The Reversed Star――逆位置の星――   作:ほいみん

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FGO二次創作長編『The Reversed Star――逆位置の星――』です。

※独自解釈/女性体オリジナルサーヴァント/ギルガメッシュ×アトラス/本文に文章生成AI補助あり
※掲載イラストは作者による手描きです。

詳しい注意事項・制作FAQはこちら:
【作品案内URL】
https://docs.google.com/document/d/1GdwYLijsN-D6iR4MKAlV2ziDaThI6rrddGUy8nim0KE/edit?usp=drive_link


カルデア小話 その6
王は道を分かつ


 管制室の画面を覗き込んだギルガメッシュが、満足げに顎を上げた。

 

「今度は、いくらか溜め込んだようだな」

 

 立香は、画面から黄金の王へ目を移した。

 映っているのは海図と、島の一角に重なる幾つかの光点だ。宝箱の絵も、金貨の枚数も表示されてはいない。

 

「それ、見ただけでわかるの?」

「見てわからぬ貴様に、わざわざ見せてやっているのだ。よく覚えておけ」

「どこを?」

「はいはい。説明はこちらからするよ」

 

 ダ・ヴィンチが二人の間へ手を差し入れ、画面を拡大した。

 海の中に浮かぶ島が大きくなる。中央近くのひときわ強い反応を、その指が示した。

 

「場所はオケアノス。修復後も残っている歪みの一つだ。ここに竜種と思われる反応がある。それに、周囲には性質の違う魔力反応がいくつも集まっているんだよね」

「竜の巣?」

「その可能性が高い。中身までは、行って調べてみないとわからないけど」

「棲みついて間もない獣の寝床では、こうはなるまい。今度は空振りもあるまいよ」

 

 今度は、と繰り返す声がやけに楽しそうだった。

 立香の隣で、アトラスが顔を向けた。

 

「前にも行ったのか」

「うん。同じオケアノスで、竜を倒したんだけど……」

 

 立香は一度、ギルガメッシュを見た。本人は既に画面の別の光点を眺めている。

 

「宝を溜め込む前だったんだよね」

「倒すのが早すぎたという話だ。竜としての務めも果たさぬうちに討たれるとは、使えぬにも程がある」

「竜って、そんな仕事まであるの?」

「覚えたな」

 

 そこは覚えていいのだろうか。

 立香がアトラスを見ると、血色の瞳もまたこちらを見ていた。

 

「討伐には成功したのだな」

「それは、ちゃんと」

「ならば任務は果たしている」

 

 短い言葉に、立香は少し胸を張った。

 すぐ横から鼻で笑う声がした。

 

「成果を竜一匹で数えるな、大洋王」

「では、何を持ち帰るつもりだ」

「我が見るに値するものを、見てから決める」

「……そうか」

 

 アトラスはそれ以上尋ねず、画面へ向き直った。

 立香には、その返事が諦めたようにも、単に聞き終えたようにも聞こえた。ギルガメッシュは気にする様子もない。

 

「ともかく、今回はその反応の調査と、竜への対処をお願いしたい。回収できる素材があれば、それもね」

 

 ダ・ヴィンチが話を戻す。

 指先で示された島の外縁に、別の印が灯った。

 

「到着地点はこの海岸。竜の反応からは距離を取ってある。まず周囲を確認して、それから内陸へ進んでくれ」

「途中で戻ることはできるか」

 

 アトラスの問いに、ダ・ヴィンチは頷いた。

 

「できるよ。修復そのものは終わっているからね。予定を変える必要があれば連絡してほしい。こちらで帰還を手配する」

「承知した」

 

 立香も海岸の印を覚えた。

 オケアノス。画面の青を見ていると、潮の匂いと、どこまでも続いていた水平線が思い出される。船の上で風に吹かれたことも、揺れる甲板を走ったことも。

 今度は島へ直接降りるのだから、船酔いの心配はなさそうだった。

 

「先輩、準備が整いました」

 

 マシュが端末から顔を上げた。

 

「現地の観測と通信は、こちらで担当します。何か見つかったら教えてください」

「うん。宝があってもなくても連絡する」

「ありますよ、きっと」

 

 マシュは真面目に頷いた。立香が笑うと、つられたように口元を緩める。

 

「皆さん、お気をつけて」

 

 ギルガメッシュは既に踵を返していた。

 立香もその後を追いかけ、並んで歩き出したアトラスへ小声で尋ねた。

 

「また何もなかったら、どうするんだろう」

「本人に訊け」

「聞こえておるぞ」

 

 前を行く王は振り返りもしなかった。

 

「余計な心配をする暇があるなら、おのれの支度を確かめよ。忘れ物を取りに戻る手間までかけさせるな」

 

 立香は思わず礼装に触れ、それから隣を見上げた。

 アトラスの視線が、手元から顔へ戻ってくる。

 

「忘れたのか」

「忘れてない。言われると気になるだけ」

 

 先を行く背中から、愉快そうな笑いが返ってきた。

 

 所定の位置につき、最後の確認に答える。

 マシュの声が通信越しの響きに変わった。立香は一つ息を吐き、肩の力を抜く。

 

「レイシフト、開始します」

 

 白い光が、視界を満たした。

 

 *

 

 足の下で、砂が鳴った。

 

 立香は目を開き、潮の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。

 波が白く崩れ、濡れた砂を薄く覆っていく。その向こうには、海がどこまでも続いていた。遮るもののない水平線を見ると、それだけで少し気分が浮き立つ。

 風に頬へ張りついた髪を払い、立香は空を仰いだ。

 

「……日食?」

 

 雲の少ない空で、太陽の端が欠けていた。

 ほんの少し、丸い縁を削り取ったように。

 

「珍しいところに来ちゃったね」

 

 隣へ声をかけながら、足元へ視線を戻す。

 三人分の影が砂浜に伸びている。光は十分にあるのに、海も砂も、思い出の中のオケアノスよりどこか色が薄い。立香は目を瞬いてから、手首の通信機へ顔を寄せた。

 

