The Reversed Star――逆位置の星―― 作:ほいみん
※独自解釈/女性体オリジナルサーヴァント/ギルガメッシュ×アトラス/本文に文章生成AI補助あり
※掲載イラストは作者による手描きです。
詳しい注意事項・制作FAQはこちら:
【作品案内URL】
https://docs.google.com/document/d/1GdwYLijsN-D6iR4MKAlV2ziDaThI6rrddGUy8nim0KE/edit?usp=drive_link
王は道を分かつ
管制室の画面を覗き込んだギルガメッシュが、満足げに顎を上げた。
「今度は、いくらか溜め込んだようだな」
立香は、画面から黄金の王へ目を移した。
映っているのは海図と、島の一角に重なる幾つかの光点だ。宝箱の絵も、金貨の枚数も表示されてはいない。
「それ、見ただけでわかるの?」
「見てわからぬ貴様に、わざわざ見せてやっているのだ。よく覚えておけ」
「どこを?」
「はいはい。説明はこちらからするよ」
ダ・ヴィンチが二人の間へ手を差し入れ、画面を拡大した。
海の中に浮かぶ島が大きくなる。中央近くのひときわ強い反応を、その指が示した。
「場所はオケアノス。修復後も残っている歪みの一つだ。ここに竜種と思われる反応がある。それに、周囲には性質の違う魔力反応がいくつも集まっているんだよね」
「竜の巣?」
「その可能性が高い。中身までは、行って調べてみないとわからないけど」
「棲みついて間もない獣の寝床では、こうはなるまい。今度は空振りもあるまいよ」
今度は、と繰り返す声がやけに楽しそうだった。
立香の隣で、アトラスが顔を向けた。
「前にも行ったのか」
「うん。同じオケアノスで、竜を倒したんだけど……」
立香は一度、ギルガメッシュを見た。本人は既に画面の別の光点を眺めている。
「宝を溜め込む前だったんだよね」
「倒すのが早すぎたという話だ。竜としての務めも果たさぬうちに討たれるとは、使えぬにも程がある」
「竜って、そんな仕事まであるの?」
「覚えたな」
そこは覚えていいのだろうか。
立香がアトラスを見ると、血色の瞳もまたこちらを見ていた。
「討伐には成功したのだな」
「それは、ちゃんと」
「ならば任務は果たしている」
短い言葉に、立香は少し胸を張った。
すぐ横から鼻で笑う声がした。
「成果を竜一匹で数えるな、大洋王」
「では、何を持ち帰るつもりだ」
「我が見るに値するものを、見てから決める」
「……そうか」
アトラスはそれ以上尋ねず、画面へ向き直った。
立香には、その返事が諦めたようにも、単に聞き終えたようにも聞こえた。ギルガメッシュは気にする様子もない。
「ともかく、今回はその反応の調査と、竜への対処をお願いしたい。回収できる素材があれば、それもね」
ダ・ヴィンチが話を戻す。
指先で示された島の外縁に、別の印が灯った。
「到着地点はこの海岸。竜の反応からは距離を取ってある。まず周囲を確認して、それから内陸へ進んでくれ」
「途中で戻ることはできるか」
アトラスの問いに、ダ・ヴィンチは頷いた。
「できるよ。修復そのものは終わっているからね。予定を変える必要があれば連絡してほしい。こちらで帰還を手配する」
「承知した」
立香も海岸の印を覚えた。
オケアノス。画面の青を見ていると、潮の匂いと、どこまでも続いていた水平線が思い出される。船の上で風に吹かれたことも、揺れる甲板を走ったことも。
今度は島へ直接降りるのだから、船酔いの心配はなさそうだった。
「先輩、準備が整いました」
マシュが端末から顔を上げた。
「現地の観測と通信は、こちらで担当します。何か見つかったら教えてください」
「うん。宝があってもなくても連絡する」
「ありますよ、きっと」
マシュは真面目に頷いた。立香が笑うと、つられたように口元を緩める。
「皆さん、お気をつけて」
ギルガメッシュは既に踵を返していた。
立香もその後を追いかけ、並んで歩き出したアトラスへ小声で尋ねた。
「また何もなかったら、どうするんだろう」
「本人に訊け」
「聞こえておるぞ」
前を行く王は振り返りもしなかった。
「余計な心配をする暇があるなら、おのれの支度を確かめよ。忘れ物を取りに戻る手間までかけさせるな」
立香は思わず礼装に触れ、それから隣を見上げた。
アトラスの視線が、手元から顔へ戻ってくる。
「忘れたのか」
「忘れてない。言われると気になるだけ」
先を行く背中から、愉快そうな笑いが返ってきた。
所定の位置につき、最後の確認に答える。
マシュの声が通信越しの響きに変わった。立香は一つ息を吐き、肩の力を抜く。
「レイシフト、開始します」
白い光が、視界を満たした。
*
足の下で、砂が鳴った。
立香は目を開き、潮の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
波が白く崩れ、濡れた砂を薄く覆っていく。その向こうには、海がどこまでも続いていた。遮るもののない水平線を見ると、それだけで少し気分が浮き立つ。
風に頬へ張りついた髪を払い、立香は空を仰いだ。
「……日食?」
雲の少ない空で、太陽の端が欠けていた。
ほんの少し、丸い縁を削り取ったように。
「珍しいところに来ちゃったね」
隣へ声をかけながら、足元へ視線を戻す。
