。

 

「何が?」

 

 トヨタマヒメは玉手箱を抱く手に力を込めた。

 

「時が」

 

「時は、戻らない」

 

 アトラスが言った。

 

 トヨタマヒメは彼女を見る。

 

「では、何が戻るのです」

 

「流れだ」

 

 アトラスは槍を構えたまま答える。

 

「止まっていたものが、動く」

 

「動けば、離れていく」

 

「そうだ」

 

「遠くなる」

 

「そうだ」

 

「失われる」

 

 アトラスは、一拍だけ黙った。

 

 それから、静かに言った。

 

「すべてではない」

 

 トヨタマヒメの瞳が揺れる。

 

 円形の間の奥で、宴の音が乱れ始めていた。

 

 笛の音が半拍遅れる。

 太鼓がわずかに先走る。

 笑い声が、同じ場所に戻りきれず、別の笑いへ変わりかける。

 

 それは不協和音だった。

 

 美しい宴が、崩れていく音だった。

 

 トヨタマヒメは耳を塞ぎかけた。

 

「聞かないでください」

 

 立香は言う。

 

「トヨタマヒメさん」

 

「聞かないで」

 

 彼女は首を振った。

 

「こんな音は、竜宮に要りません。ここには、いちばん美しい時だけがあればいい」

 

 ネモが静かに言った。

 

「一番美しい時だけを残したら、その前も後も消える」

 

「消えません」

 

「消えてるよ」

 

 ネモの声は、船長のものだった。

 

「出航も、航海も、帰港もない。ずっと港に飾られた船みたいだ」

 

 トヨタマヒメはネモを見る。

 

「港にいれば、沈みません」

 

「進まない船は、船じゃない」

 

 ネモは言った。

 

 その言葉に、アトラスがわずかに反応した。

 

 トヨタマヒメは唇を噛む。

 

「進めば、帰ってこないこともあります」

 

「ある」

 

 ネモは否定しなかった。

 

「でも、進ませないことは、帰る可能性も奪う」

 

 トヨタマヒメの顔が歪んだ。

 

「奪ってなどいません」

 

 アトラスが言う。

 

「開けないだけか」

 

 トヨタマヒメは息を呑んだ。

 

 箱を抱く指に、力がこもる。

 

 アトラスは、低く続けた。

 

「残すことと、止めることは同義ではない」

 

 水面が揺れた。

 

 トヨタマヒメの手の中で、玉手箱がかすかに震える。

 

「忘れぬために残すものはある。祈るために置くものもある。墓も、碑も、歌も、記録も」

 

 アトラスの声は、硬い。

 

 けれど、かつての終末宝具を開く時の冷たさではなかった。

 

「だが、止めたものは、外へ届かぬ」

 

 ニトクリスが静かに頷く。

 

「弔いは、死者を閉じ込めることではありません。祈りを、外へ向けることです」

 

 トヨタマヒメは首を振る。

 

「外へ向ければ、届かないかもしれません」

 

「それでも、向ける」

 

 立香は言った。

 

 トヨタマヒメが立香を見る。

 

「届かなかったら?」

 

 立香はすぐには答えられなかった。

 

 届かないことはある。

 

 手を伸ばしても。

 声を上げても。

 祈っても。

 覚えていても。

 

 届かないことは、確かにある。

 

 けれど。

 

「届かないかもしれないから、閉じるのは違うと思う」

 

 立香は言った。

 

「届くかもしれないから、外に出すんだと思う」

 

 トヨタマヒメは、立香を見つめた。

 

「あなたは、強いのですね」

 

「強くないよ」

 

 立香は首を振る。

 

「でも、止まらないって決めたから」

 

 アトラスが、静かに目を伏せた。

 

 沈まぬ娘。

 

 その名を、もう一度呼ぶ必要はなかった。

 

 衛士たちが再び動く。

 

 今度は、先ほどより激しい。

 

 玉手箱の自動反応が強まっている。

 

 反復の周期が乱れた分、宮は力ずくで同じ時刻へ戻そうとしていた。

 

 珊瑚の槍が水面から生え、床を覆う。

 貝殻の盾が壁のように並ぶ。

 顔のない影たちが、同じ言葉を放つ。

 

「帰るな」

「開けるな」

「進むな」

「まだ、夕暮れだ」

 