「マシュ、着いたよ。こちらは三人とも無事」

『はい、先輩。到着を確認しました。周囲に敵性反応はありません。……少々お待ちください』

 

 返事が途切れた。

 波の音に混じって、小さな雑音が鳴る。

 

「マシュ?」

『聞こえています。音声は正常です。ただ、座標の照合が……』

 

 立香は二人を見た。

 ギルガメッシュは内陸の方へ顔を向けている。アトラスは立香の視線を受け、通信機へ目を落とした。

 

『代わるよ、立香ちゃん』

 

 ダ・ヴィンチの声だった。

 

『気分はどうかな。めまいや吐き気は?』

「ないよ。ちゃんと砂の上に立ってるし、海の匂いもする」

『よし。こちらでも君の状態は確認できている。レイシフトは成功しているよ。問題は帰りの方だ』

 

 立香は、通信機へ寄せていた腕を少し持ち上げた。

 

『今、帰還用の座標を確定しようとしているんだけどね。照合に必要な部分だけ、どうしても抜けてしまうんだ』

「ここにいるのは、わかるんだよね?」

『ああ。声も届いているし、君たちの存在証明も続けられている。ただ、引き戻すにはもっと精密な位置情報が要る。このまま帰還処理を始めるわけにはいかない』

「途中でも帰れるはず、だったよね」

『そのはずだった。何かが干渉している』

 

 さっきまで指の間を気持ちよく抜けていた風が、少し冷たく感じられた。

 立香は踵を砂へ押し込んだ。靴底には確かな手応えがある。今いる場所がわからなくなる、というのは、足元がこれほどしっかりしていても起こるらしい。

 

「海岸を離れれば変わるか」

 

 アトラスが尋ねた。

 

『観測できる範囲では、島の外まで影響が広がっている。少し移動して抜けられるものではなさそうだね』

「発生源は」

『内陸だ。出発前の観測と重ねると、竜の反応があった場所に近い。まだ断定はできないけれど、まずそちらを調べる必要がある』

「竜を倒せば、帰れる?」

『その竜が干渉を起こしているなら、止められる可能性は高い。こちらでも解析は続けるよ』

 

 ギルガメッシュが鼻を鳴らした。

 

「ならば手間は変わらぬ。用を済ませて帰るだけだ」

「帰れないって言われたばっかりなんだけど」

「帰る前に討つのであろうが。何を狼狽える」

 

 それは、そうなのだが。

 立香は言い返そうとして、やめた。帰り道を塞いでいるかもしれない相手を、ギルガメッシュは出発前と同じ調子で討つと言っている。

 立香は息を吐いた。やることが決まっているのは、ありがたかった。

 

「マスター」

 

 アトラスに呼ばれ、顔を上げる。

 

「歩けるか」

「うん。具合は本当に悪くないよ」

「ならば行くぞ。異変があれば告げよ」

 

 立香が頷くと、アトラスは砂浜の先を示した。

 低い木々の間に、細い道が見える。草が途切れ、土が踏み固められていた。その奥、斜面に沿って続く緑の上へ、一筋の煙が立ち上っている。

 

「人がいる」

「道も使われている。島のことを聞けよう」

 

 立香は通信機へ向き直った。

 

「これから内陸へ向かいます。人が住んでいそうだから、まず話を聞いてみる」

『了解しました。先輩、通信はこのまま繋いでおいてください』

「うん。あ、それと、こっちは日食が起きてる。太陽が少し欠けてるんだけど、そっちからも見える?」

『映像を確認します。……こちらでも記録しておきますね』

 

 砂を踏みしめて、木立へ向かう。

 先を行くギルガメッシュに追いついたところで、靴の中へ砂が入っていることに気づいた。歩くたび、つま先の下でざらつく。気にはなったが、いったん止まって靴を脱ぐほどでもない。

 砂浜が終わると、道はゆるやかな坂になった。

 

 やがて、木々の向こうから車輪の軋む音が聞こえてきた。

 

 二人の人影が、坂を上っていく。

 一人は女で、小さな荷車を引いていた。荷台には口の狭い水瓶が幾つも並び、ぶつからないよう藁を挟んで積まれている。もう一人の若い男は、その後ろに手を添えていた。

 男の肩には白い布が掛けられていた。道端の枝に触れそうになるたび、片手で押さえて避けている。

 

「こんにちは」

 

 立香が声をかけると、二人は同時に振り向いた。

 女が足を止める。荷車が少し後ろへ戻り、男が慌てて支え直した。

 

「すみません、驚かせて。少し、お話を聞いてもいいですか」

 

 女の目が、立香から背後の二人へ移った。

 そのまま動かなくなったので、立香もつられて振り返る。金色の鎧と、紺碧の鎧。木漏れ日の下に並んだ姿は、確かに旅の途中で出会うには少々目立つ。

 

「島の外から来ました。このあたりのことを教えてもらいたくて」

「……外から?」

 

 女が、ようやく声を出した。

 男の方は立香たちと坂の先を交互に見ている。荷車を押す手に力がこもり、木の縁で指先が白くなっていた。

 

「お急ぎでしたか」

「泉へ行くところなんです」

 

 女はそう答え、空を見た。

 枝の隙間を確かめる短い仕草だった。男も同じ方を見上げてから、肩の白布を握り直す。

 立香は水瓶に目を移した。

 荷車が止まった時も、水の揺れる音はしなかった。

 

 *

 

「泉は、この先ですか」

 

 立香が坂の上を示すと、女は頷いた。

 

「岩山の下にあります。ただ、あそこには……」

「竜がいる?」

 

 荷車の後ろで、男が顔を上げた。

 

「知っているんですか」

「私たち、その竜を退治しに来たんです」

 

 男の口が、僅かに開いた。

 立香を見て、それから二人のサーヴァントを見る。荷車を支えていた手が離れかけ、また戻った。

 

「倒せるんですか。あれを」

「そのために来たと言ったであろう。案内せよ」

 

