The Reversed Star――逆位置の星―― 作:ほいみん
本作は『The Reversed Star』山門戦から分岐する、救済のないダークIFです。
★全五話ですが、本編の理解に必要な内容はありません。読まずに次の章へ進んでいただいて問題ありません★
監禁、身体拘束、本人の同意によらない受肉・婚姻および所有の主張、衣食・治療を含む身体と生活の強制的な管理、継続的な暴力と恐怖反応、心理的虐待、オリジナル人物の処刑・死別を含みます。
本作では、原作キャラクターであるギルガメッシュが明確な加害者として描写されます。救出、改心、和解、恋愛的成就、監禁からの脱出はありません。
性的暴行や露骨な性描写はありませんが、強制的な「花嫁」扱いと非同意の関係性を扱います。また、加害行為を愛情として肯定・免責する内容ではありません。
以上の要素が苦手な方は、閲覧をお控えください。
38.予定外の扉
扉が開いた。
予定された時刻ではなかった。物資を受け取るには早く、食事にも薬にも合わない。
留め金が外れる音を聞いた時から、ミオの指は動かなくなっていた。
開いた扉から光が差し込む。
先に金色が見え、その後ろに二人の男が立っていた。
ギルガメッシュが室内へ入る。
ミオの身体が強張った。
息を吸えない。逃げる場所を探すより先に、足が床へ縫いつけられる。
すぐ側で鎖が鳴った。
アトラスが壁へ預けていた身体を起こし、片方の膝を引いて、ミオとギルガメッシュの間へ出ようとしていた。
鎖が張り、小さな身体を止める。
呼吸も、そこで止まった。
それでも、血色の瞳だけは逸れなかった。
ギルガメッシュは二人を見た後、室内を見渡した。
水はアトラスの右側に置かれている。薬は種類ごとに分けられ、清潔な布と使用済みの布は離されていた。
食事と睡眠、扉の開いた回数、灯りの変化を記した布がある。その横には、水の濁り、咳をする者、移された者、残った者、死者の名、次に聞くべきことが炭で記されていた。
一部は、持ち出せるよう小さく畳まれている。
ギルガメッシュの視線がミオへ戻った。
ミオはアトラスのすぐ側に立っていた。手を伸ばせば触れられる距離だが、触れてはいない。
アトラスが返答するまで待つ位置だった。
「来い」
短い声だった。
ミオの足は動かなかった。
背後にいる男たちも動かない。命令が誰へ向けられたのかは分かっている。
それでも、一歩を出せなかった。
喉が閉じる。
「ミオ」
掠れた声がした。
ミオはアトラスを見た。
呼吸は浅く、指先は強く握られている。鎖へ引かれた身体では、ミオへ近づくこともできない。
それでも、アトラスは名を呼んだ。
ミオが聞けるように。
「見たことと、聞いたことを分けろ」
一度、息が途切れる。
「命じられたことと、汝が裁定したことを混ぜるな」
ミオは唇を開いたが、声は出なかった。
ただ、頷いた。
何も知らないと言え、ではない。
アトラスに脅されたと言え、でもない。
嘘をつけとは、一度も言われなかった。
見たこと。聞いたこと。命じられたこと。自分で決めたこと。
これまで記録へそうしてきたように、混ぜずに置く。
「疾くせよ」
ギルガメッシュが言った。
ミオは一歩を出した。
膝が震える。
もう一歩。
アトラスの側から離れ、黄金の王へ近づいた。
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39.誰に命じられた
ギルガメッシュは、ミオを室外へ連れ出さなかった。
扉も閉じさせず、アトラスから数歩離れた場所へ立たせる。
背後には開いた扉と二人の男。正面にはギルガメッシュ。側方には、鎖につながれたアトラス。
すべてが見える場所だった。
「水路の情報を運んだのは、貴様だな」
ミオは自分の手を見た。
震えている。指を組んでも止まらない。
「……はい」
「誰に命じられた」
息が止まった。
ミオはアトラスを見た。
アトラスは何も言わない。助ける言葉を探している様子もなく、ミオの返答を待っていた。
これまでと同じように、問いが置かれた後で、ミオ自身が答えるまで。
「命じられていません」
声は小さかったが、室内へ落ちた。
ギルガメッシュの表情は動かない。
「では、誰の判断で運んだ」
ミオの喉が鳴った。
外で水が動いた時より、巡回が変わったと知った時より、今の方がずっと怖かった。
自分が決めたと認めれば、逃げ道がなくなる。
アトラスの命令だったと言えば、罰を軽くされるかもしれない。騙されたと言えば、何も分からなかったと言えば。
けれど、それは見たこととも、聞いたこととも、自分が裁定したこととも違う。