三人分の影が砂浜に伸びている。光は十分にあるのに、海も砂も、思い出の中のオケアノスよりどこか色が薄い。立香は目を瞬いてから、手首の通信機へ顔を寄せた。
「マシュ、着いたよ。こちらは三人とも無事」
『はい、先輩。到着を確認しました。周囲に敵性反応はありません。……少々お待ちください』
返事が途切れた。
波の音に混じって、小さな雑音が鳴る。
「マシュ?」
『聞こえています。音声は正常です。ただ、座標の照合が……』
立香は二人を見た。
ギルガメッシュは内陸の方へ顔を向けている。アトラスは立香の視線を受け、通信機へ目を落とした。
『代わるよ、立香ちゃん』
ダ・ヴィンチの声だった。
『気分はどうかな。めまいや吐き気は?』
「ないよ。ちゃんと砂の上に立ってるし、海の匂いもする」
『よし。こちらでも君の状態は確認できている。レイシフトは成功しているよ。問題は帰りの方だ』
立香は、通信機へ寄せていた腕を少し持ち上げた。
『今、帰還用の座標を確定しようとしているんだけどね。照合に必要な部分だけ、どうしても抜けてしまうんだ』
「ここにいるのは、わかるんだよね?」
『ああ。声も届いているし、君たちの存在証明も続けられている。ただ、引き戻すにはもっと精密な位置情報が要る。このまま帰還処理を始めるわけにはいかない』
「途中でも帰れるはず、だったよね」
『そのはずだった。何かが干渉している』
さっきまで指の間を気持ちよく抜けていた風が、少し冷たく感じられた。
立香は踵を砂へ押し込んだ。靴底には確かな手応えがある。今いる場所がわからなくなる、というのは、足元がこれほどしっかりしていても起こるらしい。
「海岸を離れれば変わるか」
アトラスが尋ねた。
『観測できる範囲では、島の外まで影響が広がっている。少し移動して抜けられるものではなさそうだね』
「発生源は」
『内陸だ。出発前の観測と重ねると、竜の反応があった場所に近い。まだ断定はできないけれど、まずそちらを調べる必要がある』
「竜を倒せば、帰れる?」
『その竜が干渉を起こしているなら、止められる可能性は高い。こちらでも解析は続けるよ』
ギルガメッシュが鼻を鳴らした。
「ならば手間は変わらぬ。用を済ませて帰るだけだ」
「帰れないって言われたばっかりなんだけど」
「帰る前に討つのであろうが。何を狼狽える」
それは、そうなのだが。
立香は言い返そうとして、やめた。帰り道を塞いでいるかもしれない相手を、ギルガメッシュは出発前と同じ調子で討つと言っている。
立香は息を吐いた。やることが決まっているのは、ありがたかった。
「マスター」
アトラスに呼ばれ、顔を上げる。
「歩けるか」
「うん。具合は本当に悪くないよ」
「ならば行くぞ。異変があれば告げよ」
立香が頷くと、アトラスは砂浜の先を示した。
低い木々の間に、細い道が見える。草が途切れ、土が踏み固められていた。その奥、斜面に沿って続く緑の上へ、一筋の煙が立ち上っている。
「人がいる」
「道も使われている。島のことを聞けよう」
立香は通信機へ向き直った。
「これから内陸へ向かいます。人が住んでいそうだから、まず話を聞いてみる」
『了解しました。先輩、通信はこのまま繋いでおいてください』
「うん。あ、それと、こっちは日食が起きてる。太陽が少し欠けてるんだけど、そっちからも見える?」
『映像を確認します。……こちらでも記録しておきますね』
砂を踏みしめて、木立へ向かう。
先を行くギルガメッシュに追いついたところで、靴の中へ砂が入っていることに気づいた。歩くたび、つま先の下でざらつく。気にはなったが、いったん止まって靴を脱ぐほどでもない。
砂浜が終わると、道はゆるやかな坂になった。
やがて、木々の向こうから車輪の軋む音が聞こえてきた。
二人の人影が、坂を上っていく。
一人は女で、小さな荷車を引いていた。荷台には口の狭い水瓶が幾つも並び、ぶつからないよう藁を挟んで積まれている。もう一人の若い男は、その後ろに手を添えていた。
男の肩には白い布が掛けられていた。道端の枝に触れそうになるたび、片手で押さえて避けている。
「こんにちは」
立香が声をかけると、二人は同時に振り向いた。
女が足を止める。荷車が少し後ろへ戻り、男が慌てて支え直した。
「すみません、驚かせて。少し、お話を聞いてもいいですか」
女の目が、立香から背後の二人へ移った。
そのまま動かなくなったので、立香もつられて振り返る。金色の鎧と、紺碧の鎧。木漏れ日の下に並んだ姿は、確かに旅の途中で出会うには少々目立つ。
「島の外から来ました。このあたりのことを教えてもらいたくて」
「……外から?」
女が、ようやく声を出した。
男の方は立香たちと坂の先を交互に見ている。荷車を押す手に力がこもり、木の縁で指先が白くなっていた。
「お急ぎでしたか」
「泉へ行くところなんです」
女はそう答え、空を見た。
枝の隙間を確かめる短い仕草だった。男も同じ方を見上げてから、肩の白布を握り直す。
立香は水瓶に目を移した。
荷車が止まった時も、水の揺れる音はしなかった。
*
「泉は、この先ですか」
立香が坂の上を示すと、女は頷いた。
「岩山の下にあります。ただ、あそこには……」
「竜がいる?」
荷車の後ろで、男が顔を上げた。
「知っているんですか」
