The Reversed Star――逆位置の星――   作:ほいみん

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閲覧上の注意

本作は『The Reversed Star』山門戦から分岐する、救済のないダークIFです。

★全五話ですが、本編の理解に必要な内容はありません。読まずに次の章へ進んでいただいて問題ありません★

監禁、身体拘束、本人の同意によらない受肉・婚姻および所有の主張、衣食・治療を含む身体と生活の強制的な管理、継続的な暴力と恐怖反応、心理的虐待、オリジナル人物の処刑・死別を含みます。

本作では、原作キャラクターであるギルガメッシュが明確な加害者として描写されます。救出、改心、和解、恋愛的成就、監禁からの脱出はありません。

性的暴行や露骨な性描写はありませんが、強制的な「花嫁」扱いと非同意の関係性を扱います。また、加害行為を愛情として肯定・免責する内容ではありません。

以上の要素が苦手な方は、閲覧をお控えください。


番外編  まつろわぬ花嫁
第一話「届かなかった海」


1.届かなかった海ならば

 

 

山門の石段には、まだ海が残っていた。

 

砕けた石の間を濡らしている。

三叉槍の穂先から、雫が落ちている。

 

ぽたり。

 

もう一度。

 

それだけが、終わった戦いの時間を数えていた。

 

黄金の鎖に捕らえられた大洋王は、膝をついてはいなかった。

 

膝をつくより先に、鎖がその身体を支えていたからだ。

 

紺碧の鎧は裂けている。

片方の足元は砕け、王としての高さを作っていた外装も失われていた。

 

小さい。

 

鎧の奥にあった身体は、ギルガメッシュが考えていたよりも、はるかに小さかった。

 

それでも、顔は上がっている。

 

英雄王の赤い瞳を、まっすぐに見ていた。

 

火を開かなかった王。

終末を持ちながら、勝敗のためには使わなかった王。

 

そして、一拍だけ遅れた王。

 

ギルガメッシュは、その姿を見下ろした。

 

惜しい、と思った。

 

槍があとわずかに進んでいれば。

城壁を戻す演算が、あと一拍早ければ。

 

海は確かに届いていた。

 

届いたならば、別の結末もあっただろう。

 

だが、届かなかった。

 

事実はそれだけで足りた。

 

「届かなかった海ならば、我が蔵へ沈めてやろう」

 

言葉を終えるより先に、返答が来た。

 

「その裁定は、棄却する」

 

掠れてはいた。

 

だが、迷いはなかった。

 

ギルガメッシュは笑みを深くした。

 

「貴様の棄却で、我の裁定が変わると思ったか」

 

「変わるか否かは、汝の管轄だ」

 

鎖が鳴る。

 

アトラスは動けない。

それでも視線だけは、少しも退かなかった。

 

「己(おれ)が採用するか否かは、己が裁定する」

 

その口は、まだよく動く。

 

敗北を認めても、敗者としての意味を受け取らない。

身体を拘束されても、拘束した者へ定義を返さない。

 

ギルガメッシュは手を上げた。

 

背後の空間が開いた。

 

王の財宝ではない。

 

金ではなく、黒。

 

光を反射せず、夜よりも暗いものが、山門の石段へ流れ出した。

 

アトラスの瞳が、初めてわずかに動いた。

 

「それを、己へ用いるか」

 

「サーヴァントのままでは不安定でな」

 

黒い泥が、黄金の鎖へ沿って進む。

 

「我が蔵へ収めるものが、時代の終わりとともに消えては面倒だ」

 

「それは保存ではない」

 

「ほう」

 

「侵略だ」

 

泥が足元へ触れた。

 

海の水と黒が交わる。

 

しかし、混ざらない。

 

深い紺の上を、黒だけが這った。

 

「呼び方など、我が決める」

 

泥は鎧の罅から入り込んだ。

 

肉体より先に、内側へ。

 

王宮記録の奥へ。

沈んだ国の記憶へ。

兄の名へ。

星詠みの詩へ。

火天八紘を閉じた、最後の裁定へ。

 

