The Reversed Star――逆位置の星――   作:ほいみん

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FGO二次創作長編『The Reversed Star――逆位置の星――』です。

※独自解釈/女性体オリジナルサーヴァント/ギルガメッシュ×アトラス/本文に文章生成AI補助あり
※掲載イラストは作者による手描きです。

詳しい注意事項・制作FAQはこちら:
【作品案内URL】
https://docs.google.com/document/d/1GdwYLijsN-D6iR4MKAlV2ziDaThI6rrddGUy8nim0KE/edit?usp=drive_link


第六節 海は静止しているものではない

 大洋王の三叉槍が、止まった夏の中心へ振るわれた。

 

 青い波が、円形の間を走る。

 

 床を砕くためではない。

 玉手箱を割るためでもない。

 トヨタマヒメの願いを押し潰すためでもない。

 

 閉じた力の継ぎ目へ、そっと触れるための波だった。

 

 水は、床に刻まれた波の文様を伝い、星の文様へ移り、そこから細い流路へ入る。

 ネモが示した、外海へ続くかすかな道。

 帰還座標と、潮の記憶と、まだ完全には消えていない波の呼吸。

 

 そこへ、水が通る。

 

 竜宮が震えた。

 

 灯が揺れる。

 

 一つ。

 二つ。

 三つ。

 

 同じ高さで燃えていた灯が、それぞれ別の角度に揺れた。

 

 トヨタマヒメが玉手箱を抱きしめる。

 

「やめてください」

 

 その声は、祈りのようだった。

 

「どうか。これ以上は」

 

 玉手箱の蓋が震える。

 

 開こうとしているのではない。

 閉じようとしている。

 

 箱そのものが、入ってきた流れを拒んでいる。

 中で循環していた魔力が、外へ向かう潮を押し返そうとしている。

 

 ネモが叫ぶ。

 

「抵抗が強い! 箱の内部循環が、外海の流れを押し戻してる!」

 

「どうすればいいの!?」

 

 立香が問う。

 

「完全に押し切ると壊れる! でも弱めすぎると蓋が戻る!」

 

「難しい注文だな」

 

 ギルガメッシュが低く笑う。

 

 だが、その目は笑っていなかった。

 

 マシュが盾を構え、迫る衛士たちの槍を受け止める。

 

 衛士たちは、もはや整った隊列ではなかった。

 反復が乱れ、歩幅がずれ、槍を突き出す角度も揃っていない。

 

 それでも、彼らは進んでくる。

 

 帰るな。

 開けるな。

 進むな。

 

 声は崩れているのに、願いだけはまだ同じだった。

 

「先輩、長くは持ちません!」

 

「マシュ、無理しないで!」

 

「大丈夫です。ここは、通しません!」

 

 ニトクリスが杖を掲げる。

 

 祈りの光が、衛士たちの足元を照らした。

 

「留められし影よ。あなたがたは、門ではありません。杯でもありません。宴の飾りでもありません」

 

 彼女の声は、王としての威厳を帯びていた。

 

「流れを拒むための形を、今ここで解きます」

 

 衛士の一体が光に包まれる。

 

 珊瑚の鎧がほどけ、貝殻の槍が泡になった。

 影の内側から、かすかな声が漏れる。

 

「……帰る」

 

 それは命令ではなかった。

 

 願いだった。

 

 ニトクリスの目が揺れる。

 

「ええ。帰りなさい。あなたがたを留める宮ではなく、流れる海へ」

 

 影が泡になり、天井の青い光へ上っていく。

 

 だが、次の衛士がすぐに迫った。

 

 ネモが端末を操作しながら叫ぶ。

 

「アトラス、流路が左に逸れてる! そのままだと箱の外縁を削る!」

 

「修正する」

 

「押さないで、添わせて!」

 

「理解している」

 

「今、理解している時の力加減じゃない!」

 

「要求が細かい」

 

「流れは細かいんだよ!」

 

 アトラスは舌打ちこそしなかったが、明らかに不快そうだった。

 

 だが、槍の動きは乱れない。

 

 青い水は、力を落とし、床の文様に沿ってさらに細くなる。

 奔流ではなく、糸のような水。

 切れそうで、しかし切れない、ひとすじの潮。

 

 立香はそれを見ていた。

 

 アトラスが、海を押していない。

 

 命じてもいない。

 

 水の行き先を、ただ開いている。

 