 ギルガメッシュの返事に、男が息を呑んだ。

 女の方も立香へ身を乗り出しかけたが、すぐに荷車の柄を握り直した。

 

「泉は、どうなりますか」

「泉?」

「竜を殺しても、水は今までどおり使えるんでしょうか」

 

 立香は、並んだ水瓶を見た。

 

「なるべく泉を壊さないように戦うことは、できると思いますけど……」

「水が出ればいいんじゃないんです。あの水でないと、病人が」

 

 女はそこで口を閉じた。

 男の顔からも、先ほど浮かびかけた明るさが消えている。

 

「薬なのか」

 

 アトラスが尋ねた。

 

「はい。村で病にかかった者は、あの泉の水を飲ませれば持ち直します。ほかの水では駄目なんです」

「今も患者はいるか」

「村の集会所に。世話がしやすいよう、動かせる人は集まってもらっています」

「そこへ案内せよ。水も見たい」

 

 女が男を見た。

 男は坂の上へ目をやり、しばらく黙っていた。それから肩の布を手繰り寄せ、荷車の横へ回った。

 

「戻ろう。まだ、少しなら」

 

 二人で荷車の向きを変える。

 立香も脇へ寄り、車輪が道の端へ落ちないよう手を添えた。

 

 村は、先ほど煙が見えた斜面にあった。

 木と石で造られた家々の間を抜け、広場に面した建物へ向かう。入口の前には腰掛けと水桶が置かれ、洗った布が干されていた。

 女は荷車を軒下へ置くと、戸口で手を洗った。立香もそれに倣う。

 

 中へ入ると、外の風が届かなくなった。

 開け放した窓の下に、寝床が並んでいる。起き上がってこちらを見る人もいれば、足音に顔を向けることもできず横たわったままの人もいた。

 壁際の棚には、小さな器と蓋つきの瓶が並べられていた。女がその一本を取る。

 

「飲んだ分は、この板に印をつけています。世話を交代しても、重ねて飲ませないように」

 

 瓶のそばには、人の名らしい文字と、短い線を刻んだ板が掛けられていた。

 女がそれを確かめている間に、窓際の寝床から器の触れ合う音がした。

 

 横たわっていた老人が、枕元の椀へ手を伸ばしていた。

 指が縁を滑る。立香はとっさに近づき、倒れかけた椀を押さえた。

 

「これですか」

 

 老人は頷いたが、返事は息に紛れた。吸うたびに肩が持ち上がる。椀を求める手は、立香が支えても震えていた。

 

「少し待って。今、持ってきたから」

 

 女が椀へ水を注いだ。

 立香は老人の背に腕を入れ、上体を起こすのを手伝った。薄い衣服の下で、呼吸のたびに骨が動く。

 女が椀を口元へ運ぶと、老人は僅かずつ水を飲んだ。

 

 数口で、喉を鳴らす音が変わった。

 短く途切れていた息が、ゆっくり吐き出される。立香の袖を掴んでいた指から力が抜け、肩の上下も小さくなった。

 

「……すまんな」

「いいえ。もう横になれますか」

 

 今度の頷きは、はっきりしていた。

 背を寝床へ戻し、立香は腕を抜いた。老人は目を閉じたが、その胸は先ほどより穏やかに動いている。

 

 空になった椀の底に、透明な水が一滴残っていた。

 

『先輩。そのお水を、少し確認させてもらえますか』

 

 通信機から声がして、女がびくりとした。

 

「一緒に調べてくれている仲間です。離れたところから話せるんです」

 

 立香が説明すると、女は戸惑いながらも瓶を差し出した。

 許可を得て、残った水へ通信機を近づける。アトラスも脇から瓶の中を覗いた。

 

「飲ませれば治るのか」

「楽にはなるんです。でも、しばらくするとまた苦しくなる。だから、なくなる前に汲みに行かないと」

「竜は採水を許しているのだな」

 

 女の目が、入口へ向いた。

 若い男が、戸口に立っていた。中には入らず、肩から外した白い布を両手で持っている。

 

「一人、連れていけば」

 

 女の声が低くなった。

 

「その日は、水を汲ませてくれます」

 

 立香は、瓶を持ち直した。

 男の白い布が、今はよく見えた。裾に細い刺繍がある。道を歩くための上着ではなかった。

 

「一人って……」

「今日は俺です」

 

 男が言った。

 声は思ったより近くに響いた。寝床の一つで、人が顔を背けた。

 

「それを着て、泉へ?」

「はい。水を汲む者と、差し出す者がわかるように」

 

 立香は男の顔を見た。

 坂道でこちらを振り向いた時と同じ顔だった。竜を倒すと言った時、真っ先に顔を上げたのはこの人だった。

 

「連れていかなかったら、どうなるんですか」

「水には近づけません。前に、竜が寝ている隙に汲もうとした者もいたそうですが……戻らなかったと」

 

 女が、立香の手から瓶を受け取った。

 栓をして、棚へ戻す。その手つきは先ほどと変わらず丁寧だった。

 

「この人たちは、水がなければ生きられないんです」

 

 立香は、すぐには答えられなかった。

 背後で布の擦れる音がした。

 

「竜がいなくなっても、水が使えるなら」

 

 男は白い布を一度畳みかけて、手を止めた。

 

「俺は、行かなくていいんですよね」

 

 立香の口から、頷くより先に返事が出そうになった。

 けれど、その手前で、通信機が小さく鳴った。

 

『立香ちゃん。水には確かに魔力がある。薬として働いているのは、それだろうね』

 

 ダ・ヴィンチの声に、立香は腕を上げた。

 

「竜を倒しても、これは残る?」

『……今の観測だけでは、保証できない。泉そのものに力があるのか、竜の力が水に及んでいるのか。後者なら、竜を倒した後は普通の水しか汲めなくなるかもしれない』

 

 棚に戻された瓶を、立香は見た。

 あの瓶が空になったら、次に老人が苦しくなった時、何を飲ませればいいのだろう。

 