「私たち、その竜を退治しに来たんです」
男の口が、僅かに開いた。
立香を見て、それから二人のサーヴァントを見る。荷車を支えていた手が離れかけ、また戻った。
「倒せるんですか。あれを」
「そのために来たと言ったであろう。案内せよ」
ギルガメッシュの返事に、男が息を呑んだ。
女の方も立香へ身を乗り出しかけたが、すぐに荷車の柄を握り直した。
「泉は、どうなりますか」
「泉?」
「竜を殺しても、水は今までどおり使えるんでしょうか」
立香は、並んだ水瓶を見た。
「なるべく泉を壊さないように戦うことは、できると思いますけど……」
「水が出ればいいんじゃないんです。あの水でないと、病人が」
女はそこで口を閉じた。
男の顔からも、先ほど浮かびかけた明るさが消えている。
「薬なのか」
アトラスが尋ねた。
「はい。村で病にかかった者は、あの泉の水を飲ませれば持ち直します。ほかの水では駄目なんです」
「今も患者はいるか」
「村の集会所に。世話がしやすいよう、動かせる人は集まってもらっています」
「そこへ案内せよ。水も見たい」
女が男を見た。
男は坂の上へ目をやり、しばらく黙っていた。それから肩の布を手繰り寄せ、荷車の横へ回った。
「戻ろう。まだ、少しなら」
二人で荷車の向きを変える。
立香も脇へ寄り、車輪が道の端へ落ちないよう手を添えた。
村は、先ほど煙が見えた斜面にあった。
木と石で造られた家々の間を抜け、広場に面した建物へ向かう。入口の前には腰掛けと水桶が置かれ、洗った布が干されていた。
女は荷車を軒下へ置くと、戸口で手を洗った。立香もそれに倣う。
中へ入ると、外の風が届かなくなった。
開け放した窓の下に、寝床が並んでいる。起き上がってこちらを見る人もいれば、足音に顔を向けることもできず横たわったままの人もいた。
壁際の棚には、小さな器と蓋つきの瓶が並べられていた。女がその一本を取る。
「飲んだ分は、この板に印をつけています。世話を交代しても、重ねて飲ませないように」
瓶のそばには、人の名らしい文字と、短い線を刻んだ板が掛けられていた。
女がそれを確かめている間に、窓際の寝床から器の触れ合う音がした。
横たわっていた老人が、枕元の椀へ手を伸ばしていた。
指が縁を滑る。立香はとっさに近づき、倒れかけた椀を押さえた。
「これですか」
老人は頷いたが、返事は息に紛れた。吸うたびに肩が持ち上がる。椀を求める手は、立香が支えても震えていた。
「少し待って。今、持ってきたから」
女が椀へ水を注いだ。
立香は老人の背に腕を入れ、上体を起こすのを手伝った。薄い衣服の下で、呼吸のたびに骨が動く。
女が椀を口元へ運ぶと、老人は僅かずつ水を飲んだ。
数口で、喉を鳴らす音が変わった。
短く途切れていた息が、ゆっくり吐き出される。立香の袖を掴んでいた指から力が抜け、肩の上下も小さくなった。
「……すまんな」
「いいえ。もう横になれますか」
今度の頷きは、はっきりしていた。
背を寝床へ戻し、立香は腕を抜いた。老人は目を閉じたが、その胸は先ほどより穏やかに動いている。
空になった椀の底に、透明な水が一滴残っていた。
『先輩。そのお水を、少し確認させてもらえますか』
通信機から声がして、女がびくりとした。
「一緒に調べてくれている仲間です。離れたところから話せるんです」
立香が説明すると、女は戸惑いながらも瓶を差し出した。
許可を得て、残った水へ通信機を近づける。アトラスも脇から瓶の中を覗いた。
「飲ませれば治るのか」
「楽にはなるんです。でも、しばらくするとまた苦しくなる。だから、なくなる前に汲みに行かないと」
「竜は採水を許しているのだな」
女の目が、入口へ向いた。
若い男が、戸口に立っていた。中には入らず、肩から外した白い布を両手で持っている。
「一人、連れていけば」
女の声が低くなった。
「その日は、水を汲ませてくれます」
立香は、瓶を持ち直した。
男の白い布が、今はよく見えた。裾に細い刺繍がある。道を歩くための上着ではなかった。
「一人って……」
「今日は俺です」
男が言った。
声は思ったより近くに響いた。寝床の一つで、人が顔を背けた。
「それを着て、泉へ?」
「はい。水を汲む者と、差し出す者がわかるように」
立香は男の顔を見た。
坂道でこちらを振り向いた時と同じ顔だった。竜を倒すと言った時、真っ先に顔を上げたのはこの人だった。
「連れていかなかったら、どうなるんですか」
「水には近づけません。前に、竜が寝ている隙に汲もうとした者もいたそうですが……戻らなかったと」
女が、立香の手から瓶を受け取った。
栓をして、棚へ戻す。その手つきは先ほどと変わらず丁寧だった。
「この人たちは、水がなければ生きられないんです」
立香は、すぐには答えられなかった。
背後で布の擦れる音がした。
「竜がいなくなっても、水が使えるなら」
男は白い布を一度畳みかけて、手を止めた。
「俺は、行かなくていいんですよね」
立香の口から、頷くより先に返事が出そうになった。
けれど、その手前で、通信機が小さく鳴った。
『立香ちゃん。水には確かに魔力がある。薬として働いているのは、それだろうね』
ダ・ヴィンチの声に、立香は腕を上げた。
「竜を倒しても、これは残る?」
