The Reversed Star――逆位置の星―― 作:ほいみん
※独自解釈/女性体オリジナルサーヴァント/ギルガメッシュ×アトラス/本文に文章生成AI補助あり
※掲載イラストは作者による手描きです。
詳しい注意事項・制作FAQはこちら:
【作品案内URL】
https://docs.google.com/document/d/1GdwYLijsN-D6iR4MKAlV2ziDaThI6rrddGUy8nim0KE/edit?usp=drive_link
翌朝、アストライアに伴われて診療所を訪ねた立香は、戸口で足を止めた。
「歩ける。ほら、昨日よりずっといい」
寝台に腰掛けた男が、足を床へ下ろそうとしていた。ゾーイはその前にしゃがみ、巻かれた布を解いている。
「まだ下ろさないでください。こちらを見てからです」
男の踵を片手で支えたまま、もう片方の手を腰へ伸ばす。器具袋の口に指を掛けると、使い込まれた布が大きく開いた。内側には仕切りが並び、指は迷わず、その一つから細く畳んだ布を抜き取った。
ゾーイが顔を上げ、入口の一行に気づく。
「もう少し待ってください。この人を診てからにします」
「はい。ここで待っています」
立香はマシュと並んで壁際へ寄った。戸口を空ける位置まで下がると、ギルガメッシュは壁へ肩を預けた。アトラスも、その傍らで足を止める。
昨日、搬入口で見た荷車には、赤茶けた布が載っていた。その荷車で運ばれた男が、今は寝台の端で、ゾーイの手元を覗き込んでいる。
「見張りくらいなら、できるだろう」
「立ったまま待つのも、足を使います」
ゾーイが布を巻き直しているところへ、スティリオスが来た。
「今日の持ち場は、どうする」
「俺は戻れるつもりなんだが」
ゾーイが答えた。
「歩けたとしても、持ち場に戻れるかどうかは別です。今日はここにいてください」
「分かった。見張りは別の奴を回す。お前は、足を治せ」
「……すまん」
「明日もここへ運ぶのは御免だぞ」
スティリオスが履物を寝台の下へ寄せた。昨日は擦り剥けていた掌に、今日は細い布が巻かれている。
「外にいる。用があれば呼んでくれ」
スティリオスが出ていくと、患者は足を寝台へ戻した。ゾーイが記録に短く書き込む。
「お待たせしました」
立ち上がったゾーイへ、アストライアが声を掛けた。
「今日は、この方たちに仕事の様子を見せてあげなさい」
「これから上の区画を回ります。その後、外の作業場へ行くので、一緒に来てもらえれば」
「ええ。それでよいでしょう」
女神は立香たちへ向き直った。
「診療と冬眠者の管理は、ゾーイに聞きなさい。船の設備は、それぞれの担当が説明します。私は広場の訴えを確認してから合流しますわ」
「分かりました。ありがとうございます」
アストライアが出ていくと、ゾーイは患者を同僚へ引き継ぎ、巡回の支度を始めた。
「外の作業場でも、診るんですか」
「ええ。ここへ来るほどではない、と言う人もいますから。手を見せてもらうだけでも、分かることはあります」
立香が頷くと、ゾーイの視線が、その腰元で止まった。
「その留め具、片手でも外せますか」
「これですか? はい。こうやって」
立香が携行袋を開いてみせると、ゾーイが身を寄せた。
「押すところが小さいんですね。手袋をしていても?」
「できます。最初は、少しやりにくかったですけど」
「そちらの袋も、使いやすそうですね。さっき、片手ですぐに開けていたので」
立香が目を向けると、ゾーイは腰の袋口へ指を掛けた。開いた縁には、地の布より明るい糸で補強が入っている。内側の仕切りにも、同じ糸が使われていた。
