The Reversed Star――逆位置の星―― 作:ほいみん
本作は『The Reversed Star』山門戦から分岐する、救済のないダークIFです。
★全五話ですが、本編の理解に必要な内容はありません。読まずに次の章へ進んでいただいて問題ありません★
監禁、身体拘束、本人の同意によらない受肉・婚姻および所有の主張、衣食・治療を含む身体と生活の強制的な管理、継続的な暴力と恐怖反応、心理的虐待、オリジナル人物の処刑・死別を含みます。
本作では、原作キャラクターであるギルガメッシュが明確な加害者として描写されます。救出、改心、和解、恋愛的成就、監禁からの脱出はありません。
性的暴行や露骨な性描写はありませんが、強制的な「花嫁」扱いと非同意の関係性を扱います。また、加害行為を愛情として肯定・免責する内容ではありません。
以上の要素が苦手な方は、閲覧をお控えください。
11.名を返す
「ミオ」
もう一度、呼ばれた。
先ほどよりも、わずかに明瞭な声だった。
ミオは顔を上げた。
壁際の少女は、こちらを見ている。
薄い身体。
黄金の鎖。
床へこぼれ、乾きかけた水。
近くで見れば見るほど、どう扱えばよいのか分からなかった。
命じられたのは、この身体を維持することだ。
食事を取らせる。
水を飲ませる。
傷を処置し、衣を替える。
けれど、目の前にいるのは物ではない。
痛む場所がある。
怖がるものがある。
そして、名前を尋ねた。
「……はい」
何を答えればよいのか分からず、ミオはそれだけを返した。
少女の唇が動く。
「水を」
声はそこで切れた。
ミオは慌てて、持たされてきた器を見た。
「お水ですね」
一歩近づく。
少女の肩が固くなる。
ミオの足が止まった。
近づかなければ、水を渡せない。
けれど近づけば、怯えさせる。
どうすればよいのか迷っているうちに、背後の扉が開いた。
ミオの身体が跳ねた。
振り返るより先に、膝をつく。
黄金の王が入ってきた。
「何をしておる」
「も、申し訳ありません」
声が裏返った。
「水を、お渡ししようと……」
「ならば渡せ」
「はい」
立ち上がろうとして、足がもつれた。
器を取り落としかけ、両手で抱え直す。
低い笑い声が落ちた。
「その程度のこともできぬとはな」
「申し訳ありません」
謝る以外に言葉がなかった。
「顔を上げよ」
ミオは従った。
視界の端に、壁際の少女が映る。
アトラスはギルガメッシュを見ていなかった。
伏せた目のまま、浅く呼吸をしている。
「この女の身体を管理しろ」
ギルガメッシュは言った。
ミオの名は呼ばなかった。
「食事と水を与えろ。一度に入らぬなら、量を分けよ」
「はい」
「身体を清潔に保て。傷や熱を確かめ、必要な処置を行え」
「はい」
「眠らぬなら、眠れるよう整えろ。あつらえた衣と装飾も用いよ」
覚えなければならない。
忘れれば、自分へ責が問われる。
「不調があれば報告しろ」
「はい」
「無用な会話はするな。逃走や抵抗を助けることも許さぬ」
ミオの指が、器の周りで固くなる。
「……はい」
ギルガメッシュの視線が、アトラスへ移った。
「この女を、我が花嫁と心得よ」
鎖が小さく鳴った。
「呼ぶ時も同じだ」
ミオは一瞬、返答できなかった。
壁際で、アトラスの呼吸が止まっている。
「聞こえなかったか」
「……いいえ」
「ならば答えよ」
「はい」
ミオは顔を伏せた。
自分の返事が、何をしたのか分からない。
ただ、怖かった。
逆らえば、何が起きるのか分からない。
「管理に不足があれば、責は貴様へ問う」
ミオの肩が跳ねた。
「……はい。分かりました」
ギルガメッシュは、しばらくアトラスを見ていた。
「側仕えを置いてやったのだ。少しは扱いやすい身体になれ」
返答はない。
アトラスの唇だけが、わずかに動く。
声にはならなかった。
「次に来るまでに、食事と処置を済ませておけ」
「はい」
扉が閉じた。
足音が遠ざかる。
聞こえなくなっても、ミオはしばらく膝をついたままだった。
胸の奥まで、息が入らない。
「ミオ」
声がした。
ミオは振り返った。
アトラスが、こちらを見ていた。
「……はい」
「水を」
先ほどと同じ言葉だった。
けれど今度は、誰へ向けたものか分かった。
ミオは立ち上がる。
慎重に器を持った。
「今、お持ちします」
一歩近づく。
アトラスの肩が固くなる。
ミオはまた止まった。
「……側仕えとして、お水を」
アトラスの目が、わずかに動いた。
「ミオ」
短く呼ばれた。
責める声ではなかった。
それでも、言い直されたように聞こえた。
役割ではなく。
「……はい」
ミオは器を持ったまま、もう一度答えた。
---
12.触れる前に告げろ
水を渡すだけでも、うまくいかなかった。
アトラスの手は、器を支えられるほど安定していない。
ミオが渡そうとした時、指先が触れかけた。
その瞬間、アトラスの肩が跳ねた。
鎖が鳴る。
血色の瞳が、ミオではなく扉へ向いた。
唇が開く。
けれど声は出ず、息だけが漏れた。
器の水が揺れる。
ミオは反射的に、落ちそうになった器とアトラスの手首を同時に掴んだ。
細い手首だった。
驚くほど冷たい。
アトラスの呼吸が止まった。
肩から指先まで、硬く固まる。
ミオは慌てて手を離した。
器が床へ落ちる。
硬い音が、黄金の部屋へ響いた。
「申し訳ありません」
返答はない。
呼吸が戻らない。
ミオは何もできず、その前に膝をついた。
「すみません。でも、命じられていますから」
言ってから、すぐに後悔した。
何を言っても、勝手に触れた事実は変わらない。