黒は、それらすべてを濁らせようとした。

 

だが、どこにも門はなかった。

 

海は濁らない。

 

泥は精神へ届かなかった。

 

アトラスの目には、まだ山門の夜が映っている。

ギルガメッシュを敵と見定めた、同じ冷たい光が残っている。

 

記憶は変わらない。

裁定も変わらない。

 

ならば、泥は別の場所へ沈んだ。

 

喉が動いた。

 

呼吸が止まる。

 

鎖の中で、小さな身体が一度だけ強く震えた。

 

サーヴァントの霊基が、この世の肉へ縫い留められていく。

 

青い光が薄くなる。

 

魔力で形作られていた輪郭が、重さを得る。

冷たかった皮膚へ、現世の血が通う。

 

心臓が動いた。

 

一度。

 

また一度。

 

本人の裁定を待たず、肉が生存を始める。

 

アトラスの唇が開いた。

 

声になるまで、先ほどより時間がかかった。

 

「……この、受肉を」

 

肺がまだ、新しい重さに慣れていない。

 

息を一つ継いでから、言葉を完成させる。

 

「己の裁定とは、認めない」

 

ギルガメッシュは、その声を聞いた。

 

サーヴァントの響きではない。

 

生きた肉を通り、喉を震わせ、空気の中へ押し出された声だった。

 

身体は、ここにある。

 

消えない。

霊へ戻らない。

この時代へ縫い留められた。

 

それでも、中にあるものは変わらない。

 

「認めずとも、身体は残る」

 

「身体と、己の裁定は同義ではない」

 

即答だった。

 

泥は精神へ届かなかった。

 

だが肉は、確かに手に入った。

 

ギルガメッシュは鎖を引いた。

 

小さな身体が石段から浮く。

 

アトラスの足元を、海水が離れていく。

 

海だけを山門へ残して、その王は黄金の闇へ運ばれた。

 

---

 

2.山門では即答した

 

 

どれほどの時が過ぎたか。

 

この場所では、夜も朝も分からない。

 

灯りは常に同じ強さで、黄金の壁を照らしている。

風はない。

遠くの音も届かない。

 

王が望まなければ、時間さえ変化を見せなかった。

 

ギルガメッシュが扉を開く。

 

その音より先に、鎖がわずかに鳴った。

 

アトラスは壁際にいた。

 

鎧はない。

 

現世の肉を与えられた身体を、薄い布が覆っている。

手首には黄金が巻かれ、立ち上がることのできる距離も定められていた。

 

彼が入った時、顔は上がらなかった。

 

肩が固まる。

 

指先が、布の上でわずかに縮む。

 

呼吸が浅くなる。

 

ギルガメッシュは、その変化を見ていた。

 

「まだ棄却するか、大洋王」

 

答えはない。

 

山門では、問いを終えるより先に答えが返った。

 

敗北を認める時でさえ、彼女は自分の言葉を選んだ。

泥が迫った時も、誰の裁定であるかを言い分けた。

 

今は、声が出ない。

 

ギルガメッシュが一歩近づく。

 

鎖が鳴った。

 

アトラスの身体が、彼の手より先に距離を測ろうとする。

退く場所などないと知ってなお、肩が壁へ近づいた。

 

もう一歩。

 

呼吸が途切れる。

 

彼はまだ触れていない。

 

それでも肉は、次に起きることを知っている。

 

「答えよ」

 

唇が動いた。

 

声は出なかった。

 

一度、息だけが漏れる。

 

「……己、は」

 

そこで切れた。

 

喉が閉じる。

 

言葉を続けようとした形のまま、指が震えている。

 

ギルガメッシュは、その様子を見下ろした。

 

身体は、現実を覚え始めていた。

 

鎖の音。

扉の開く時刻。

足音の間隔。

手が伸びる前の空気。

 

何が起きるかを、思考より先に肉が知る。

 

肉が先に理解したのなら、いずれ言葉も追いつく。

 

どれほど強固な王であろうと、肉体を持つ限り、その肉体が示す事実から逃れることはできない。

 

