The Reversed Star――逆位置の星―― 作:ほいみん
本作は『The Reversed Star』山門戦から分岐する、救済のないダークIFです。
★全五話ですが、本編の理解に必要な内容はありません。読まずに次の章へ進んでいただいて問題ありません★
監禁、身体拘束、本人の同意によらない受肉・婚姻および所有の主張、衣食・治療を含む身体と生活の強制的な管理、継続的な暴力と恐怖反応、心理的虐待、オリジナル人物の処刑・死別を含みます。
本作では、原作キャラクターであるギルガメッシュが明確な加害者として描写されます。救出、改心、和解、恋愛的成就、監禁からの脱出はありません。
性的暴行や露骨な性描写はありませんが、強制的な「花嫁」扱いと非同意の関係性を扱います。また、加害行為を愛情として肯定・免責する内容ではありません。
以上の要素が苦手な方は、閲覧をお控えください。
22.外から来た染み
「ミオです。戻りました」
閉じた扉へ、先に声を置いた。
返答を待つ。
少し間を置いて、内側から掠れた声が返った。
「入れ」
ミオは扉を開いた。
新しい水と布を抱えている。
部屋の中は、出た時と変わっていなかった。
右側に水。
その奥に食事の器。
清潔な布は薬の隣。
使用済みの布は、離れた場所へまとめられている。
記録も、二人から見える位置にある。
アトラスは壁際へ座っていた。
水青の髪には、あの黄金の花が残っている。
首がわずかに動き、扉の向こうを確かめる。
ミオが一人だと分かっても、上がった肩はすぐには戻らなかった。
「扉を閉めます」
告げてから閉める。
留め金の音に、アトラスの指が敷布を掴んだ。
ミオは近づかずに待った。
呼吸が少し整ってから、水を持ち上げる。
「新しい水を、右へ置きます」
「承知した」
決められた場所へ置く。
前の器と取り替え、水差しの残量を確かめる。
「昨日より、少し多いです」
アトラスの血色の瞳が器へ向く。
「記せ」
「はい」
ミオは布の記録へ印を足した。
次に、新しい布と薬を並べる。
「傷の布を替えます」
アトラスの指先がわずかに動く。
「腕を見せてもらえますか」
返答を待つ。
急かさない。
アトラスが自分から腕を差し出すまで、ミオは膝の上へ手を置いていた。
細い腕が、ゆっくりと前へ動く。
途中で止まる。
呼吸を継ぎ、もう少しだけ差し出された。
「これから腕に触れます」
ミオは布を取った。
「今の布を外します。傷を拭いて、新しい布へ替えます」
アトラスが小さく頷く。
「終わったら、すぐに手を離します」
指先で結び目を解く。
汚れた布を外す。
傷はまだ赤い。
けれど、前より熱を持ってはいなかった。
「傷を水で拭きます」
触れる。
アトラスの肩が固くなる。
ミオは手を止めた。
呼吸が戻るまで待つ。
再び触れることを告げてから、少しずつ汚れを拭った。
薬を塗る。
新しい布を巻く。
結び目を作り、手を離した。
「終わりました」
アトラスの腕が、すぐには戻らなかった。
しばらく差し出されたままになり、やがて敷布の上へ置かれる。
ミオは使い終えた布を、離れた場所へ移した。
新しく持ってきた布を、清潔なものの側へ置こうとする。
「待て」
ミオの手が止まった。
アトラスが布を見ている。
「それを」
新しい布の端を指した。
「こちらですか」
ミオは持ち上げた。
白い布の隅に、薄い灰色の染みがあった。
よく見なければ分からないほど淡い。
水が乾いた後に、細かなものだけが残ったような跡だった。
「汚れていたのかもしれません」
「違う」
アトラスの視線が、染みの縁を追う。
「水の跡だ」
ミオも見直した。
布の端は、少しだけ硬くなっている。
指で擦ると、白い粉のようなものが落ちた。
「これは、どこで洗った」
「外の洗濯場です」
「蔵の中か」
「いいえ。物資を受け取る場所より、もう少し下です。皆で使う水場があって」
話してから、ミオは口を閉じた。
無用な会話はするな。
命令を思い出した。
けれど、アトラスは布を見たまま、次を問う。
「水は、以前と同じか」
「……分かりません」
アトラスの目が上がる。
責める色はなかった。
ミオは記憶を辿った。
布をすすいだ時。
桶へ手を入れた時。
水を汲んだ女たちが、顔をしかめていた。
「少し、匂いがしました」
「どのような」
「泥のような……でも、泥だけではなくて。古い器に水を入れたままにした時のような匂いです」
「色は」
「桶の中では分かりませんでした」
「いつからだ」
「二、三日前からだと思います」
「思う、か」
ミオは息を呑んだ。
「すみません。確かではありません」
アトラスは何も言わない。
布の染みを見る。
「その水で洗った布は、他にもあるか」
「あると思います。洗濯場では、皆が同じ水を使っていますから」
「誰が使う」
「下にいる人たちが多いです。子供の服や、寝具も」
そこまで言って、別の会話を思い出した。
洗濯場の女が、隣の者へ話していた。
また熱を出した。
今度は子供だ。
薬を回してもらえない。
ミオは唇を結んだ。
言わなくてもよいことだった。
アトラスの身体を管理するためには、必要がない。
けれど、染みを見つめる血色の瞳は、次の言葉を待っていた。
「……下の方で」
ミオは声を落とした。
「熱を出す人が増えたと、話している人がいました」
アトラスの顔が上がる。
「どこだ」
「下の居住区だと思います」
「何人」
「分かりません」
「いつから」
「分かりません」
「子供か」
「子供もいると聞きました」
「見たのか」
「いいえ」
ミオは首を振った。
「聞いただけです」
アトラスは黙った。
部屋の右側に置かれた水を見る。
傷へ巻かれたばかりの布を見る。
最後に、ミオが持つ染みの残った布へ視線を戻した。
「その布を」
息を継ぐ。
「記録の隣へ置け」
「清潔な布とは分けますか」
「分けろ」
ミオは、濁りの残った布だけを別の場所へ置いた。
室内へ運び込まれたものは、小さな染み一つだった。
けれど、その染みの向こうに。
閉じた扉の外で使われている水があった。
それを飲み、身体を洗い、熱を出している人がいた。
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23.事実だけを
アトラスの問いは、すぐには終わらなかった。
「熱を出した者は、何人いる」
「分かりません」
「成人か。子供か」
「子供がいるとは聞きました。成人については、分かりません」
「他の症状は」
「……聞いていません」
「吐いた者は」
「分かりません」
「腹を痛めた者は」
「分かりません」
ミオは、同じ言葉を何度も繰り返した。
答えられないことばかりだった。
洗濯場で交わされる会話を、これまで真剣に聞いてはいなかった。
自分のことで精一杯だった。
物資を受け取る。
指定されたものを運ぶ。
余計なことを言わずに戻る。
黄金の王の目に留まらないようにする。
それだけを考えていた。
「申し訳ありません」
何度目かの問いに答えられず、ミオは頭を下げた。
「何も、きちんと聞いていなくて」
アトラスは責めなかった。
水青の髪が、頬へ落ちている。
「見たことと」
声の間に、呼吸が入る。
「聞いたことを分けろ」
ミオは顔を上げた。
「見たことは」
「布の染みです」
「他には」
「水を汲んだ人が、匂いを嫌がっていました」
「汝自身は」
「匂いを感じました。色は分かりませんでした」
「聞いたことは」
