The Reversed Star――逆位置の星――   作:ほいみん

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FGO二次創作長編『The Reversed Star――逆位置の星――』です。

※独自解釈/女性体オリジナルサーヴァント/ギルガメッシュ×アトラス/本文に文章生成AI補助あり
※掲載イラストは作者による手描きです。

詳しい注意事項・制作FAQはこちら:
【作品案内URL】
https://docs.google.com/document/d/1GdwYLijsN-D6iR4MKAlV2ziDaThI6rrddGUy8nim0KE/edit?usp=drive_link


第2話 順番に生きる民

 翌朝、アストライアに伴われて診療所を訪ねた立香は、戸口で足を止めた。

 

「歩ける。ほら、昨日よりずっといい」

 

 寝台に腰掛けた男が、足を床へ下ろそうとしていた。ゾーイはその前にしゃがみ、巻かれた布を解いている。

 

「まだ下ろさないでください。こちらを見てからです」

 

 男の踵を片手で支えたまま、もう片方の手を腰へ伸ばす。器具袋の口に指を掛けると、使い込まれた布が大きく開いた。内側には仕切りが並び、指は迷わず、その一つから細く畳んだ布を抜き取った。

 

 ゾーイが顔を上げ、入口の一行に気づく。

 

「もう少し待ってください。この人を診てからにします」

「はい。ここで待っています」

 

 立香はマシュと並んで壁際へ寄った。戸口を空ける位置まで下がると、ギルガメッシュは壁へ肩を預けた。アトラスも、その傍らで足を止める。

 昨日、搬入口で見た荷車には、赤茶けた布が載っていた。その荷車で運ばれた男が、今は寝台の端で、ゾーイの手元を覗き込んでいる。

 

「見張りくらいなら、できるだろう」

「立ったまま待つのも、足を使います」

 

 ゾーイが布を巻き直しているところへ、スティリオスが来た。

 

「今日の持ち場は、どうする」

「俺は戻れるつもりなんだが」

 

 ゾーイが答えた。

 

「歩けたとしても、持ち場に戻れるかどうかは別です。今日はここにいてください」

「分かった。見張りは別の奴を回す。お前は、足を治せ」

「……すまん」

「明日もここへ運ぶのは御免だぞ」

 

 スティリオスが履物を寝台の下へ寄せた。昨日は擦り剥けていた掌に、今日は細い布が巻かれている。

 

「外にいる。用があれば呼んでくれ」

 

 スティリオスが出ていくと、患者は足を寝台へ戻した。ゾーイが記録に短く書き込む。

 

「お待たせしました」

 

 立ち上がったゾーイへ、アストライアが声を掛けた。

 

「今日は、この方たちに仕事の様子を見せてあげなさい」

「これから上の区画を回ります。その後、外の作業場へ行くので、一緒に来てもらえれば」

「ええ。それでよいでしょう」

 

 女神は立香たちへ向き直った。

 

「診療と冬眠者の管理は、ゾーイに聞きなさい。船の設備は、それぞれの担当が説明します。私は広場の訴えを確認してから合流しますわ」

「分かりました。ありがとうございます」

 

 アストライアが出ていくと、ゾーイは患者を同僚へ引き継ぎ、巡回の支度を始めた。

 

「外の作業場でも、診るんですか」

「ええ。ここへ来るほどではない、と言う人もいますから。手を見せてもらうだけでも、分かることはあります」

 

 立香が頷くと、ゾーイの視線が、その腰元で止まった。

 

「その留め具、片手でも外せますか」

「これですか? はい。こうやって」

 

 立香が携行袋を開いてみせると、ゾーイが身を寄せた。

 

「押すところが小さいんですね。手袋をしていても?」

「できます。最初は、少しやりにくかったですけど」

 

「そちらの袋も、使いやすそうですね。さっき、片手ですぐに開けていたので」

 

 立香が目を向けると、ゾーイは腰の袋口へ指を掛けた。開いた縁には、地の布より明るい糸で補強が入っている。内側の仕切りにも、同じ糸が使われていた。

 

「母が、自分の袋を私の仕事用に直してくれたんです。四年前に、受け取りました」

 

 ゾーイは袋口から指を離し、戸口へ向かった。

 

「では、行きましょう。上から回ります」

 

 立香も携行袋を閉め直し、ゾーイの後に続いた。

 

  *

 

 広場の端に、朝の配給を待つ列ができていた。

 