ギルガメッシュが手を伸ばした。

 

指先が、頬へ届くより前に。

 

アトラスの目が閉じた。

 

命じてはいない。

 

それでも閉じた。

 

彼は、その反応を見た。

 

恐怖。

 

明白な身体の回答だった。

 

だが、それを服従と呼ぶには早い。

 

唇はまだ、わずかに動いている。

 

完成しなかった言葉を、内側で繰り返しているように。

 

「己は、何だ」

 

ギルガメッシュは問うた。

 

アトラスは答えない。

 

答えられない。

 

鎖が一度、短く鳴った。

 

その音だけが、問いへ返された。

 

---

 

3.花嫁という呼称

 

 

ギルガメッシュは、何度も同じ名で呼んだ。

 

朝も夜もない場所で。

 

扉を開くたびに。

 

衣を替えさせる時。

食事を置かせる時。

傷の具合を確かめる時。

 

「まつろわぬ花嫁」

 

最初のうち、アトラスは必ず顔を上げた。

 

拒絶の言葉を返そうとした。

 

「己は――」

 

そこで息が止まる。

 

「その呼称は――」

 

声が崩れる。

 

言葉より先に身体が強張り、続きを押し戻す。

 

それでも、呼ばれるたびに反応した。

 

無視することもできない。

 

受け入れることもできない。

 

ギルガメッシュは、その名を与え続けた。

 

黄金の布。

海の色を模した宝石。

細い身体には重すぎる装飾。

 

何を身につけさせても、彼女自身が選ぶことはない。

 

だが、拒絶を完成させることも、次第に少なくなった。

 

ある時、ギルガメッシュは彼女の前へ椅子を置いた。

 

アトラスは座っていた。

 

座るよう命じたからだ。

 

背は真っ直ぐではない。

長く同じ姿勢を保てるだけの力が戻っていない。

 

それでも、崩れきることを拒むように、片手で身体を支えている。

 

「よく似合っているぞ」

 

返答はない。

 

「我が花嫁」

 

肩が揺れた。

 

小さな反応だった。

 

ギルガメッシュは見逃さない。

 

「まつろわぬ花嫁」

 

アトラスの唇が開いた。

 

すぐには声にならない。

 

一度、浅く息を吸う。

 

もう一度。

 

「……その」

 

掠れた音だった。

 

ギルガメッシュは待った。

 

「……呼称、も……」

 

そこまでだった。

 

続きが出ない。

 

喉が震える。

息が崩れる。

握られた指先だけが、言葉の代わりに強く縮んだ。

 

ギルガメッシュは、その未完の音を聞いた。

 

「も」。

 

その一音だけが残っている。

 

先に退けたものがある。

所有を。

受肉を。

ここへ置かれたことを。

 

その上へ、呼称まで重ねて退けようとしている。

 

だが、述語がない。

 

何をするのか。

何と裁定するのか。

 

最後まで言えない。

 

「貴様が何と名乗ろうと、現実は変わらぬ」

 

アトラスの呼吸が、一度止まった。

 

「貴様はここにいる」

 

黄金の鎖がある。

 

閉じた扉がある。

 

外の見えない壁がある。

 

彼の与えた身体があり、彼の選んだ衣をまとっている。

 

「我が与えた肉で生き、我が蔵から出られはせぬ」

 

ギルガメッシュは、ゆっくりとその顔を覗き込んだ。

 

アトラスの目は伏せられていた。

 

泥で濁ったからではない。

 

彼を見ることを避けるように、下へ落ちている。

 

「これが現実だ」

 

唇がまた動いた。

 

同じ音を作り、同じところで止まった。

 

続きは知れている。

山門ならば、すでに言い終えていた。

 

だが、今は出ない。

 

ギルガメッシュは笑った。

 

大きな声ではない。

 

黄金の部屋の中へ、低く落ちる笑いだった。

 

「続きはどうした、花嫁」

 

返答はない。

 

呼吸だけが乱れている。

 

その夜からも、彼は同じ名で呼び続けた。

 

まつろわぬ花嫁。

 