「下の居住区で、熱を出す人が増えたこと。子供もいることです」
アトラスは小さく頷いた。
「それでよい」
付け加えるように、続ける。
「分からぬものは、分からぬと記録しろ」
「はい」
「推測を、事実として扱うな」
ミオは記録の布を取った。
これまで記してきたのは、部屋の中のことだけだった。
食事。
水。
眠り。
熱。
傷。
扉。
灯り。
その端に、新しい区切りを作る。
布の濁り。
水の匂い。
熱を出した者。
子供がいる。
人数は不明。
時期は不明。
他の症状は不明。
「区画は」
アトラスが問う。
「下の方としか」
「水を汲む場所は」
「共同の洗濯場です」
「飲み水も同じか」
「分かりません」
「貯めた水か。流れる水か」
「桶へ汲まれていました。その前がどうなっているかは、見ていません」
「洗濯場は、上か。下か」
「物資を受け取る場所より下です」
「居住区よりは」
「少し上だと思います」
「思う理由は」
ミオは頭の中で道を辿った。
物資を受け取る場所。
下へ続く階段。
洗濯場。
その先の暗い通路。
「洗濯場から、さらに下へ水を運ぶ人を見ました」
「それは、見たことだ」
「はい」
ミオは記録へ足した。
アトラスの問いは続いた。
「水の量は、以前と同じか」
「洗濯場の桶は、前より少なかったと思います」
「比較できるか」
「一度に置かれている桶が、二つから一つになっていました」
「それは見たか」
「はい」
「いつから」
「今日です。前に行った時は二つありました」
「前とは」
ミオは記録を見た。
扉の回数。
灯りの変化。
物資を受け取った印。
「灯りが三度暗くなる前です」
アトラスの血色の瞳が、記録へ動いた。
「水路は見たか」
「いいえ」
「閉じられた道は」
「洗濯場へ行く途中で、前は開いていた横道に板が打たれていました」
「いつから」
「今日、初めて気づきました」
「何と書かれていた」
「何も」
「番は」
「いませんでした」
アトラスは答えず、長く黙った。
唇がわずかに開く。
次の問いを出そうとして、息だけが漏れた。
ミオはすぐに記録を置いた。
「アトラス様」
返答はない。
「少し休んでください」
アトラスの指が、敷布の上で動く。
まだ続けるつもりなのだと分かった。
「水をお持ちします」
右側の器を取る前に、告げる。
「器を支えます。口元へ運びます」
アトラスは首を動かさなかった。
血色の瞳が、一度だけ閉じる。
「……承知した」
ミオは器を持った。
唇へ触れる前で止める。
アトラスが自分から顔を寄せた。
一口だけ含む。
飲み込むまで待つ。
二口目を尋ねると、アトラスは小さく首を振った。
ミオは器を右へ戻した。
「続きは、後でも聞けます」
「時間が」
アトラスの声は、ほとんど息だった。
「分からないからこそです」
ミオは言った。
自分でも、少し強い言い方だと思った。
「今、倒れたら、何も聞けません」
アトラスはミオを見る。
しばらくして、視線が記録へ戻った。
「次に外へ出るのは」
「灯りが二度変わった後です」
「ならば」
息を継ぐ。
「その前に、確認することを分けろ」
ミオは新しい区切りを作った。
見れば分かること。
人へ尋ねなければ分からないこと。
水の色。
匂い。
桶の数。
熱を出した者の人数。
子供と成人。
吐いた者。
腹を痛めた者。
どの場所から水を汲むのか。
水を貯める場所は、いつ洗われたのか。
閉じられた横道は、どこへ通じていたのか。
「全部は、聞けないかもしれません」
「全部を求めてはいない」
アトラスは壁へ背を預けた。
「見たものを、見たまま」
「聞いたものを、聞いたまま」
ミオは記録の上へ指を置く。
「分からないものは、分からないと」
「記せ」
それだけ言うと、アトラスは目を閉じた。
眠ったのではない。
呼吸は浅く、指先には力が残っている。
それでも、もう問いを続けることはできなかった。
ミオは濁った布を、記録の隣へ置いた。
次に外へ出た時、何を見るか。
誰へ、何を尋ねるか。
それもまた、室内の物と同じように、決まった場所へ並べられた。
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24.己は命じぬ
次に外へ出た時、ミオは洗濯場の水を見た。
桶の底が見えにくい。
色がついているほどではない。
けれど、水の中に細かなものが漂っていた。
匂いも、前より強い。
古い水。
濡れた土。
長く洗われていない器の底。
洗濯場の女に、できるだけ普段と同じ声で尋ねた。
「この水は、どこから来るのですか」
女は怪訝そうにミオを見た。
「上の貯め水からだよ。前は古い水路も使っていたけど、今は閉じられてる」
「いつ閉じられたのですか」
「さあ。中央へ回す水が足りないとかで、少し前から」
「貯め水を洗ったのは」
「そんな暇、誰にもないよ」
女は濡れた布を絞った。
「下じゃ、熱を出す者が増えてる。腹を壊した子もいる。ここへ来られなくなった人もいるよ」
ミオの喉が固くなった。
「何人くらいですか」
「熱だけなら十人を超えてる。寝たままなのは、子供が三人。大人が……四人か、五人か」
「吐いた人は」
「いるよ。水じゃないかって皆言ってる」
それは、聞いたことだ。
ミオは頭の中で分けた。
見たもの。
聞いたもの。
分からないもの。
横道の板についても尋ねた。
女は、古い維持水路へ通じる道だと教えた。
以前は水路番が出入りしていた。
今は中央へ水を集めるため、使わなくなった。
「水路を開ける場所は、まだあるのですか」
「小さい口なら残ってるだろうけど、勝手に触ればどうなるか」
女は周囲を見た。
それ以上は話さなかった。
ミオも、聞かなかった。
蔵へ戻るまで、何度も後ろを振り返った。
誰かがついてきていないか。
洗濯場の女が自分を見ていないか。
物資を受け取る者が、不審に思っていないか。
扉の前へ着いた時には、手がうまく動かなかった。
「ミオです。戻りました」
声も震えていた。
返答を待ち、部屋へ入る。
扉を閉める。
いつもの場所へ水を置く。
薬を分ける。
濁った布を、記録の隣へ置く。
それから、聞いたことを一つずつ話した。
「水は、上の貯め水から来ています」
「見たか」
「いいえ。洗濯場の女から聞きました」
「続けろ」
「前は古い水路も使っていました。中央へ回す水を増やすため、今は閉じられています」
「いつから」
「少し前、としか」
「熱を出した者は」
「十人より多いそうです。寝たままなのは、子供が三人。成人が四人か五人」
「嘔吐は」
「あると聞きました。腹を痛めた子供もいます」
「貯め水は」
「長く洗われていません」
「見たか」
「いいえ」
「水そのものは」
「濁りを見ました。匂いも、前より強くなっています。桶は一つでした」
ミオは一度、息を整えた。
「閉じられた横道は、古い維持水路へ通じています。小さな開閉口は、まだ残っているそうです」
アトラスは、すぐには答えなかった。
記録を見る。
染みの残った布を見る。
右側の水を見る。
長い沈黙の後、問う。
「洗濯場より下に、貯め水があるか」
「分かりません」
「水を運ぶ者は、洗濯場から下へ向かった」
「はい。見ました」
「閉じた水路は、上から下へ通じる」
「そう聞きました」
「中央へ回す水を増やすために、閉じた」
「はい」
アトラスの指が、記録の布の上を動く。
水の量。
扉の回数。
物資の到着。
濁り。
熱。
閉じた道。
すべてを、一つずつ追っているように見えた。
「下の貯め水が」