 親子が通りの脇で食事をし、仕事着の男たちが昨日の喧嘩を話の種に笑っている。マシュは器を持った人に道を譲り、ゾーイの後を追った。

 

 工房の戸は開いていたが、奥の棚は閉じられ、第二群、第三群の印が付いていた。

 

「あちらは、今は使わないんですか」

「別の群の人たちの道具です。仕事場は同じでも、持ち物は分けてあります」

 

 ゾーイが答えている間に、職人が一人、作業台から顔を上げた。

 

「診療所の奴は、今日は戻れそうか」

「休ませます。足を使わないように言ってあります」

「じゃあ、こっちは一人減るな」

 

 戸口へ来た同僚が、壁の札を掛け替えた。

 

「俺が見張りに回る。ここの削り残し、頼めるか」

「ああ。仕上げまでやっておく。昼は?」

「戻るのが遅くなる。うちの子が来たら、先に食べてろって伝えてくれ」

「分かった」

 

 男を見送り、マシュは人員表へ目を戻した。医療、保守、警戒。仕事の名の下には、配置された人数が記されていた。一人分の札が移り、工房の側に残った人数が一つ減る。

 

 さっき診療所で、スティリオスが代わりを回すと言った。その人がここから出たのだ。

 

 表の脇で、アトラスが引継ぎの綴りを開いていた。現在の配置と見比べ、医療の欄を指す。

 

「この欠員を埋めた者は、今も同じ職にあるか」

「はい。私です」

 

 ゾーイが、記された名前に指を添えた。

 

「私は元は第二群です。訓練を終えたら、こちらの欠員を埋める配置になりました。移る時だけ、次に起きる日を変えています」

「今の覚醒期では、何年になる」

「四年を過ぎたところです」

 

 アトラスは記録の端にある日付を確かめた。

 マシュは棚の第二群の印へ目を向け、それからゾーイを見る。

 

「以前は、お母様と同じ群だったんですか」

「ええ。子供の頃は、ずっと」

「こちらへは、ご自分で希望して移られたんですか」

「志願した人がいれば、そちらが先です。足りなければ、割り当てられます。私は、その割当で来ました」

 

 ゾーイは指を離した。医療の欄には必要な人数が揃っている。今朝の診療所で患者の足を支えていた手が、その一人分だった。

 

「元の群へ戻るには、何が要る」

 

 アトラスが、開いていた綴りから顔を上げた。

 

「戻りたいとは届けています。でも、私の代わりと、向こうの受け入れが揃わないんです」

 

 工房の奥で、木槌を打つ音がした。

 マシュは、先ほど掛け替えられた札を見た。昼に来る子供へは、職人が父親の言葉を伝える。ゾーイの名前は、医療の欄にある。

 

 空の水桶を積んだ荷車が、工房の前を通った。ゾーイがそれについていこうと一行を促す。

 アトラスが綴りを戻し、マシュも皆とともに坂を下りた。昨日通った搬入口が見えてきた。

 

  *

 

 荷車が搬入口を抜けると、車輪の音が低く変わった。

 立香は敷居を越えかけ、脇に並ぶ工具に気づいて足を引いた。ペトロスが扉の下に屈み、可動部へ細い棒を差し入れていた。

 

「おはようございます」

「ああ。そこは跨いでくれ」

 

 扉には、昨日の荷車が擦った傷がまだ新しかった。

 

「動きは、もう大丈夫なんですか」

「開け閉めはできる。引っ掛かりが残っていないか、見ているところだ」

 

 立香は厚い扉を見上げた。開いた向こうには、荷を運ぶ人と、その先に立つ見張りが見える。

 

「昨日の、広場での話は……」

「記録は揃った。閉鎖を始めた手順も、人が入ったところで止めた操作も、誤りはないと確かめられた。……ただ、作業者の戻りが遅れる時、扉の外の見張りにまで知らせる手順が抜けていた。そこは決め直した」

 

 ペトロスは手を止めずに答えた。

 

「殴った分は、二人とも絞られたけどな」

 

 外側から声がした。スティリオスが戻ってきて、扉の縁を避けて立つ。

 

「怪我人を運んでいたことも、帰った連中に話してもらった。今日は、水と、外に出してある材を戻す」

「最後の荷車は?」

「向こうで積んでる。遅れるようなら、見張りにも知らせる」

「止めるのは私がやる。ここを離れる時は、代わりを置く」

「ああ」

 