呼ばれるたび、アトラスはわずかに震えた。

 

そして時折、壊れた言葉を返した。

 

「……その、呼称も……」

 

その先だけは、まだどこにも届かなかった。

 

---

 

4.肉は

 

 

その先を言わせるために、ギルガメッシュは同じ呼称を繰り返した。

 

返答を待つためではない。

 

返答できなくなっていく過程を、確かめるためだった。

 

「まつろわぬ花嫁」

 

アトラスの肩が動く。

 

呼ばれたことへの反応ではない。

声が聞こえた瞬間、肉が先に強張った。

 

「顔を上げよ」

 

鎖は動かなかった。

 

命令を実行するのは、彼女自身の身体だった。

 

指が床を押す。

力が入らない。

 

一度目は、顔が上がらなかった。

 

ギルガメッシュは待つ。

 

二度目に、アトラスはゆっくりと首を動かした。

 

伏せられていた瞳が、黄金を映す。

 

山門にいた時と同じ目だった。

 

ただ、その目を支えている身体だけが違う。

 

呼吸は浅い。

肩は上がったまま戻らない。

唇の色も薄い。

 

ギルガメッシュが一歩近づく。

 

瞳孔がわずかに開いた。

 

もう一歩。

 

指先が床を掻いた。

 

逃げようとしたのではない。

 

逃げるだけの距離がないことは、すでに知っている。

 

それでも肉は、遠ざかろうとする。

 

「貴様の身体は、随分と物覚えがよいと見える」

 

アトラスの唇が動いた。

 

声はすぐには出なかった。

 

「……肉の、反応を」

 

一度、息を継ぐ。

 

「己の裁定と……混ぜるな」

 

ギルガメッシュは、赤い瞳を細めた。

 

身体は恐れている。

 

その事実を、本人も認識している。

 

認識したうえで、それを自分の判断とは認めない。

 

泥にも、敗北にも、恐怖にも、何を意味させるかを渡さない。

 

「肉はようやく我を恐れたか」

 

ギルガメッシュは、彼女を見下ろした。

 

「だが、王はまだ抗うらしい」

 

一拍置く。

 

「……よい」

 

アトラスの目が、わずかに細くなった。

 

ギルガメッシュには、その変化が読めた。

 

彼が評価したのは、肉の恐怖ではない。

恐怖と裁定を分け、折れかけた声でなお境界を引いた王だ。

 

アトラスの顔に浮かんだのは、安堵ではなかった。

 

冷たい嫌悪だった。

 

ギルガメッシュは笑った。

 

肉が恐れることと、王が残ること。

 

彼には、その両方が要った。

 

彼が欲しいのは、何も判断しない器ではない。

 

王のまま、屈するものだった。

 

---

 

5.一滴

 

 

次に扉が開いた時、アトラスは顔を上げなかった。

 

呼吸だけが変わった。

 

音を立てまいとして、かえって浅くなる。

 

ギルガメッシュは、彼女の前へ立った。

 

「我を見よ」

 

動かない。

 

「大洋王」

 

その呼称に、指先が反応した。

 

王と呼ばれたことへではない。

 

その言葉を使う者が、今ここにいることへ。

 

「我を見よ」

 

二度目だった。

 

アトラスは、ゆっくりと顔を上げる。

 

時間がかかった。

 

命令に従うまでの時間ではない。

 

恐怖で止まった身体を、自分の意志で動かすまでの時間だった。

 

ギルガメッシュには、その違いが分かる。

 

だから、命令が通ったとは数えなかった。

 

英雄王の赤い瞳を、アトラスの血色の瞳が見返した。

 

ギルガメッシュは片手を伸ばした。

 

アトラスの顎へ触れる。

 

身体が硬直した。

 

息が途切れる。

 

それでも、瞳は閉じなかった。

 

「ここにいるのは誰だ」

 

アトラスの喉が動く。

 

「……己、だ」

 

「誰の蔵にいる」

 

返答はない。

 

指先へ少し力を加える。

 

顔を背けることは許されない。

 

「答えよ」

 

唇が震えた。

 