「私です」
ギルガメッシュの目が細くなる。
「声が聞こえぬ」
ミオは息を吸った。胸が痛んだ。
「私の判断です」
「この女に脅されたか」
「いいえ」
「断れば責を問うと言われたか」
「いいえ」
「忠誠を求められたか」
「いいえ」
「褒美を約されたか」
「いいえ」
問いは途切れなかった。
「貴様が嫌だと言った時、無視されたか」
「……いいえ」
「では、何を言われた」
ミオは記録を読む時のように、順番を探した。
事実だけを置く。
「アトラス様は、伝えなくても責めないと仰いました」
声が震えた。
ギルガメッシュはアトラスを見ず、ミオだけを見ている。
「危険があることも、先に教えられました」
「それでも運んだ」
「はい」
「何故だ」
ミオの指が強く組まれた。
「私が……私が、伝えると決めました」
アトラスは何も言わなかった。
その沈黙だけが、ミオの返答を奪わずに残していた。
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40.死にたくありません
ギルガメッシュは、しばらくミオを見ていた。
逃げ道を探す者を見る目ではなかった。すでに答えを知り、その答えが崩れないか確かめる目だった。
「我が命へ背けば、どうなると考えていた」
ミオは答えられなかった。
閉じ込められる。罰を受ける。消される。
アトラスの側へ戻れなくなる。
名前を告げることも、水を決められた場所へ置くことも、もうできなくなる。
唇が震えたが、声にならない。
アトラスは助け舟を出さなかった。
代わりに答えず、大丈夫とも言わず、ミオが自分の言葉を見つけるまで待っていた。
「怖かったです」
ようやく言えた声は細かった。
「何がだ」
「罰を受けることが」
「それだけか」
ミオは首を振る。
「殺されるかもしれないと、思いました」
ギルガメッシュの表情は変わらない。
「今もか」
ミオは浅く息を吸い、もう一度繰り返した。
「今も、怖いです」
ここで声を止めれば、次は言えなくなる。
「死にたくありません」
アトラスの指が動いた。
握られていた指先が、わずかに緩む。
それだけだった。
ギルガメッシュが問う。
「ならば、何故運んだ」
ミオは目を閉じた。
死にたくない。逃げたい。何も知らなかったことにしたい。
その気持ちは今も消えていない。
けれど、水が濁っていると知った。熱を出している者がいると聞いた。閉じた水路を短く開けられるかもしれないと知った。
伝えることができると知った。
「私が、運ぶと決めたからです」
目を開く。
「聞いて、できると知りました」
ギルガメッシュの目を見ることはできず、床へ視線を落とした。
それでも続ける。
「それでも何もしない方を、私は選べませんでした」
室内に返答はなかった。
世界を救いたいとも、正しいことをしたとも言わない。
死にたくない。
怖い。
それでも、何もしない方を選べなかった。
そのどちらも、ミオの中にあった。
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41.役割ではなく人間
ギルガメッシュは、ミオからアトラスへ視線を移した。
水の位置でも記録でもなく、二人の間にあるものを確かめるように。
「我が貴様を置いた時、貴様は与えられた役目へ従う女であった」
否定できなかった。
命じられれば従った。余計なことをせず、責を問われないようにし、生き残ることを考えていた。
「独力で我へ背くほどの胆もない」
ミオの肩が強張る。
侮られたと思うより先に、それが正しいと分かってしまった。
最初の自分なら、水の濁りに気づいても、病人の話を聞いても、関わらないことを選んだだろう。
「拒む場所を返されたか」
ミオは顔を上げた。
ギルガメッシュの声に、疑問の響きはほとんどなかった。
「身体を貴様へ返され、選ぶことを求められた」
答える前から見抜かれている。
「その結果、与えられた役割ではなく、貴様自身として我へ背いた」
怖かった。
何も分かっていないと思われた方が、まだよかったのかもしれない。操られた道具と見なされれば、その分だけ罰も軽くなるかもしれない。
けれど英雄王は、ミオが変わったことも、アトラスが何を返したのかも見誤らなかった。
そのうえで切り捨てる。
「ならば」
赤い瞳がミオを捉えた。
「貴様自身の裁定として、責を負え」
ミオの膝から力が抜けそうになった。
背後の扉は開いている。
けれど、逃げるためのものではなかった。