『……今の観測だけでは、保証できない。泉そのものに力があるのか、竜の力が水に及んでいるのか。後者なら、竜を倒した後は普通の水しか汲めなくなるかもしれない』
棚に戻された瓶を、立香は見た。
あの瓶が空になったら、次に老人が苦しくなった時、何を飲ませればいいのだろう。
「泉へ行く刻限は」
アトラスが、戸口の男に尋ねた。
「太陽が、隠れるまでに」
「今日の蝕を知っていたのか」
「前にもありました。空がああなると、竜が人を寄越せと。水を汲むのも、日が隠れるまでに済ませるようにと言われています」
立香は窓へ顔を向けた。
床へ落ちる光の端で、葉の影が揺れている。
『先輩、少し、映像を空へ――』
マシュの声が雑音に埋もれた。
立香は窓に近づき、通信機を外へ向ける。
「これで見える?」
『はい。到着時より、欠けている部分が広がっています。それと、こちらの通信状態も……』
『同じ間に悪くなっているね。偶然かどうか、確認を急ぐ。通信が聞き取りづらくなったら、すぐに知らせてほしい』
立香は短く応じた。
海岸で見上げた時には、珍しいと思っただけだった。窓の外はまだ明るい。それでも、残された明るさを数えたくなった。
振り返ると、入口の外にギルガメッシュが立っていた。
柱へ預けていた背を離し、赤い瞳をこちらへ向ける。
「話は聞いたな。出てこい」
立香はもう一度、若い男を見た。
「少し、待っていてください」
男は頷いた。
白い布を手にしたまま、立香たちが通れるよう戸口を空けた。
*
集会所を離れても、袖に触れていた指の感触が残っていた。
立香は歩きながら、自分の袖口を見た。老人が掴んでいたところに、小さな皺が寄っている。
薬を飲んで、ようやく息ができるようになった。その水を、これから自分たちが取り上げるかもしれない。
家並みが途切れたところで、ギルガメッシュが足を止めた。
村へ入ってきた道が、低い石垣の向こうへ続いている。その先を辿れば、泉のある岩山へ行けるはずだった。
「竜を討つ。支度をしろ」
立香は顔を上げた。
「待って。泉の水が使えなくなるかもしれないんだよ」
「聞いていた」
「だったら、先にあの人たちの薬をどうにかしないと」
「どうする」
すぐに問われて、言葉が止まった。
集会所の棚には、まだ瓶があった。けれど、あれで何人が、いつまで生きられるのか。立香は知らない。
「……それを、調べたい」
「調べ終えるまで、空が待つか?」
ギルガメッシュは頭上を顎で示した。
空はまだ青かった。光が残っていることが、猶予の保証にはならないのだと、今はわかる。
「このまま竜を置けば、あの男は喰われる。討てば、薬が失われるやもしれぬ。さて、貴様は何を選ぶ」
白い布を握っていた手が浮かんだ。
行かなくていいんですよね、と訊かれた。まだ、答えられていない。
「あの人も、行かせたくない」
「ならば竜を討てばよい」
「でも、病気の人たちは――」
「それで、貴様までここに留まるか」
立香は口を閉じた。
ギルガメッシュの声に、まだ苛立ちはなかった。立香が何を言うか、それを待っているように見えた。
自分たちには、帰る場所がある。
カルデアに戻れば、ほかの人にも力を借りられる。薬を作れる人も、竜に詳しい人もいる。
けれど、そのためにこの場の薬を断ってしまっていいのだろうか。
人理焼却の間は、帰らなければならなかった。
自分が倒れれば、そこで終わる。そう言われて、そう思って、どの特異点からも生きて戻ってきた。
今は、世界がある。
自分がいないところでも、人は暮らしている。
「……私が帰るために、あの人たちが困るなら」
言葉にすると、筋が通っているように思えた。
だから、そのまま続けた。
「私はもう人類最後のマスターじゃないから、帰れなくても誰も困らない。ここの人たちを困らせてまで帰っていいのかって――」
ギルガメッシュの目から、表情が消えた。
言いかけた言葉が、喉に残った。
赤い瞳は、変わらず立香へ向けられている。それなのに、つい今しがたまでこちらの返事を待っていた男が、急に遠くなった気がした。
「……それが、貴様の答えか」
低い声だった。
立香は唇を開いたが、言葉が出なかった。
黄金の光が、一つだけ開いた。
そこから抜かれた剣を、ギルガメッシュが無造作に持ち上げる。
切っ先が、立香の喉元を向いた。
「ならばこの場で終わらせてしまってもかまうまいな?」
息を吸えなかった。
刃はまだ触れていない。けれど、唾を呑もうとした喉が、ひどく狭く感じられた。
足が半歩、後ろへ動いた。
切っ先は追ってこなかった。それだけの距離を空けても、少しも遠ざかった気がしない。
避けられない。防げない。
この男が手を動かせば、それで終わる。
『先輩……?』
通信機から聞こえた声に、答える余裕がなかった。
立香は剣から目を離せずにいた。
帰れなくてもいい、と言った。
終わってもいいとは言っていない。
言っていないのに、では自分は何を続けるつもりだったのかと問われると、今は何も言葉にならなかった。
帰りたい場所も、まだ会いたい顔もあった。
それを一つずつ思い浮かべるより早く、身体が後ろへ逃げようとしている。
「……終わるわけにはいかない」
声は掠れた。
立香はもう一度息を吸い、切っ先の向こうを見た。
「終わるわけにはいかない」
赤い目は、笑わなかった。