「傷や、お身体の具合を確認しないと……」
アトラスの胸が、小さく上下した。
一度。
もう一度。
長い時間をかけて、息が戻ってくる。
「……何を」
掠れた声がした。
ミオは顔を上げる。
「何を、する」
「手首の傷を見ます。汚れていたら水で拭いて、薬を塗ります」
アトラスは、ミオの手にある布と薬を見る。
「衣も、傷に触れているところだけ動かします」
一つずつ答えた。
アトラスの視線が、扉からミオへ戻る。
「触れる前に」
声が途切れる。
息を整えてから、続けた。
「……告げろ」
「はい」
「何をするか」
もう一度、呼吸を継ぐ。
「先に、言え」
「分かりました」
命令だと思った。
ならば、従えばよい。
ミオは床へ落ちた器へ手を伸ばしかけた。
その前に、口を開く。
「器を拾います」
アトラスの身体は動かなかった。
ミオは器を拾う。
「水を入れ直します」
水差しから、器へ注ぐ。
「ここへ置きます」
「そこではない」
ミオは手を止めた。
「どちらへ置けばよいですか」
アトラスは床を見た。
鎖。
壁。
ミオとの距離。
「右へ」
「こちらですか」
「もう少し、遠く」
アトラスが手を伸ばせば、ぎりぎり届く距離。
ミオが近づかなくてもよい場所だった。
「ここへ置きます」
器を置く。
アトラスは手を伸ばした。
指先が縁へ触れる。
けれど、持ち上げることはできない。
ミオは手を出しかけ、止めた。
「器を支えましょうか」
アトラスの指が止まる。
返答はすぐには来なかった。
ミオは待った。
早くしなければならない。
命じられたことを終えなければならない。
それでも、待った。
「……今は、要らない」
「分かりました」
ミオは手を引いた。
アトラスは器へ触れたまま、動かなかった。
飲むこともできない。
どれほど待てばよいのか分からない。
扉が開く前に済ませられなければ、自分がどうなるのかも分からない。
怖かった。
それでも、勝手には触れなかった。
やがて、アトラスの指が器から離れる。
「水を」
短い呼吸を挟む。
「布へ含ませろ」
「これから、布を水へ入れます」
ミオは声に出してから、布を浸す。
「絞ります」
両手で絞る。
「手の届くところへ置きます」
濡れた布を、アトラスの近くへ置く。
触れない。
アトラスは布を見た。
それから、ミオを見る。
「その手順を、採用する」
弱い声だった。
けれど、拒まれてはいない。
ミオは小さく頷いた。
---
13.最初の法
傷の処置は、水より難しかった。
手首には鎖の痕がある。
皮膚が擦れ、赤く腫れている。
放置すれば悪くなる。
それはミオにも分かった。
命令もされている。
傷は悪化する前に処置しろ。
ミオは薬と布を床へ並べた。
一つ置くたびに、声へ出す。
「薬を置きます」
「清潔な布を置きます」
「水をこちらへ置きます」
アトラスは壁へ寄り、黙って見ていた。
「手首の傷を拭きます」
そう告げても、腕は差し出されなかった。
ミオは待った。
アトラスの手は、薄い衣の上に置かれたままだ。
「……手首を見せてもらえますか」
返答はない。
ミオの胸が速くなる。
処置を済ませなければならない。
次に黄金の王が来た時、傷がそのままなら。
管理が足りないと判断されたなら。
責を問う。
その言葉が、頭から離れない。
「お願いします」
思わず声が強くなった。
アトラスの肩が揺れた。
「申し訳ありません。でも、処置をしないと……」
声が震える。
「しないと、私が」
アトラスが顔を上げた。
血色の瞳が、ミオの顔を見る。
それから、薬を持つ手へ落ちる。
指が震えていた。
「汝は」
アトラスが問う。
言葉を出すまでに時間がかかる。
「望んで、ここへ来たか」
ミオは答えられなかった。
質問の意味は分かっている。
答えることが安全なのかが、分からない。
「……いいえ」
小さく答えた。
「断れば」
アトラスの呼吸が切れる。
「どうなる」
「分かりません」
本当に、分からなかった。
罰を受けるのか。
別の場所へ連れていかれるのか。
殺されるのか。
何も明示されていない。
だからこそ、何でも起こり得るように思えた。
アトラスは黙った。
ミオの顔。
震える手。
閉じた扉。
順に見る。
「汝が嫌なら、断れ」
ミオは意味を理解できなかった。
「……私が、ですか」
「己(おれ)へ触れることを」
息を継ぐ。
「汝が嫌なら、断れ」
「でも、私が断ったら、あなたが――」
「己の身体を」
声が途切れる。
アトラスは壁へ指をつき、呼吸を整えた。
「汝の責任にするな」
ミオは薬を持ったまま、動けなかった。
「でも、私は、そのために置かれました」
「置いた者の裁定だ」
「はい」
「己の裁定ではない」
アトラスは身体を起こそうとした。
力が足りず、一度動きが止まる。
ミオは支えようとして、手を伸ばしかけた。
触れる前に止める。
「お身体を支えましょうか」
アトラスは浅く息を吐いた。
「まだ、触れるな」
「はい」
ミオは手を戻した。
アトラスは自分の力だけで、少しずつ身体を起こした。
背を壁へ預ける。
それだけで、呼吸が乱れている。
「ミオ」
「はい」
「汝の身体は、汝のものだ」
静かな声だった。
その言葉だけは、途切れなかった。
ミオは自分の手を見た。
傷を処置するための手。
命令へ従うための手。
失敗すれば責を問われる手。
自分のものだと言われても、すぐには分からなかった。
「私が、嫌だと言ってもよいのですか」
「それを決めるのは、汝だ」
「何もしなければ、あなたの傷が悪くなります」
「それは、己が裁定する」