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42.代わりを認めない
鎖が鳴った。
アトラスが再び身体を起こした。先ほどより動きは遅く、片手を床へついて呼吸を繰り返しても、十分に空気が入らない。
それでも顔を上げた。
「方法を組んだのは、己(おれ)だ」
声は掠れていた。
ギルガメッシュが振り返る。
「外へ渡ると知って、情報を与えた」
一度、言葉を止める。胸が上下している。
「処罰が必要だと裁定するなら、己へ向けろ」
ミオはアトラスを見た。
違う、と言おうとした。
命じられていない。自分で決めた。それを今、話したばかりだった。
けれどアトラスは、ミオの言葉を取り消してはいなかった。
自分には責任がないと言っているのでも、ミオは何も分かっていなかったと主張しているのでもない。
ミオが選んだことを残したまま、その身体へ罰を落とすことだけを止めようとしている。
ギルガメッシュはアトラスを見下ろした。
「貴様を殺すつもりはない」
アトラスの身体がわずかに強張り、鎖が小さく鳴った。
その言葉が保護ではないことを知っている。
殺さないから、代わりに何をするのか。
「我が命へ背いたのは、この女だ」
「ミオだ」
アトラスの訂正は短かった。
ギルガメッシュは名を呼び直さない。
「方法を示したのは己だ。外へ運ばせたのも、己の裁定だと扱え」
「事実を偽るな」
ギルガメッシュの声が落ちた。
「貴様は命じていない。この女は拒むこともできた。それでも自ら選んだ」
黄金の王は、ミオの証言を一つも取り違えなかった。
「ゆえに、罰もまたその者へ属する」
アトラスが何かを言おうとしたが、声にならなかった。喉だけが動き、片手が床を掴む。
ミオは一歩、アトラスへ近づきかけた。
背後の男が動き、腕を取られるより先に足が止まる。
アトラスが血色の瞳でミオを見る。
来るなとも、逃げろとも言わない。
ただ、ミオ自身が決める場所を、最後まで奪わずに見ていた。
---
43.遅すぎる切断
*
水路はすでに動いている。
名は一枚の布へ集められておらず、移る者と残る者を記した人間も一人ではない。避難に使われた道は複数の者が知り、「選別しない王」という噂も蔵の外へ出ていた。
この女を殺しても、それらは消えない。
外の者たちは、次の言葉を待たずに動き始めている。
一拍、遅い。
ギルガメッシュは、その事実を正しく把握していた。
だが、まだ切れるものはある。
外の変化を蔵の底へ運ぶ口。細かな結果を伝える目。アトラスの次の裁定を外へ返す足。
それを切れば流れは鈍る。
水が止まらなくても、次にどこが濁ったかは届かない。人が動き続けても、誰が失われたかは分からない。新しい危険へ即座に答えることもできなくなる。
自分以外の裁定を受け取った者がどうなるかを、外の者にもアトラスにも示せる。
民を守りたければ、もう王として現実へ触れるな。
そう学ばせることもできる。
完全には消せない。それでも、切れるものは切る。
ギルガメッシュは、扉の側に立つ男たちへ視線を向けた。
「処せ」
命令は一言だった。
---
44.最後の証言
男の一人がミオの腕を取った。
強く掴まれたわけではない。それでも、身体は動かなかった。
「歩け」
足を出そうとすると、膝が曲がった。
一歩目でよろめき、床へ手をつきかけた身体を腕から引かれて立たされる。
もう一度、足を前へ出す。
扉までの距離は数歩しかない。
これまで何度も通った扉だった。
水を運び、薬を運び、外の話を持ち帰った。アトラスの言葉を外へ持ち出した。
帰る時には必ず先に名を告げた。
ミオです。
戻りました。
今日は、もう戻れない。
扉の前で、ミオは振り返った。
「アトラス様」
声が震えた。
アトラスは鎖へ引かれたまま動けない。身体を起こしていることさえ難しい。
それでも、血色の瞳はミオを見ていた。
ミオは息を吸った。
怖い。死にたくない。助けてほしい。
戻ってきなさいと言ってほしい。
大丈夫だと、何とかすると、嘘でもよいから言ってほしかった。
けれど、アトラスは嘘を言わない。
ミオも、もう嘘を必要としていなかった。
「私は……私は、自分で決めました」
英雄王へ向けた言葉ではなかった。
罰を受け入れる言葉でも、アトラスの責任を消すための言葉でも、自分の恐怖をなかったことにするための言葉でもない。
自分がしたことを、最後まで誰かの命令へ変えさせないための言葉だった。
アトラスの唇が動く。
「ミオ」
名前が届いた。
英雄王が一度も呼ばなかった名。
水路の情報を運んだ者の名。返答を待った者の名。怖いまま、自分で決めた者の名。
「承知した」