「泉へ行く刻限は」

 

 アトラスが、戸口の男に尋ねた。

 

「太陽が、隠れるまでに」

「今日の蝕を知っていたのか」

「前にもありました。空がああなると、竜が人を寄越せと。水を汲むのも、日が隠れるまでに済ませるようにと言われています」

 

 立香は窓へ顔を向けた。

 床へ落ちる光の端で、葉の影が揺れている。

 

『先輩、少し、映像を空へ――』

 

 マシュの声が雑音に埋もれた。

 立香は窓に近づき、通信機を外へ向ける。

 

「これで見える?」

『はい。到着時より、欠けている部分が広がっています。それと、こちらの通信状態も……』

『同じ間に悪くなっているね。偶然かどうか、確認を急ぐ。通信が聞き取りづらくなったら、すぐに知らせてほしい』

 

 立香は短く応じた。

 海岸で見上げた時には、珍しいと思っただけだった。窓の外はまだ明るい。それでも、残された明るさを数えたくなった。

 

 振り返ると、入口の外にギルガメッシュが立っていた。

 柱へ預けていた背を離し、赤い瞳をこちらへ向ける。

 

「話は聞いたな。出てこい」

 

 立香はもう一度、若い男を見た。

 

「少し、待っていてください」

 

 男は頷いた。

 白い布を手にしたまま、立香たちが通れるよう戸口を空けた。

 

 *

 

 集会所を離れても、袖に触れていた指の感触が残っていた。

 

 立香は歩きながら、自分の袖口を見た。老人が掴んでいたところに、小さな皺が寄っている。

 薬を飲んで、ようやく息ができるようになった。その水を、これから自分たちが取り上げるかもしれない。

 

 家並みが途切れたところで、ギルガメッシュが足を止めた。

 村へ入ってきた道が、低い石垣の向こうへ続いている。その先を辿れば、泉のある岩山へ行けるはずだった。

 

「竜を討つ。支度をしろ」

 

 立香は顔を上げた。

 

「待って。泉の水が使えなくなるかもしれないんだよ」

「聞いていた」

「だったら、先にあの人たちの薬をどうにかしないと」

「どうする」

 

 すぐに問われて、言葉が止まった。

 集会所の棚には、まだ瓶があった。けれど、あれで何人が、いつまで生きられるのか。立香は知らない。

 

「……それを、調べたい」

「調べ終えるまで、空が待つか?」

 

 ギルガメッシュは頭上を顎で示した。

 空はまだ青かった。光が残っていることが、猶予の保証にはならないのだと、今はわかる。

 

「このまま竜を置けば、あの男は喰われる。討てば、薬が失われるやもしれぬ。さて、貴様は何を選ぶ」

 

 白い布を握っていた手が浮かんだ。

 行かなくていいんですよね、と訊かれた。まだ、答えられていない。

 

「あの人も、行かせたくない」

「ならば竜を討てばよい」

「でも、病気の人たちは――」

「それで、貴様までここに留まるか」

 

 立香は口を閉じた。

 ギルガメッシュの声に、まだ苛立ちはなかった。立香が何を言うか、それを待っているように見えた。

 

 自分たちには、帰る場所がある。

 カルデアに戻れば、ほかの人にも力を借りられる。薬を作れる人も、竜に詳しい人もいる。

 けれど、そのためにこの場の薬を断ってしまっていいのだろうか。

 

 人理焼却の間は、帰らなければならなかった。

 自分が倒れれば、そこで終わる。そう言われて、そう思って、どの特異点からも生きて戻ってきた。

 今は、世界がある。

 自分がいないところでも、人は暮らしている。

 

「……私が帰るために、あの人たちが困るなら」

 

 言葉にすると、筋が通っているように思えた。

 だから、そのまま続けた。

 

「私はもう人類最後のマスターじゃないから、帰れなくても誰も困らない。ここの人たちを困らせてまで帰っていいのかって――」

 

 ギルガメッシュの目から、表情が消えた。

 

 言いかけた言葉が、喉に残った。

 赤い瞳は、変わらず立香へ向けられている。それなのに、つい今しがたまでこちらの返事を待っていた男が、急に遠くなった気がした。

 

「……それが、貴様の答えか」

 

 低い声だった。

 立香は唇を開いたが、言葉が出なかった。

 

 黄金の光が、一つだけ開いた。

 

 そこから抜かれた剣を、ギルガメッシュが無造作に持ち上げる。

 切っ先が、立香の喉元を向いた。

 

「ならばこの場で終わらせてしまってもかまうまいな?」

 

 息を吸えなかった。

 刃はまだ触れていない。けれど、唾を呑もうとした喉が、ひどく狭く感じられた。

 

 足が半歩、後ろへ動いた。

 切っ先は追ってこなかった。それだけの距離を空けても、少しも遠ざかった気がしない。

 避けられない。防げない。

 この男が手を動かせば、それで終わる。

 

『先輩……?』

 

 通信機から聞こえた声に、答える余裕がなかった。

 立香は剣から目を離せずにいた。

 

 帰れなくてもいい、と言った。

 終わってもいいとは言っていない。

 言っていないのに、では自分は何を続けるつもりだったのかと問われると、今は何も言葉にならなかった。

 

 帰りたい場所も、まだ会いたい顔もあった。

 それを一つずつ思い浮かべるより早く、身体が後ろへ逃げようとしている。

 

「……終わるわけにはいかない」

 

 声は掠れた。

 立香はもう一度息を吸い、切っ先の向こうを見た。

 

「終わるわけにはいかない」

 

 赤い目は、笑わなかった。

 

「ならば帰れ。おのれの足で立ち、邪魔をするものを討て。ここで立ち腐れることを、あの雑種どものためなどと抜かすな」

 

 青い穂先が、立香の目の前を横切った。

 

 金属の触れ合う音が、短く鳴る。

 三叉の槍が剣を横へ押し退け、その間へアトラスが踏み込んだ。立香からは、紺碧の肩と、その向こうにいるギルガメッシュの顔が見えた。

 