「でも……」
「汝が望まぬことを」
アトラスの呼吸が浅くなる。
それでも言葉は続いた。
「己のために、強いることはしない」
ミオは薬を見た。
傷を見る。
触れることが怖い。
失敗することも怖い。
けれど、まったく触れたくないわけではなかった。
痛みを増やしたくなかった。
先ほどのように、突然掴みたくなかった。
ミオは薬を床へ置いた。
空になった両手を、アトラスから見えるところへ出す。
「私は、処置をしたいです」
アトラスは何も言わない。
「命じられたからだけではなくて」
口にしてから、自分でも戸惑った。
本当にそうなのか、まだ分からない。
死にたくないからかもしれない。
責を問われたくないからかもしれない。
それでも、今は自分で言った。
「腕を見せてもらえますか」
長い沈黙があった。
アトラスはミオを見ていた。
やがて、衣の上に置かれていた腕が動く。
ほんの少し。
震えながら、ミオの方へ差し出された。
「触れてよい」
ミオはすぐには触れなかった。
「これから、手首の傷を拭きます」
アトラスの指がわずかに動く。
「終わったら、すぐに手を離します」
拒絶はなかった。
ミオは布を取る。
手を近づける。
途中で止める。
逃げる動きがないことを確かめてから、そっと触れた。
細い手首は冷たかった。
それでも、先ほどのように強張りきることはなかった。
ミオは布を当てる。
一度。
離す。
もう一度、告げる。
「次に、薬を塗ります」
アトラスの腕は、差し出されたままだった。
---
14.管理の成功
それから、ミオは何をする時にも先に告げた。
「水を持ってきました」
「食事を置きます」
「灯りを暗くします」
「傷を確認します」
「布を外します」
そして、返答を待った。
すぐに答えが返ることは少ない。
アトラスは一度息を整えなければ、言葉を出せなかった。
時には、返答より先に身体が強張った。
何をするか分かっていても、恐怖は消えない。
布へ触れただけで、呼吸が止まることもある。
扉の外で鎖に似た音がすれば、処置の途中でも身体が固まった。
それでも、以前とは違った。
何が始まるのか。
どこへ触れるのか。
いつ手が離れるのか。
その一つずつを、アトラスは知ることができた。
「食事を持ってきました」
ある時、ミオは冷ました粥を運んだ。
熱い匂いで呼吸が乱れることを覚えていたからだ。
「前より水を多くしています」
アトラスは器を見た。
「量は」
「少しだけです」
「置け」
ミオは一歩ずつ近づく。
「今から近づきます」
アトラスの肩が上がる。
それでも、目は閉じなかった。
「床へ置きます」
器と匙を置き、距離を取る。
アトラスは匙へ手を伸ばした。
持ち上げる。
少量を掬う。
けれど、口元へ運ぶ途中で手が震えた。
粥が器へ戻る。
ミオは手を出さなかった。
「匙を持つ手を、支えましょうか」
返答を待つ。
アトラスは、もう一度だけ自分で試した。
やはり、途中で止まった。
「持て」
「今から匙を持ちます」
「承知した」
ミオは匙を取った。
「口元へ運びます」
アトラスが、わずかに頷く。
唇へ触れる前で、匙を止めた。
アトラスは自分から顔を寄せ、一口だけ含んだ。
すぐには飲み込めない。
ミオは匙を離し、待った。
喉が動く。
一度。
二度。
ようやく、飲み込まれた。
アトラスの呼吸が乱れる。
「続けますか」
長い間があった。
「続ける」
「無理をしなくても」
「必要だ」
血色の瞳が、器へ向く。
「あの男の命令だからではない」
声は弱い。
「己が、採用する」
ミオは匙を持ち直した。
二口目。
三口目。
一度に飲み込めない時は待った。
呼吸が乱れれば、手を戻した。
そのたび、アトラスは続けるか、止めるかを決めた。
器は空にならなかった。
それでも、前より多く食べられた。
水も、少量ずつなら受け入れられるようになった。
傷は悪化しなくなった。
熱の高い時間も短くなった。
夜には、ミオが灯りを落とすと告げ、扉から離れた場所に座った。
「眠るまで、ここにいます」
「命令か」
「いいえ」
ミオは答えた。
「私が、そうします」
アトラスは何も言わなかった。
目を閉じても、すぐに眠ることはできない。
身体は何度も強張った。
けれど、目を開くたび、ミオは同じ場所にいた。
近づかない。
触れない。
何も始めない。
やがて、アトラスが眠る時間は少しずつ長くなった。
食事の器は、前より軽くなって戻った。
水差しの水も減った。
傷から熱が引いた。
処置の時、腕が自分から差し出されることも増えた。
扉の外へ渡される報告では、すべてが改善していた。
摂取量が増えた。
眠る時間が伸びた。
傷の悪化が止まった。
処置への抵抗が減った。
ミオは、その報告を書くたびに不安になった。
黄金の王が、何を成功と数えるのか分かっていたからだ。
けれど、アトラスが食べる理由は、分かる気がした。
ミオが責を問われないように。
ミオの手で、無理に身体を押さえさせないために。
必要な食事と処置を、自分の判断として引き受けている。
ある朝、ミオが布と薬を並べると、声をかけるより先に、アトラスが腕を動かした。
途中で一度止まる。
呼吸を整えてから、もう少しだけ前へ。
ミオは差し出された腕を見た。
「これから、傷を拭きます」
「承知した」
声は弱い。
指先も震えている。
それでも、その腕は誰かに引き出されたものではなかった。
「触れます」
ミオは告げてから、そっと布を当てた。
---
15.役割を棄却する
ミオは、何をする時にも名乗るようになった。
扉を開ける時。