アトラスは息を継いだ。
「汝の裁定として、記録する」
助けるとは言わなかった。
大丈夫だとも、戻ってこいとも言わない。
実現できない約束を一つも渡さず、ミオの選択をミオのものとして受け取った。
男に腕を引かれる。
ミオは前を向いた。足はまだ震えている。
扉を越える。
背後で金具が動いた。
扉が閉じた。
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45.戻らない時刻
灯りが変わった。
壁に落ちていた影が、わずかに短くなる。
いつもなら、その少し後に足音が来る。
遠くから近づき、扉の前で止まり、留め金へ手が掛かる前に声が置かれる。
ミオです。
戻りました。
声はなかった。
アトラスは扉を見ていた。
身体を壁へ預けたまま、膝の上に置いた手だけを固く握っている。
灯りがもう一度変わり、食事が運ばれる時刻を越えた。
前に置かれた器には、わずかな水が残っている。
ミオなら減った量を見ただろう。飲めたかを尋ね、返答を待ち、必要なら器を近づける。
触れる前には告げる。
誰も来なかった。
薬を替える時刻も過ぎた。
腕に巻かれた布は乾き、一部が皮膚へ張りついている。
アトラスはそれへ触れず、扉を見た。
鎖がごく小さく鳴る。
足音が聞こえた。
アトラスの身体が強張る。
しかし、音は扉の前を通り過ぎた。止まらず、名乗らず、遠ざかっていく。
アトラスの呼吸は、すぐには戻らなかった。
灯りが三度目に変わった。
ミオが外へ出てから、扉が開くはずだった回数を越えている。
布の記録には、戻った時刻、運んだもの、外で聞いたこと、次に確かめることを書く場所が空いたまま残っていた。
何も増えない。
アトラスは唇を開いたが、最初には声が出なかった。
浅く息を吸い、もう一度試す。
「ミオ」
閉じた扉へ届いた。
返答はなかった。
アトラスはそのまま、長く扉を見ていた。
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46.問う者のいない手順
次に扉が開いた時、声はなかった。
名乗る者もいない。
聞こえる足音は一つだが、人のものではなかった。
黄金の人形が室内へ入る。
頭と胴、二本の腕を持つ人の形をしていたが、顔に目も口もない。金属の面が灯りを返しているだけだった。
片方の腕には水と食事、もう片方には薬と新しい布が載せられていた。
人形は決められた位置を見ない。
水を扉に近い側へ置き、薬の包みをその隣へ重ね、清潔な布を使用済みの布の近くへ落とす。
アトラスの呼吸が速くなった。
指先が床を探り、背が壁へ押しつけられる。
逃げる余地はない。
人形は止まらない。
傷を処置し、食事を与え、身体を保つ。そのために定められた動作だけを実行する。
黄金の手がアトラスの腕へ伸びた。
何をするとも告げず、許可も求めない。
アトラスの身体が震える。
手が触れるより先に、アトラスは自分から腕を上げた。
動きは遅く、肘を伸ばす途中で一度止まる。呼吸が追いつかない。
それでも、最後まで差し出した。
黄金の手が腕を取り、古い布を外す。
皮膚へ張りついた部分も、速度を変えずに剥がした。
アトラスの肩が跳ねたが、声は出ない。
人形は止まらず、傷を拭い、薬を塗り、新しい布を巻いた。
処置を終えると腕を放す。
アトラスは差し出していた腕を、ゆっくりと戻した。
問いはなく、返答もなかった。
それでも、その手が身体を奪うより先に、処置を受けると決めたのはアトラスだった。
次に人形は、首元の留め具へ手を伸ばす。
アトラスは動けなかった。
先ほどの処置だけで呼吸が乱れ、指も上がらない。
黄金の手が留め具を外し、首と肩へ掛かっていた布を引いた。
アトラスの身体が大きく強張る。
人形は恐怖を見ない。触れられた場所から身体が逃げようとしても、作業を止めない。
必要な分だけ衣服をずらし、皮膚を確かめ、布を替えた。
アトラスは壁へ押しつけられたまま耐えた。
終わった後も、しばらく腕を動かせなかった。
黄金の人形は、使った布を清潔なものの側へ置き、薬の包みを混ぜたまま、水の位置も直さずに出ていった。
扉が閉じる。
室内には、処置された身体だけが残った。
問いを置いた者はいない。
待った者も、終わったと告げる者もいない。
アトラスは、新しい布の巻かれた腕を見た。
その腕を、もう一方の手で支える。
次に同じ手が伸びた時、先に差し出せるかは分からない。
それでも可能な時には、問う者がいなくても、自分で問い、自分で答えるしかなかった。