声が途切れる。
「動いていない」
ミオは黙って待った。
「上からの流れを止められ」
一度、呼吸を継ぐ。
「使われた水だけが、残っている」
「だから、濁ったのですか」
「可能性が高い」
断定ではなかった。
アトラスはさらに問う。
「中央へ水を配る時刻は」
「分かりません」
「洗濯場の桶が替わるのは」
「物資を受け取る少し前です」
「余った水は」
「排水の溝へ流しています」
「どこへ」
「下へ続いています」
「旧水路の口は」
「横道の先です。水路番なら場所を知っていると」
アトラスは目を閉じた。
長い時間、何も言わなかった。
ミオは呼吸を確かめる。
浅い。
けれど途切れてはいない。
やがて、血色の瞳が開く。
「維持口を」
言葉が弱くなる。
「短い間だけ、開く」
「どのくらいですか」
「中央へ回る水へ、影響が出ぬ範囲だ」
「分かる人は」
「水路番ならば、流れを見られる」
アトラスは続ける。
「先に、下の底水を出せ」
「洗濯場の排水からですか」
「使えるなら」
まだ確定していない。
ミオは記録へ、条件を添えて書いた。
「濁った水が出た後で、上の水を通す」
「はい」
「清い水が入れば、口を閉じる」
「開けたままにはしないのですね」
「中央の分を奪うな」
アトラスの声が低くなる。
「余る時だけを使え」
ミオは頷いた。
「病人は」
「湿った場所から移す」
「どこへ」
「乾いた場所はあるか」
ミオは洗濯場の近くを思い出した。
物資の入っていない倉。
使われなくなった棚。
「古い物置があります。今はほとんど空です」
「床は」
「石ですが、洗濯場よりは乾いています」
「入口は」
「広くありません」
「寝たままの者を運べるか」
「分かりません」
「ならば、先に確かめろ」
アトラスは呼吸を整えた。
「移せぬ者を、無理に動かすな」
「はい」
「水を替える者と」
声がまた途切れる。
ミオは待つ。
「病人を移す者を、分けるな」
「同じ時に行うのですか」
「水だけ替えても、湿った場所へ戻せば繰り返す」
ミオは記録を見た。
維持口。
余る時間。
底水を出す。
上の水を入れる。
清くなれば閉じる。
中央の分は奪わない。
病人を乾いた物置へ。
運べない者は無理に動かさない。
「これを」
ミオは声を落とした。
「洗濯場の人へ伝えれば」
その先が続かなかった。
伝えることはできる。
あの女なら、水路番を知っているかもしれない。
けれど、それは命じられた仕事ではない。
無用な会話を避けろ。
逃走や抵抗を助けるな。
黄金の王の命令が、胸の中へ戻ってくる。
「それを伝えたら」
指が震えた。
記録の布を強く掴む。
「あの方に……」
アトラスはミオを見た。
「己(おれ)は」
息を継ぐ。
「汝へ命じない」
ミオは顔を上げた。
「でも、伝えなければ」
「それも、汝の裁定だ」
「人が、もっと病気になるかもしれません」
「可能性はある」
アトラスは否定しなかった。
「助からない人も」
「いる」
「それでも、命じないのですか」
血色の瞳は逸れなかった。
「危険を負うのは、汝だ」
言葉の間に、浅い呼吸が入る。
「己が決めることではない」
ミオは記録へ視線を落とした。
ここにいるだけなら、今までどおりでいられる。
水を運ぶ。
布を替える。
傷を処置する。
決められた報告だけをする。
少なくとも、自分から命令に背く必要はない。
伝えれば、誰かに聞かれるかもしれない。
洗濯場の女が話すかもしれない。
水路番が捕まるかもしれない。
自分も、連れていかれるかもしれない。
死にたくなかった。
罰を受けたくなかった。
「伝えぬと裁定しても」
アトラスが言った。
「己は、汝を責めない」
ミオの手は、まだ震えている。
怖さは少しも減らなかった。
アトラスは方法を説明しただけだった。
命令しない。
褒めない。
人の命を、ミオの責任へ置かない。
決める場所だけを、ミオへ返している。
長い沈黙が落ちた。
ミオは両手で、自分の震える指を押さえた。
それでも止まらない。
「……伝えます」
声も震えていた。
アトラスはすぐには答えなかった。
「洗濯場の人に」
ミオは続けた。
「私が、伝えると決めます」
アトラスの目が、記録へ向く。
「ならば」
浅く息を継ぐ。
「危険も、伝えろ。水路を開けすぎないこと、中央へ回る水を減らさぬこと」
「はい」
「濁りが出た後、清い水へ変わったことを確かめる」
「はい」
「病人を移す場所と、運べる者の数を先に調べる」
「はい」
「分からぬことを、分かったふりで埋めるな」
ミオは頷いた。
「事実だけを伝えます」
「承知した」
アトラスはそれ以上、何も言わなかった。
命令ではない。
だからこそ。
次に扉の外へ持ち出される言葉は、アトラスの裁定だけではなかった。
それを運ぶと決めた、ミオ自身の裁定でもあった。
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25.最初の水路
次に洗濯場へ向かった時、ミオは何度も後ろを振り返った。
物資を抱えた者が行き交っている。
桶を運ぶ者。
濡れた布を肩へ掛けた者。
下の居住区へ降りていく者。
誰も、ミオを見てはいない。
そう思っても、胸の奥の速さは変わらなかった。
洗濯場の女は、前と同じ場所にいた。
水の減った桶へ布を浸している。
ミオはその隣へ膝をついた。
自分の布を水へ入れる。
「この前のお話ですが」
声が小さくなった。
女が顔を上げる。
「熱を出している人の」
「何か分かったのかい」
ミオは周囲を見た。
桶の音。
水を汲む音。
遠くで誰かが咳をしている。
近くにいる者は、それぞれの作業をしていた。
「古い水路に、小さな口が残っていると言っていましたね」
女の手が止まった。
「言ったけど」
「水路番の方は、まだその場所を知っていますか」
「知っているだろうね」
女の声も低くなる。
「でも、閉じろと言われたものだよ」
ミオの指が、濡れた布を強く掴んだ。
今なら、やめられる。
ただの世間話だったことにできる。
アトラスは責めないと言った。
伝えなくても、それはミオの裁定だと。
「中央へ水を送る前に、余る時間があるそうです」
女の眉が動いた。
「誰から聞いたんだい」
ミオは答えられなかった。
嘘は言いたくない。
けれど、名を出すこともできない。
「名前は、言えません」
女の顔が強張る。
「そんな話を信じろっていうのかい」
「信じてほしいとは、言いません」
ミオは震える声を押さえた。
「水路を知っている方に、確かめてほしいんです」
「何を」
「小さな口を、短い間だけ開けられるか」
一度、言葉が止まる。
何度も記録を読み返した。
伝える順も決めてきた。
「最初に、下へ溜まった濁った水を出します。それから、上の水を通す。中央へ回る水を減らさない時間だけです。清い水へ変わったら、すぐに閉じます」
女は、ミオを見ていた。
「そんな都合よくいくものかね」
「分かりません」
ミオは答えた。
「私は水路を見ていません」
「なら」
「だから、水路を知る方に確かめてほしいんです」
声が震えた。
自分が何を言っているのか、急に恐ろしくなる。
命じられていないこと。
聞かれれば説明できないこと。
「中央から水を奪ってはいけません」
ミオは続けた。
「別の場所の人を困らせて、下の人だけを助ける方法では駄目です」
女の目が細くなる。
「随分と細かいね」
「開ける時間も、流れも、分かる人が決めてください」
「お前が決めるんじゃないのかい」