 マシュが盾を構える。

 

「先輩、攻撃密度が上がっています!」

 

 ネモが端末を叩く。

 

「あと少しで蓋に干渉できる。でもこのままだと流路が足りない!」

 

「流路」

 

 アトラスが言う。

 

「どこへ通せばよい」

 

「宮の外へ。外海へ。ここに入る前の海流と繋げる」

 

「座標は」

 

「出す!」

 

 ネモが即座にデータを投影する。

 

 青い光の線が、円形の間の床に浮かんだ。

 

 止まった宮の中心から、外海へ向かう細い線。

 それは、ほとんど消えかけていた帰路でもあった。

 

「ここを通せば、宮の内部循環に外の流れが入る」

 

 アトラスはその線を見た。

 

「細い」

 

「うん。だから、王権で押し潰さないで」

 

「注文が多い」

 

「船は繊細なんだ」

 

「宮もだ」

 

 アトラスは三叉槍を構え直した。

 

「ならば、壊さずに通す」

 

 ギルガメッシュが、その横顔を見ていた。

 

 嘲笑ではない。

 退屈しのぎでもない。

 

 王が、王の裁定を見届ける時の笑みだった。

 

 トヨタマヒメがその視線に気づく。

 

「英雄王。なぜ笑うのです」

 

「見て分からぬか」

 

「分かりません」

 

「閉じた王宮を知る王が、それでも終わりを選ぶ。貴様の宮より、よほど見応えがある」

 

 アトラスが即座に言った。

 

「見世物ではない」

 

 ギルガメッシュは笑う。

 

「見届けているのだ」

 

 アトラスは一瞬、言葉を止めた。

 

「同じではない」

 

「ようやく分かるようになったか」

 

「不快だ」

 

「不満ではなかろう」

 

 アトラスは答えなかった。

 

 代わりに、槍を振るった。

 

 青い水が、ネモの示した細い流路へ向かう。

 

 力任せではない。

 押し流すのでも、沈めるのでもない。

 

 水が、細い隙間を探す。

 床の文様を伝い、波の形を借り、止まった時の継ぎ目へ触れる。

 

 竜宮が震えた。

 

 トヨタマヒメが玉手箱を抱く。

 

「やめて……!」

 

 衛士たちが一斉にアトラスへ向かう。

 

 マシュが前に出た。

 

「通しません!」

 

 盾が槍を受ける。

 

 ニトクリスの祈りが、マシュの周囲を包む。

 

「王の道を阻むならば、冥府の女王として退けます!」

 

 ネモが叫ぶ。

 

「アトラス、少し右! そこ、流れが反発してる!」

 

「承知した」

 

「押さない! 逃がして!」

 

「承知したと言った」

 

「今、押した!」

 

「微修正だ」

 

「王権の微修正は大きい!」

 

 立香は思わず叫ぶ。

 

「アトラス、力抜いて!」

 

 その言葉に、アトラスの動きが止まった。

 

 浅瀬の水が、脳裏をよぎる。

 

 力を抜くと沈む。

 そう言いかけた己の声。

 水に身を預けるという、理解しがたい訓練。

 海に命じるな、と告げた船長の声。

 浮くため、と言った静かな答え。

 

 アトラスは息を吐いた。

 

 槍の穂先の青が、少しだけ薄くなる。

 

 水の圧が下がる。

 

 流れが、押し出されるのではなく、自分で進む道を選び始めた。

 

 ネモが目を見開く。

 

「そう、それ!」

 

 アトラスは低く言う。

 

「不安定だ」

 

「浮くってそういうものだよ!」

 

 ギルガメッシュが笑う。

 

「よいではないか、大洋王。ようやく海に任せたな」

 

「黙れ」

 

「黙らぬ」

 

 水が、細い流路を通った。

 

 円形の間の床から、外海へ。

 閉じた宮の中心から、止まっていた潮へ。

 

 ほんのわずかな流れだった。

 

 だが、それは確かに外へ向かった。

 

 玉手箱が震える。

 

 貝と金の蓋が、かすかに浮いた。

 

 光が漏れる。

 

 強い光ではない。

 

 薄い、夕暮れのような光。

 長く閉じられていた箱の隙間から、外の空気を初めて吸うような光。

 

 トヨタマヒメが悲鳴に近い声を上げた。

 

「開けないで!」

 