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47.二つ目の涙
水は扉に近い側へ置かれていた。
ミオが置いていた場所ではない。
熱を下げる薬、傷へ使う薬、眠りを助ける薬が、同じ包みの上に重ねられている。
清潔な布の端には、使用済みの布が触れていた。
アトラスは一つずつ見た後、記録へ目を移した。
最後の文字はミオの筆跡だった。
水路の流れ。移った者の数。残った者の名。死者の名。次に確認するはずだった区画。巡回の変化。
その下には、外へ行くと自分で決めたことが書かれている。
記録はそこで途切れていた。
戻った時刻も、新しい報告もない。
アトラスは記録へ手を伸ばした。
指先が布の端へ触れる。
震えていた。
何度か位置を直してから、傍らに置かれた炭の欠片を取る。
黒い先を記録の末尾へ置いたが、すぐには動かなかった。
長い時間をかけて、一つの名を書く。
ミオ。
書き終えた後も、手はそこに残った。
水青の髪がわずかに下がる。
血色の瞳から一滴だけ落ち、名の傍らで布へ染み込んだ。
アトラスは拭わなかった。
二滴目は落ちなかった。
記録へ触れたまま、動かない時間が続いた。
扉の外を誰かが通り、足音が遠ざかる。室内の灯りが変わっても、手は記録の上にあった。
やがて、アトラスは炭の欠片を置いた。
水の器へ手を伸ばし、扉の側から以前置かれていた右側へ、両手を使って少しずつ動かす。
器の中で水が揺れ、一部が縁からこぼれた。
それでも決められた場所へ戻した。
次に、薬の包みを一つずつ確かめ、傷へ使うもの、熱へ使うもの、眠るためのものに分ける。
清潔な布を使用済みの布から離した。
途中で何度も手が止まり、呼吸が浅くなったが、残った分まで分けた。
最後に記録へ戻る。
畳まなかった。
ミオの名が見えるよう、広げたままにした。
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48.消えなかった水
次に運ばれた布にも、水の跡があった。
黄金の人形が置いたものだった。
アトラスはすぐには触れず、身体の震えが収まるまで待った。
人形が去り、扉が閉じ、金属の擦れる音が消えてから、布へ手を伸ばす。
以前のものと並べる。
最初に運び込まれた布には、灰色の濁りが濃く残っていた。次のものは薄く、今回の布はさらに少ない。
アトラスは端を持ち上げ、匂いを確かめた。
目を閉じ、もう一度嗅いでから記録へ視線を移す。
維持口を開いた時刻。流れが清くなった時。前に届いた報告。新しい熱が減ったこと。水路番が、次の返答を待たずに動き始めたこと。
今は報告する者がいない。
誰が口を開けたのか。どれだけの時間だったのか。病人はどうなったのか。新しい死者がいるのか。その名は記録されたのか。
何も分からない。
布の濁りだけが減っている。
外で水が動き続け、その結果だけが扉を越えて届いていた。
アトラスは石炭の欠片を取り、新しい布の状態を記録する。
日付は分からない。灯りの変化で数えた時刻だけを置く。
濁り――前回より少ない。
匂い――弱い。
原因――不明。
実行者――不明。
死者――不明。
名――不明。
不明という文字が増えていく。
ミオがいれば、次に尋ねただろう。
見たことと聞いたことを分け、分からないものを分からないまま持ち帰っただろう。
今は、問いを外へ運ぶ者がいない。
アトラスは石炭の欠片を置いた。
水路は止まっていない。
だが、その先にいる者の顔は見えず、声も戻らない。
英雄王の切断は失敗していなかった。
外の判断を消すことも、水を止めることもできなかったが、蔵の底へ戻る流れは断たれている。
アトラスは、記録に加えた名を見た。
ミオ。
水路は、彼女を失った後も動いている。
王国を止めるには遅すぎた。
一人を失わせるには、十分だった。
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49.王を演じたから
扉が開く前から、分かった。
足音が違う。
金属の擦れる音ではなく、歩幅は一定で、止まる場所にも迷いがない。
アトラスの肩が上がった。
呼吸が浅くなり、右側へ戻した水の器へ伸ばしかけていた手が途中で止まる。
留め金が外れた。
ギルガメッシュが入ってきた。
黄金の人形は同行していない。一人だった。
扉が閉じ、その音が室内へ残る。
アトラスは壁へ背を押しつけ、布の記録を指先で掴んだ。
ミオの名が加えられた場所へ触れたまま顔を上げ、赤い瞳から視線を逸らさない。
最初に出た言葉は掠れていた。
「ミオは」
ギルガメッシュは室内を見た。