 スティリオスが手を上げ、外の見張りと合図を交わした。

 

「開けている間は、あいつらも持ち場を動けん。閉めたのを確かめてから、次へ回る」

「扉だけ、開けて待っているわけにはいかないんですね」

「待つなら、守る者も残す。その連絡が要る」

 

 見張りはもう、作業者たちのさらに向こうへ目を向けていた。

 

「水の方も見るんだったな。こっちだ」

 

 ペトロスが船腹に沿って歩き出した。

 先ほどの荷車は、短い歩廊の向こうで止まっていた。船から大きく張り出した作業場に、桶と資材が並んでいる。低い機械の響きに、木を削る音が重なっていた。

 作業場の端からは、荷車の通れる坂道が地面まで下りていた。昨日、薪を積んだ荷車について上がってきた道だ。

 

 歩廊の片側を、太い送水管が通っている。立香がその管を目で辿ると、船に入る手前に大きな弁があった。すぐ脇には、厚い壁を閉じるための溝がある。

 

 ペトロスは管の継ぎ目へ指を当て、下側まで確かめた。

 

「ここは、前の継ぎが緩んでいた。締め直してある」

「この弁を閉じれば、どこまで止まる」

 

 アトラスが足を止めた。

 ペトロスは外の設備から船内へ、管の向きを指で辿った。

 

「診療所も、炊事場も、この先だ。ここを止めれば、上の水は貯めた分を使う。だから、止めずに済むように直す」

 

 立香は歩廊の先を見た。

 作業台の上で、男が車軸を転がしていた。横倒しにした荷車の脇には、外した車輪が立て掛けられている。その奥で、誰かが濡れた布を広げた。灰色の空の下、布の端から雫が落ちる。

 

 作業者に呼ばれ、ゾーイが歩廊を渡った。荒れた手を診て、桶を持つ仕事を代われるか、近くの担当に尋ねている。

 立香とマシュも歩廊を渡った。板越しに、揚水器の振動が靴底へ伝わってくる。ギルガメッシュは作業場の端で足を止め、荷を積む者たちの手元を眺めていた。

 

「外の連中を戻す時も、ここを使う」

 

 スティリオスが、立香の渡ってきた歩廊を指した。

 

「作業をやめたら、まずここへ集める。怪我人がいれば、入口から坂を上がって診療所だ」

「今朝、私たちが下りてきた道ですね」

「ああ。荷車が来たら、先を空けてくれ」

 

 ペトロスが歩廊へ張り出した板材を押し戻し、スティリオスが荷車を通した。

 

 アトラスは、水桶が満たされる様子へ目を向けた。

 

「揚げた量と、ここへ回した人数の記録はあるか」

「詰所に置いてある。今日の分は、まだ途中だが」

 

 ペトロスが作業場の奥を示した。低い屋根の下に、記録を広げた机が見える。

 ゾーイも手の確認を終えて戻ってきた。立香たちは、水を汲みに来る人の列を避け、船外の作業場の奥にある詰所へ向かった。

 

  *

 

 詰所の机には、今日の搬入を書き付けたパピルスが広げられていた。端に置かれた重しの下から、日付の違う記録が何枚も覗いている。

 ペトロスが揚水の綴りを取り出し、その隣へ置いた。

 

 アトラスは二つを開き、同じ日付を探した。水量の欄を辿っていた指が止まり、人員の記録へ移る。

 

「この日に、人数が減っている」

「一人、手を痛めた。荷を持つ方から外している」

「戻ったのは」

「その次の紙だ」

 

 立香も覗き込んだ。水を揚げた量、荷を運んだ人数、休んだ者の名前。アトラスの指は、それぞれを照らし合わせていく。

 

「医療へ回した人数は、こちらです」

 

 ゾーイが別の綴りを差し出した。アトラスは受け取り、現在の担当が並ぶ頁を開く。

 

「聖杯より先に、この船を調べ尽くす気か」

 

 机の向こうから、ギルガメッシュが言った。

 

「知らぬまま扱うつもりはない」

 

 アトラスは綴りから目を上げずに答えた。

 ギルガメッシュは口の端を上げ、傍らの記録を一枚取り上げる。

 

「変更前の記録も見せよ」

「ここの分ならあります。私が移ってきた時の詳しい記録は、診療所です」

 

 棚から出された薄い綴りを、アトラスは同じ向きに並べた。

 