「ならば帰れ。おのれの足で立ち、邪魔をするものを討て。ここで立ち腐れることを、あの雑種どものためなどと抜かすな」
青い穂先が、立香の目の前を横切った。
金属の触れ合う音が、短く鳴る。
三叉の槍が剣を横へ押し退け、その間へアトラスが踏み込んだ。立香からは、紺碧の肩と、その向こうにいるギルガメッシュの顔が見えた。
「マスターは帰す」
アトラスが言った。
「だが、それで患者の行く末まで決まったわけではない」
剣と槍が、触れたまま止まっていた。
ギルガメッシュの視線が、立香からアトラスへ移る。
「大洋王。貴様が肩代わりすれば、その戯言も通ると思わせるぞ」
「残ればよいとは言っていない」
「ならば、その槍を退けろ」
「薬を失っても患者を生かせるか、まだ確かめていない。マスターの帰還を理由に、そこまで決したことにするな」
槍は動かなかった。
立香はアトラスの背を見た。こちらを振り返ることも、落ち着くように言うこともない。
「竜に生殺与奪を委ねる雑種どもがどうなろうと、我の知ったことではない。それを口実に、我がマスターがおのれを投げ捨てることは許さぬ」
「己(おれ)も、マスターをこの地へ捨て置くつもりはない」
「ではどうする。患者を抱え、竜を飼い、日が尽きるまでここで眺めるか」
「病と薬を調べる。何人に、どれだけ要るか。泉のほかに手がないか」
「なければ?」
「その時の条件で、己が裁定する」
返事に間はなかった。
「今、何も知らぬまま失わせることは認めない」
風が、二人の間を抜けた。
立香の髪が頬に触れたが、払うための手を上げられなかった。
「アトラス……」
名を呼ぶと、血色の瞳が僅かにこちらを向いた。
「己が決めている」
短く告げて、アトラスはギルガメッシュへ向き直った。
立香は、開きかけた口を閉じた。
私が変なことを言ったから。
そう言えば、この槍を退けてもらえると思ったのだろうか。
マスターは帰す、とアトラスは言った。そのうえで、槍を退けなかった。その先にいる患者たちのことを、まだ終わった話にしていない。
ギルガメッシュが、剣を引いた。
刃が槍から離れ、黄金の光の中へ消える。
立香はようやく息を吐きかけた。
「我が片づけるまでに済ませるのだな」
その声に、吐きかけた息が止まった。
ギルガメッシュは既に身を翻している。
「英雄王」
アトラスが呼び止めた。
「患者を生かす手がないまま竜を討つなら、己はお前を止める」
黄金の足が止まった。
振り向いた顔に、笑みが浮かぶ。
管制室で宝の話をしていた時とも、立香の忘れ物を笑った時とも違う。立香はその笑みを見て、アトラスの槍がまだ下がっていないことに気づいた。
「ならば、止めてみせよ。大洋王」
ギルガメッシュは歩き出した。
今度は、呼び止める声もなかった。
立香はその背を見送った。
名を呼びたかった。さっきの言葉を取り消したかった。けれど、何と言えばこちらを振り向くのか、わからなかった。
黄金の姿が木々の向こうへ消えてから、アトラスが槍を下ろした。
「戻るぞ、マスター」
立香は頷いた。
踏み出そうとして、膝にうまく力が入らなかった。片足を置き直し、それから歩いた。
喉元には何も触れていない。指で確かめても、傷はなかった。
それでも、剣が現れる直前の、あの目が離れなかった。
*
集会所へ戻る道で、立香が足を速めた。
「アトラス。急がないと、王様が竜を倒しちゃう」
「あの男は先に宝物庫を探る」
アトラスは歩みを止めずに答えた。
竜の蓄えを見に来た男が、その中身を確かめもせず、巣ごと戦場に変えるとは思わない。宝の在り処と値を、おのれの目で確かめる。それを他人の報告で済ませる男でもなかった。
ならば、己は村を調べる。
今から追って争うよりも、患者を生かす手を探す方が先だった。
「じゃあ、まだ間に合う?」
「そのために動く。マスター、聞き取りを頼む」
立香がこちらを見上げた。
「病にかかったのはいつか。その前に何を食べ、どこへ行ったか。水を飲むと、どれほどの間は楽になるか」
「わかった。話せる人から聞けばいい?」
「ああ。話せぬ者には、世話をしている者がいよう。そちらに聞け」
返事はまだ小さかったが、立香は集会所へ目を向けた。
先ほどまでのように、背後の道を振り返ることはなかった。
戸口では、若い男が白い布を肩へ掛け直していた。
アトラスたちを見て、その手が止まる。
「水と食料の蓄えを見たい。誰に聞けばよい」
「食料なら、俺が。水は、中で世話をしている人に聞いた方が」
「では、案内せよ」
男は布を見下ろした。
「……その前に、泉へ行かなくていいんですか」
「行かせぬ」
男の目が上がった。
「だが、竜が待っているんです。日が隠れても誰も来なかったら、今度は村へ来るかもしれない」
「ここを襲うなら、己が相手をする」
差し出す者を村へ引き戻した以上、竜の要求を放置している暇はない。患者を調べる時間にも限りがあった。
男はしばらく布を握っていたが、やがて肩から下ろした。戸口の腰掛けへ畳んで置く。
「倉は、こっちです」
その手が自由になってから、アトラスは歩き出した。
食料庫は集会所の裏手にあった。
戸を開けると、乾いた草と穀物の匂いがした。床から浮かせた棚に籠が並び、天井の梁からは魚を吊っている。
男は入口近くの袋を開いた。