「ミオです。入ります」
水を運ぶ時。
「ミオです。水を持ってきました」
夜中にアトラスが目を覚ました時も。
「ミオです。灯りはつけません」
暗闇では、顔が見えない。
声を先に置かなければ、アトラスの身体が何へ備えればよいのか分からない。
だから、名を言った。
はじめは必要に迫られて。
そのうち、言わない方が落ち着かなくなった。
ある日、ミオは新しい衣を持ってきた。
「ミオです。着替えを持ってきました」
アトラスは床へ座っている。
以前より、背を起こしていられる時間は長くなった。
それでも、一人で衣を替えることは難しい。
「側仕えとして、お手伝いします」
言ってから、ミオは足を止めた。
アトラスの目がこちらを向いた。
「それを」
言葉の間に、浅い呼吸が入る。
「汝が選んだか」
「……何を、でしょうか」
「側仕えという役割を」
ミオは答えられなかった。
選んでいない。
連れてこられた。
命じられた。
拒めば何をされるのか分からなかった。
「でも、私は側仕えとして置かれています」
「置かれたことと」
アトラスが息を継ぐ。
「汝がそれであることは、同義ではない」
ミオは持っていた衣を見る。
「では、私は何なのですか」
アトラスはすぐには答えなかった。
ミオの顔。
手。
抱えている布。
一つずつ見る。
「ミオだ」
それだけだった。
「それだけ、ですか」
「不足か」
「いえ」
不足ではない。
けれど、戸惑った。
ここへ来てから、ミオは役割でしか呼ばれていない。
側仕え。
管理役。
花嫁の身体を保つ者。
失敗すれば責を問われる者。
それらをすべて外されたら、自分に何が残るのか分からない。
「私は、あなたのお世話をする者ではないのですか」
「汝がすると決めるなら、そうなる」
「決めなければ」
「ならない」
「でも、命令されています」
「それは、彼の命令だ」
アトラスの声は掠れていた。
それでも言葉は途切れなかった。
「ならば、それは汝の裁定ではない」
ミオは黙った。
アトラスは続ける。
「己は、汝を所有しない」
ミオの手から、衣が少し滑った。
慌てて抱え直す。
「所有……」
「ゆえに、役割を与えない」
「ですが、何もしなければ、あなたは」
「己が困る」
あまりにもそのまま言われ、ミオは瞬きをした。
「はい」
「傷も悪くなる」
「はい」
「食事も一人では取れない」
「……はい」
「それでも」
アトラスは壁へ手をついた。
身体を支える指に力が入る。
「汝へ強制する理由にはならない」
ミオは黙った。
この少女は、自分では水も十分に飲めない。
一人では傷を処置できない。
夜になれば身体が震え、朝には声が出なくなることもある。
それでも、ミオへ役割を押しつけようとはしない。
「私が何もしないと決めても、怒りませんか」
「怒る理由がない」
「困るのに」
「困ることは、己の事情だ」
ミオは床へ視線を落とした。
自分なら、どうするだろう。
誰かの助けがなければ、生きられない時。
相手が断ろうとしたら。
困るからやれと、言わずにいられるだろうか。
「帰ることはできません」
ミオは言った。
「この部屋からも、その先からも」
「分かっている」
「何もしないと決めても、ここには置かれます」
「それも、己には変えられない」
アトラスは、できないことを否定しなかった。
助けるとも言わない。
逃がすとも言わない。
「ならば、私に何が選べるのですか」
ミオの声は、自分で思ったより強くなった。
アトラスは目を逸らさない。
「己へ何をするか」
「それだけですか」
「今は」
短い返答だった。
「それだけでも、汝のものだ」
部屋の外へは出られない。
命令も消えない。
黄金の王が来れば、従わなければならない。
それでも、目の前の少女へ手を伸ばすかどうかは、自分で決められる。
ミオは抱えていた衣を床へ置いた。
「衣を替えた方がよいと思います」
「なぜだ」
「今の衣は汚れています。傷にも触れています」
「汝は替えたいか」
ミオは考えた。
命令されたから。
罰を受けたくないから。
それだけではない。
汚れた布が傷へ擦れるのを、見たくなかった。
「替えたいです」
アトラスは頷いた。
「ならば、頼む」
ミオは膝をついた。
「今から、肩へ触れます」
腕を伸ばす。
触れる前に待つ。
アトラスが小さく息を吐く。
「承知した」
ミオは静かに衣へ手をかけた。
側仕えとしてではなく。
誰かの所有物としてでもなく。
ミオとして。
---
16.処置と装飾
届けられる衣装は、日に日に華美になった。
金糸を織り込んだ衣。
海色の石を縫いつけた裾。
細い首へ巻く黄金。
腕を飾る輪。
香りの強い油。
髪へ差す、花の形の宝石。
ミオには、どれがどれほど高価なのか分からなかった。
ただ、そのすべてを身につけたアトラスの身体が、少しも楽になるとは思えなかった。
「指定されたものを持ってきました」
ミオは床へ品々を並べた。
アトラスは一つずつを見る。
「これは」
薄い下衣を指した。
「今のものと替える衣です。清潔なものです」
「必要か」
「はい。傷を汚さないためにも」
「採用する」
次は、厚い上衣。
「これは」
「身体を冷やさないためのものです」
アトラスは布へ指を触れた。
重さを確かめる。
「採用する」
食事。
水分。
睡眠。
傷の処置。
身体を清潔に保つ布。
実用的な衣。
身体を維持するために必要なものは、アトラス自身の判断で選ばれた。
問題は、その隣にあった。
金の首輪。
ミオが持ち上げるだけでも重い。
「これは、首につけるようにと言われています」
「必要か」