「マスターは帰す」

 

 アトラスが言った。

 

「だが、それで患者の行く末まで決まったわけではない」

 

 剣と槍が、触れたまま止まっていた。

 ギルガメッシュの視線が、立香からアトラスへ移る。

 

「大洋王。貴様が肩代わりすれば、その戯言も通ると思わせるぞ」

「残ればよいとは言っていない」

「ならば、その槍を退けろ」

「薬を失っても患者を生かせるか、まだ確かめていない。マスターの帰還を理由に、そこまで決したことにするな」

 

 槍は動かなかった。

 立香はアトラスの背を見た。こちらを振り返ることも、落ち着くように言うこともない。

 

「竜に生殺与奪を委ねる雑種どもがどうなろうと、我の知ったことではない。それを口実に、我がマスターがおのれを投げ捨てることは許さぬ」

「己(おれ)も、マスターをこの地へ捨て置くつもりはない」

「ではどうする。患者を抱え、竜を飼い、日が尽きるまでここで眺めるか」

「病と薬を調べる。何人に、どれだけ要るか。泉のほかに手がないか」

「なければ?」

「その時の条件で、己が裁定する」

 

 返事に間はなかった。

 

「今、何も知らぬまま失わせることは認めない」

 

 風が、二人の間を抜けた。

 立香の髪が頬に触れたが、払うための手を上げられなかった。

 

「アトラス……」

 

 名を呼ぶと、血色の瞳が僅かにこちらを向いた。

 

「己が決めている」

 

 短く告げて、アトラスはギルガメッシュへ向き直った。

 立香は、開きかけた口を閉じた。

 

 私が変なことを言ったから。

 そう言えば、この槍を退けてもらえると思ったのだろうか。

 マスターは帰す、とアトラスは言った。そのうえで、槍を退けなかった。その先にいる患者たちのことを、まだ終わった話にしていない。

 

 ギルガメッシュが、剣を引いた。

 刃が槍から離れ、黄金の光の中へ消える。

 立香はようやく息を吐きかけた。

 

「我が片づけるまでに済ませるのだな」

 

 その声に、吐きかけた息が止まった。

 ギルガメッシュは既に身を翻している。

 

「英雄王」

 

 アトラスが呼び止めた。

 

「患者を生かす手がないまま竜を討つなら、己はお前を止める」

 

 黄金の足が止まった。

 振り向いた顔に、笑みが浮かぶ。

 管制室で宝の話をしていた時とも、立香の忘れ物を笑った時とも違う。立香はその笑みを見て、アトラスの槍がまだ下がっていないことに気づいた。

 

「ならば、止めてみせよ。大洋王」

 

 ギルガメッシュは歩き出した。

 今度は、呼び止める声もなかった。

 

 立香はその背を見送った。

 名を呼びたかった。さっきの言葉を取り消したかった。けれど、何と言えばこちらを振り向くのか、わからなかった。

 

 黄金の姿が木々の向こうへ消えてから、アトラスが槍を下ろした。

 

「戻るぞ、マスター」

 

 立香は頷いた。

 踏み出そうとして、膝にうまく力が入らなかった。片足を置き直し、それから歩いた。

 

 喉元には何も触れていない。指で確かめても、傷はなかった。

 それでも、剣が現れる直前の、あの目が離れなかった。

 

 *

 

 集会所へ戻る道で、立香が足を速めた。

 

「アトラス。急がないと、王様が竜を倒しちゃう」

「あの男は先に宝物庫を探る」

 

 アトラスは歩みを止めずに答えた。

 竜の蓄えを見に来た男が、その中身を確かめもせず、巣ごと戦場に変えるとは思わない。宝の在り処と値を、おのれの目で確かめる。それを他人の報告で済ませる男でもなかった。

 ならば、己は村を調べる。

 今から追って争うよりも、患者を生かす手を探す方が先だった。

 

「じゃあ、まだ間に合う?」

「そのために動く。マスター、聞き取りを頼む」

 

 立香がこちらを見上げた。

 

「病にかかったのはいつか。その前に何を食べ、どこへ行ったか。水を飲むと、どれほどの間は楽になるか」

「わかった。話せる人から聞けばいい?」

「ああ。話せぬ者には、世話をしている者がいよう。そちらに聞け」

 

 返事はまだ小さかったが、立香は集会所へ目を向けた。

 先ほどまでのように、背後の道を振り返ることはなかった。

 

 戸口では、若い男が白い布を肩へ掛け直していた。

 アトラスたちを見て、その手が止まる。

 

「水と食料の蓄えを見たい。誰に聞けばよい」

「食料なら、俺が。水は、中で世話をしている人に聞いた方が」

「では、案内せよ」

 

 男は布を見下ろした。

 

「……その前に、泉へ行かなくていいんですか」

「行かせぬ」

 

 男の目が上がった。

 

「だが、竜が待っているんです。日が隠れても誰も来なかったら、今度は村へ来るかもしれない」

「ここを襲うなら、己が相手をする」

 

 差し出す者を村へ引き戻した以上、竜の要求を放置している暇はない。患者を調べる時間にも限りがあった。

 男はしばらく布を握っていたが、やがて肩から下ろした。戸口の腰掛けへ畳んで置く。

 

「倉は、こっちです」

 

 その手が自由になってから、アトラスは歩き出した。

 

 食料庫は集会所の裏手にあった。

 戸を開けると、乾いた草と穀物の匂いがした。床から浮かせた棚に籠が並び、天井の梁からは魚を吊っている。

 男は入口近くの袋を開いた。

 

「麦はここです。こっちが豆。奥には干した根があります」

「普段は何を食べる」

「根の粉を焼いたものか、煮たものを。麦と混ぜることもあります。魚は獲れた分だけ。病人には、粉を薄く煮て食べさせています」

 