「麦はここです。こっちが豆。奥には干した根があります」
「普段は何を食べる」
「根の粉を焼いたものか、煮たものを。麦と混ぜることもあります。魚は獲れた分だけ。病人には、粉を薄く煮て食べさせています」
根は薄く切られ、籠いっぱいに積まれていた。割れた断面は黄色い。隣には、挽いた粉を入れた袋がある。
アトラスは一片を手に取った。これを見ただけで、病の正体がわかるわけではない。
「どこで採る」
「川沿いです。この村では昔から食べています」
「病も昔からか」
「俺が生まれる前から。軽く済む人もいますが、寝ついたら、泉の水がないと」
食べ物、汲み水、畑と漁場。男に一つずつ場所を聞き、通信越しにカルデアへ伝える。
話の途中で立香が戻ってきた。
「アトラス、病気になっていない人にも聞いていい?」
「何か違いがあったか」
「寝ている人たち、ほとんど毎日、根の粉を食べてる。でも、同じ家で暮らしていても平気な人がいるんだって。その人たちが何を食べてるか、確かめたい」
「聞け。水を汲む場所も同じか、併せて頼む」
立香は頷き、戸口の男へ向き直った。
「その人の家、教えてもらえますか。寝ているお父さんに訊いたんですけど、広場から二つ目って、どっち側か聞きそびれて」
「俺が呼んできます。今なら家にいるはずですから」
男が出ていく。
アトラスは棚の麦と豆へ目を戻した。袋の底を確かめ、男から聞いた村の人数と照らす。別のものを食べさせるなら、まずその量が要る。
ほどなく、立香が二度目の聞き取りを終えた。
「同じ井戸を使ってる。でも、根の粉を食べる量が違った」
手元の記録を見ながら、立香が続ける。
「漁に出る人たちは、船へ麦の焼き餅を持っていくことが多いんだって。根の方は崩れやすいから。家で一緒に食べることもあるけど、毎日じゃない。病気の人がいる家を、ほかにも何軒か聞いてみた。同じ食べ方をしていて平気な人がいないか、もう少し確かめたい」
アトラスは記録を受け取った。
名前の横に、食事と発症時期が書き添えてある。病人だけを並べた時には見えなかった偏りがあった。
「これも管制へ送れ。根と粉を先に調べてもらう」
「うん」
返事をしたのに、立香は動かなかった。
顔を上げ、アトラスを見ている。
「ほかにもあるか」
「……あの」
言いかけた声が細くなった。
すぐには治療へ繋がらない。それを気にしているのだろうと、アトラスは考えた。患者たちから話を聞き出した成果は、既にここにある。
「マスターの聞き取りで、調べるべきものが絞れた」
立香の手元へ記録を戻す。
「無駄にはなっていない」
「うん。でも、仕事のことじゃなくて……」
アトラスは口を閉じた。
立香は記録を受け取ったまま、こちらを見ていた。
「……そうか」
何を、と尋ねる前に、倉の外から呼ぶ声がした。
世話役の女が、薬の瓶と板を抱えて来ていた。
「水は、一度ここへ持ってきた方がいいでしょうか。それとも、集会所で?」
「動かさずともよい。己が行く」
立香が半歩退いて、戸口を空けた。
「これ、送ってくるね」
記録を少し持ち上げてみせ、そのまま女と外へ出ていった。
アトラスは二人の後を追った。
立香はカルデアと連絡を取り、根と粉の検査に移った。病人に与えている食事も比べたいという指示に、女が煮たものを器へ取り分ける。
集会所では、瓶の数と、一日に使う水の量を確かめた。
大きさの違う椀で与えていたため、板の印だけでは量が揃わない。女が普段使う椀を並べ、空の器へ水を移して見せた。立香がその量を記録していく。
「家に置いてある分もあります。歩ける人は、ここへ飲みに来なくていいように」
「その分も数えたい。取り上げはせぬ。残りの量と、飲む人数を知らせよ」
若い男が頷き、板を受け取った。
集めるべき数字を女と確かめてから、家々へ向かう。
水の入った瓶が一つ、陽の当たる窓辺に置かれていた。アトラスは手を伸ばし、棚の陰へ移した。
その時、立香の通信機から声が戻った。
『根と粉、それから食事の検査結果が揃ったよ。あの根に含まれる成分が原因だ。普段の干し方や煮方では残ってしまう。食事の聞き取りとも一致する』
ダ・ヴィンチの声には、ところどころ雑音が混じっていた。
立香が問い返す。
「食べるのをやめれば、よくなる?」
『これ以上取り込むことは防げる。でも、今寝ている人たちは、それだけでは回復できない。泉の水は治療を終わらせず、身体が壊れるのを抑えているんだろう』
立香が棚の瓶を見た。
アトラスは世話役の女へ向き直る。
「根も粉も、食事から外す。病人へ与える分もだ」
女の手が、板の上で止まった。
「食べやすいようにと思って、ずっと……」
「今から変えよ。麦と豆はある。煮て与えられるか」
女は一度、寝床の方を見た。
それから頷いた。
「麦を挽けば、粥にできます。元気な人には豆を回して、粉をこちらへ」
「それでよい。村の家々にも知らせたい。調理をする者を呼べるか」
「呼んでもらいます。もう煮ている家もあるでしょうから」
女は入口にいた村人へ声をかけた。鍋に入れてしまったものも、今日は食べずに置いておくように、と言い添えている。
アトラスは倉へ戻り、根と粉の置かれた棚を男に示した。
ちょうど聞き取りから戻ったところだった。抱えていた板を置き、二人で袋を移す。
「これは捨てるんですか」