「必要ではありません」
「害は」
「重いです。長くつければ、首や肩へ負担になると思います」
「使用しない」
ミオの胸が強く打った。
「ですが、すべて身につけるようにと」
「睡眠時の負担になる」
アトラスは金の輪を見た。
「そのまま報告できる」
次の腕輪には、内側に細い突起があった。
痩せた腕へ巻けば、鎖の傷へ触れる。
「これは、傷に当たります」
「創傷の処置を妨げる。使用しない」
宝石のついた帯は、締めれば呼吸を妨げる。
「使用しない」
重い石を縫いつけた裾は、歩く時に足へ絡む。
「使用しない」
香油の蓋を開けると、甘く強い匂いが広がった。
アトラスの呼吸が、すぐに浅くなる。
ミオは慌てて蓋を閉じた。
「申し訳ありません」
「香りは」
アトラスは呼吸を整える。
「摂食を阻害する」
「はい」
「使用しない」
一つずつ分ける。
身体を保つもの。
身体へ支障を生むもの。
そして、どちらでもないもの。
最後に残ったのは、小さな髪飾りだった。
黄金の花。
軽い。
尖った部分もない。
髪へ差しても、身体を傷つけることはなさそうだった。
「これは」
ミオは手の上で飾りを返した。
「必要ではありません」
「害は」
「おそらく、ありません」
アトラスは髪飾りを見た。
「ならば、不要だ」
ミオの指が縮んだ。
顔に出たのかもしれない。
アトラスがこちらを見る。
「何だ」
「これも戻せば、すべて拒んだと思われるかもしれません」
「必要な衣は採用した」
「でも、あの方が見たいのは、たぶん」
言いにくかった。
花嫁らしく着飾った姿。
黄金の王が与えたものを身につけた姿。
「呼称の証明か」
アトラスは平坦に言った。
ミオは否定できなかった。
アトラスは小さな髪飾りへ目を戻した。
「それを身につければ、汝は問われにくいか」
「分かりません」
「何もつけないよりは」
「……おそらく」
アトラスはしばらく黙った。
「ならば、それは使用する」
ミオは驚いて顔を上げた。
「よろしいのですか」
「汝への危険を減らすためだ」
「でも、花嫁と認めたことには」
「ならない」
返答は速かった。
「装着した事実と、呼称を採用したことは同義ではない」
ミオは黄金の花を見る。
アトラスが選んだ装飾ではない。
けれど今、何のために身につけるかは選び直された。
「髪へ触れてもよろしいですか」
アトラスの肩が、わずかに硬くなる。
ミオは待った。
「どこへ差す」
「右側へ。傷には触れません」
「承知した」
ミオは後ろへ回らなかった。
見えない場所から触れないよう、正面から手を伸ばす。
「今から髪を少し持ち上げます」
指先で、水青の髪へ触れる。
アトラスの呼吸が一度止まる。
ミオは手を止めた。
「続けてもよろしいですか」
長い間があった。
「続けろ」
髪を少しだけまとめる。
軽い飾りを差す。
すぐに手を離す。
「終わりました」
アトラスの首が、飾りを差した右側へわずかに動きかけた。
途中で止まり、すぐに元へ戻った。
「痛みはありませんか」
アトラスはわずかに首を動かした。
「ない」
「重くありませんか」
「ない」
ミオは、使わなかった品を布で包んだ。
重い輪。
傷へ当たる腕輪。
呼吸を妨げる帯。
足へ絡む裾。
食事を妨げる香油。
「戻した理由を、何と伝えればよいでしょうか」
アトラスは、包まれた品を見る。
「首の輪は、睡眠時の負担になる」
一度、呼吸を継ぐ。
「腕輪は、創傷の処置を妨げる」
さらに息を整える。
「帯は呼吸を、裾は移動を妨げる」
最後に、閉じられた香油を見る。
「香りは、摂食を阻害する」
ミオは、一つずつ覚えた。
嘘ではない。
拒絶を隠すために作った口実でもない。
実際に、身体へ起きることだった。
「私が嫌がったとは、言わなくてよいのですか」
「それは、この件の事実ではない」
アトラスは血色の瞳を上げた。
「事実のみを報告しろ」
---
17.決まった場所
物の置き場所が決まり始めた。
最初は、水だけだった。
「右へ」
アトラスが言った。
ミオは、水の器を右側へ置いた。
鎖が届く範囲。
アトラスが手を伸ばせる場所。
それでいて、ミオが身体のすぐ近くまで入らずに済む場所。
次は、薬だった。
届けられた薬は、どれも似た容器に入っていた。
白い粉。
色の薄い液体。
傷へ塗る軟膏。
ミオには、見ただけでは区別できない。
「これは傷へ塗るものです」
一つずつ、声に出して並べた。
「こちらは熱が高い時に使うものです」
アトラスは容器を見る。
「分けろ」
「どのように、ですか」
「使用する場所ごとに」
ミオは考えた。
傷へ使うもの。
熱がある時に使うもの。
飲むもの。
水で薄めるもの。
種類ごとに距離を置いて並べる。
「これで分かりますか」
アトラスは目を動かした。
「傷の薬は、布の近くへ」
「はい」
「飲むものは、水の近くへ置くな」
「間違えるからですか」
「己が、ではない」
アトラスは、閉じた扉を見る。
「別の者が来た時だ」
ミオは容器を持ったまま、動きを止めた。
別の者。
自分がいなくなった後。
考えたくなかった。
けれどアトラスは、その可能性を初めから除いていないらしい。
「……分かりました」
飲み薬は、水から離す。
傷の薬は、清潔な布の隣。
使い終えた布は、反対側へ。
「汚れたものを、同じ場所へ戻すな」
「はい」
「水に触れさせるな」
「はい」
指示は短かった。
一つを言うたび、アトラスは息を整えなければならない。
ミオは、次の言葉を急かさなかった。
清潔な布。
使用した布。
水。
薬。
食事の器。
一つずつ、置く場所を決めていく。