「母が、自分の袋を私の仕事用に直してくれたんです。四年前に、受け取りました」
ゾーイは袋口から指を離し、戸口へ向かった。
「では、行きましょう。上から回ります」
立香も携行袋を閉め直し、ゾーイの後に続いた。
*
広場の端に、朝の配給を待つ列ができていた。
親子が通りの脇で食事をし、仕事着の男たちが昨日の喧嘩を話の種に笑っている。マシュは器を持った人に道を譲り、ゾーイの後を追った。
工房の戸は開いていたが、奥の棚は閉じられ、第二群、第三群の印が付いていた。
「あちらは、今は使わないんですか」
「別の群の人たちの道具です。仕事場は同じでも、持ち物は分けてあります」
ゾーイが答えている間に、職人が一人、作業台から顔を上げた。
「診療所の奴は、今日は戻れそうか」
「休ませます。足を使わないように言ってあります」
「じゃあ、こっちは一人減るな」
戸口へ来た同僚が、壁の札を掛け替えた。
「俺が見張りに回る。ここの削り残し、頼めるか」
「ああ。仕上げまでやっておく。昼は?」
「戻るのが遅くなる。うちの子が来たら、先に食べてろって伝えてくれ」
「分かった」
男を見送り、マシュは人員表へ目を戻した。医療、保守、警戒。仕事の名の下には、配置された人数が記されていた。一人分の札が移り、工房の側に残った人数が一つ減る。
さっき診療所で、スティリオスが代わりを回すと言った。その人がここから出たのだ。
表の脇で、アトラスが引継ぎの綴りを開いていた。現在の配置と見比べ、医療の欄を指す。
「この欠員を埋めた者は、今も同じ職にあるか」
「はい。私です」
ゾーイが、記された名前に指を添えた。
「私は元は第二群です。訓練を終えたら、こちらの欠員を埋める配置になりました。移る時だけ、次に起きる日を変えています」
「今の覚醒期では、何年になる」
「四年を過ぎたところです」
アトラスは記録の端にある日付を確かめた。
マシュは棚の第二群の印へ目を向け、それからゾーイを見る。
「以前は、お母様と同じ群だったんですか」
「ええ。子供の頃は、ずっと」
「こちらへは、ご自分で希望して移られたんですか」
「志願した人がいれば、そちらが先です。足りなければ、割り当てられます。私は、その割当で来ました」
ゾーイは指を離した。医療の欄には必要な人数が揃っている。今朝の診療所で患者の足を支えていた手が、その一人分だった。
「元の群へ戻るには、何が要る」
アトラスが、開いていた綴りから顔を上げた。
「戻りたいとは届けています。でも、私の代わりと、向こうの受け入れが揃わないんです」
工房の奥で、木槌を打つ音がした。
マシュは、先ほど掛け替えられた札を見た。昼に来る子供へは、職人が父親の言葉を伝える。ゾーイの名前は、医療の欄にある。
空の水桶を積んだ荷車が、工房の前を通った。ゾーイがそれについていこうと一行を促す。
アトラスが綴りを戻し、マシュも皆とともに坂を下りた。昨日通った搬入口が見えてきた。
*
荷車が搬入口を抜けると、車輪の音が低く変わった。
立香は敷居を越えかけ、脇に並ぶ工具に気づいて足を引いた。ペトロスが扉の下に屈み、可動部へ細い棒を差し入れていた。
「おはようございます」
「ああ。そこは跨いでくれ」
扉には、昨日の荷車が擦った傷がまだ新しかった。
「動きは、もう大丈夫なんですか」
「開け閉めはできる。引っ掛かりが残っていないか、見ているところだ」
立香は厚い扉を見上げた。開いた向こうには、荷を運ぶ人と、その先に立つ見張りが見える。
「昨日の、広場での話は……」