「……汝の、蔵に」

 

「ならば、誰のものだ」

 

アトラスの瞳が揺れる。

 

身体は、問いの続きをすでに知っていた。

 

呼吸がうまく入らない。

 

顎を固定されたまま、喉だけが小さく動く。

 

「……己は」

 

声が途切れた。

 

ギルガメッシュは待つ。

 

「……己は……汝の」

 

そこでまた止まる。

 

一滴だけ、目の端から落ちた。

 

頬を伝う。

 

声もなく、ただ肉の上を滑り、顎へ添えられた黄金の指へ触れる前に床へ落ちた。

 

アトラスは目を閉じなかった。

 

涙を拭うこともできない。

 

呼吸を整えようとする。

何度も失敗する。

 

それでも、最後の言葉を探した。

 

「……ものでは……ない……」

 

弱い声だった。

 

山門での裁定とは比べられないほど、細く、途切れていた。

 

だが、意味は同じだった。

 

ギルガメッシュは、落ちた一滴を見た。

 

それを服従とは読まなかった。

 

悲鳴とも、懇願とも読まなかった。

 

身体が耐えられる限界を越えつつある。

 

その事実だけを受け取った。

 

彼は手を離した。

 

アトラスの顔が下がる。

 

支えを失った身体が、小さく前へ傾いた。

 

しばらく、床へついた手も動かなかった。

 

ギルガメッシュは立ち上がる。

 

「ならば、まだ言えるな」

 

返答はなかった。

 

その日、二滴目は落ちなかった。

 

---

 

6.言葉だけの王

 

 

触れずとも、削れるものはある。

 

ギルガメッシュは、次には彼女から距離を取った。

 

鎖の届かない位置へ椅子を置き、そこへ腰掛ける。

 

アトラスは壁際にいた。

 

水が置かれている。

 

手を伸ばせば届く。

 

だが、指は器へ届く前に止まっていた。

 

震えのために持ち上げられないのか。

飲むことを拒んでいるのか。

 

ギルガメッシュは見分けていた。

 

拒絶ではない。

 

身体が、飲み込むところまで動かない。

 

「棄却」

 

突然、ギルガメッシュが言った。

 

アトラスの指が止まる。

 

「裁定」

 

視線がわずかに上がった。

 

「侵略」

 

アトラスは何も言わない。

 

ギルガメッシュは頬杖をついた。

 

「よく回る言葉だ」

 

水の器が、アトラスの指先でわずかに揺れた。

 

「貴様は我の裁定を棄却した」

 

返答はない。

 

「受肉も、所有も、呼称も、すべて認めぬと言った」

 

ギルガメッシュは室内を見回す。

 

閉じた扉。

黄金の壁。

動かない鎖。

 

「それで、何が変わった?」

 

アトラスの呼吸が止まった。

 

ギルガメッシュは笑わない。

 

「扉は開いたか」

 

開かない。

 

「鎖は外れたか」

 

外れない。

 

「海は貴様を迎えに来たか」

 

水の匂いすらない。

 

「貴様の裁定で、何が動いた」

 

アトラスの唇が動いた。

 

「王とは……」

 

声が掠れる。

 

ギルガメッシュは続きを待った。

 

「王とは、何だ」

 

アトラスは答えようとする。

 

だが、言葉が続かない。

 

ギルガメッシュは、静かに問うた。

 

「ならば、何を動かした?」

 

アトラスの指から、力が抜けた。

 

触れていた器が、床をわずかに滑った。

 

倒れはしない。

 

ただ、小さく音を立てた。

 

その音だけが動いた。

 

扉は閉じたまま。

 

鎖も、壁も、黄金の王も変わらない。

 

アトラスは目を伏せた。

 

これまで、彼が近づいた時に落ちた視線とは違った。

 

肩は逃げず、指だけが床を掴んでいる。

 

問いを退ける言葉は、出なかった。

 

ギルガメッシュは、その沈黙を見下ろした。

 

「言葉だけの王では、海一つ動かせぬか」

 

アトラスの指が、さらに強く床を掴んだ。

 