「はい」
ミオは濡れた手を握った。
「私は、聞いたことを伝えているだけです」
女はしばらく黙った。
周囲を見回す。
「病人は」
「水を替える間に、乾いた物置へ移せるか確かめてください」
「動かせない人もいる」
「無理に運んではいけません」
「誰がそんなことを」
女の問いは、途中で止まった。
ミオの顔を見て、何かを察したのかもしれない。
あるいは、何も分からなかったのかもしれない。
「水路番には、話す」
やがて、女が言った。
「でも、やると決めるのはあの人たちだよ」
「はい」
「駄目だと言われたら、それまでだ」
「はい」
ミオは頷いた。
それだけでも、喉の奥が痛くなるほど息を詰めていたことに気づいた。
女は布を絞り、立ち上がった。
「今日のことは、ここで言い触らすんじゃないよ」
「分かっています」
「本当に分かってるのかい」
ミオは答えられなかった。
分かっている。
見つかった時、何をされるか分からない。
それでも、もう言葉は渡った。
*
女はその日のうちに、古い水路を知る男を探した。
一人ではなかった。
かつて維持口の清掃をしていた者。
流れの高さを見ていた者。
閉じられる前の水量を覚えている者。
三人が、板を打たれた横道の前に集まった。
誰も、言葉の発信者を知らない。
「中央へ送る前に余る水なんて、本当にあるのか」
「毎回ではない」
年長の水路番が答えた。
「貯め水が満ちた直後なら、少しだけ流れが戻る」
「口を開けば、ばれる」
「長く開けばな」
「下の水を入れ替えられるほどか」
「分からん」
水路番は、古い壁へ耳を当てた。
石の向こうを、水が通っている。
以前より細い。
それでも、完全には止まっていない。
「中央へ回る量を減らせば、すぐ分かる」
別の男が言った。
「だから、減らさぬ範囲で止めろと」
女はミオから聞いた言葉を繰り返した。
「濁りが出て、清い水に変わったら閉じる」
「誰が言った」
「知らないよ」
「知らない者の言葉で、水路を触るのか」
「お前たちが見て、無理ならやめればいい」
女は言い返した。
「言われたからやるんじゃない。できるかどうか、お前たちが決めるんだろう」
男たちは黙った。
壁の中の流れを聞く。
古い水路の高さを思い出す。
中央へ送られる水の量。
下へ溜まっている水。
開閉口の大きさ。
「口を見るだけだ」
年長の水路番が言った。
板を外す。
暗い横道へ入る。
小さな開閉口は、まだ残っていた。
錆びている。
だが、完全には固まっていない。
水路番は手をかけた。
「今は開けるな」
「なぜだ」
「上の流れが細い」
しばらく待った。
石の向こうの音が、少しずつ変わる。
高くなる。
「今だ」
二人がかりで、口を動かした。
最初に出てきた水は、黒ずんでいた。
重い匂いがした。
泥だけではない。
長く閉じた器の底に溜まる、腐った水の匂い。
「閉じるか」
「まだだ」
濁りが流れる。
底に溜まっていたものが、排水の溝へ吐き出されていく。
やがて色が薄くなった。
冷たい水が混じる。
水路番は手を入れ、匂いを確かめた。
「上の水だ」
「中央は」
別の者が、上流側の流れを見に走る。
戻ってきて、首を振った。
「変わっていない」
「なら、もう少し」
病人を運ぶ者たちは、空いた物置を掃いていた。
寝たままの者を無理に起こさない。
歩ける者から移す。
子供の側にいた母親を、引き離さない。
入口を塞がない。
水が清くなった頃、維持口は再び閉じられた。
誰も歓声を上げなかった。
うまくいったのかは、まだ分からない。
ただ。
閉じられていた水が、短い間だけ動いた。
---
26.手順は続く
結果は、すぐには戻らなかった。
ミオは蔵へ帰った。
「ミオです。戻りました」
声を置く。
返答を待つ。
扉を開ける。
閉じることを告げる。
水を右側へ置く。
薬を種類ごとに分ける。
新しい布と使用済みの布を離す。
何も変わらないように見える部屋で、決められた手順を一つずつ続けた。
「腕を見せてもらえますか」
アトラスが返答するまで待つ。
「これから傷を確認します」
布を外す。
「水で拭きます」
触れる。
身体が強張れば、手を止める。
「終わったら、すぐに離します」
薬を塗り、布を巻き直す。
「終わりました」
アトラスの腕が戻る。
食事を運ぶ。
量を記録する。
眠った時間を数える。
扉が開いた回数を残す。
灯りの変化を記す。
そこへ、新しい印が増えた。
洗濯場の水。
布の乾き方。
物資が届いた時。
配られたものの種類。
外で聞こえた咳。
下へ連れていかれた者の数。
「咳は」
アトラスが問う。
「三人から聞こえました」
「見たか」
「一人は見ました。二人は壁の向こうです」
「分けろ」
ミオは印を分けた。
見た一人。
聞いた二人。
「運ばれた者は」
「四人です」
「歩いていたか」
「二人は歩いていました。一人は支えられていました。もう一人は、布に乗せられていました」
「行き先は」
「分かりません」
「なら、そのまま記せ」
アトラスは問いを続ける。
長く話せば、声は細くなる。
途中で息が止まり、視線が記録から外れることもあった。
そのたび、ミオは水を勧めた。
休むよう言った。
「次に、何をすればいいですか」
ある時、ミオが尋ねると、アトラスは濁った布を見た。
「待て」
「はい」
「結果が戻るまで」
一度、呼吸を継ぐ。
「同じものを、同じように記せ」
派手なことは何も起きなかった。
水路の話を運んだ後も、傷の処置は必要だった。
食事は一度に取れない。
扉の音に、アトラスの身体は固まる。
英雄王が巡察へ来た時には、ミオとの間で戻っていた言葉も失われた。
ギルガメッシュは食事量と傷を確認し、記録の増えた布へ目をやった。
「随分と細かくなったものだ」
ミオは顔を伏せた。
「体調の変化を、見落とさないためです」
嘘ではない。
外の水も、布も、アトラスの傷へ触れる。
「管理は続けよ」
「はい」
ギルガメッシュが去る。
扉が閉じる。
ミオはすぐに動かなかった。
アトラスの呼吸が戻るまで、触れずに待った。
問いを重ねない。
水を飲ませようとしない。
次の処置へ移らない。
やがて、血色の瞳が少しだけ上がる。
「ミオ」
「はい」
「扉は」
「一度です」
「外の足音は」
「お一人でした」
アトラスは目を閉じた。
ミオはさらに待った。
手順は、外へ言葉を運んだ後も続いた。
結果が戻らなくても。
誰かが水路を開いたか分からなくても。
明日、自分がここへ戻れるか分からなくても。
同じ場所へ水を置き。
見たことと聞いたことを分け。
名前を呼び。
返答を待った。
---
27.結果が戻る
次の物資交換で、洗濯場の女がミオの袖を引いた。
強い力ではない。
それでも、ミオの身体は跳ねた。
「こっちへ」
水桶の影へ寄せられる。
女は周囲を見た。
「口は開いた」
ミオは息を止めた。
「最初は、ひどく濁った水が出たよ」
女の声は低い。
「その後で、上の水が入った。中央の方は、気づいてないみたいだ」
「病人は」
「物置へ移した。全員じゃない」
「動かせない方は」
「そのままだよ。無理に運ぶなと言われたから」
誰に、と聞かれなかったことに、ミオは気づいた。
女も、もう尋ねなかった。
「新しく熱を出す者は減った」
ミオの肩から、少しだけ力が抜ける。
だが、女の顔は明るくならない。
「前から重かった者は、駄目だった」
「何人ですか」
「五人」
音が遠くなったように感じた。
水の音。
布を叩く音。
誰かの咳。