 ギルガメッシュはその横顔を見て、口元を上げた。

 

「よい」

 

 短い言葉だった。

 

 アトラスは振り返らない。

 

「評価は不要だ」

 

「評価ではない。観測だ」

 

「なお不要だ」

 

「却下だ」

 

 そのやり取りの間にも、玉手箱の光は強くなっていく。

 

 箱の蓋が、閉じる力と開く力の間で震えていた。

 

 トヨタマヒメは両手で箱を抱いている。

 

 その指先が白い。

 

「開けないで」

 

 彼女は繰り返した。

 

「開ければ、終わってしまいます」

 

 立香は一歩、彼女へ近づいた。

 

 マシュが声を上げる。

 

「先輩、危険です!」

 

「大丈夫」

 

 立香は答えた。

 

 危険でないはずはない。

 

 円形の間には、まだ衛士がいる。

 玉手箱は強い魔力を放っている。

 流路は安定していない。

 

 けれど、立香は進んだ。

 

 止まらないと決めたから。

 

「トヨタマヒメさん」

 

 彼女は顔を上げた。

 

 深い海の色をした瞳が、揺れている。

 

「私は、あなたの代わりに箱を開けに来たんじゃない」

 

 トヨタマヒメは、息を呑む。

 

「では、なぜ」

 

「あなたが、選べるようにするため」

 

 その言葉に、玉手箱の光が一瞬だけ弱まった。

 

 アトラスが静かに続ける。

 

「己も同じだ」

 

 トヨタマヒメが彼女を見る。

 

「己は、汝の代わりに裁定せぬ」

 

 アトラスは三叉槍を構えたまま言った。

 

「閉じるなとは言う。止めるなとも言う。だが、何を覚え、何を流し、何を抱いて進むかは、汝が決めることだ」

 

「私が」

 

「そうだ」

 

 アトラスの声は硬く、優しくはなかった。

 

 けれど、逃げ道を塞ぐ声でもなかった。

 

「己は、出口を作る」

 

 トヨタマヒメは玉手箱を見る。

 

 蓋は震えている。

 

 中から漏れる光は、夕暮れの色をしていた。

 

 昼が終わる前の光。

 夜が来る前の光。

 帰る者の背を照らす光。

 

「出口」

 

「そうだ」

 

 アトラスは言った。

 

「竜宮から。あの時から。箱から」

 

 トヨタマヒメの唇が震える。

 

「出ていけば」

 

 声がかすれる。

 

「あの方が、本当に帰ってしまう」

 

 ニトクリスが目を伏せる。

 

「もう、帰っているのではありませんか」

 

 その言葉は、刃のようだった。

 

 だが、ニトクリスの声は祈りだった。

 

 トヨタマヒメの顔が歪む。

 

 玉手箱の光が乱れる。

 衛士たちが一斉に震えた。

 

「言わないで」

 

「豊玉姫」

 

「言わないでください」

 

 宴の音が、遠くで崩れる。

 

 笛が途切れた。

 太鼓が止まりかけた。

 笑い声が、笑い声でなくなっていく。

 

 トヨタマヒメは箱を抱いたまま、膝をつきかけた。

 

「知っています」

 

 小さな声だった。

 

「知っているのです」

 

 円形の間に、波の音が混じった。

 

 初めて、外の海の音が聞こえた。

 

 トヨタマヒメは震えながら続ける。

 

「あの方は帰りました。陸へ。山へ。私のいない場所へ」

 

 玉手箱の蓋が、かすかに開く。

 

 光が漏れる。

 

「私も、帰らなければならなかった」

 

 立香は、何も言わなかった。

 

 マシュも、ネモも、ニトクリスも、言葉を挟まなかった。

 

 アトラスだけが、槍を支え続けている。

 

 流路を閉じさせないために。

 

「けれど、帰れなかった」

 

 トヨタマヒメは言った。

 

「竜宮は美しい。海は優しい。宴は楽しい。誰も、私を責めません。誰も、行けとは言いません」

 

 彼女は笑おうとした。

 

 失敗した。

 

「だから、ここにいればよいのだと、思いました」

 

 玉手箱の光が、彼女の涙を照らした。

 

「ここにいれば、あの方が帰った直後の私でいられる。まだ待っている私でいられる。まだ、置いていかれていない私でいられる」

 

 ギルガメッシュは目を細めた。

 

「愚かだな」

 

 立香が思わず振り向く。

 

「ギル」

 