返答はなかった。

 

扉が閉じる。

 

その後もしばらく、水の器は手つかずのまま残った。

 

---

 

7.王のまま降れ

 

 

ギルガメッシュは、人形を欲したのではない。

 

命じられたまま座り、命じられたまま口を閉じるだけの器なら、蔵にはいくらでもある。

 

美しいものも。

従順なものも。

壊れないものも。

 

大洋王でなければならなかった。

 

火を持ちながら開かなかった王。

 

敗北と裁定の撤回を分けた王。

 

泥に肉体を縫い留められても、誰の裁定かを分けた王。

 

その王が、自ら彼を選ぶ。

 

それでなければ意味がない。

 

ある時、ギルガメッシュは鎖を緩めた。

 

外したわけではない。

 

部屋の中を数歩だけ歩ける長さにした。

 

アトラスはすぐには動かなかった。

 

足元を見る。

 

鎖の長さを測る。

 

扉まで届かないことを確認する。

 

それから壁へ手をつき、立ち上がった。

 

膝が震えている。

 

一歩。

 

少し休む。

 

もう一歩。

 

命じられたわけではない。

 

自分で選んで動いている。

 

ギルガメッシュは、それを見ていた。

 

「我は貴様から王を奪えとは言っておらぬ」

 

アトラスの足が止まった。

 

「王のまま、我がものとなれ」

 

振り返るまでに時間がかかる。

 

「……両立、しない」

 

「我が両立させる」

 

「汝が……決めることでは、ない」

 

「ならば貴様が決めよ」

 

アトラスは彼を見た。

 

「我を選べ」

 

その言葉だけなら、求愛にも聞こえたかもしれない。

 

だが、扉は閉じている。

 

鎖は足元から伸びている。

 

拒めば、同じ場所へ置かれる。

選ばなくても、身体は彼の蔵から出られない。

 

アトラスは、息を整えながら言った。

 

「選択肢を……奪った者が」

 

一度、呼吸が切れる。

 

「選択を、要求するな」

 

「選択肢は残っている。貴様が目を背けているだけでな」

 

アトラスは、足元の鎖を見た。

 

「汝の望む答えだけが……現実になる」

 

息を継ぐ。

 

「それを、選択とは呼ばない」

 

ギルガメッシュは黙った。

 

理屈は正しい。

 

彼自身、それを理解している。

 

それでも、手を離すことはできない。

 

自由にすれば、海は去るかもしれない。

 

去る可能性を許せば、再び届かないまま失うかもしれない。

 

ならば、去れない場所で選ばせる。

 

矛盾していることは分かっていた。

 

だが、理解したことと、欲望を撤回することは同義ではない。

 

「ならば、選ぶまでここにいろ」

 

アトラスの目に、冷たいものが戻った。

 

「それを監禁という」

 

「我は所有と呼ぶ」

 

「己は侵略と裁定する」

 

ギルガメッシュは笑った。

 

言葉は戻り始めている。

 

身体は弱っている。

 

それでも王は、まだ自分の言葉を選ぶ。

 

そのことが、彼を満足させた。

 

そして同時に、苛立たせた。

 

---

 

8.肉の限界

 

 

時間は、アトラスの側に立たなかった。

 

肉体は、裁定だけでは維持できない。

 

眠らなければ、思考は鈍る。

食べなければ、体温は落ちる。

傷を放置すれば、動けなくなる。

 

ギルガメッシュは食事を置かせた。

 

「食え」

 

アトラスは食べなかった。

 

拒絶しているのではない。

 

器を持ち上げても、匂いで呼吸が乱れる。

口へ運んでも、喉が受けつけない。

 

「眠れ」

 

命じても、眠りは来ない。

 

扉の外で音がすれば目を開く。

鎖がわずかに動けば、身体が固まる。

 

灯りを落としても同じだった。

 

次に何が起きるか分からない場所で、肉は休まない。

 

処置を命じれば、管理のための宝具が動いた。

 

だが、宝具は問いかけない。

 