すべてが、少し離れる。
「水路番が、次を知りたがってる」
女は続けた。
「口は毎日開けるのか。病人はずっと一緒でいいのか。水だけ替えればいいのか」
ミオは頷いた。
「聞いてきます」
口にした途端、胸が締まる。
また運ぶ。
また命令に背く。
それでも言葉は、先に出ていた。
蔵へ戻るまで、ミオは五人という数を何度も繰り返した。
忘れないために。
間違えないために。
「ミオです。戻りました」
扉の内側から返答がある。
部屋へ入る。
水を置く。
薬を分ける。
記録の前へ座る。
「報告します」
アトラスの血色の瞳が、ミオへ向く。
「維持口は開きました。濁った水が先に出ました。その後、上の水が入りました。中央へ回る水は、減っていないそうです。病人は、乾いた物置へ移しました。動かせない方は、そのままです」
アトラスは一つずつ聞いていた。
「新たに熱を出す者は減りました」
短い沈黙。
「死者は」
最初に問われたのは、それだった。
ミオは記録へ視線を落とした。
「……五人です」
「名は」
答えられなかった。
人数は聞いた。
死んだ者がいると聞いた。
けれど、名前は聞かなかった。
「分かりません」
ミオの声が小さくなる。
「人数しか、聞いていませんでした」
アトラスは黙った。
責める声はない。
ただ、長い沈黙があった。
「数だけで済ませるな」
掠れた声が落ちる。
「次に聞けるなら」
呼吸を継ぐ。
「名を記録しろ」
「はい」
ミオは五本の線を引いた。
これまでの記録と同じ細い線。
けれど、その線の向こうに誰がいたのかを、二人とも知らない。
「水路番の方が、次を知りたがっています」
「何を」
「口は毎日開けるのか、病人を同じ場所へ集め続けてよいのか、水だけ替えればよいのか」
アトラスの目が、五本の線から離れる。
「その問いを」
少し間を置く。
「そのまま記せ」
ミオは書き足した。
五人。
名は不明。
次はどうすればいい。
---
28.次はどうすれば
水路を毎日開き続ければ、いずれ中央側の流れへ変化が出る。
アトラスは、そう説明した。
「同じ時刻に開けば」
言葉の間へ呼吸が入る。
「見つかる」
「では、日を変えますか」
「日だけでは足りない」
アトラスの指が、扉と灯りの記録を追う。
「上の流れが増えた時だけにせよ」
「その時を、水路番の方が見ます」
「開ける長さも、同じにするな」
ミオは記録する。
「病人は」
「一所へ集め続けるな」
「なぜですか」
「症状が同じとは限らない」
熱だけの者。
腹を痛めた者。
吐いている者。
水を飲める者。
飲めない者。
アトラスは一つずつ分けた。
「使う器も分けろ」
「病人ごとに、ですか」
「少なくとも」
声が途切れる。
ミオは待つ。
「清い水を入れる器と、汚れたものを捨てる器を混ぜるな」
「はい」
「子供と、衰弱した者へ先に水を回せ」
「動けない人から、ですか」
「運べる水は、先に届かぬ者へ」
アトラスは壁へ背を預け直した。
息が浅い。
「名を記録しろ」
「熱を出した方の」
「名と、いた場所を」
「はい」
「重い者を、無理に動かすな」
「残りたいと言った人も」
「力で運ぶな」
ミオの手が止まる。
以前、自分へ向けて言われた言葉を思い出す。
汝が嫌なら、断れ。
汝の身体は、汝のものだ。
今、その境界が、顔も知らない者たちへ向けられている。
「でも、危ない場所に残ると言われたら」
ミオは尋ねた。
「危険を告げろ」
「それでも拒まれたら」
「その者の裁定だ」
「助けるためでも」
「保護を理由に、身体を奪うな」
短い言葉だった。
言い終えると、アトラスは目を閉じた。
ミオは記録を読み返す。
維持口は、上の水が増えた時だけ。
同じ時刻、同じ長さにしない。
病人を症状ごとに分ける。
清い水と汚れた水の器を分ける。
子供と衰弱者を先にする。
名と場所を記す。
重い者を無理に動かさない。
拒む者を力で運ばない。
「これを、伝えます」
ミオが言うと、アトラスの目が開いた。
「汝が決めたか」
「はい」
怖かった。
前よりも、言葉は増えている。
聞く者も増える。
一度だけの水路ではない。
続けるための手順になる。
それでも。
「水路番の方が、次を尋ねました」
ミオは言った。
「答えを待っています」
アトラスはしばらくミオを見た。
「ならば」
浅く息を継ぐ。
「事実と、危険を伝えろ」
次に外へ出た時、ミオは五人の名も尋ねた。
洗濯場の女は、一人ずつ教えた。
名前。
いた場所。
子供か、成人か。
いつから熱を出していたか。
ミオは何度も繰り返した。
間違えないように。
布の端へ、五つの名を記した。
それから、水路番へ次の手順が渡った。
姿も知らない者の命令としてではない。
水を知る者が読み。
病人を看る者が確かめ。
自分たちにできるかを考えるための材料として。
最初の水路は、一度動いて終わらなかった。
結果が戻り。
問いが届き。
次の手順が、外へ出ていった。
---
29.選別の時刻
水の話が続いている間に、別の知らせが入った。
「下へ、巡回が来るそうです」
ミオは扉を閉めてから言った。
声が震えていた。
「何のためだ」
「中央へ移す人を、選ぶためです」
指定された時までに、中央の集積場所へ出る。
そこで名と身体を確認される。
必要と認められた者は残される。
それ以外は、保護の外へ置かれる。
下の居住区に、その知らせが届いた。
「病人は」
アトラスが問う。
「歩けない人もいます」
「高齢者は」
「います」
「子供は」
「います」
「時刻は」
「灯りが次に暗くなってから、二度目に明るくなるまでです」
アトラスは即答しなかった。
ミオは待つ。
「逃がせますか」
問いが先に出た。
アトラスの血色の瞳が、ミオへ向く。
「何人だ」
「分かりません」
「巡回は、どこから入る」
「分かりません」
「下から地上へ出る道は」
「洗濯場の階段しか知りません」
「閉じた通路は」
「古い水路の横道があります」
「荷車は」
「物資を運ぶものが二台あります」
「自力で歩けぬ者は」
ミオは答えられなかった。
アトラスは責めない。
問いを分ける。
巡回の時刻。
入ってくる道。
出ていく道。
封じられた通路。
空の荷車。
寝たままの者。
支えがあれば歩ける者。
子供の数。
子供を世話している者。
残ると答える者。
巡回が確認するもの。
人数なのか。
名なのか。
部屋そのものなのか。
「全部、聞けるか分かりません」
「見たものと」
アトラスが言う。
「聞いたものだけでよい」
次の物資交換で、ミオは尋ねた。
一度では足りなかった。
洗濯場の女から、水路番へ。
水路番から、荷を運ぶ者へ。
荷を運ぶ者から、下の区画へ。
返答が戻るまでに、灯りが一度暗くなった。
巡回は二つの組に分かれる。
上の階段から入り、下の通路へ抜ける。
各部屋の人数を確かめる。
集積場所へ出た者は名を記される。
部屋に残った者は、後から確認される。
寝たままの者が七人。
支えがなければ歩けない者が五人。
幼い子供が九人。
その子供を世話している者が六人。
古い避難路は途中で崩れている。
人一人なら通れる場所が残っている。
空の荷車は二台。
残ると言っている者もいる。
「物資を配っていた女が、家族を置いていけないと」
ミオは報告した。
「歩けない父親と残るそうです」
「危険は伝えたか」
「はい」
「それでもか」
「はい」
アトラスは目を閉じた。
長い沈黙。
「動けぬ者から、先に移せ」
やがて、声がした。
「子供は」
「世話をする者と分けるな」