「前の覚醒期にも、汝はこの仕事をしていたのか」

「はい。第一群へ移ってから、医療班にいます」

 

 次の問いは、訓練を終えた時の年齢だった。それから、第二群で過ごした期間と、次に眠る予定。

 ゾーイは記録の場所も添えて答えた。

 

 立香はアトラスの顔を見た。視線は紙へ落ちたままで、返ってくるのは短い確認ばかりだった。

 どこへ何人を回せるのか。それを調べているように見える。けれど、問いは今日の人員表から、ゾーイがここへ来るより前まで遡っていた。

 

 今、何を確かめようとしているのだろう。

 

 机の端には、診療所の寝台と、介助に回る人数を書いた表もあった。アトラスがそれを手元へ引き寄せる。

 空いている寝台の欄を見て、ゾーイが口を開いた。

 

「寝台は空いています。でも、起こした人数だけ、すぐ働ける人が増えるわけではありません」

 

 アトラスが顔を上げた。

 

「目が覚めても、すぐには立てない人がいます。食事を自分で取れるか、歩けるか、一人ずつ確かめます。その間は、そばに誰かが必要です。普段は、私たち医療班が先に起きます。動ける人数を確かめてから、ほかの人たちを順に起こしていくんです」

「介助に割いた人数と、その期間の記録は残っているか」

「診療所にあります。私が担当した時のものも」

「後で、それも見たい」

「戻ったら出します」

 

 ゾーイは机の隅へ紙を寄せ、取り出す記録を書き留めた。葦のペンを動かす肘の下で、腰の器具袋が揺れる。

 

「汝が移った時、母の配置は」

「母は第二群に残りました。織物と、衣服の修繕をしています」

「所属は今も変わらぬな」

「はい」

 

 アトラスは配置の記録へ目を戻した。

 ゾーイが書き足す音の向こうで、揚水器が低く鳴っている。外からは、荷を持ち上げる掛け声が聞こえた。

 

 その声を割って、鋭い合図が響いた。

 

 合図が繰り返され、スティリオスが入口を飛び出した。外の声が慌ただしくなる。

 

 マシュが入口へ向き直った。

 

「先輩」

 

 立香は頷き、通路を空けて前へ出た。ギルガメッシュはすでに外を見ている。

 アトラスが開いていた綴りを閉じた。ゾーイも書きかけの紙を挟み、重しを載せる。腰の器具袋を手前へ回す動きには、迷いがなかった。

 

「作業を止めろ。船へ戻れ!」

 

 スティリオスの声が、外縁の作業場に通った。

 

  *

 

 マシュが詰所を出ると、作業台から手が離れていくところだった。工具が置かれ、荷車が船の方へ向きを変える。

 外の見張りが欄干から身を乗り出し、下を指した。張り出した作業床からは、支持脚の立つ地面と、その先の岩場まで見下ろせる。

 

「六体、こっちへ来る!」

 

 岩の間から、四足の影が駆け出してくる。犬に似ている。けれど、その胴も脚も異様に太い。湿った土を散らし、作業床の下へ迫るにつれて、大きく開いた顎の奥の牙まで見えてきた。

 

 船側でも警報が鳴った。

 スティリオスが腕を振り、槍を持つ者を外側へ、荷を運ぶ者を歩廊へ送る。

 

「マシュ、正面をお願い。私は戻る人たちを手伝う」

「はい、先輩!」

 

 マシュは民兵たちの前へ出て、欄干から少し内側に盾を下ろした。

 

「ここで受けます。皆さんは、その後ろへ!」

 

 後方で、槍が次の見張りへ渡った。朝、工房から出ていった職人だ。前の者と交代し、マシュの盾の脇へ穂先を揃える。

 

 通信機からダ・ヴィンチの声がした。

 

『オルトロスやケルベロスに似た反応だね。ただ、頭は一つか』

「こちらからも、一つに見えます」

『名が残っていないだけで、この時代にはエキドナの系譜に連なる魔獣が、もっと多く棲んでいるのかもしれないね』

 

 先頭の一体が支持脚の根元まで走り込み、地面を蹴った。

 見下ろしていた頭が、欄干より高く跳ね上がる。マシュは盾を引き寄せた。柵を越えた巨体が、そのまま飛び込んでくる。

 