元の場所へ戻された水。分類し直された薬。引き離された布。広げたままの記録。
その末尾にある、炭で書かれた名。
「この女は処分した」
アトラスの呼吸が止まった。
肩も指も動かなくなる。
戻らない時刻。途切れた手順。問いを持たない管理機構。
記録へミオの名を加えた時には、すでに何が起きたか分かっていた。
それでも、英雄王の口から与えられた言葉は、推測を事実へ変えた。
「我が命へ背いた。貴様の裁定を運び、我の領域を乱した――随分な働きぶりよ。当然の帰結であろう」
アトラスの手が布を強く握った。
炭の跡が指先へ移り、黒い汚れを残す。
「そして」
ギルガメッシュは、わずかに目を細めた。
「貴様が王を演じなければ、この女は死なずに済んだ」
アトラスの血色の瞳が揺れた。
身体が先にその言葉を受け、呼吸を取り戻せなくなる。声を出そうとしても、喉から空気しか漏れない。
その声に、鑑定の響きはなかった。
アトラスの唇がもう一度動く。
それでも、声はまだ出なかった。
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50.名を呼べ
呼吸が戻るまでに、長い時間がかかった。
一度吸い、途中で止まり、細く吐く。それを何度も繰り返す。
アトラスは布から手を離さなかった。
「名を」
最初の音は、ほとんど聞こえなかった。
ギルガメッシュが見下ろす。
アトラスは、もう一度息を整えた。
「名を呼べ」
責任の話ではなかった。
王であるかでも、誰が原因であるかでもない。
最初に求めたのは、名だった。
「不要だ」
ギルガメッシュが答える。
アトラスの指が布の上を動き、炭で書かれた二文字へ触れる。
「不要ではない。汝が殺した者の名だ」
英雄王は答えなかった。
アトラスと、その背後にある記録を見る。だが、名は呼ばない。
「命へ背いた者だ」
「ミオだ」
「処分した側仕えだ」
「ミオだ」
「貴様と外をつないだ経路だ」
アトラスの呼吸が乱れる。
それでも、もう一度告げた。
「ミオだ」
三度、名が置かれた。
違反者。側仕え。外への経路。
どれもミオが担った役割の一部ではあるが、彼女のすべてではない。
アトラスは記録の末尾へ手を置いた。
「汝は、己へ責を問うためにミオを使う」
赤い瞳が細められる。
「ならば、まず汝が殺した者を、一人の人間として扱え」
「我に教えるつもりとはな」
「記録を偽るな」
英雄王は名を呼ばなかった。
その拒絶もまた、二人の間へ残った。
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## 51.責任台帳
アトラスは、すぐには続けられなかった。
喉へ手を当て、呼吸を数える。
血色の瞳は伏せないが、一つの文を置くたびに長い間が必要だった。
「己は、ミオへ方法を示した」
ギルガメッシュは黙っている。
「水路と、避難の道を。外へ渡せば汝の命へ背くと知りながら、選択肢を渡した」
アトラスの指が布の上を進む。
水。病人。移った者。残った者。
ミオが残した印を一つずつ辿る。
「ミオが運ぶと裁定した時、己はそれを止めなかった」
呼吸が浅くなる。
それでも次を置いた。
「検算を察知した後も、経路を閉じなかった」
ギルガメッシュの視線が動く。
「捕らえられる前に、守れなかった」
最後の言葉は掠れていた。
アトラスは、言い終えたものを消さず、他者の行為へ移さず、そのまま残した。
長い沈黙の後、告げる。
「その責は、己が負う」
ギルガメッシュの口元がわずかに動いた。
「ようやく理解したとみえる」
アトラスは否定も肯定もせず、続けるために息を整えた。
「だが、己がミオへ方法を渡したことと、汝がミオを殺すと裁定したことは別だ」
ギルガメッシュの表情から、わずかな変化が消えた。
「貴様がいなければ、この女は死ななかった」
アトラスは否定しない。
「そうだ。己が関わらなければ、ミオは汝の命へ背かなかった」
水路の情報を運ばなければ、捕らえられなかった。
その反実仮想から逃げず、アトラスは続ける。
「ゆえに、己は彼女を危険へ置いた責任を負う」
英雄王は黙っている。
「だが、捕らえたのは汝だ。殺すと決め、命じたのも汝だ」
事実は、それぞれの行為者へ分けて置かれた。
混同を許さず、別々のものとして。
---
52.代価ではない
「貴様が民を欲した。治めるべき民を」
ギルガメッシュの声は冷たかった。
「貴様が我の支配へ手を出した。ならば、その代価もまた、貴様のものだ」
一歩、近づく。
アトラスの身体が強張り、布を握った指がさらに白くなる。