触れる前に告げない。

呼吸が戻るまで待たない。

痛みと恐怖の違いを見分けない。

 

必要な処置は完了する。

 

完了するたび、アトラスはさらに長い時間動けなくなった。

 

ギルガメッシュが訪れる間隔を空けても、身体は回復しなかった。

 

彼が来ないことを、安心とは認識できない。

 

いつ来るか分からない時間が、ただ長くなる。

 

頬が削げる。

 

手首が細くなる。

 

立ち上がるまでの時間が伸びる。

 

声は少し戻っても、一文を言い終える前に呼吸が足りなくなる。

 

ある日、ギルガメッシュが部屋へ入ると、アトラスは床に座ったまま動かなかった。

 

眠ってはいない。

 

目は開いている。

 

水は近くにある。

 

それでも手を伸ばしていない。

 

「死ぬつもりか」

 

返答まで、長い時間がかかった。

 

「……その、裁定は……していない」

 

嘘ではない。

 

死を選んだのではない。

 

生きるための手順を、身体が実行できなくなっている。

 

ギルガメッシュは理解した。

 

命令では足りない。

 

宝具による処置でも足りない。

 

肉体は維持できても、王を支える機能が削れすぎる。

 

このままでは、彼の蔵に残るのは生きた器だけになる。

 

それでは意味がない。

 

彼が欲したのは、その中で抗う王だった。

 

肉を壊しすぎれば、王が消えなくても、王が現実へ出力されなくなる。

 

ギルガメッシュは、アトラスの前に置かれた水を見た。

 

命じれば飲ませられる。

 

だが、飲ませたという結果だけでは足りない。

 

食事。

睡眠。

処置。

身体を扱う順序。

 

命令と宝具の間に、肉の変化を読み取るものが要る。

 

必要なのは、治療者ではなかった。

 

王へ意見する者でもない。

 

命令に従い、余計な判断をせず、身体を日々維持する手。

 

そして、アトラスが無視できないもの。

 

ギルガメッシュは立ち上がった。

 

「人を一人置く」

 

アトラスの瞳が、わずかに動いた。

 

「不要だ」

 

「貴様の要否は聞いておらぬ」

 

「己へ近づけるな」

 

「ならば、自分で食い、自分で眠り、自分で傷を塞げ」

 

アトラスは答えない。

 

できないことを、本人も知っている。

 

ギルガメッシュは扉へ向かった。

 

「次に来るまで、その身体を保っておけ」

 

扉が閉じる。

 

アトラスは、置かれた水を見た。

 

しばらくして、片手を伸ばした。

 

指は器へ届いた。

 

持ち上げる前に力が抜けた。

 

水が床へこぼれる。

 

濡れた床の上で、アトラスは動かなかった。

 

海とは呼べないほど小さな水だけが、黄金の部屋へ広がった。

 

---

 

9.側仕え

 

 

候補は、何人も必要なかった。

 

高度な治療を行える者ではない。

 

王へ忠誠を誓う者でもない。

 

強い意志を持つ者は、命令の外で判断する。

恐怖を知らぬ者は、危険を測り損ねる。

 

必要なのは、命令を理解できる程度に賢く、命令から逸れない程度に恐れている者だった。

 

若い女が一人、黄金の床へ連れてこられた。

 

華美な衣装ではない。

 

どこにでもいるような、粗い布の服を着ている。

 

顔色は悪い。

両手を身体の前で固く組んでいる。

 

ギルガメッシュを直視できない。

 

「面を上げよ」

 

女はすぐに従った。

 

瞳が震えている。

 

恐怖による反応が早い。

 

命令を理解し、実行できる。

 

条件は満たしていた。

 

「貴様には、我が花嫁の身体を管理させる」

 

女の唇がかすかに開く。

 

問い返しはしなかった。

 

「食事を取らせろ。眠らせろ。傷を処置し、衣を整えろ」

 

「……はい」

 

「勝手な判断は要らぬ」

 

「はい」

 

「必要なことだけを為せ」

 

女はもう一度、頷いた。

 

ギルガメッシュは彼女を見た。

 