「記録は揃った。閉鎖を始めた手順も、人が入ったところで止めた操作も、誤りはないと確かめられた。……ただ、作業者の戻りが遅れる時、扉の外の見張りにまで知らせる手順が抜けていた。そこは決め直した」
ペトロスは手を止めずに答えた。
「殴った分は、二人とも絞られたけどな」
外側から声がした。スティリオスが戻ってきて、扉の縁を避けて立つ。
「怪我人を運んでいたことも、帰った連中に話してもらった。今日は、水と、外に出してある材を戻す」
「最後の荷車は?」
「向こうで積んでる。遅れるようなら、見張りにも知らせる」
「止めるのは私がやる。ここを離れる時は、代わりを置く」
「ああ」
スティリオスが手を上げ、外の見張りと合図を交わした。
「開けている間は、あいつらも持ち場を動けん。閉めたのを確かめてから、次へ回る」
「扉だけ、開けて待っているわけにはいかないんですね」
「待つなら、守る者も残す。その連絡が要る」
見張りはもう、作業者たちのさらに向こうへ目を向けていた。
「水の方も見るんだったな。こっちだ」
ペトロスが船腹に沿って歩き出した。
先ほどの荷車は、短い歩廊の向こうで止まっていた。船から大きく張り出した作業場に、桶と資材が並んでいる。低い機械の響きに、木を削る音が重なっていた。
作業場の端からは、荷車の通れる坂道が地面まで下りていた。昨日、薪を積んだ荷車について上がってきた道だ。
歩廊の片側を、太い送水管が通っている。立香がその管を目で辿ると、船に入る手前に大きな弁があった。すぐ脇には、厚い壁を閉じるための溝がある。
ペトロスは管の継ぎ目へ指を当て、下側まで確かめた。
「ここは、前の継ぎが緩んでいた。締め直してある」
「この弁を閉じれば、どこまで止まる」
アトラスが足を止めた。
ペトロスは外の設備から船内へ、管の向きを指で辿った。
「診療所も、炊事場も、この先だ。ここを止めれば、上の水は貯めた分を使う。だから、止めずに済むように直す」
立香は歩廊の先を見た。
作業台の上で、男が車軸を転がしていた。横倒しにした荷車の脇には、外した車輪が立て掛けられている。その奥で、誰かが濡れた布を広げた。灰色の空の下、布の端から雫が落ちる。
作業者に呼ばれ、ゾーイが歩廊を渡った。荒れた手を診て、桶を持つ仕事を代われるか、近くの担当に尋ねている。
立香とマシュも歩廊を渡った。板越しに、揚水器の振動が靴底へ伝わってくる。ギルガメッシュは作業場の端で足を止め、荷を積む者たちの手元を眺めていた。
「外の連中を戻す時も、ここを使う」
スティリオスが、立香の渡ってきた歩廊を指した。
「作業をやめたら、まずここへ集める。怪我人がいれば、入口から坂を上がって診療所だ」
「今朝、私たちが下りてきた道ですね」
「ああ。荷車が来たら、先を空けてくれ」
ペトロスが歩廊へ張り出した板材を押し戻し、スティリオスが荷車を通した。
アトラスは、水桶が満たされる様子へ目を向けた。
「揚げた量と、ここへ回した人数の記録はあるか」
「詰所に置いてある。今日の分は、まだ途中だが」
ペトロスが作業場の奥を示した。低い屋根の下に、記録を広げた机が見える。
ゾーイも手の確認を終えて戻ってきた。立香たちは、水を汲みに来る人の列を避け、船外の作業場の奥にある詰所へ向かった。
*
詰所の机には、今日の搬入を書き付けたパピルスが広げられていた。端に置かれた重しの下から、日付の違う記録が何枚も覗いている。
ペトロスが揚水の綴りを取り出し、その隣へ置いた。
アトラスは二つを開き、同じ日付を探した。水量の欄を辿っていた指が止まり、人員の記録へ移る。
「この日に、人数が減っている」
「一人、手を痛めた。荷を持つ方から外している」
「戻ったのは」