「だが、愚かでなければ宮など閉じぬ」

 

 ギルガメッシュの声は冷たい。

 

 けれど、切り捨てる声ではなかった。

 

「失った者は皆、一度は蔵を欲しがる。箱を欲しがる。墓を欲しがる。終わったものを終わっていないと言い張る場所をな」

 

 トヨタマヒメは彼を見る。

 

「あなたにも、ありますか」

 

「ある」

 

 即答だった。

 

 その場の空気が止まった。

 

 ギルガメッシュは笑う。

 

「我がそれを否定すると思ったか」

 

 トヨタマヒメは何も言えない。

 

「だが、蔵に入れたものを殺しはせぬ。名を奪い、声を奪い、時を奪うなら、それは所有ではない。ただの腐敗だ」

 

 アトラスが、かすかに視線を動かす。

 

 ギルガメッシュは続けた。

 

「終わったものは終わったものとして見届けよ。そうでなければ、始まったことすら嘘になる」

 

 トヨタマヒメの手が震えた。

 

 玉手箱の蓋が、また少し浮く。

 

 中から、音が聞こえた。

 

 波の音ではない。

 

 誰かの足音。

 遠ざかる足音。

 砂を踏み、岸へ上がり、陸へ向かう足音。

 

 トヨタマヒメは目を見開いた。

 

「あ……」

 

 声にならない声が漏れる。

 

 彼女は箱を抱きしめようとした。

 

 だが、今度は抱きしめきれなかった。

 

 箱の内側から、外へ向かう風が吹いたからだ。

 

 立香は言う。

 

「聞こえてる?」

 

 トヨタマヒメは頷いた。

 

 涙が落ちる。

 

「足音が」

 

「うん」

 

「遠くなる」

 

「うん」

 

「でも」

 

 彼女は震える声で言った。

 

「聞こえる」

 

 アトラスが言った。

 

「流れたものは、消えるだけではない」

 

 トヨタマヒメが、アトラスを見る。

 

「波は」

 

 アトラスは、言葉を選ばなかった。

 

 ただ、今の自分が知っていることを言った。

 

「連れていく。奪う。崩す。だが、運ぶ」

 

 玉手箱の光が広がる。

 

 円形の間の水面に、波紋がいくつも生まれる。

 

「声も。足音も。名も。歌も」

 

 アトラスは続けた。

 

「戻らぬものも、届くことがある」

 

 トヨタマヒメは、箱を見た。

 

「届く」

 

「必ずではない」

 

 アトラスは言った。

 

 その正直さに、トヨタマヒメの瞳がまた揺れる。

 

「必ずではないのですか」

 

「必ずではない」

 

 アトラスは否定しなかった。

 

「だが、閉じれば届かぬ」

 

 沈黙。

 

 その沈黙の中で、玉手箱の蓋がさらに浮いた。

 

 トヨタマヒメの手は、まだ箱に触れている。

 けれど、握りしめてはいない。

 

 立香は、そっと言った。

 

「一緒に聞こう。次の音を」

 

 トヨタマヒメは、遠くの足音を聞いていた。

 

 足音は遠ざかる。

 

 けれど、それは消えていく音ではなかった。

 

 進んでいく音だった。

 

 ネモが、静かに言う。

 

「出航と同じだよ」

 

 トヨタマヒメが顔を上げる。

 

「港から離れる音は、消える音じゃない。進む音だ」

 

「進む音」

 

「うん」

 

 ネモは少しだけ笑った。

 

「帰ってくるかは、分からない。でも、進んだことは残る」

 

 ニトクリスが続ける。

 

「祈りも同じです。届くかは分からない。ですが、祈ったことは、祈った者の中に残ります」

 

 マシュが盾を下ろし、優しく言った。

 

「覚えている人がいれば、その時間は完全には消えません」

 

 トヨタマヒメの視線が、立香へ移る。

 

 立香は頷いた。

 

「私たちも覚えてる」

 

 アトラスが言う。

 

「己も覚える」

 

 短い言葉だった。

 

 だが、トヨタマヒメはその言葉に目を見開いた。

 

「あなたが」

 

「そうだ」

 

「この宮を」

 

「この宮も。汝の名も。止まった夕暮れも。次の音も」

 

 アトラスは、少しだけ目を伏せる。

 

「記録する」

 

 トヨタマヒメの涙が、箱の上に落ちた。

 