 立香は叫ぶ。

 

「まだ開けない!」

 

 その声に、トヨタマヒメが驚いて顔を上げる。

 

 立香は続けた。

 

「でも、閉じたままにもできない!」

 

 アトラスが頷く。

 

「流れを入れる」

 

 ネモが端末を見る。

 

「宮の循環に外海の潮が入った。帰還座標、少し戻ってる!」

 

 マシュが息をつく。

 

「カルデアとの通信も、微弱ですが回復傾向です!」

 

 ニトクリスが静かに言う。

 

「灯が、揺れています」

 

 全員が上を見た。

 

 円形の間の灯が揺れていた。

 

 小さく。

 頼りなく。

 だが、確かに。

 

 宴の音が、遠くで変わる。

 

 同じ拍ではない。

 

 笛が次の音へ進んだ。

 太鼓が違う間を打った。

 笑い声が、一度途切れ、別の笑いに変わった。

 

 トヨタマヒメは、それを聞いていた。

 

 怖れるように。

 懐かしむように。

 

「音が」

 

 彼女は呟いた。

 

「変わっている」

 

 アトラスは言った。

 

「変わる」

 

「変われば、前の音は戻りません」

 

「戻らぬ」

 

「それでも」

 

「それでも、次の音が鳴る」

 

 トヨタマヒメの瞳が揺れた。

 

 玉手箱の光が、彼女の顔を照らす。

 

「次の音」

 

「そうだ」

 

 アトラスは三叉槍を下ろした。

 

 だが、戦闘を終えたわけではない。

 

 流路は細い。

 宮はまだ閉じている。

 玉手箱は、まだ開いていない。

 

 衛士たちも消えてはいない。

 

 ただ、彼らの反復は乱れていた。

 

 同じ言葉が、少しずつずれる。

 

「帰るな」

「帰る……」

「帰る、時……」

「まだ……」

 

 ニトクリスがその声を聞き、静かに目を伏せる。

 

「彼らも、言葉を失っていたのですね」

 

 マシュが盾を下ろしきれないまま言う。

 

「敵性反応、低下しています。でも完全には消えていません」

 

 ネモが頷く。

 

「玉手箱が本格的に開くのを拒んでる。これ以上は、彼女自身が手を離さないと無理だ」

 

 立香はトヨタマヒメを見る。

 

 彼女は玉手箱を抱いている。

 

 けれど、その手は震えていた。

 

 開けたくない。

 終わらせたくない。

 失いたくない。

 

 それでも、今、彼女は初めて変わる音を聞いている。

 

 アトラスが一歩、トヨタマヒメへ近づいた。

 

 衛士たちは反応しようとしたが、動きが遅い。

 

 トヨタマヒメは逃げなかった。

 

「なぜ」

 

 彼女は問うた。

 

「なぜ、そこまでして流すのです」

 

 アトラスは答える。

 

「止めれば、届かぬ」

 

「届かなくても、残ればいいではありませんか」

 

「残らぬ」

 

 アトラスの声は静かだった。

 

「止めたものは、やがて残った形だけになる」

 

 トヨタマヒメは息を呑む。

 

「形だけでも」

 

「形だけでは、声が失われる」

 

 アトラスは、宴の間の方を見た。

 

「笑みだけが残り、笑った理由が消える。杯だけが残り、飲み干す先が消える。夕暮れだけが残り、夜も朝も来ぬ」

 

 トヨタマヒメの瞳が、また揺れる。

 

「では、どうすれば」

 

 その問いは、小さかった。

 

 閉じた箱を守るための拒絶ではない。

 終わりを恐れる者が、それでも答えを探そうとする声だった。

 

 立香は一歩前へ出ようとした。

 

 だが、アトラスが先に答えた。

 

「分からぬ」

 

 トヨタマヒメが目を見開く。

 

 アトラスは続ける。

 

「己は、正しい失い方を知らぬ」

 

 静かな声だった。

 

 それは、王の威厳を損なう言葉ではなかった。

 

 むしろ、王が初めて己の限界を分類した言葉だった。

 

「だが、止めることが答えではないとは知っている」

 

 トヨタマヒメは黙った。

 

 アトラスは言う。

 

「流れれば、失われるものはある」

 

「……はい」

 

「だが、波は奪うだけではない」

 

 アトラスは、玉手箱を見る。

 