「荷車を使いますか」
「空で戻る時を使え」
「一度に全員を」
「集めるな」
巡回に見つかりやすくなる。
一か所が塞がれれば、全員が動けなくなる。
「巡回が通った場所へ」
アトラスは息を継いだ。
「後から移せ」
先に逃げるのではない。
巡回の流れを見る。
通過した区画へ、別の区画から少しずつ動く。
空いた物資運搬の道を使う。
「残ると言った方は」
「力で連れ出すな」
「危険でも」
「告げた後に、本人が決めたなら」
声が細くなる。
「その裁定を奪うな」
ミオは記録した。
「移る人の名を」
「残る者もだ」
「両方ですか」
「両方だ」
アトラスは言った。
「誰が動き」
一度、呼吸が切れる。
「誰が残ったかを、消すな」
「水や食べ物は」
「他の避難者から奪うな」
「足りなければ」
「廃棄される物を探せ」
「なければ」
「分けられる者が、自分で決めろ」
アトラスは無制限に助けられるとは言わなかった。
物が足りないことも。
道が塞がることも。
全員を運べないことも、否定しなかった。
ただ、誰かを救うために別の弱い者から奪う方法だけは退けた。
「これを運びます」
ミオは言った。
アトラスはすぐには返答しない。
「ミオ」
「はい」
「危険は」
「分かっています」
声は震えていた。
「死にたくありません」
初めて、はっきりと言った。
アトラスの目がミオを見た。
「承知した」
「それでも」
ミオは記録を抱えた。
「伝えます」
---
30.選別しない王
言葉は、ミオから洗濯場の女へ渡った。
女から水路番へ。
水路番から、古い道を知る者へ。
空の荷車を引く者へ。
病人の側にいる者へ。
誰も、アトラスの姿を見ていない。
名前を知る者も少なかった。
「蔵の奥にいる女らしい」
「黄金の王の花嫁だろう」
「水路のことを知る者じゃないのか」
言葉の出所は、形を変えた。
だが、伝えられた内容は残った。
先に、動けない者を。
子供と世話をする者を分けない。
荷車は、空で戻る時だけ使う。
一か所へ集めない。
巡回が通り過ぎた場所へ動く。
残る者を、力で連れ出さない。
移る者と残る者、両方の名を残す。
他の避難者から物を奪わない。
聞いた者たちは、すべてをそのまま信じたわけではなかった。
「巡回の後へ動けば、戻ってくるかもしれない」
「なら、見張りを置く」
「荷車は音がする」
「一台ずつにする」
「崩れた道は、寝た者を運べない」
「支えがあれば歩ける者だけを先に通す」
「残ると言ってる人を、本当に置いていくのか」
「本人がそう言った」
「死ぬかもしれない」
「それでも、縛って運べとは言われていない」
自分たちが知る道と照らした。
巡回の速さを見た。
荷車の音を確かめた。
運べる人数を数えた。
使えると判断したものだけを採った。
最初に動いたのは、寝たままの者だった。
荷車へ載せる前に、行き先を告げる。
意識のある者には、移るかどうかを尋ねる。
返答できない者は、家族や世話をする者と共に動かす。
幼い子供の手を、母親から離さない。
巡回が通った区画へ、二人。
次の区画へ、三人。
荷車は空の荷を戻すふりをして動いた。
残ると決めた者の名も、布へ書かれた。
物資を配っていた女は、父親の側へ残った。
誰も、力で引き離さなかった。
巡回が戻る前に、人の位置は変わっていた。
全員ではない。
間に合わなかった者もいる。
道を通れなかった者もいる。
それでも、動けなかった者の一部が、別の場所へ移った。
名は残った。
水路番の一人が、書かれた布を見た。
移った者。
残った者。
病人。
子供。
世話をする者。
「花嫁が、こんなものを作るのか」
誰かが言った。
「花嫁だから、やってるんじゃないのか」
別の者が答える。
「黄金の王に頼まれて」
「自分のための物を、一つでも求めたか」
誰も答えなかった。
水も。
食べ物も。
逃げ道も。
蔵の奥へ運べとは言われていない。
「誰を残すかも、決めていない」
「動けない者を先にした」
「嫌だと言った者を、無理に運ばなかった」
「死んだ者の名まで聞いてきた」
短い沈黙が落ちた。
「それは」
年長の水路番が、布を畳んだ。
「花嫁ではなく、王ではないのか」
その言葉を、誰もすぐには否定しなかった。
やがて、下の区画で小さな噂が生まれた。
黄金の王の蔵には、もう一人の王がいる。
姿は見えない。
名も、よく知られていない。
ただ。
あの王は、我々を選別しない。
---
31.最初の誤差
英雄王は、死者の数を把握していた。
どの区画へ、どれほどの水を残すか。
何人を中央へ集めるか。
どの道を閉じるか。
どの程度の損耗を許容するか。
すべて、記録の中にある。
下の区画は、いずれ切り離す予定だった。
中央へ資源を集めるために、古い維持水路を閉じた。
移動できる者は選別の場へ出る。
動けぬ者、価値を示せぬ者、秩序へ加わらぬ者は残る。
起きる結果も計算されていた。
だが、実際の数字はわずかに異なった。
病死者が少ない。
閉じた維持口が、短い時間だけ使われている。
中央の配給量は減っていない。
横流しではない。
水は奪われず、余る時間だけが使われている。
選別で確保されるはずだった者が、複数の場所から消えた。
無秩序に逃げたのではない。
歩けぬ者が先に移されている。
子供は世話をする者と共にいる。
残った者の名まで記されている。
一つの場所だけではなかった。
異なる区画に、同じ形の記録が生まれている。
ギルガメッシュは報告を並べた。
盗みなら、どこかで物が減る。
下級の者の独断なら、方法はその場ごとに異なる。
水路番の横流しなら、病人の移動や名の記録までは揃わない。
既存の抵抗ならば、まず武器と食料を集める。
だが、現れているものは違った。
全体の量をほとんど変えず。
損耗だけを減らし。
離れた場所へ、同じ基準を置いている。
側仕えを通じた経路。
その可能性も、一度は置いた。
そして、外した。
あの女は、恐怖の下で命令へ従う。
同情することはある。
だが、それを理由に、自ら危険な逸脱へ踏み出す者ではなかった。
だから選んだ。
配置した時点で、その鑑定に誤りはない。
ギルガメッシュは、自らの目を疑わなかった。
女の出入りは把握している。
使った物資。
食事。
薬。
処置の結果。
アトラスの熱と傷。
定期の報告。
すべて記録させている。
ただし、部屋の中の言葉を一つ残らず拾ってはいなかった。
あの女へ何の余白も与えなければ、花嫁の身体は再び閉じる。
接触への恐怖は強まり、食事は減り、処置は進まない。
側仕えを置いた意味そのものが失われる。
管理のために残した余白。
その内側で何が生まれたか。
ギルガメッシュは、改めて数字を見る。
誰かが、場所ごとに助けているのではない。
一つの基準が。
複数の場所を裁定している。
---
32.英雄王の検算
ギルガメッシュは、異常をすぐには止めなかった。
止めれば、表に出ている経路だけが消える。
どこから裁定が出ているかを確かめなければ、別の道が残る。
一区画だけ、配給の時刻を早めた。
一つの維持口を、別の封印で閉じた。
巡回の道を変えた。
物資の容器に、新しい印をつけた。
選別の時刻を、わずかに前へ動かした。
一つずつなら、関係のない変更に見える。
配給を扱う者には、水路の変更は分からない。
巡回する者には、物資容器の印は関係ない。
水路番には、選別の時刻は知らされない。
ギルガメッシュは待った。
最初に変わったのは、避難の順だった。