 根は薄く切られ、籠いっぱいに積まれていた。割れた断面は黄色い。隣には、挽いた粉を入れた袋がある。

 アトラスは一片を手に取った。これを見ただけで、病の正体がわかるわけではない。

 

「どこで採る」

「川沿いです。この村では昔から食べています」

「病も昔からか」

「俺が生まれる前から。軽く済む人もいますが、寝ついたら、泉の水がないと」

 

 食べ物、汲み水、畑と漁場。男に一つずつ場所を聞き、通信越しにカルデアへ伝える。

 話の途中で立香が戻ってきた。

 

「アトラス、病気になっていない人にも聞いていい?」

「何か違いがあったか」

「寝ている人たち、ほとんど毎日、根の粉を食べてる。でも、同じ家で暮らしていても平気な人がいるんだって。その人たちが何を食べてるか、確かめたい」

「聞け。水を汲む場所も同じか、併せて頼む」

 

 立香は頷き、戸口の男へ向き直った。

 

「その人の家、教えてもらえますか。寝ているお父さんに訊いたんですけど、広場から二つ目って、どっち側か聞きそびれて」

「俺が呼んできます。今なら家にいるはずですから」

 

 男が出ていく。

 アトラスは棚の麦と豆へ目を戻した。袋の底を確かめ、男から聞いた村の人数と照らす。別のものを食べさせるなら、まずその量が要る。

 

 ほどなく、立香が二度目の聞き取りを終えた。

 

「同じ井戸を使ってる。でも、根の粉を食べる量が違った」

 

 手元の記録を見ながら、立香が続ける。

 

「漁に出る人たちは、船へ麦の焼き餅を持っていくことが多いんだって。根の方は崩れやすいから。家で一緒に食べることもあるけど、毎日じゃない。病気の人がいる家を、ほかにも何軒か聞いてみた。同じ食べ方をしていて平気な人がいないか、もう少し確かめたい」

 

 アトラスは記録を受け取った。

 名前の横に、食事と発症時期が書き添えてある。病人だけを並べた時には見えなかった偏りがあった。

 

「これも管制へ送れ。根と粉を先に調べてもらう」

「うん」

 

 返事をしたのに、立香は動かなかった。

 顔を上げ、アトラスを見ている。

 

「ほかにもあるか」

「……あの」

 

 言いかけた声が細くなった。

 すぐには治療へ繋がらない。それを気にしているのだろうと、アトラスは考えた。患者たちから話を聞き出した成果は、既にここにある。

 

「マスターの聞き取りで、調べるべきものが絞れた」

 

 立香の手元へ記録を戻す。

 

「無駄にはなっていない」

「うん。でも、仕事のことじゃなくて……」

 

 アトラスは口を閉じた。

 立香は記録を受け取ったまま、こちらを見ていた。

 

「……そうか」

 

 何を、と尋ねる前に、倉の外から呼ぶ声がした。

 世話役の女が、薬の瓶と板を抱えて来ていた。

 

「水は、一度ここへ持ってきた方がいいでしょうか。それとも、集会所で?」

「動かさずともよい。己が行く」

 

 立香が半歩退いて、戸口を空けた。

 

「これ、送ってくるね」

 

 記録を少し持ち上げてみせ、そのまま女と外へ出ていった。

 アトラスは二人の後を追った。

 

 立香はカルデアと連絡を取り、根と粉の検査に移った。病人に与えている食事も比べたいという指示に、女が煮たものを器へ取り分ける。

 

 集会所では、瓶の数と、一日に使う水の量を確かめた。

 大きさの違う椀で与えていたため、板の印だけでは量が揃わない。女が普段使う椀を並べ、空の器へ水を移して見せた。立香がその量を記録していく。

 

「家に置いてある分もあります。歩ける人は、ここへ飲みに来なくていいように」

「その分も数えたい。取り上げはせぬ。残りの量と、飲む人数を知らせよ」

 

 若い男が頷き、板を受け取った。

 集めるべき数字を女と確かめてから、家々へ向かう。

 

 水の入った瓶が一つ、陽の当たる窓辺に置かれていた。アトラスは手を伸ばし、棚の陰へ移した。

 その時、立香の通信機から声が戻った。

 

『根と粉、それから食事の検査結果が揃ったよ。あの根に含まれる成分が原因だ。普段の干し方や煮方では残ってしまう。食事の聞き取りとも一致する』

 

 ダ・ヴィンチの声には、ところどころ雑音が混じっていた。

 立香が問い返す。

 

「食べるのをやめれば、よくなる?」

『これ以上取り込むことは防げる。でも、今寝ている人たちは、それだけでは回復できない。泉の水は治療を終わらせず、身体が壊れるのを抑えているんだろう』

 

 立香が棚の瓶を見た。

 アトラスは世話役の女へ向き直る。

 

「根も粉も、食事から外す。病人へ与える分もだ」

 

 女の手が、板の上で止まった。

 

「食べやすいようにと思って、ずっと……」

「今から変えよ。麦と豆はある。煮て与えられるか」

 

 女は一度、寝床の方を見た。

 それから頷いた。

 

「麦を挽けば、粥にできます。元気な人には豆を回して、粉をこちらへ」

「それでよい。村の家々にも知らせたい。調理をする者を呼べるか」

「呼んでもらいます。もう煮ている家もあるでしょうから」

 

 女は入口にいた村人へ声をかけた。鍋に入れてしまったものも、今日は食べずに置いておくように、と言い添えている。

 アトラスは倉へ戻り、根と粉の置かれた棚を男に示した。

 ちょうど聞き取りから戻ったところだった。抱えていた板を置き、二人で袋を移す。

 

「これは捨てるんですか」

「食べられるようにする手立ては、後で調べる。今はほかのものと分け、誰が見てもわかるようにせよ」

 

 男は空の棚板へ印をつけた。

 そこへ袋を置き、隣に積んであった麦を手前へ出す。別の村人が入ってきて、言われる前に空いた場所を掃き始めた。

 