「食べられるようにする手立ては、後で調べる。今はほかのものと分け、誰が見てもわかるようにせよ」
男は空の棚板へ印をつけた。
そこへ袋を置き、隣に積んであった麦を手前へ出す。別の村人が入ってきて、言われる前に空いた場所を掃き始めた。
何を避ければよいか、何を代わりに使えるか。それがわかれば、人は動いた。
アトラスは彼らに倉を任せ、戸口へ退いた。
集会所から、麦を運んでほしいと声がかかった。
若い男が袋を肩へ担ぐ。腰掛けの白布には手を伸ばさず、開いている戸をくぐっていった。
「アトラス」
立香が、書き足した記録を持ってきた。
「家にある薬の分も集まった。飲む量が多い人と、少なくて済む人がいるから、分けて数えてる」
「ああ」
「もう、根の粉を使わないように伝わったって」
これ以上、同じ原因で病む者を増やさずに済む。
だが、集会所の寝床は一つも空いていない。薬の瓶も、調べている間に一本が空になった。
アトラスは立香から記録を受け取った。
「では、残った水でどこまで保つかを確かめる」
戸口を抜ける風が、白布の端を揺らした。
空の光は、先ほどよりも薄くなっていた。
*
岩壁の裂け目から、金貨がこぼれていた。
数枚は土に半ば埋まり、残りは洞穴の奥へ点々と続いている。ギルガメッシュはその一枚を拾い、指の間で裏返した。
表にも裏にも目を通し、近くの岩へ置く。
「今度は、溜め込む暇があったと見える」
洞口の脇には、深い爪痕が残っていた。
その上から新しい傷が幾筋も重なり、岩の角を丸く削っている。黄金の鎧が、その傷に触れることもなく暗がりへ入った。
『――メッシュ王。現在……』
通信の声が、雑音に切り分けられた。
ギルガメッシュが足を止める。
「位置は拾えておるか」
返ってきたのは、短い音だけだった。
「おい」
応答は続かなかった。
ギルガメッシュは洞口へ半身を戻した。通信機を一度確かめたが、そこでも声は戻らなかった。
舌打ちが一つ、岩に響いた。
洞穴の奥には、宝が積まれていた。
金貨に交じって銀の皿が傾き、縁から真珠の連なりが垂れている。砕けた木箱の中には、布に包まれたままの飾り帯があった。天井の隙間から差す光が、杯に嵌め込まれた赤い石を照らしていた。
ギルガメッシュは杯を取り上げた。
底の刻印を見て、横へ置く。その下に隠れていた短剣を鞘から僅かに抜き、戻した。
金貨の山を回り込みながら、視線が一つずつ品を拾っていく。
奥の壁際で、足が止まった。
横倒しになった盾の陰に、壺があった。
片腕で抱えられるほどの大きさで、胴は鈍い金色をしている。宝石も、垂れ飾りもない。口の縁を細い刻線が巡り、その一か所を、斜めの傷が断っていた。
ギルガメッシュは盾を退けた。
壺を持ち上げ、傾ける。
何もこぼれなかった。
底に溜まった砂が、乾いた音を立てた。口を下へ向けると、それも岩の上へ落ちた。
空になった器を、ギルガメッシュは光の下へ運んだ。
内壁に、薄い輪が残っていた。
かつて液体が満ちていた高さに沿うような、淡い金色の跡だった。器を傾けても、それは流れなかった。
ギルガメッシュの指が口縁をなぞる。
刻線を横切る傷のところで止まり、壺の内側へ向いた。
指先のすぐ下で、金の輪が微かに光った。
「……ほう」
赤い瞳が細くなる。
ギルガメッシュは器を持ち直し、洞口へ歩いた。
外へ出ると、岩山の向こうから水音が聞こえた。
その音を押し潰すように、低い唸りが響く。洞口の縁から、小石が一つ転げ落ちた。
ギルガメッシュは唸りのした方角を見た。
次いで、空を仰ぐ。
太陽は欠けていた。
海岸で見えたものよりも、黒く食い込んだ部分が大きい。
視線が、手の中の壺へ戻った。
その口元に、ゆっくりと笑みが浮かんだ。
岩壁に沿って、細い道が上へ伸びている。
水音のする窪地を回り込み、その上の張り出しへ続く道だった。
ギルガメッシュは壺を携え、最初の岩段へ足をかけた。
*
立香は、最後の数字を書き込んだ。
集会所にある分と、家々に置かれていた分。一人ずつの飲む量を足し、残った水と照らし合わせる。
隣で世話役の女が、同じ記録を指で辿っていた。
「今の飲ませ方なら、三日分はあります」
立香は顔を上げた。
村外れの石垣に広げた記録へ、木の影が落ちている。通信が少しでも安定する場所を探して、ここまで出てきていた。
「その間に、薬を作れれば……」
通信機へ目を向ける。
ダ・ヴィンチが答えるまでに、少し間があった。
『調べてもらった材料では、難しい。手当てはできても、泉の水を置き換えられるほどの薬にはならないよ』
立香は記録を見下ろした。
使えると思ったものには印をつけていた。食料、村で傷や熱に使ってきた薬草、手持ちの物資。そのどれも、あの水の代わりにはならなかった。
『汲み置きの水は、泉との魔力の繋がりがない。一度汲んだ分は、それ自体が薬になっている。竜を倒しても、今ある分までは失われずに済みそうだ』
「でも、なくなったら、それで終わりなんだよね」
『補充できなくなるおそれはある。そこは変わらない』
三日。
立香は書いた数字の隣に、小さく線を引いた。
今日、竜を倒した途端に、患者たちが死んでしまうわけではない。それは、さっきまでわからなかったことだった。
けれど、三日経てばどうなるのか。答えはまだない。