「その次の紙だ」
立香も覗き込んだ。水を揚げた量、荷を運んだ人数、休んだ者の名前。アトラスの指は、それぞれを照らし合わせていく。
「医療へ回した人数は、こちらです」
ゾーイが別の綴りを差し出した。アトラスは受け取り、現在の担当が並ぶ頁を開く。
「聖杯より先に、この船を調べ尽くす気か」
机の向こうから、ギルガメッシュが言った。
「知らぬまま扱うつもりはない」
アトラスは綴りから目を上げずに答えた。
ギルガメッシュは口の端を上げ、傍らの記録を一枚取り上げる。
「変更前の記録も見せよ」
「ここの分ならあります。私が移ってきた時の詳しい記録は、診療所です」
棚から出された薄い綴りを、アトラスは同じ向きに並べた。
「前の覚醒期にも、汝はこの仕事をしていたのか」
「はい。第一群へ移ってから、医療班にいます」
次の問いは、訓練を終えた時の年齢だった。それから、第二群で過ごした期間と、次に眠る予定。
ゾーイは記録の場所も添えて答えた。
立香はアトラスの顔を見た。視線は紙へ落ちたままで、返ってくるのは短い確認ばかりだった。
どこへ何人を回せるのか。それを調べているように見える。けれど、問いは今日の人員表から、ゾーイがここへ来るより前まで遡っていた。
今、何を確かめようとしているのだろう。
机の端には、診療所の寝台と、介助に回る人数を書いた表もあった。アトラスがそれを手元へ引き寄せる。
空いている寝台の欄を見て、ゾーイが口を開いた。
「寝台は空いています。でも、起こした人数だけ、すぐ働ける人が増えるわけではありません」
アトラスが顔を上げた。
「目が覚めても、すぐには立てない人がいます。食事を自分で取れるか、歩けるか、一人ずつ確かめます。その間は、そばに誰かが必要です。普段は、私たち医療班が先に起きます。動ける人数を確かめてから、ほかの人たちを順に起こしていくんです」
「介助に割いた人数と、その期間の記録は残っているか」
「診療所にあります。私が担当した時のものも」
「後で、それも見たい」
「戻ったら出します」
ゾーイは机の隅へ紙を寄せ、取り出す記録を書き留めた。葦のペンを動かす肘の下で、腰の器具袋が揺れる。
「汝が移った時、母の配置は」
「母は第二群に残りました。織物と、衣服の修繕をしています」
「所属は今も変わらぬな」
「はい」
アトラスは配置の記録へ目を戻した。
ゾーイが書き足す音の向こうで、揚水器が低く鳴っている。外からは、荷を持ち上げる掛け声が聞こえた。
その声を割って、鋭い合図が響いた。
合図が繰り返され、スティリオスが入口を飛び出した。外の声が慌ただしくなる。
マシュが入口へ向き直った。
「先輩」
立香は頷き、通路を空けて前へ出た。ギルガメッシュはすでに外を見ている。
アトラスが開いていた綴りを閉じた。ゾーイも書きかけの紙を挟み、重しを載せる。腰の器具袋を手前へ回す動きには、迷いがなかった。
「作業を止めろ。船へ戻れ!」
スティリオスの声が、外縁の作業場に通った。
*
マシュが詰所を出ると、作業台から手が離れていくところだった。工具が置かれ、荷車が船の方へ向きを変える。
外の見張りが欄干から身を乗り出し、下を指した。張り出した作業床からは、支持脚の立つ地面と、その先の岩場まで見下ろせる。
「六体、こっちへ来る!」
岩の間から、四足の影が駆け出してくる。犬に似ている。けれど、その胴も脚も異様に太い。湿った土を散らし、作業床の下へ迫るにつれて、大きく開いた顎の奥の牙まで見えてきた。
船側でも警報が鳴った。
スティリオスが腕を振り、槍を持つ者を外側へ、荷を運ぶ者を歩廊へ送る。