 盾に重みがぶつかる。マシュは足を踏ん張り、食いつこうとした顎ごと押し返した。脇から槍が伸びる。獣が身を捩った隙に、前の民兵が一歩退き、後ろの者が入った。次の穂先が喉を貫き、巨体が作業床へ崩れた。

 

「荷車を先に! 持てない物は置いてこい!」

 

 スティリオスの声に、背後の足音が速くなる。

 ゾーイが、作業者たちを歩廊へ促した。立香は道に転がった桶を避け、荷車の脇についている。

 

 下の地面で、残る群れが左右へ開いた。

 マシュが盾の角度を変えかけた時、左側に金色の光が咲いた。ギルガメッシュが、歩廊へ向かう人の列を背にして立っている。

 

「そちらへ寄せるな。左は我が払う」

「承知した。こちらは通す」

 

 左へ回った二体を、アトラスは追わなかった。

 その背後を、金色の軌跡が走った。欄干の外へ斜めに降り、地面を抉く。二体が、続けて倒れた。

 マシュは右側へ視線を振った。残り三体。どれも、まだ地面を走っている。

 

 その一体が、正面の盾を迂回して跳び上がった。人の列へ跳び込む影に向け、アトラスが三叉槍の穂先を下げる。

 欄干を越えた前脚が、空中で落ちた。顎が下がり、背が折れるように沈んだ。獣は作業床の縁近くへ腹を打ちつけ、四肢を突っ張った。

 

 起き上がれない。

 深海圧が、その身体を床へ押しつけていた。

 

 すぐ脇を走る人の足は止まらなかった。荷車の車輪も回っている。

 アトラスが三叉槍を引き、伏した獣へ突き下ろした。四肢が止まる。

 あと二体。マシュは盾を構え直し、欄干の向こうへ目を戻した。

 

 背後で、車輪が跳ねる音がした。

 歩廊へ入った荷車が斜めになり、継ぎ目に食い込んで止まる。

 

「待ってくれ!」

 

 スティリオスが駆け戻り、曳き手とともに車を引いた。

 立香が、車輪に挟まった木片を抜いた。

 

「もう一度、お願いします!」

 

 荷車が揺れた。スティリオスは船側へ顔を上げる。

 

「まだ通る! 後ろも残ってるぞ!」

「分かっている。警戒、持ち場を保て!」

 

 ペトロスの声が返った。

 厚い扉は開いたままだった。脇の見張りが槍を構え直し、歩廊へ向き直る。

 

 二つの影が、続けざまに欄干を越えた。

 マシュは盾を押し出し、先に飛び込んできた顎を止めた。横へ抜けようとするもう一体を、民兵の穂先が阻む。そこへ金色の軌跡が走った。二体の胴をそれぞれ貫き、作業床へ縫い留める。盾を掻いていた爪が止まり、重みが離れた。

 

 荷車の車輪が、今度は継ぎ目を越えた。

 立香がその後を追う。ゾーイは入口で人を受け取り、船内へ送っていた。

 

「後ろ、戻れ!」

 

 スティリオスが呼んだ。

 民兵が順に退く。一人が腕を押さえていたが、隣の者の肩を借り、自分の足で歩いている。

 マシュは盾を構えたまま、歩廊まで下がった。作業床に四体、欄干の向こうの地面に二体。どれも、もう動かない。さらに奥の岩場にも、新たな影はなかった。

 

「六体すべて、撃破を確認しました!」

 

 アトラスが三叉槍を下ろし、最後の作業者が入口を抜けるのを確かめた。ギルガメッシュも、射出口の光を閉じて歩き出す。

 マシュは二人とともに扉をくぐった。

 

「これで全員だ」

 

 スティリオスの報告を受け、ペトロスが閉鎖の操作に掛かった。

 厚い扉が動き、外の景色が細くなる。閉じた音を聞いてから、脇の見張りがようやく槍を下ろした。

 

 足元では、送水管の振動が続いていた。

 

「診療所へ向かう人を、先に通しなさい」

 

 坂の上から、アストライアの声がした。青い衣の前で人々が左右へ寄り、荷車の通れる幅が空いていく。

 マシュは盾を持ち直し、腕を押さえた民兵の隣へ回った。

 

  *

 

 診療所の戸口には、もう水の入った鉢が置かれていた。

 立香がそれを持ち上げる間に、マシュが民兵を椅子へ座らせた。ゾーイは隣へ膝をつき、傷の上に押し当てられた手を覗き込む。

 