配給が早まった区画では、それに合わせて荷車の動く時間も変わった。
閉じた維持口の代わりに、洗濯場から続く排水の道が使われた。
巡回の道が変わる前に、歩けない者だけが先に移された。
新しい印のついた容器は、開けられず、別に保管された。
監査が強まった可能性を見ている。
前倒しされた選別にも、別の区画で同じ動きが起きた。
危険を先に知らせる。
自力で動けない者を先にする。
移動を強制しない。
名を残す。
結果を数える。
一つの弱い者を救うため、別の弱い者から奪わない。
すべてに、同じ線が通っている。
これは慈善ではない。
反射的な抵抗でもない。
統治である。
ギルガメッシュは、変化の時刻を並べた。
側仕えが物資を受け取る。
外の対応が変わる。
側仕えが戻る。
次の対応だけが、より正確になる。
一度外した可能性が、記録の上へ戻る。
過去の選定は誤っていない。
配置した時点で、あの女は命令から逸脱しなかった。
ならば。
選定の後で、判断の条件が変わった。
誰が変えたか。
答えは、まだ口にする必要すらなかった。
蔵の最深部にいる。
身体を奪い。
鎖へつなぎ。
王としての実効を閉じ込めたはずの女。
その裁定が。
側仕え一人の判断を変え。
扉の外へ出た。
---
33.検算されている
「配給が、予定より早く来ました」
ミオは記録を広げた。
「水路の口も、前とは違うもので閉じられています」
アトラスは黙っている。
「巡回が、一刻早まりました。前に使えた道には、人が立っています。物資の容器も、一つだけ違う印でした」
問いは、すぐには返ってこなかった。
アトラスの血色の瞳が、記録の上を動く。
配給。
水路。
巡回。
道。
容器。
互いに離れた場所で起きた変化。
「偶然でしょうか」
ミオが尋ねる。
アトラスは答えない。
長い沈黙の後。
「検算されている」
掠れた声が落ちた。
「……検算」
「異常へ」
一度、呼吸を継ぐ。
「誰が応じるかを、見ている」
ミオの背が冷えた。
「私たちを、ですか」
「経路を」
「でも、変わった場所は、全部違います」
「違うからだ」
アトラスの指が、配給の印へ触れる。
「一つずつなら、関係は見えぬ」
次に、水路。
巡回。
容器。
「すべてへ応じれば」
声が細くなる。
「一つの場所から読んでいると、分かる」
ミオは記録を見た。
自分が外へ出た後に、対応が変わる。
戻って報告した後に、さらに変わる。
「次も、同じように動けば」
「経路を絞られる」
ミオの手が震えた。
記録の布が、指の間で鳴る。
「では、もう外へ出ない方が」
アトラスは即答しなかった。
ミオを見る。
扉を見る。
外から持ち込まれた記録を見る。
「己は」
呼吸を整える。
「汝へ、続けろとは命じぬ」
「でも」
「止めろとも、命じない」
選択が、またミオの前へ返された。
「隠し続けることは」
アトラスの声が途切れる。
「できない」
英雄王の目を、低く見積もってはいない。
ミオにも分かった。
偶然に見つかるのではない。
自分が言い間違えたからでもない。
外で水が動いた。
死者が減った。
人が移った。
その変化を、黄金の王が読んでいる。
「見つかったら」
ミオは尋ねた。
「すべて、止められますか」
アトラスは記録を見た。
「今のままなら」
側仕え一人が聞く。
側仕え一人が運ぶ。
側仕え一人が戻る。
その一人を失えば、次の情報は入らない。
次の返答も出ていかない。
「では」
ミオの喉が鳴る。
「私は、どうすれば」
アトラスは答えなかった。
決める場所だけが、また、ミオの前へ返された。
---
34.返答を待つな
次に灯りが変わるまで、ミオはほとんど眠れなかった。
外へ出れば、経路が絞られる。
出なければ、下の人々は次の変化を知らない。
黄金の王が、自分を見ている気がした。
扉の向こうから。
物資の容器から。
灯りの変化から。
どこにも姿はないのに、逃げる場所がなかった。
死にたくない。
その気持ちは変わらない。
アトラスへ認められたいからでもない。
勇敢になったわけでもない。
ただ。
水路番たちは、次の返答を待っている。
病人の名が、記録にある。
移った者と残った者もいる。
自分が運ばなければ、誰も動けないままに戻る。
その形だけは、違うと思った。
「……外へ行きます」
ミオは言った。
声は掠れていた。
アトラスが顔を上げる。
「私が、行くと決めます」
賞賛はなかった。
よく決めたとも。
立派だとも言われない。
アトラスは危険を減らさずに告げた。
「次は、戻れぬ可能性がある」
ミオの指が震える。
「はい」
「外で問われる可能性もある」
「はい」
「運んだ者も、危険へ置く」
「……はい」
「それでもか」
ミオはすぐに答えられなかった。
息を吸う。
吐く。
もう一度。
「それでも、行きます」
アトラスは目を閉じた。
短く呼吸を整える。
「ならば」
目を開く。
「以後、すべてを己へ戻すな」
「どういうことですか」
「個々の問いへ」
声の間が長くなる。
「己の返答だけを、待たせるな」
ミオは戸惑った。
「でも、あなたが決めなければ」
「危険は、先に知らせろ」
一つ。
「動けぬ者を、先にせよ」
二つ。
「子供と、介助する者を分けるな」
三つ。
「拒む者を、力で運ぶな」
アトラスの呼吸が浅くなる。
ミオは止めようとした。
「少し休んで」
「記せ」
低い声だった。
ミオは布を取る。
「一つの区画を救うため」
アトラスは続けた。
「別の区画から奪うな」
「名を記録しろ」
「結果を数えろ」
最後の言葉を出すまでに、長い時間がかかった。
「己の返答だけを、待つな」
ミオは書かれた言葉を見る。
危険を知らせる。
動けない者を先にする。
子供と世話をする者を分けない。
拒む者を力で運ばない。
別の弱い者から奪わない。
名を残す。
結果を数える。
アトラスの返答だけを待たない。
「あなたの判断なしで」
ミオは顔を上げた。
「決めていいのですか」
血色の瞳が、まっすぐに返る。
「判断は」
呼吸が一度、止まる。
それでも、続いた。
「汝らのものだ」
ミオは記録を抱えた。
これまで運んでいたのは、答えだった。
どの口を開くか。
誰を先に動かすか。
次に何をするか。
今度は違う。
次の問いへ、自分たちで答えるためのものを運ぶ。
「伝えます」
ミオは言った。
「あなたの命令としてではなく」
アトラスは訂正しなかった。
「自分たちで決めるために」
「承知した」
扉の外へ出る前、ミオの手は震えていた。
留め金を外すことさえ、うまくできない。
それでも、開いた。
---
35.自分たちでやった
次の報告は、ミオが新しい指示を持っていく前に始まった。
洗濯場の女が、物資の陰で言った。
「巡回の道がまた変わった」
ミオの身体が固くなる。
「でも、今度は先に動いたよ」
「誰が決めたのですか」
「皆でだよ」
動けない者を先にする。
その言葉を覚えていた者がいた。
巡回の足音を聞いた時、寝た者から移した。
残ると言った者には、危険を告げた。
それでも残ると答えた者を、縛らなかった。
他の区画の食べ物には手をつけない。
廃棄すると印をつけられた古い貯蔵品を探した。
食べられる部分だけを分けた。
移った者。
残った者。
途中ではぐれた者。
すべての名を残した。
一枚の布へ集めなかった。
水路番が一部を持つ。
洗濯場の女が一部を覚える。
病人を看る者が別の記録を持つ。
一つを奪われても、全部は消えない。
「どうして、分けたのですか」
ミオが尋ねる。