接近へ身体が反応し、呼吸が浅くなっているため、すぐには答えられない。
それでも、視線は落とさなかった。
「代価ではない」
声は弱かったが、裁定は揺れなかった。
「ミオは、己の王道のために支払われたものではない」
ギルガメッシュの足が止まる。
「自ら裁定し、汝がその裁定を処罰した一人の人間だ」
「言葉を飾るな。貴様の王道が、この女を死へ導いた」
「己の関与は否定しない。己の責は、己が引き受ける」
英雄王が口を開くより先に、アトラスは続けた。
「ゆえに汝も、汝の責を己へ渡すな」
喉が閉じ、声が途切れる。
アトラスは長く待ち、再び言葉を作った。
「己の所業と汝の裁定を、一つに結ぶことは認めぬ」
ミオは代価ではない。
二人の王の争いで支払われた物でも、王道の正しさを証明するための犠牲でもない。
死を望んだ者ですらなかった。
死にたくないまま、自分で運ぶと決め、その選択を英雄王が処罰した。
それぞれの裁定は、それぞれの者へ属している。
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53.己を殺せ
アトラスは壁へ背を預け直した。
わずかな動きにも鎖が鳴り、身体を起こしていることさえ、もう難しくなっている。
それでも、言葉はまだ終わっていなかった。
「己の所業が目障りならば、己を殺せ」
英雄王の表情は変わらない。
アトラスの声には、投げやりな響きも、生を棄てる者の気配もなかった。
「己へ向けた罰を、他者へ出力するな」
自分がミオの代わりに死ねばよい、と言っているのではない。
死者は戻らない。
求めているのは、これからアトラスの裁定を採る者へ、アトラスを傷つけるための罰を落とすなということだった。
王同士の争いの代価を、無辜の身体へ支払わせるな。
ギルガメッシュは答えた。
「貴様を殺すつもりはない」
ミオがまだ室内にいた時と、まったく同じ言葉だった。
アトラスの血色の瞳が、長く英雄王を見た。
「ならば、汝は己を失う恐怖を、ミオの死で処理した」
ギルガメッシュの目がわずかに動いた。
室内の空気が止まる。
英雄王の表情から、初めて冷たい均衡が外れた。ほんのわずかに、視線の奥が揺れる。
アトラスは、それを見誤らなかった。
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54.棺ではない
「この女は、もういない」
ギルガメッシュが言った。
声は再び冷えていた。
「名を残そうと、裁定と呼ぼうと、死者は戻らぬ」
アトラスは布を持ち上げなかった。
英雄王へ見せ、認めさせるために記録したのではない。
「ミオは、触れる前に己へ告げた」
身体へ手を伸ばす前の声。
「己の返答を待った」
息が止まっても、言葉が出なくても、急かさなかった。
「拒否を、己への攻撃として扱わなかった」
嫌だと告げても、ミオは傷つけられたと主張しなかった。
王の拒絶を、自分の価値への否定へ変えなかった。
「水路の情報を運び、外の者の返答を戻し、死者の名を聞いた」
アトラスの呼吸が乱れる。
それでも続ける。
「己へ命じられず、自分で伝えると裁定した。連れ出される時まで、自分の選択だと述べた」
指が、炭で書かれた名の傍らへ触れる。
ギルガメッシュは黙っている。
「消えてはいない。名も、裁定も、届いた結果も残る」
外で動く水。分けられた記録。自分で決め始めた者たち。
英雄王の赤い瞳が布へ向く。
「死者を飾るか」
「棺ではない。記録だ」
アトラスはすぐに答えた。
死んでもよかったとは言わない。
届いたものがあるから、失ったことを慰めもしない。
死は取り返せず、ミオは戻らない。
問いを置く声も、返答を待つ時間も、二度と戻らない。
だからこそ、死によって名まで消させない。
ミオを英雄王の違反者としてだけでも、アトラスの民としてだけでも記録しない。
何を見て、何を恐れ、何を決めたのかを、そのまま残す。
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55.人質機構の失効
ギルガメッシュの視線が室内へ動いた。
水は右側へ置かれている。薬は分けられ、清潔な布も使用済みの布から離されている。
ミオが戻ったからではない。
アトラスが自分で戻した。
英雄王は食事の器を見た。中身は減っている。
「なお口にしているか」
アトラスは答えなかった。
命じられたから食べたのではない。
ミオが責を問われないためでもない。
記録を残し、外へ届いたものを可能な限り見届け、裁定主体であり続けるために身体を維持している。