 その雫が、蓋の文様を濡らす。

 

 波と星の文様が、淡く光った。

 

 ギルガメッシュが笑う。

 

「そして我も見た」

 

 トヨタマヒメが彼を見る。

 

「英雄王」

 

「不服か」

 

「いいえ」

 

 彼女は首を振った。

 

「不思議です。恐ろしいのに、少しだけ安心します」

 

「当然だ。我の眼に収まったものを、無価値にはせぬ」

 

 アトラスが低く言う。

 

「収納するな」

 

「比喩だ」

 

「信用しない」

 

 ギルガメッシュは愉快そうに笑った。

 

 その笑い声が、今度は円形の間に反響した。

 

 反響が返った。

 

 音が進んだ。

 

 トヨタマヒメは、その反響を聞いた。

 

 そして、ゆっくりと息を吸った。

 

「私は」

 

 箱を抱く手が、ほどけていく。

 

「私は、まだ怖い」

 

 立香は頷いた。

 

「うん」

 

「終わるのが怖い」

 

「うん」

 

「あの方が、遠くなるのが怖い」

 

「うん」

 

「私だけが、ここに残っていたことを認めるのが怖い」

 

 ニトクリスが静かに目を伏せる。

 

 ネモは何も言わない。

 

 マシュは盾を抱えたまま、トヨタマヒメを見ている。

 

 アトラスは槍を支え続ける。

 

 トヨタマヒメは、玉手箱へ視線を落とした。

 

「けれど」

 

 蓋が、光を漏らしている。

 

 中から風が吹いている。

 

 遠ざかる足音の向こうで、波の音が聞こえる。

 

「もう、同じ音だけではいられない」

 

 彼女は、箱から手を離した。

 

 その瞬間。

 

 玉手箱の蓋が、開いた。

 

 音が戻った。

 

 最初に来たのは、波音だった。

 

 遠くから、近くへ。

 近くから、足元へ。

 足元から、宮全体へ。

 

 水が動く。

 

 円形の間の水面が揺れた。

 灯が大きく揺らいだ。

 朱の柱に映る光が、初めて形を変えた。

 

 宴の音がほどける。

 

 笛が次の旋律へ進む。

 太鼓が拍を変える。

 弦が余韻を残し、その余韻が消えて、次の音が生まれる。

 

 笑い声が途切れた。

 

 そして、別の笑い声が生まれた。

 

 衛士たちの影が、次々と泡になっていく。

 

 珊瑚の鎧が解ける。

 貝殻の槍が水へ戻る。

 顔のない影たちは、最後にそれぞれ違う方向を向いた。

 

 帰る者。

 踊り終える者。

 杯を置く者。

 海へ戻る者。

 

 全てが、同じ瞬間から外れていく。

 

 トヨタマヒメは、開いた玉手箱の光の前に立っていた。

 

 光は彼女を焼かなかった。

 老いを一瞬で押しつけることもなかった。

 ただ、止まっていた時間を、彼女の周囲へ返していく。

 

 髪飾りの真珠が揺れる。

 衣の裾が風を受ける。

 涙が頬を伝い、顎から落ちる。

 

 落ちた涙が、水面に波紋を作った。

 

 彼女は、それを見ていた。

 

「落ちました」

 

 小さく、そう言った。

 

 立香は一瞬、意味が分からなかった。

 

 トヨタマヒメは、自分の頬に触れる。

 

「涙が、落ちました」

 

 ニトクリスが、静かに答える。

 

「ええ」

 

 トヨタマヒメは泣きながら笑った。

 

「止まっていないのですね」

 

「はい」

 

「私は、泣いているのですね」

 

「はい」

 

 トヨタマヒメは目を閉じた。

 

 長い長い時間、閉じ込めていたものが、ようやく動き出したようだった。

 

 アトラスは、三叉槍を下ろした。

 

 水の流路は、もう彼女の制御を必要としていなかった。

 

 流れは、自分で外へ向かっている。

 

 ネモが端末を確認する。

 

「海流、回復。宮の内部循環が外海と接続した。特異点反応、縮小してる」

 

 マシュも頷く。

 

「敵性反応、消失。カルデアとの通信、回復しました」

 

 立香は息を吐いた。

 

「よかった……」

 

 ギルガメッシュが玉手箱を見る。

 

「箱はどうなる」

 

 ネモが答える。

 

「核としての機能は弱まってる。完全に壊れたわけじゃないけど、もう時間を固定する力はないと思う」

 