はじめは、生活上のこだわりなのだと思った。
物が散らばっていれば不便だから。
暗い場所でも、手を伸ばして見つけられるようにするため。
けれど、アトラスが気にしたのは、物の場所だけではなかった。
「前の食事から」
ミオが空の器を片づけようとした時、声がした。
「扉は、何度開いた」
「扉、ですか」
「数えたか」
ミオは思い返した。
食事が運ばれた時。
布を取り替える者が来た時。
薬が届けられた時。
「三度だと思います」
「思う、ではなく」
アトラスの声が途切れた。
一度、浅く呼吸する。
「次から、数えろ」
「はい」
「灯りは」
血色の瞳が、天井を見る。
黄金の部屋を照らす光は、いつも同じように見えた。
「暗くなったか」
「一度、少しだけ」
「その後、扉は」
「開いていません」
アトラスは黙った。
何を考えているのか、ミオには分からない。
しばらくして、もう一つ問われた。
「食事は、前と同じ量か」
ミオは器を見る。
「少し少ないと思います」
「なぜだ」
「分かりません」
「容器は同じか」
「同じです」
「水は」
ミオは水差しを持ち上げた。
重さを確かめる。
「昨日より、少ないかもしれません」
「記せ」
「どこへ、ですか」
紙はなかった。
筆もない。
ミオは周囲を見た。
アトラスの視線が、使わなかった布の切れ端へ向く。
「印でよい」
ミオは小さな布を一枚取った。
食事を口へ運べた回数。
水を飲めた回数。
眠ったと思われる時間。
扉が開いた回数。
灯りが暗くなった回数。
炭の欠片で、短い線を引いた。
「これで分かりますか」
アトラスは布を見た。
「何の印か、汝が忘れる」
「では、分けます」
食事。
水。
眠り。
扉。
灯り。
布を区切り、それぞれに印をつけた。
アトラスは、さらに問いを重ねる。
「薬の容器は、昨日と同じか」
「一つ、変わっています」
「誰が替えた」
「分かりません。扉の外から渡されました」
「受け取った時刻は」
「時刻は……」
ミオは答えられなかった。
ここには、時計がない。
朝も夜も分からない。
灯りは黄金の王が望むままに変わる。
「灯りが暗くなってから、どれほど後だ」
「食事を一度運んだ後です」
アトラスは頷かなかった。
ただ、印のついた布を見た。
「次から、それも記せ」
「はい」
その日から、ミオは数えるようになった。
扉の音。
灯りの変化。
水の量。
食事の間隔。
薬の容器。
アトラスの熱。
処置の後、呼吸が戻るまでの時間。
毎日が同じように続く部屋で、違うものを探した。
違うものが分かれば、同じものも分かった。
何度扉が開けば、次の食事が来るのか。
灯りが落ちてから、どれほどで水が替えられるのか。
どの薬を使った翌日に、熱が下がるのか。
アトラスの問いは、少しずつ細かくなった。
「前の食事から、扉は何度開いた」
「二度です」
「灯りが消えてから、次に点くまで」
「食事一回分より、少し短かったです」
「水は昨日と同じか」
「同じ容器ですが、少し少ないです」
「薬を替えた者は」
「今日は、いつもの方ではありませんでした」
ミオは答えながら、床を見る。
右に水。
その奥に食事の器。
傷の薬は清潔な布の隣。
使用済みの布は反対側。
記録は、アトラスからもミオからも見える場所。
以前と同じ黄金の部屋だった。
鎖もある。
扉も閉じている。
外へは出られない。
それでも、何がどこにあり、いつ何が起きたのかだけは、二人に分かるようになった。
---
18.アトラスでよい
ミオは、黄金の王から命じられた呼称を使っていなかった。
使わないと決めたわけではない。
ただ、口にできなかった。
水を持ってきました。
食事を置きます。
傷を確認します。
主語と呼びかけを省けば、日々の処置は進められた。
けれど、いつまでも避け続けることはできなかった。
ある時、アトラスが眠りから目を覚ました。
呼吸が乱れている。
閉じた扉を見つめたまま、ミオの声へ反応しない。
「ミオです」
近づかずに告げる。
「灯りは変わっていません。扉も開いていません」
アトラスの指が、敷布を掴んでいる。
「水を右側へ置きます」
返答はない。
ミオは器を置いた。
それでも、血色の瞳は扉から離れなかった。
何か呼びかけなければと思った。
名前を。
けれど、少女の名を知らない。
黄金の王から与えられた言葉しかない。
ミオは唇を開いた。
「……花嫁様」
アトラスの肩が、はっきりと強張った。
呼吸が止まる。
鎖が小さく鳴る。
ミオは、自分が何を言ったのか理解した。
「申し訳ありません」
アトラスは答えない。
「そう呼ぶように、命じられていて……」
言い訳だった。
自分が選んだ言葉ではない。
それでも、口にしたのは自分だった。
長い時間をかけて、アトラスの呼吸が戻る。
「それを」
掠れた声がした。
ミオは顔を上げる。
「汝が、選んだのでなければ」
一度、言葉が切れる。
「用いる必要はない」
「でも、命じられています」
「命じた者の言葉だ」
アトラスの目が、ミオを見る。
「汝の言葉ではない」
ミオは両手を握った。
使わなければ、命令違反になる。
黄金の王に知られれば、何をされるか分からない。
「では、何とお呼びすればよいですか」
アトラスは黙った。
呼吸を整える。
名前を答えるだけでも、時間がかかった。
「アトラスでよい」
「アトラス……」
ミオは、ゆっくりと繰り返した。
少女が自分から差し出した名前。
黄金の王に与えられた呼称ではない。
「アトラス様」
アトラスの瞳が、わずかに動いた。
様までつけろとは言われていない。