この者自身には価値がない。

 

代わりはいくらでもいる。

 

その事実を理解させておく必要がある。

 

「管理に不足があれば、責は貴様へ問う」

 

女の肩が跳ねた。

 

「……はい。分かりました」

 

その返答に迷いはあった。

 

だが、逆らいはしない。

 

ギルガメッシュは扉を開いた。

 

黄金の部屋。

 

鎖。

 

床へ広がり、乾きかけた水。

 

壁際に座る、小さな王。

 

女は足を止めた。

 

アトラスも顔を上げた。

 

二人の視線が初めて合う。

 

女の顔には恐怖がある。

 

ギルガメッシュへ向けたものとは別の恐怖。

 

目の前の存在を、どう扱えばよいか分からない者の恐怖だった。

 

「この女が、今日より貴様の側仕えだ」

 

アトラスは女を見た。

 

服。

手。

痩せた頬。

強く組まれた指。

 

それから、ギルガメッシュを見た。

 

「……人質か」

 

女の呼吸が止まった。

 

ギルガメッシュは笑った。

 

「何のことだ」

 

「己が拒めば、この者へ責を問う」

 

「管理役の不手際を問うだけよ」

 

「己を従わせるために、この者を用いるな」

 

声は弱い。

 

だが、言葉はすぐに出た。

 

ギルガメッシュは、その反応を見ていた。

 

自分の損害には耐えていた王が、見知らぬ一人を置いただけで、再び言葉を使う。

 

予想どおりだった。

 

「ならば、貴様が協力すればよかろうよ」

 

アトラスの瞳が冷える。

 

「選択ではない」

 

「構わぬ。結果が得られればな」

 

ギルガメッシュは女へ視線を移した。

 

「始めろ」

 

女はびくりと身体を震わせた。

 

「……はい」

 

ギルガメッシュは部屋を出る。

 

扉が閉じた。

 

残された二人の間に、しばらく言葉はなかった。

 

---

 

10.名は

 

 

女は、扉の前から動けなかった。

 

アトラスも、動かなかった。

 

黄金の部屋に、二人分の呼吸だけがある。

 

片方は速い。

 

片方は浅い。

 

女は両手に布と水を持っていた。

 

何をすればよいかは命じられている。

 

だが、どこから始めればよいかは分からない。

 

壁際の小さな身体には、触れられた痕が残っている。

 

手首。

足元。

鎖に隠れた場所。

 

視線を向けることすら、覗き見るようで怖かった。

 

女が一歩進む。

 

アトラスの肩が強張った。

 

女は止まった。

 

命じられてはいない。

 

それでも止まった。

 

アトラスが顔を上げる。

 

女は、すぐに視線を落とした。

 

「……申し訳、ありません」

 

返答はない。

 

女はまた一歩進もうとした。

 

その時、掠れた声がした。

 

「……名は」

 

女は顔を上げた。

 

アトラスの唇が動く。

 

「汝の……名は」

 

女は何度か瞬きをした。

 

そんなことを問われると思っていなかった。

 

英雄王は一度も聞かなかった。

 

ここへ連れてくる者も、役割だけを告げた。

 

側仕え。

 

管理役。

 

この身体を維持する手。

 

それだけだった。

 

「ミオ、です」

 

声が震えた。

 

アトラスは、女の口元を見る。

 

聞き取れなかったのではない。

 

音を確かめている。

 

「……ミ、オ」

 

一音ずつ、肉を通す。

 

女が小さく頷いた。

 

「はい」

 

アトラスは、もう一度言った。

 

今度は途切れなかった。

 

「ミオ」

 

呼ばれた女が、顔を上げる。

 

その名だけは、すぐに届いた。

 

鎖は外れない。

扉も開かない。

海も動かない。

 

けれど、その部屋で初めて、一人の人間が役割ではなく、自分の名で置かれた。

 

この作品の興味をもったところは?

  • アトラスのキャラクター性・内面
  • ギルガメッシュとの関係性
  • 王としての在り方・王権のテーマ
  • ストーリーの展開
  • その他
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