 ニトクリスが言う。

 

「ならば、これは墓標ではなく、記念となるでしょう」

 

 トヨタマヒメは玉手箱を見る。

 

 開いた箱の中には、もう強い魔力はなかった。

 

 ただ、貝殻の内側のような淡い光が残っている。

 

「記念」

 

「はい」

 

 ニトクリスは頷いた。

 

「終わったものを閉じ込める箱ではなく、終わったことを覚えるための器です」

 

 トヨタマヒメは、その言葉を大切そうに受け取った。

 

「覚えるための器」

 

 アトラスが言う。

 

「分類を改めるべきだ」

 

 トヨタマヒメが彼女を見る。

 

「何と」

 

 アトラスは少し考えた。

 

「箱ではない」

 

「では」

 

「貝殻だ」

 

 立香が小さく笑った。

 

「貝殻」

 

「波が運び、岸に残すものだ」

 

 アトラスは言った。

 

「閉じるためではなく、聞くためのものもある」

 

 トヨタマヒメは玉手箱を見た。

 

 その表情が、少しだけ柔らかくなる。

 

「耳に当てると、海の音がするものですね」

 

「そうだ」

 

「では、これは」

 

 トヨタマヒメは、開いた玉手箱にそっと触れた。

 

「海の音を聞くための箱」

 

「分類としては不正確だ」

 

「不正確ですか」

 

「だが」

 

 アトラスは、少しだけ視線を逸らした。

 

「不快ではない」

 

 ギルガメッシュが笑う。

 

「ほう。不正確を許すか、大洋王」

 

「黙れ」

 

「それも夏か」

 

「便利に使うな」

 

 立香は、そのやり取りに笑った。

 

 笑い声が、ちゃんと響いた。

 

 響いて、消えた。

 

 消えたあとに、波の音が残った。

 

 トヨタマヒメは、竜宮の外を見た。

 

 夕暮れが動いている。

 

 太陽が、ほんの少しだけ傾いた。

 

 空の色が変わっていく。

 青から金へ。

 金から橙へ。

 橙から、夜の気配へ。

 

 彼女はその変化を、恐れるように、愛おしむように見ていた。

 

「夜が来ます」

 

 立香は頷く。

 

「うん」

 

「長いですね」

 

「夜が?」

 

「いいえ」

 

 トヨタマヒメは、静かに笑った。

 

「止まっていた時間が」

 

 誰も答えなかった。

 

 答える必要はなかった。

 

 波が、答えていた。

 

 竜宮の宮は、少しずつ薄くなり始めていた。

 

 朱の柱は光を透かし、金の屋根は夕暮れに溶ける。

 宴席の人影は、泡となって海へ戻る。

 灯は一つずつ消えていく。

 

 消える。

 

 けれど、それは失われるだけではなかった。

 

 波へ戻る。

 音へ戻る。

 記憶へ戻る。

 

 トヨタマヒメは、その光景を見届けていた。

 

 逃げずに。

 

 箱を抱かずに。

 

 両手を、胸の前で静かに重ねて。

 

 アトラスが彼女の隣に立った。

 

「出られるか」

 

 トヨタマヒメは、少しだけ目を伏せる。

 

「まだ、怖いです」

 

「そうか」

 

「ですが」

 

 彼女は、足元の水を見る。

 

 そこに、自分の姿が揺れていた。

 

 初めて、揺れていた。

 

「今は、怖いままでもよい気がします」

 

 アトラスは頷いた。

 

「妥当だ」

 

 立香は思わず言った。

 

「妥当なんだ」

 

「恐怖が残ることと、進めぬことは同義ではない」

 

 トヨタマヒメは、その言葉に小さく笑った。

 

「あなたは、難しいことを言いますね」

 

「分類の問題だ」

 

「そうですか」

 

 彼女は笑った。

 

 今度の笑みは、止まっていなかった。

 

 崩れ、揺れ、涙と混じり、また形を変えた。

 

 美しい。

 

 だが、先ほどまでの美しさとは違った。

 

 動いている美しさだった。

 

 ネモが端末を見ながら言う。

 

「宮の消失が進んでる。ここに長くいると、足場もなくなるよ」

 

「帰ろう」

 

 立香が言った。

 

 トヨタマヒメが振り向く。

 

「私は」

 

 言葉が止まる。

 

 立香は手を差し出した。

 