それでも、訂正はされなかった。
「お水を、右側へ置きました」
ミオは続けた。
「アトラス様」
もう一度呼ぶ。
今度は、身体が強張らなかった。
その後、二人きりの時には、ミオはその名を使った。
「アトラス様、食事を運びます」
「アトラス様、傷を確認してもよろしいですか」
「アトラス様、灯りを落とします」
呼ぶたび、アトラスは返答した。
すぐに声が出ない日もある。
目を開くだけの日もある。
それでも、自分へ向けられた名だと分かっているようだった。
扉の外では、ミオは呼ばなかった。
誰かがいる時には、主語を消した。
「食事は済んでいます」
「処置は終わりました」
「熱は下がっています」
嘘はつかなかった。
けれど、花嫁とも言わなかった。
怖くなくなったわけではない。
扉が開くたび、胸が苦しくなる。
黄金の足音が聞こえれば、身体が震える。
それでも、自分が選んでいない呼称を口にしないことだけは、ミオ自身が決めた。
---
19.王の身体
ミオの手から、薬の容器が落ちた。
床へ当たり、鈍い音がする。
割れはしなかった。
けれど蓋が外れ、中身が少しこぼれた。
「申し訳ありません」
誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。
すぐに拾おうとして、指がうまく動かない。
何度も空を掴む。
「ミオ」
呼ばれて、顔を上げた。
アトラスがこちらを見ている。
「……はい」
「休め」
「大丈夫です」
反射的に答えた。
大丈夫ではなかった。
前の灯りが落ちてから、一度も眠っていない。
アトラスが目を覚ますたび、声をかけた。
熱を確かめた。
水を運んだ。
扉の音を数えた。
記録をつけた。
眠れば、何かを見落とす気がした。
見落とせば、責を問われる。
「薬を片づけたら、食事を――」
「休め」
先ほどより強い声だった。
その一言で呼吸が切れ、アトラスはしばらく続けられない。
ミオは床へ視線を落とした。
「まだ処置が終わっていません」
「汝の手では、今はできない」
「できます」
容器を拾おうとする。
また、指が滑った。
アトラスはその動きを見ていた。
「汝が倒れれば」
浅い息。
「代わりが置かれる」
ミオの手が止まった。
自分の代わり。
黄金の王が、別の人間を連れてくる。
その時、自分がどこへやられるのかは分からない。
新しい者が、触れる前に告げるとも限らない。
返答を待つとも限らない。
薬も、水も、布も、決めた場所へ置かないかもしれない。
「私は、まだ倒れません」
「倒れてからでは遅い」
アトラスは壁へ手をついた。
身体を起こす。
以前より動けるようになったとはいえ、その手はまだ震えている。
「食事は取る」
「でも、お一人では」
「汝が起きてから、支えろ」
アトラスは呼吸を継いだ。
「処置も受ける」
「それでは、今は」
「延期する」
短い裁定だった。
ミオはこぼれた薬を見る。
「でも、命じられた時間までに終わらなければ」
「記録しろ」
「何と」
「処置者の疲労により、延期」
「そんなことを書けば、私が」
「事実だ」
血色の瞳が、ミオを見る。
「虚偽は用いるな」
「でも……」
「食事は取る」
もう一度、アトラスが言った。
「処置も受ける」
声は弱い。
けれど、言葉は明確だった。
「ゆえに、汝は休め」
ミオは返事ができなかった。
自分が休むために、この人が食事を取る。
自分が責を問われないために、処置を受ける。
身体を守る理由を、自分自身ではなくミオへ置いている。
「ここで休んでもよいですか」
「汝が決めろ」
ミオは部屋の端へ移った。
アトラスから距離を取る。
扉からも少し離れる。
横になっても、すぐには目を閉じられなかった。
「水は」
アトラスが言った。
「右です」
「承知した」
アトラスは、自分から水へ手を伸ばした。
器を持ち上げる途中で、手が震える。
水面が揺れる。
ミオは起き上がりかけた。
「休め」
顔を上げずに、アトラスが言った。
ミオは動きを止めた。
器は一度、床へ戻された。
アトラスは呼吸を整え、もう一度手を伸ばした。
今度は両手で持つ。
少しだけ、口へ運ぶ。
飲み込むまで長い時間がかかった。
それでも、自分から水を取った。
次に、食事の器へ手を伸ばす。
一人では、ほとんど食べられない。
匙を持つ手も安定しない。
それでも、一口だけを自分で運んだ。
ミオは目を閉じた。
扉も、鎖も消えていない。
何一つ安全にはなっていない。
それでも、自分が休んでよい時間を、目の前の王が身体を使って作ろうとしていた。
---
20.馴染んだようだな
黄金の王が来た時、アトラスは記録を確認していた。
ミオがつけた印を、一つずつ目で追っている。
扉が開いた。
その音だけで、アトラスの指が止まった。
呼吸が浅くなる。
背が壁へ近づく。
視線が上がらない。
先ほどまで記録を追っていた血色の瞳が、床へ落ちた。
ミオはすぐに膝をついた。
「顔を上げよ」
命じられ、黄金の靴を見る。
「報告しろ」
「食事は、前より取れています」
呼びかけは入れなかった。
「水分も増えています。熱は下がり、傷の悪化は止まりました」
ギルガメッシュは、床へ並べられたものを見る。
右側の水。
分類された薬。
離して置かれた使用済みの布。
印のついた記録。
「処置は」
「終わっています」
「睡眠は」
「以前より長くなっています。ただ、扉の音で目を覚まします」
言ってから、ミオは顔を伏せた。
余計なことを言ったかもしれない。
ギルガメッシュは何も答えなかった。