 何を避ければよいか、何を代わりに使えるか。それがわかれば、人は動いた。

 アトラスは彼らに倉を任せ、戸口へ退いた。

 

 集会所から、麦を運んでほしいと声がかかった。

 若い男が袋を肩へ担ぐ。腰掛けの白布には手を伸ばさず、開いている戸をくぐっていった。

 

「アトラス」

 

 立香が、書き足した記録を持ってきた。

 

「家にある薬の分も集まった。飲む量が多い人と、少なくて済む人がいるから、分けて数えてる」

「ああ」

「もう、根の粉を使わないように伝わったって」

 

 これ以上、同じ原因で病む者を増やさずに済む。

 だが、集会所の寝床は一つも空いていない。薬の瓶も、調べている間に一本が空になった。

 

 アトラスは立香から記録を受け取った。

 

「では、残った水でどこまで保つかを確かめる」

 

 戸口を抜ける風が、白布の端を揺らした。

 空の光は、先ほどよりも薄くなっていた。

 

 *

 

 岩壁の裂け目から、金貨がこぼれていた。

 

 数枚は土に半ば埋まり、残りは洞穴の奥へ点々と続いている。ギルガメッシュはその一枚を拾い、指の間で裏返した。

 表にも裏にも目を通し、近くの岩へ置く。

 

「今度は、溜め込む暇があったと見える」

 

 洞口の脇には、深い爪痕が残っていた。

 その上から新しい傷が幾筋も重なり、岩の角を丸く削っている。黄金の鎧が、その傷に触れることもなく暗がりへ入った。

 

『――メッシュ王。現在……』

 

 通信の声が、雑音に切り分けられた。

 ギルガメッシュが足を止める。

 

「位置は拾えておるか」

 

 返ってきたのは、短い音だけだった。

 

「おい」

 

 応答は続かなかった。

 ギルガメッシュは洞口へ半身を戻した。通信機を一度確かめたが、そこでも声は戻らなかった。

 舌打ちが一つ、岩に響いた。

 

 洞穴の奥には、宝が積まれていた。

 金貨に交じって銀の皿が傾き、縁から真珠の連なりが垂れている。砕けた木箱の中には、布に包まれたままの飾り帯があった。天井の隙間から差す光が、杯に嵌め込まれた赤い石を照らしていた。

 

 ギルガメッシュは杯を取り上げた。

 底の刻印を見て、横へ置く。その下に隠れていた短剣を鞘から僅かに抜き、戻した。

 金貨の山を回り込みながら、視線が一つずつ品を拾っていく。

 

 奥の壁際で、足が止まった。

 

 横倒しになった盾の陰に、壺があった。

 片腕で抱えられるほどの大きさで、胴は鈍い金色をしている。宝石も、垂れ飾りもない。口の縁を細い刻線が巡り、その一か所を、斜めの傷が断っていた。

 

 ギルガメッシュは盾を退けた。

 壺を持ち上げ、傾ける。

 

 何もこぼれなかった。

 

 底に溜まった砂が、乾いた音を立てた。口を下へ向けると、それも岩の上へ落ちた。

 空になった器を、ギルガメッシュは光の下へ運んだ。

 

 内壁に、薄い輪が残っていた。

 かつて液体が満ちていた高さに沿うような、淡い金色の跡だった。器を傾けても、それは流れなかった。

 ギルガメッシュの指が口縁をなぞる。

 刻線を横切る傷のところで止まり、壺の内側へ向いた。

 

 指先のすぐ下で、金の輪が微かに光った。

 

「……ほう」

 

 赤い瞳が細くなる。

 ギルガメッシュは器を持ち直し、洞口へ歩いた。

 

 外へ出ると、岩山の向こうから水音が聞こえた。

 その音を押し潰すように、低い唸りが響く。洞口の縁から、小石が一つ転げ落ちた。

 

 ギルガメッシュは唸りのした方角を見た。

 次いで、空を仰ぐ。

 

 太陽は欠けていた。

 海岸で見えたものよりも、黒く食い込んだ部分が大きい。

 

 視線が、手の中の壺へ戻った。

 その口元に、ゆっくりと笑みが浮かんだ。

 

 岩壁に沿って、細い道が上へ伸びている。

 水音のする窪地を回り込み、その上の張り出しへ続く道だった。

 ギルガメッシュは壺を携え、最初の岩段へ足をかけた。

 

 *

 

 立香は、最後の数字を書き込んだ。

 

 集会所にある分と、家々に置かれていた分。一人ずつの飲む量を足し、残った水と照らし合わせる。

 隣で世話役の女が、同じ記録を指で辿っていた。

 

「今の飲ませ方なら、三日分はあります」

 

 立香は顔を上げた。

 村外れの石垣に広げた記録へ、木の影が落ちている。通信が少しでも安定する場所を探して、ここまで出てきていた。

 

「その間に、薬を作れれば……」

 

 通信機へ目を向ける。

 ダ・ヴィンチが答えるまでに、少し間があった。

 

『調べてもらった材料では、難しい。手当てはできても、泉の水を置き換えられるほどの薬にはならないよ』

 

 立香は記録を見下ろした。

 使えると思ったものには印をつけていた。食料、村で傷や熱に使ってきた薬草、手持ちの物資。そのどれも、あの水の代わりにはならなかった。

 

『汲み置きの水は、泉との魔力の繋がりがない。一度汲んだ分は、それ自体が薬になっている。竜を倒しても、今ある分までは失われずに済みそうだ』

「でも、なくなったら、それで終わりなんだよね」

『補充できなくなるおそれはある。そこは変わらない』

 

 三日。

 立香は書いた数字の隣に、小さく線を引いた。

 今日、竜を倒した途端に、患者たちが死んでしまうわけではない。それは、さっきまでわからなかったことだった。

 けれど、三日経てばどうなるのか。答えはまだない。

 

『それと、帰還について話がある。アトラスも聞いてくれるかい』

「聞いている」

 