『それと、帰還について話がある。アトラスも聞いてくれるかい』
「聞いている」
石垣の向こうを見ていたアトラスが、こちらへ顔を向けた。
ダ・ヴィンチの声に雑音が重なり、立香は通信機の向きを直した。
『蝕と干渉の連動が確認できた。太陽が欠けるにつれて、こちらで拾える情報も失われている。帰還座標だけじゃない。君たちの存在証明を続けるための繋がりまで、削られているんだ』
女が、空を見上げた。
『太陽が完全に隠れたら、その繋がりも切れる。そうなれば、こちらから三人を引き戻せなくなる』
「……竜を倒しても?」
『切れた後では遅い。妨害を止めても、今回のレイシフトを支えていた繋がりは復元できない』
立香は通信機を握った。
帰れない、と海岸で聞いた時には、竜をどうにかすれば済むと思っていた。順番に問題を片づけていけば、最後には帰れるのだと。
「日が隠れる前に、竜を倒して帰らないといけないんだね」
『そうだ。帰還処理の時間も要る。ぎりぎりまで戦えるとは思わないでほしい』
木陰の境が、石垣の上でぼやけていた。
立香は視線を記録へ戻した。
食べてはいけないものがわかった。残っている薬も数えた。これを持って帰れば、カルデアで続きを調べられる。
ここに残ったまま繋がりが切れたら、通信の向こうにいる人たちの力を、借りられなくなる。
「カルデアなら、別の薬を用意できる?」
『試せる手段は増える。この記録があれば、治療の準備を進められるよ。戻ってくれれば、薬と一緒に改めて送り出すことも考えられる』
立香はアトラスを見た。
「竜を討つ」
返ってきた言葉は、短かった。
「帰還の道を開く。ここで治しきれぬなら、記録を持ち帰り、外から薬を持ち込む」
女が記録から手を離した。
「戻ってきて、くださるんですか」
「そのために帰る」
アトラスは女へ向き直った。
「必ず薬が間に合うとは、まだ言えぬ。だが、この地で探すだけでは手が尽きる。外へ求める道まで失うわけにはいかない」
女は黙って聞いていた。
腰に下げた鍵を、一度握り直す。
「調べる前は、泉を失った後に患者がどれほど保つかもわからなかった。今は、汝らが蓄えていた水で、次の手を試す猶予がある」
アトラスの手が、石垣に置かれた板へ触れた。
「その猶予を使う。己が竜を討つ。汝らには、この水で患者を保たせてもらう」
立香は、二枚の記録を見た。
カルデアへ持ち帰るものと、村へ残すもの。同じ名前と数字を、女と二人で書き写した。
竜を倒して帰る。その言葉は、ギルガメッシュが言ったものと変わらない。
けれど、アトラスの前には、調べて揃えたものがあった。泉を失った後のことを、誰も考えないままにしておくつもりではなかったのだ。
女が板を取り上げた。
「飲ませた分は、今までどおり記録します。量を増やした人がいたら、それも」
「ああ。家にある分が先に尽きる者もいよう。集会所の分と併せて見ておけ」
「わかりました。食事のことも、交代する人へ伝えます」
立香は手元の記録を畳み、しまった。
「私が、持って帰ります」
女の目がこちらへ向いた。
「誰が何を食べて、いつ苦しくなって、どれだけ薬が要るか。ちゃんと伝えます。帰ってから、また最初から聞き直さなくて済むように」
言ってから、書き漏らしがないか気になった。
しまったばかりの記録へ手を置くと、女が小さく頷いた。
「あの子にも、聞いておきたいことはありますか。戻ってきたら、今度は粉を挽き始めてしまって」
立香は集会所の方を見た。
若い男の姿はここから見えない。白い布を握っていた手で、今は病人の食事を作っているのだろう。
「泉までの道を、最後に確かめたいです」
女は男を呼びに行った。
立香はアトラスと二人、石垣のそばに残った。
『こちらでも帰還の準備を進めます。先輩、観測が戻ったら、すぐにお知らせします』
「お願い、マシュ」
返事の途中で、また小さく雑音が鳴った。
「ギルガメッシュは?」
『断続的に反応は拾えています。ただ、会話を続けられる状態ではなくて……。そちらの方針も、送信を続けます』
立香は礼を言い、腕を下ろした。
今度会ったら、何と言えばいいのだろう。
患者を生かすための手を探した。だから竜を討てる。そう伝えれば、あの目は元に戻るだろうか。
「マスター」
呼ばれて、顔を上げる。
アトラスはまだ隣にいた。立香の返事を待っている。
「……うん。聞いてる」
「道を確かめたら発つ。支度を」
立香は頷いた。
記録を収めたところを留め直し、通信機を確かめる。
戻ってきた男は、粉のついた手を服で拭っていた。
道が分かれる場所と、足場の悪いところを教えてくれた。最後に、泉の手前には身を隠せる岩がある、と付け加えた。
「そこを越えると、竜から見えます」
「わかった。ありがとう」
男は頷き、道を空けた。
女は板を抱えたまま、村側に立っている。
アトラスが槍を取った。
薄れた陽を受け、三叉の穂先が青く光った。
「行くぞ」
立香はその隣へ並んだ。
背後では、女が男へ何かを頼んでいた。応じる声と、村へ戻る足音が聞こえた。
前方の岩山から、低い唸りが響く。
立香は顔を上げた。
まだ明るさの残る空の下、泉へ向かう道を登り始めた。
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