黄金の視線が、室内を巡る。
そして、アトラスの水青の髪に差された小さな花で止まった。
「他の装飾はどうした」
ミオの喉が固くなる。
用意していた言葉を思い出す。
「首の輪は、睡眠時の負担になります」
「ほう」
「腕輪は創傷の処置を妨げます。帯と裾は、呼吸と移動の支障になります」
「香油は」
「香りによって、食事が取れなくなりました」
ギルガメッシュはアトラスを見る。
アトラスは顔を上げられない。
血色の瞳は床へ落ちている。
「すべて、この女の判断か」
ミオの心臓が跳ねた。
「事実を確認して、使用していません」
嘘ではない。
けれど、誰が決めたかには答えていない。
ギルガメッシュは、記録の布を手に取った。
食事。
水。
眠り。
熱。
傷。
扉。
灯り。
細い印が、何日分も重なっている。
「随分と手が掛かったものだ」
返答するべきか分からず、ミオは黙った。
黄金の王は、記録を床へ戻した。
「だが、結果は出ている」
食事は増えた。
傷は悪化していない。
眠る時間も伸びた。
指定した装飾も、すべてではないが使用されている。
管理の失敗として責を問われる理由はない。
ギルガメッシュが、アトラスへ近づく。
一歩。
アトラスの肩が固まる。
もう一歩。
指先が敷布を掴んだ。
呼吸が途中で止まる。
ミオは手を伸ばしたくなった。
これから触れると告げたかった。
けれど、自分が口を挟めば何が起こるか分からない。
何もできず、見ているしかなかった。
ギルガメッシュは、アトラスの前で足を止めた。
「馴染んだようだな、大洋王」
大洋王。
ミオは、その呼称を初めて聞いた。
花嫁ではない。
管理される小さな少女へ向ける言葉とも違う。
アトラスの指が動いた。
顔を上げようとする。
一度では上がらない。
呼吸を整え、少しずつ首を動かす。
血色の瞳が、黄金の王へ届く。
返答まで、長い時間がかかった。
「……異なる」
一語だけだった。
それでも、ギルガメッシュの言葉を受け入れてはいないことは分かった。
「何が異なる」
アトラスの唇が動く。
声は出なかった。
呼吸だけが漏れる。
ギルガメッシュはしばらく待った。
やがて、低く笑う。
「いずれ言えるようになろうさ」
アトラスの目が冷える。
けれど身体は、まだ動かない。
黄金の王はミオへ視線を移した。
「引き続き管理しろ」
ミオは顔を伏せた。
「……はい」
「不調はすべて報告せよ」
「はい」
ギルガメッシュは扉へ向かう。
出ていく直前、一度だけ部屋を振り返った。
水。
薬。
記録。
黄金の花。
床へ座るアトラス。
すべてを見て、扉を閉じた。
---
21.命じられていません
扉が閉じても、ミオはすぐに動かなかった。
足音が遠ざかる。
聞こえなくなる。
それでも待った。
アトラスの呼吸は、まだ戻っていない。
肩が上がったまま、浅い息を繰り返している。
触れない。
問いを重ねない。
水を飲ませようとしない。
処置を先へ進めない。
ただ、同じ場所で待った。
やがて、アトラスの指が敷布から離れた。
肩が少し下がる。
一度、深くはない息が入る。
ミオは、床へ置かれた記録を拾った。
「記録を元の場所へ戻します」
返答はない。
右側へ水。
傷の薬は清潔な布の隣。
使用済みの布は反対側。
食事の器は、記録から離す。
一つずつ、決められた場所へ戻していく。
「水を右へ置きます」
アトラスの瞳が、わずかに動いた。
「薬を分けます」
傷へ使うもの。
飲むもの。
熱のためのもの。
「清潔な布を、こちらへ置きます」
最後に、記録を二人から見える場所へ置いた。
以前と同じ位置。
ミオは、ようやくアトラスを見た。
顔色は悪い。
呼吸もまだ浅い。
それでも、黄金の王が入ってきた時よりは戻っている。
「次は、何をすればいいですか」
口にしてから、その問いが以前とは違うことに気づいた。
黄金の王から与えられた命令を確認しているのではない。
目の前の人へ、次の判断を求めている。
アトラスは記録を見る。
それから、ミオを見る。
「まず」
掠れた声だった。
「汝が休め」
「でも、片づけは終わりました」
「呼吸が速い」
ミオは、自分の胸へ手を置いた。
言われて初めて気づいた。
黄金の王がいた時から、ほとんど息を吐けていない。
「その後」
アトラスは言葉を継ぐ。
「記録を確認する」
ミオは頷いた。
「分かりました、王様」
言葉は、考えるより先に出た。
アトラスが顔を上げる。
血色の瞳が、まっすぐにミオを見る。
「その呼称を……」
一度、呼吸が切れる。
「命じた覚えはない」
「命じられていません」
短い沈黙が落ちた。
アトラスは、採用とも棄却とも言わなかった。
ミオを見たまま、何も答えない。
やがて、右側に置かれた水へ手を伸ばした。
指先が器へ触れる。
持ち上げるまでに時間がかかる。
一度、手が滑った。
それでも、ミオは動かなかった。
休めと言われたから。
アトラスは両手で器を支えた。
震える手で、自分から水を取った。
まつろわぬ花嫁は完結の第五話まで毎日更新します。
こちらが完結したら数日制作期間を置かせてもらうつもりです。
詳しくは以下の記事をご覧ください。
第三部は章ごとの連載になりそうです
https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=344407&uid=332978
この作品の興味をもったところは?
-
アトラスのキャラクター性・内面
-
ギルガメッシュとの関係性
-
王としての在り方・王権のテーマ
-
ストーリーの展開
-
その他