 かすかに開いた蓋。

 漏れる夕暮れの光。

 揺れ始めた灯。

 

「運ぶ」

 

 その言葉に、立香は胸の奥が熱くなるのを感じた。

 

 トヨタマヒメは、聞き返す。

 

「運ぶ」

 

「そうだ」

 

 アトラスは頷いた。

 

「記憶も、声も、歌も、名も」

 

 ギルガメッシュが、静かに笑う。

 

「ようやく分かったか」

 

 アトラスは振り返らない。

 

「お前に言われると不快だ」

 

「不快で済むなら十分だ」

 

 ネモが端末を見る。

 

「流路、安定し始めてる。でも宮の中心部はまだ閉じてる。次で決めないと、箱がまた蓋を戻す」

 

 マシュが盾を構える。

 

「先輩、衛士たちも再構成され始めています」

 

 円形の間の水面が、再び硬くなろうとしていた。

 

 玉手箱の蓋が、少しずつ閉じようとしている。

 

 トヨタマヒメの手は震えている。

 

 開けたいのではない。

 閉じたいのでもない。

 

 ただ、どうすればいいのか分からないまま、箱を抱きしめている。

 

 立香は彼女へ向かって言った。

 

「トヨタマヒメさん」

 

 彼女が顔を上げる。

 

「一緒に聞こう」

 

「何を」

 

「次の音を」

 

 トヨタマヒメは答えなかった。

 

 遠くで、笛の音がまた一つ進んだ。

 

 その音に、彼女の肩が小さく震える。

 

 アトラスが三叉槍を構え直す。

 

「マスター」

 

「うん」

 

「次で、箱の蓋を戻す力を断つ」

 

「壊すの?」

 

「否」

 

 アトラスは玉手箱を見る。

 

「開く前に、閉じる力を緩める」

 

 ネモが頷く。

 

「それならいける。完全開放はまだ危険。でも、蓋を押さえてる循環を切れば、彼女自身が選べる」

 

 ニトクリスが杖を掲げる。

 

「選ぶための余地を作るのですね」

 

「そうだ」

 

 アトラスは言った。

 

「裁定は、己が下すものではない」

 

 立香はアトラスを見た。

 

 それは大きな言葉だった。

 

 かつて、すべてを裁定した王。

 沈めることを己の責務とした王。

 

 その王が今、他者の選択のために、流れを作ろうとしている。

 

 ギルガメッシュはそれを聞き、目を細めた。

 

 満足そうに。

 

 けれど、何も言わなかった。

 

 言葉にすれば、安くなるとでも言うように。

 

 衛士たちが再び槍を構える。

 

 玉手箱の光が強くなる。

 

 閉じる力が、円形の間を満たしていく。

 

 トヨタマヒメは箱を抱いたまま、声にならない声で呟いた。

 

「まだ、出ていけない」

 

 アトラスは、その言葉を聞いた。

 

 そして、静かに返す。

 

「ならば、出口を作る」

 

 止まった竜宮に、波が立つ。

 

 今度は、宮を壊すためではない。

 

 閉じた箱へ、選ぶ余地を届けるために。

 

 立香は手を上げた。

 

「みんな、もう一度!」

 

 マシュが盾を構える。

 

「はい!」

 

 ネモが流路を示す。

 

「次の波、外海へ通す!」

 

 ニトクリスが祈りを重ねる。

 

「留められた影に、道を!」

 

 ギルガメッシュが黄金の杯を指先で弾いた。

 

「今度は申請しておくぞ、船長」

 

 ネモが即答する。

 

「杯一個まで許可!」

 

「二個だ」

 

「一個!」

 

「面倒な船だ」

 

 アトラスは、わずかに息を吐いた。

 

 水が彼女の足元に集まる。

 

 命じるのではない。

 押し潰すのでもない。

 沈めるのでもない。

 

 流れを、通す。

 

「波を戻す」

 

 大洋王は言った。

 

 そして、止まった夏の中心へ、三叉槍を振るった。

 




アトラスの水着イラスト描きました。

【挿絵表示】


前日譚の『The Reaching Shore――届かせるもの――』も連載中です。
https://syosetu.org/novel/420096/

この作品の興味をもったところは?

  • アトラスのキャラクター性・内面
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  • 王としての在り方・王権のテーマ
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