「こちらで押さえます。ゆっくり、手を離してください」

 

 立香は鉢を置き、手当ての布を渡した。

 ゾーイの片手が腰へ伸びた。袋口が開き、仕切りの間から巻き布が取り出される。その間も、もう片方の手は患者の腕から離れなかった。

 

 母が直してくれた袋。立香は朝の話を思い出しながら、使い終えた鉢を脇へ移した。

 隣では、ほかの作業者の怪我も確かめられていた。

 

「外にいた者は、全員戻った」

 

 スティリオスが戸口で報告した。少し遅れて来たペトロスも、記録を持つ担当へ声を掛ける。

 

「扉は閉じた。水も止まっていない。弁の先まで確かめてきた」

 

 アストライアは書き留められた名を追い、椅子の男へ目を向けた。

 

「あなたが傷を負ったのは、どこです?」

「外の作業床だ。盾の脇へ槍を出した時に、爪が掠った」

 

 ほかに怪我人を見なかったかも確かめ、女神は担当へ記録を返した。

 ゾーイが最後の布を留めると、男はようやく肩の力を抜いた。

 

「……昼の飯、置いてきちまったな」

「取ってある。お前の分も」

 

 戸口の仲間が答えた。

 

「潰れてないか」

「それは、見てから言え」

 

 立香は空いた鉢を抱え直した。朝には足を下ろしたがっていた男が、寝台の上から、今のやりとりを聞いて笑っている。

 魔獣を退け、傷を手当てして、昼の食事へ戻っていく。こうした事態への対処に、彼らは慣れているのかもしれない。

 

 アトラスは、戻った人々の名と診療の記録を確かめていた。ゾーイが立ち上がると、顔を上げる。

 

「先ほどの記録を、確かめたい」

「はい。こちらを引き継いでから」

 

 同僚へ引き継いだゾーイが手を洗い、奥の記録机へ向かう。立香も後を追った。

 

 机には、午前中に頼んでおいた記録が揃っていた。現在の人員表の下から、所属群を書いた古い一枚が引き出される。

 ゾーイは椅子に座り、腰から外した器具袋を机の端へ置いた。

 

  *

 

 古い記録には、ゾーイの名の横に第二群の印があった。その下に、医療の訓練を終えた日と、第一群への配置が記されている。

 

 アトラスは二つの日付を辿り、次の覚醒の欄で指を止めた。

 

「この時は、九年で起きている」

「はい。第一群の順番に合わせるためです。その次からは、十八年ずつ眠っています」

 

 立香は机の脇へ椅子を寄せた。ゾーイの向こうでは、マシュも開かれた記録を見ている。ギルガメッシュは窓際に立ったままだった。

 

「配置を聞いた時、こちらに医療の人が足りないことは分かっていました。習ったことを使えるとも思いましたし」

 

 ゾーイの手が、自分の名の下へ動く。復籍を求める書き込みには、まだ移る日が入っていなかった。

 

「母と同じ群へ戻る時期は、決まらないままでしたけど」

 

 アトラスは隣の綴りへ目を移した。

 

「母の記録は」

「こちらです」

 

 ゾーイが一枚を選び、その名を指した。第二群。織物と衣服の補修。その後に、覚醒と入眠の日付が続いている。

 

「母をこちらへ移す枠はあるか」

「そちらの仕事にも、今は空きがありません」

 

 アトラスは二人の記録を並べた。

 立香の目には、同じ印と日付が何度も続いて見えた。

 

「お母さんと最後にお話ししたのは、いつですか」

「私が二十の時です。船の暦では、四十年前になります」

 

 立香は顔を上げた。

 ゾーイは、机の端に置いた袋へ目をやっていた。

 

「……その袋を受け取った時も、お母さんは」

「もう眠っていました。返事と一緒に、私宛てに預けてくれてあったんです」

 

 袋の底は、縁に足された布より色が濃かった。ゾーイは底の角を軽く伸ばす。

 

「母は、ここに裁縫の道具を入れていました。小さい頃、糸を取ってくるように言われて、違う色を持っていくと、よく呼び戻されました」

 

 少し笑ってから、袋を起こした。

 

「こっちで使っていた袋の口が狭くて、片手では取りにくい、と手紙に書いたんです。次に起きたら、これがありました。口も広がっていて、中に仕切りも付いていて」

 