その理由は、すでに英雄王の手を離れていた。
「協力を続けるなら、最低限の管理は保障してやろう」
アトラスの身体が強張ったが、返答はなかった。
保障。
その言葉が何を意味しないかを、二人とも知っている。
食事を受け入れ、治療を受け、眠れば、ミオは責を問われずに済むかもしれない。
ミオがいた間は、その結びつきがアトラスへ生活上の譲歩を選ばせていた。
協力と保護。受容と生存。
だが、身体を保ち、処置を受け入れても、英雄王はミオを殺した。
保護する対象はもうおらず、従えば守られるという因果も、英雄王自身が切断している。
黄金の人形が扉の外で待っていた。
ギルガメッシュが手を上げると、人形は室内へ入り、新しい衣と金の装飾を運んだ。
水青の髪には、ミオが差した黄金の花が一輪だけ残っていた。
人形が新しい衣と装飾を取って近づいても、アトラスは腕を差し出さなかった。
傷の処置には、自分から腕を出した。必要だと自分で裁定したからだ。
だが、花嫁として整えるための装飾は、ミオを守るためにも、アトラス自身の王権を継続するためにも必要がない。
人形の手が近づく。
身体は恐怖で震えている。
それでも、アトラスは採用しなかった。
「不要だ」
短い声だった。
ギルガメッシュは見下ろす。
「我の命だ」
「採用しない」
声は弱くても、拒絶は明確だった。
食事は採る。傷には処置を受け、必要なら自ら腕を差し出す。
だが、それは英雄王の花嫁として生きるためではない。
ミオの記録を保持し、裁定を続けるために、王の身体を維持する。
英雄王は外との行き来を断ち、アトラスを孤立させ、取り返せない損失を与えた。
同時に、アトラスへ生活上の譲歩を選ばせていた唯一の人質も、自分の手で失った。
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56.見誤らぬ
「貴様は、なお王を続けるか」
ギルガメッシュが問う。
アトラスは壁へ背を預けていた。
身体は、英雄王の接近にも、ミオの死にも、戻らない声にも震えている。
恐怖も悲嘆も消えてはいない。
布へ落ちた一滴は、すでに乾き始めていた。
血色の瞳に、新しい涙はなかった。
「己は、ミオを守れなかったことを忘れぬ」
声を出すまでに、長い時間がかかった。
英雄王は答えない。
「己が渡した方法と、残した危険を、これからも監査する」
正しかったからよいとは言わない。
人を救えたから仕方がなかったとも、ミオが自分で選んだから責任はないとも言わない。
もっと安全な道はなかったか。
止めるべきではなかったか。
別の経路を作れなかったか。
アトラスは、これからも問い続ける。
「だが、汝の裁定まで己のものにはしない」
血色の瞳が上がり、ギルガメッシュを見る。
「貴様の王道が生んだ死だ」
「己の王道がミオを危険へ置き、己は彼女を守れなかった。その責は己が負う」
アトラスは否定しなかった。
その上で、静かに続けた。
「だが、汝の産んだ犠牲は、汝の所業だ」
ギルガメッシュの赤い瞳が、アトラスを捉えた。
山門で一拍届かなかったことを、監禁と受肉の理由へした。
失う恐怖をアトラスの身体へ出力した。
自らの統治が切り捨てた者をアトラスが拾った時、その結果を反抗の代価としてミオへ支払わせた。
それらすべてを、アトラスは英雄王へ返した。
「己はそれを見誤らぬ」
まつろわぬ花嫁は完結の第五話まで毎日更新します。
こちらが完結したら数日制作期間を置かせてもらうつもりです。
詳しくは以下の記事をご覧ください。
第三部は章ごとの連載になりそうです
https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=344407&uid=332978
この作品の興味をもったところは?
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アトラスのキャラクター性・内面
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ギルガメッシュとの関係性
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王としての在り方・王権のテーマ
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ストーリーの展開
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その他