 石垣の向こうを見ていたアトラスが、こちらへ顔を向けた。

 ダ・ヴィンチの声に雑音が重なり、立香は通信機の向きを直した。

 

『蝕と干渉の連動が確認できた。太陽が欠けるにつれて、こちらで拾える情報も失われている。帰還座標だけじゃない。君たちの存在証明を続けるための繋がりまで、削られているんだ』

 

 女が、空を見上げた。

 

『太陽が完全に隠れたら、その繋がりも切れる。そうなれば、こちらから三人を引き戻せなくなる』

「……竜を倒しても?」

『切れた後では遅い。妨害を止めても、今回のレイシフトを支えていた繋がりは復元できない』

 

 立香は通信機を握った。

 帰れない、と海岸で聞いた時には、竜をどうにかすれば済むと思っていた。順番に問題を片づけていけば、最後には帰れるのだと。

 

「日が隠れる前に、竜を倒して帰らないといけないんだね」

『そうだ。帰還処理の時間も要る。ぎりぎりまで戦えるとは思わないでほしい』

 

 木陰の境が、石垣の上でぼやけていた。

 立香は視線を記録へ戻した。

 食べてはいけないものがわかった。残っている薬も数えた。これを持って帰れば、カルデアで続きを調べられる。

 ここに残ったまま繋がりが切れたら、通信の向こうにいる人たちの力を、借りられなくなる。

 

「カルデアなら、別の薬を用意できる?」

『試せる手段は増える。この記録があれば、治療の準備を進められるよ。戻ってくれれば、薬と一緒に改めて送り出すことも考えられる』

 

 立香はアトラスを見た。

 

「竜を討つ」

 

 返ってきた言葉は、短かった。

 

「帰還の道を開く。ここで治しきれぬなら、記録を持ち帰り、外から薬を持ち込む」

 

 女が記録から手を離した。

 

「戻ってきて、くださるんですか」

「そのために帰る」

 

 アトラスは女へ向き直った。

 

「必ず薬が間に合うとは、まだ言えぬ。だが、この地で探すだけでは手が尽きる。外へ求める道まで失うわけにはいかない」

 

 女は黙って聞いていた。

 腰に下げた鍵を、一度握り直す。

 

「調べる前は、泉を失った後に患者がどれほど保つかもわからなかった。今は、汝らが蓄えていた水で、次の手を試す猶予がある」

 

 アトラスの手が、石垣に置かれた板へ触れた。

 

「その猶予を使う。己が竜を討つ。汝らには、この水で患者を保たせてもらう」

 

 立香は、二枚の記録を見た。

 カルデアへ持ち帰るものと、村へ残すもの。同じ名前と数字を、女と二人で書き写した。

 竜を倒して帰る。その言葉は、ギルガメッシュが言ったものと変わらない。

 けれど、アトラスの前には、調べて揃えたものがあった。泉を失った後のことを、誰も考えないままにしておくつもりではなかったのだ。

 

 女が板を取り上げた。

 

「飲ませた分は、今までどおり記録します。量を増やした人がいたら、それも」

「ああ。家にある分が先に尽きる者もいよう。集会所の分と併せて見ておけ」

「わかりました。食事のことも、交代する人へ伝えます」

 

 立香は手元の記録を畳み、しまった。

 

「私が、持って帰ります」

 

 女の目がこちらへ向いた。

 

「誰が何を食べて、いつ苦しくなって、どれだけ薬が要るか。ちゃんと伝えます。帰ってから、また最初から聞き直さなくて済むように」

 

 言ってから、書き漏らしがないか気になった。

 しまったばかりの記録へ手を置くと、女が小さく頷いた。

 

「あの子にも、聞いておきたいことはありますか。戻ってきたら、今度は粉を挽き始めてしまって」

 

 立香は集会所の方を見た。

 若い男の姿はここから見えない。白い布を握っていた手で、今は病人の食事を作っているのだろう。

 

「泉までの道を、最後に確かめたいです」

 

 女は男を呼びに行った。

 立香はアトラスと二人、石垣のそばに残った。

 

『こちらでも帰還の準備を進めます。先輩、観測が戻ったら、すぐにお知らせします』

「お願い、マシュ」

 

 返事の途中で、また小さく雑音が鳴った。

 

「ギルガメッシュは?」

『断続的に反応は拾えています。ただ、会話を続けられる状態ではなくて……。そちらの方針も、送信を続けます』

 

 立香は礼を言い、腕を下ろした。

 今度会ったら、何と言えばいいのだろう。

 患者を生かすための手を探した。だから竜を討てる。そう伝えれば、あの目は元に戻るだろうか。

 

「マスター」

 

 呼ばれて、顔を上げる。

 アトラスはまだ隣にいた。立香の返事を待っている。

 

「……うん。聞いてる」

「道を確かめたら発つ。支度を」

 

 立香は頷いた。

 記録を収めたところを留め直し、通信機を確かめる。

 

 戻ってきた男は、粉のついた手を服で拭っていた。

 道が分かれる場所と、足場の悪いところを教えてくれた。最後に、泉の手前には身を隠せる岩がある、と付け加えた。

 

「そこを越えると、竜から見えます」

「わかった。ありがとう」

 

 男は頷き、道を空けた。

 女は板を抱えたまま、村側に立っている。

 

 アトラスが槍を取った。

 薄れた陽を受け、三叉の穂先が青く光った。

 

「行くぞ」

 

 立香はその隣へ並んだ。

 

 背後では、女が男へ何かを頼んでいた。応じる声と、村へ戻る足音が聞こえた。

 前方の岩山から、低い唸りが響く。

 

 立香は顔を上げた。

 まだ明るさの残る空の下、泉へ向かう道を登り始めた。

 




活動報告で、制作裏話や本編に採用する場所のなかった掌編などを公開しています。
https://syosetu.org/?mode=kappo_view_list&uid=332978

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  • アトラスのキャラクター性・内面
  • ギルガメッシュとの関係性
  • 王としての在り方・王権のテーマ
  • ストーリーの展開
  • その他
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