 立香は、その縁を見た。

 さっき、ゾーイは患者の腕から手を離さずに巻き布を取り出した。あの明るい糸を縫った時、母は娘の仕事を、手紙から思い描いていたのだ。

 

 アトラスの指が、二枚の記録を順に辿った。

 ゾーイが移籍した時の入眠から、第一群として起きていた期間へ。もう一枚では、その後に始まった第二群の覚醒期へ移る。

 

「離れてから、汝は十三年。母は九年を生きた」

 

 指が止まった。

 

「その間、共に起きていた時間はない」

「はい。顔は見られます。ここで眠っていますから」

 

 診療室の方で、誰かが椅子を引いた。

 ゾーイは一度そちらへ目を向け、同僚が患者の傍らにいるのを見ると、机へ向き直った。

 

 午前中、アトラスが尋ねたのは、欠員を埋めた者が今も同じ職にいるか、だった。

 今、その問いの先に、二枚の記録が並んでいる。手紙を読み、袋を縫い、返事を待った時間まで、起きていた日付の中にある。

 

 立香は、アトラスの手元を見た。

 水の量も、空いた寝台も、配置された人数も確かめていた指が、今は二人の日付の間に置かれている。

 

 アトラスが顔を上げた。

 

「母に、今、伝えたいことはあるか」

 

 ゾーイはすぐには答えなかった。袋を手元へ寄せ、帯に通す部分を撫でる。

 

「この袋、使いやすいんです」

 

 指が袋口に掛かった。

 片手だけで、縁が開く。

 

「使っているところを、見せたいです」

 

 立香は、その手元から目を離せなかった。

 ゾーイも開いた袋を見ていた。

 

「……手紙には、もう書いたんですけどね」

 

 しばらく、誰も口を開かなかった。

 

「そうか」

 

 アトラスが、二人の記録へ目を戻した。

 立香は窓際を見た。ギルガメッシュは驚いた顔をしていない。ゾーイの指が袋口から離れるまで黙っていた。その視線が、アトラスの引き寄せた次の綴りへ移る。

 

 袋の縁が、静かに閉じた。

 

  *

 

「下の巡回に行く時間なので、続きは戻ってからでもいいですか」

 

 ゾーイが器具袋を腰へ戻した。

 アトラスは開いていた綴りを閉じ、机の端へ揃える。

 

「承知した」

「途中まで、ご一緒してもいいですか」

「ええ。第二群の区画へ行きます」

 

 立香たちは、ゾーイに続いて診療所を出た。

 

 坂の向こうから、木槌を打つ音が聞こえた。水桶を抱えた人が通り、広場では昼の食事を受け取る列が動いている。

 階段を下りると、そうした音が頭上へ遠ざかった。代わりに、壁沿いの管が低く響く。

 

 昨日も通った道だった。

 ゾーイは第二群の扉の前で止まり、脇にある記録へ目を通した。立香も、その上の表示を見上げる。

 

 次の覚醒まで、あと五年。

 

 母が目を覚ますまでの時間。その時には、ゾーイの起きている九年が終わる。

 

「交代の時は、医療班の方も先に眠るんですか」

 

 ゾーイが顔を上げた。

 

「はい。今の群が全員眠ってから、次の群の医療班が起きます。交代は航行統制機構が行うので、前の群の者は残りません」

 

 立香は表示へ目を戻した。

 五年後の日は、ここに記されている。けれど、さっき見た復籍の欄には、まだ日付がなかった。

 

 マシュが扉の前を空けた。

 ゾーイは巡回の記録を腕に抱え、腰の袋の収まりを確かめる。

 

「では、行ってきます。終わったら、上へ戻ります」

「はい。ありがとうございます」

 

 扉が開いた。

 薄い明かりの下に、寝台の列が見える。胸元まで布を掛けた人々が眠っていた。ゾーイは慣れた足取りで中へ入り、手近な寝台の名札に目を向ける。

 

 立香は、その腰で揺れる袋を見送った。

 

 あの袋がどれほど使いやすいか、立香は今日、目の前で見た。

 直した人は、まだ一度も見ていない。

 

 扉が閉じた。

 

 




活動報告で、制作裏話や本編に採用する場所のなかった掌編などを公開しています。
https://syosetu.org/?mode=kappo_view_list&uid=332978

この作品の興味をもったところは?

  • アトラスのキャラクター性・内面
  • ギルガメッシュとの関係性
  • 王としての在り方・王権のテーマ
  • ストーリーの展開
  • その他
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