「一か所に置けば、なくなった時に困るだろう」
女は当然のように答えた。
アトラスは、そこまで命じていない。
「避難した後の人数も、別の道で伝えた」
「私へではなく?」
「お前が来なかった時にも、分かるように」
女はミオを見る。
「次の命令を待たずに、自分たちで決めたと伝えてくれ」
ミオはその言葉を胸の中で繰り返した。
次の命令を待たずに。
自分たちで。
ミオは蔵へ戻る。
いつもの手順を続ける。
扉を閉める。
水を置く。
薬を分ける。
アトラスの返答を待つ。
それから報告した。
「次の命令を待たずに、あの人たちが決めました」
アトラスの目が上がる。
「巡回が変わった時、動けない方を先に移しました。残る方の意思も確認しました。別の区画の物は奪わず、捨てられる予定のものを使いました」
ミオは、確認するように続けた。
「移った方と残った方の名も記録しました。名は、一か所へ集めていません……あなたに、そう伝えてほしいと」
アトラスは長く黙った。
ミオは、何かを間違えたのかと思った。
やがて。
「己の命令ではない」
静かな訂正が落ちた。
「でも、あなたが渡した言葉を」
「言葉を採ったのは、彼らだ」
一度、呼吸を継ぐ。
「どう使うかを決めたのも」
アトラスの目が、記録へ向く。
「彼らの裁定だ」
ミオは布へそのまま記した。
誰かに従った、ではなく。
自分たちでやった。
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36.別系統の王
報告者を下がらせた後。
ギルガメッシュは、一人で記録を見ていた。
変更への応答。
側仕えの出入りとの時間差。
水路の使い方。
病人の分け方。
避難の順。
名の残し方。
本人の拒否を無効にしないこと。
物を奪わず、余るものだけを使うこと。
結果を戻し、次へ反映すること。
そして。
新しい指示を待たず、外の者たちが同じ原則で動き始めたこと。
異なる場所で起きた変化が、一つへ収束する。
水路。
配給。
避難路。
名前。
災害下の物資。
そのすべてを、一続きで扱える者。
発信源は、蔵の最深部にある。
ギルガメッシュは、かつて自らが投げた問いを覚えていた。
ならば貴様の裁定は、何を動かした?
答えは、言葉では返らなかった。
死者が減った。
水が動いた。
人が移った。
名が残った。
選別から外した者が生き延びた。
複数の人間が、同じ原則を使って自分で決め始めた。
英雄王は、鑑定の結果を否定しなかった。
誰もいない部屋で。
低く呟く。
「我が蔵の底で、我の領域を裁定したか、大洋王」
短い沈黙。
「……よい」
反抗したことを褒めたのではない。
命令に背いたことでもない。
恐怖と損壊の中で、王としての実効を再び現実へ出力した。
それだけを、真作として認めた。
同時に。
すべてを消すには、すでに遅いことも分かっていた。
原則は複数の者へ渡っている。
名の記録は分かれている。
水路を知る者は一人ではない。
避難の道も、噂も残る。
側仕えを切っても、外の動きが完全に止まることはない。
だが。
最新の情報を、蔵の底へ運ぶ者。
細かな状況を伝える者。
アトラスの修正を外へ返す者。
その役割は、まだ一人へ大きく依存している。
そこを切れば。
網を消せずとも、流れは鈍る。
外の者への威しにもなる。
自分以外の裁定を採った者が、何を失うかを示せる。
そして。
その喪失を、アトラスの抵抗へ結びつけることもできる。
ギルガメッシュは顔を上げた。
呼び出した者へ命じる。
「この女を連れてこい」
名は使わなかった。
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37.回収不能地点
「外の人たちは」
ミオは、記録を両手で持っていた。
「もう、アトラス様の返答だけを待っていません」
声は震えている。
けれど、報告は止めなかった。
「水路番以外にも、道を知る人がいます。名は、一人だけが持っているのではありません。別の場所でも、同じ言葉が使われています」
危険を先に知らせる。
動けない者を先にする。
拒む者を力で運ばない。
他の弱い者から奪わない。
名を残す。
結果を数える。
「『選別しない王』という言葉も」
ミオは一度、息を継いだ。
「私の知らない場所まで、伝わっているそうです」
アトラスは黙って聞いている。
呼吸は浅い。
血色の瞳は、ミオの顔から逸れなかった。
「これで」
ミオの指が記録を握る。
「よかったのでしょうか」
成功したのか、分からない。
人は救われた。
死んだ者もいる。
言葉は届いた。
黄金の王にも見つかった。
自分がこの先どうなるのかも、分からない。
アトラスは問う。
「外へ届いたか」
「……はい」
「己の返答がなくても」
「はい」
「彼らは、決めたか」
「はい」
ミオは頷いた。
「自分たちで決めたと、伝えてほしいと言われました」
アトラスは目を閉じた。
短い沈黙。
「承知した」
喜びの声ではなかった。
露見したことも。
ミオが危険へ置かれていることも。
すべてを救えなかったことも。
それでも、言葉が外へ残ったことも。
すべてを、その一つの返答が受け取ったように聞こえた。
ミオは記録を決められた場所へ置いた。
「次は、傷の布を」
その時。
予定とは違う時刻に、扉の向こうで足音が止まった。
ミオの手が止まる。
アトラスの身体が強張った。
肩が上がる。
呼吸が途切れる。
鎖が小さく鳴った。
ミオも、息を止めた。
いつもの物資交換ではない。
足音は一人ではなかった。
アトラスの血色の瞳が、閉じた扉へ向く。
「検算が」
声が掠れる。
「終わったのですか」
アトラスは答えない。
それでも、ミオには分かった。
次に来る者が、物資を渡すためではないことだけは。
扉の外で、留め金へ手が掛かる。
「次に問われるのは、汝だ」
ミオの手が震えた。
「私が」
声が出ない。
アトラスは続ける。
「己の責任を、汝が引き受けるな」
足音が近づく。
「汝が見たことと」
呼吸を継ぐ。
「汝が裁定したことだけを述べろ」
嘘をつけとは言わなかった。
自分へ従ったと言えとも。
命じられたと言えとも。
ミオの手の震えは止まらない。
それでも、記録から手を離した。
扉が開いた。
まつろわぬ花嫁は完結の第五話まで毎日更新します。
こちらが完結したら数日制作期間を置かせてもらうつもりです。
詳しくは以下の記事をご覧ください。
第三部は章ごとの連載になりそうです
https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=344407&uid=332978
この作品の興味をもったところは?
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アトラスのキャラクター性・内面
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ギルガメッシュとの関係性
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王としての在り方・王権のテーマ
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ストーリーの展開
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その他