「一緒に、外まで」

 

 トヨタマヒメはその手を見た。

 

 すぐには取らなかった。

 

 けれど、今度は拒まなかった。

 

 ゆっくりと、彼女は立香の手に触れる。

 

 その瞬間、竜宮の奥から大きな波音が響いた。

 

 外海が戻ってくる音だった。

 

 マシュが盾を構える。

 

「足場、崩れます!」

 

「走るよ!」

 

 立香が叫ぶ。

 

 ネモが先導する。

 

「こっち! まだ流路が残ってる!」

 

 ニトクリスが祈りの光で道を照らす。

 

「足元に気をつけてください!」

 

 ギルガメッシュは、消えかけた欄干を蹴って進む。

 

「最後まで面倒な宮だ」

 

 アトラスがトヨタマヒメの後ろを守る。

 

 水が迫る。

 柱が泡になる。

 灯が消える。

 宴の音が遠ざかる。

 

 だが、もう足止めではなかった。

 

 背を押す音だった。

 

 波は奪う。

 

 波は崩す。

 

 波は連れていく。

 

 そして、波は運ぶ。

 

 橋の先に、外の海が見えた。

 

 空は夕暮れだった。

 

 止まっていない夕暮れ。

 

 太陽は傾き、雲は流れ、海面は金色に揺れている。

 

 ボイジャーが浜辺から手を振っていた。

 

「おかえりー!」

 

 その声が、波に乗って届いた。

 

 立香は笑う。

 

「ただいま!」

 

 竜宮の橋が、足元から泡になっていく。

 

 最後の一歩を踏み出した瞬間、全員が砂浜へ戻った。

 

 背後で、大きな波音がした。

 

 振り返ると、宮はもうなかった。

 

 ただ、海があった。

 

 普通の海。

 

 揺れて、寄せて、返す海。

 

 トヨタマヒメは、その海を見ていた。

 

 長い黒髪が、夕風に揺れる。

 

「……終わりました」

 

 彼女は言った。

 

 誰も否定しなかった。

 

 終わった。

 

 確かに、終わった。

 

 けれど。

 

 波打ち際に、小さな貝殻が残っていた。

 

 貝と金の光を帯びた、玉手箱によく似た貝殻。

 

 トヨタマヒメはそれを拾い上げる。

 

 耳に当てる。

 

 目を閉じる。

 

 波の音が聞こえたのだろう。

 

 彼女は、涙を流しながら笑った。

 

「聞こえます」

 

 立香が言う。

 

「何が?」

 

「海の音が」

 

 アトラスは静かに答えた。

 

「ならば、残った」

 

 トヨタマヒメは頷く。

 

「はい」

 

 夕暮れが、ゆっくりと夜へ向かっていく。

 

 ボイジャーが空を見上げた。

 

「ほし、もうすぐ」

 

 ネモが海を見て笑う。

 

「潮も戻ってる。これなら船も進める」

 

 ニトクリスが穏やかに言う。

 

「流すことも、弔いです」

 

 ギルガメッシュは、沈みかけた太陽を見ながら言った。

 

「そして、見届けた。十分だ」

 

 アトラスは海を見た。

 

 波が寄せる。

 返す。

 また寄せる。

 

 止まらない。

 

 沈めるための海ではない。

 閉じるための海でもない。

 

 進み、戻り、運ぶ海。

 

 トヨタマヒメが、アトラスに向き直る。

 

「大洋王」

 

「何だ」

 

「流れても、残るものはありますか」

 

 アトラスは、すぐには答えなかった。

 

 波音を聞いた。

 

 貝殻を見た。

 立香を見た。

 ネモを見た。

 ニトクリスを見た。

 ギルガメッシュを見た。

 

 最後に、もう一度海を見た。

 

「ある」

 

 短い答えだった。

 

 トヨタマヒメの瞳が揺れる。

 

「どこに」

 

 アトラスは答えた。

 

「覚えた者の中に」

 

 立香は頷く。

 

「私たちも覚えてる」

 

 ボイジャーが笑う。

 

「うん。うたみたいに」

 

 ネモが言う。

 

「航海記録にも残すよ」

 

 ニトクリスが静かに言った。

 

「祈りとしても」

 

 ギルガメッシュが笑う。

 

「そして、我が見た。十分だと言ったはずだ」

 

 トヨタマヒメは、貝殻を胸に抱いた。

 

 今度は、閉じ込めるようにではなく。

 

 音を聞くために。

 

「では」

 

 彼女は海を見た。

 

「竜宮の夏も、少しは浮かべるでしょうか」

 

 アトラスは、波打ち際に立った。

 

 寄せる波が、彼女の足元を濡らす。

 

 水は、彼女に従って止まらなかった。

 

 ただ、寄せて、返した。

 

 アトラスは言った。

 

「沈めぬ」

 

 その一言で、トヨタマヒメは深く頭を下げた。

 

 彼女の姿が、夕暮れの光に溶けていく。

 

 貝殻だけが、彼女の手から波へ落ちた。

 

 波がそれを拾う。

 

 連れていくのではなく、運ぶように。

 

 やがて、トヨタマヒメの姿は消えた。

 

 浜辺には、普通の海だけが残った。

 

 そして、夜が来た。

 

 ボイジャーが空を指さす。

 

「ほし」

 

 ひとつ、星が出ていた。

 

 海面に、その星が映る。

 

 今度は、揺れていた。

 

 波に崩れ、伸び、また繋がる。

 消えるのではなく、形を変えながら、水面に光っている。

 

 立香はそれを見た。

 

「星が、浮かんでる」

 

 アトラスは、海面を見た。

 

 水底ではない。

 

 止まった鏡でもない。

 

 波間だった。

 

 星は、波間に浮かんでいた。

 

 アトラスは、ほんの小さく息を吐く。

 

「……海は、静止しているものではない」

 

 ギルガメッシュが横で笑う。

 

「今さらか」

 

「分類を改める」

 

「よい。改めておけ」

 

 立香が振り向く。

 

「アトラス」

 

「何だ」

 

「少し、泳ぐ?」

 

 アトラスは黙った。

 

 海を見る。

 波を見る。

 星を見る。

 

 そして、ギルガメッシュを見る。

 

 ギルガメッシュは何も言わなかった。

 

 ただ、見ていた。

 

 アトラスは顔をしかめる。

 

「見るな」

 

「見届けている」

 

「便利に使うな」

 

「却下だ」

 

 立香は笑った。

 

 アトラスは、ゆっくりと海へ入った。

 

 波が足元へ寄せる。

 

 彼女は、それを止めなかった。

 

 水面は平らにならない。

 波は割れない。

 海は王のために膝をつかない。

 

 ただ、揺れる。

 

 アトラスは、力を抜いた。

 

 背を水に預ける。

 

 一瞬、身体が沈みかける。

 

 けれど、水が支える。

 

 王権ではない。

 命令ではない。

 釣り合いだった。

 

 立香が声を上げる。

 

「アトラス、浮いてるよ!」

 

 アトラスは夜空を見た。

 

 星がある。

 

 水面が揺れる。

 

 身体が、海に浮いている。

 

「……沈まぬ、だけではなかった」

 

 ギルガメッシュが笑う。

 

「ようやく分かったか、大洋王」

 

「お前に言われると不快だ」

 

「不満か」

 

 アトラスは少しだけ沈黙した。

 

 波が、彼女の髪を揺らす。

 

「……不満ではない」

 

 ボイジャーが浜辺で両手を上げた。

 

「すいー!」

 

 立香も笑う。

 

「すいー!」

 

 マシュも控えめに続ける。

 

「す、すいー……です!」

 

 ネモが少し笑って言った。

 

「うん。ちゃんと浮いてる」

 

 ニトクリスは胸を張る。

 

「大洋王として、一歩前進ですね!」

 

 アトラスは水面に浮いたまま、静かに言った。

 

「この訓練は、分類上、必要だった」

 

 ギルガメッシュが肩を揺らして笑う。

 

「ほう。必要がないことを覚えるのが夏ではなかったか」

 

「訂正する」

 

「何と」

 

 アトラスは、波に揺られながら答えた。

 

「必要になることもある」

 

 夜の海に、笑い声が広がった。

 

 波が寄せる。

 

 波が返す。

 

 星は、水底ではなく、止まった鏡でもなく。

 

 波間に、浮かんでいた。

 




アトラスの水着イラスト描きました。

【挿絵表示】


前日譚の『The Reaching Shore――届かせるもの――』も連載中です。
https://syosetu.org/novel/420096/

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  • アトラスのキャラクター性・内面
  • ギルガメッシュとの関係性
  • 王としての在り方・王権のテーマ
  • ストーリーの展開
  • その他
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