「マシュ、正面をお願い。私は戻る人たちを手伝う」
「はい、先輩!」
マシュは民兵たちの前へ出て、欄干から少し内側に盾を下ろした。
「ここで受けます。皆さんは、その後ろへ!」
後方で、槍が次の見張りへ渡った。朝、工房から出ていった職人だ。前の者と交代し、マシュの盾の脇へ穂先を揃える。
通信機からダ・ヴィンチの声がした。
『オルトロスやケルベロスに似た反応だね。ただ、頭は一つか』
「こちらからも、一つに見えます」
『名が残っていないだけで、この時代にはエキドナの系譜に連なる魔獣が、もっと多く棲んでいるのかもしれないね』
先頭の一体が支持脚の根元まで走り込み、地面を蹴った。
見下ろしていた頭が、欄干より高く跳ね上がる。マシュは盾を引き寄せた。柵を越えた巨体が、そのまま飛び込んでくる。
盾に重みがぶつかる。マシュは足を踏ん張り、食いつこうとした顎ごと押し返した。脇から槍が伸びる。獣が身を捩った隙に、前の民兵が一歩退き、後ろの者が入った。次の穂先が喉を貫き、巨体が作業床へ崩れた。
「荷車を先に! 持てない物は置いてこい!」
スティリオスの声に、背後の足音が速くなる。
ゾーイが、作業者たちを歩廊へ促した。立香は道に転がった桶を避け、荷車の脇についている。
下の地面で、残る群れが左右へ開いた。
マシュが盾の角度を変えかけた時、左側に金色の光が咲いた。ギルガメッシュが、歩廊へ向かう人の列を背にして立っている。
「そちらへ寄せるな。左は我が払う」
「承知した。こちらは通す」
左へ回った二体を、アトラスは追わなかった。
その背後を、金色の軌跡が走った。欄干の外へ斜めに降り、地面を抉く。二体が、続けて倒れた。
マシュは右側へ視線を振った。残り三体。どれも、まだ地面を走っている。
その一体が、正面の盾を迂回して跳び上がった。人の列へ跳び込む影に向け、アトラスが三叉槍の穂先を下げる。
欄干を越えた前脚が、空中で落ちた。顎が下がり、背が折れるように沈んだ。獣は作業床の縁近くへ腹を打ちつけ、四肢を突っ張った。
起き上がれない。
深海圧が、その身体を床へ押しつけていた。
すぐ脇を走る人の足は止まらなかった。荷車の車輪も回っている。
アトラスが三叉槍を引き、伏した獣へ突き下ろした。四肢が止まる。
あと二体。マシュは盾を構え直し、欄干の向こうへ目を戻した。
背後で、車輪が跳ねる音がした。
歩廊へ入った荷車が斜めになり、継ぎ目に食い込んで止まる。
「待ってくれ!」
スティリオスが駆け戻り、曳き手とともに車を引いた。
立香が、車輪に挟まった木片を抜いた。
「もう一度、お願いします!」
荷車が揺れた。スティリオスは船側へ顔を上げる。
「まだ通る! 後ろも残ってるぞ!」
「分かっている。警戒、持ち場を保て!」
ペトロスの声が返った。
厚い扉は開いたままだった。脇の見張りが槍を構え直し、歩廊へ向き直る。
二つの影が、続けざまに欄干を越えた。
マシュは盾を押し出し、先に飛び込んできた顎を止めた。横へ抜けようとするもう一体を、民兵の穂先が阻む。そこへ金色の軌跡が走った。二体の胴をそれぞれ貫き、作業床へ縫い留める。盾を掻いていた爪が止まり、重みが離れた。
荷車の車輪が、今度は継ぎ目を越えた。
立香がその後を追う。ゾーイは入口で人を受け取り、船内へ送っていた。
「後ろ、戻れ!」
スティリオスが呼んだ。
民兵が順に退く。一人が腕を押さえていたが、隣の者の肩を借り、自分の足で歩いている。
マシュは盾を構えたまま、歩廊まで下がった。作業床に四体、欄干の向こうの地面に二体。どれも、もう動かない。さらに奥の岩場にも、新たな影はなかった。
「六体すべて、撃破を確認しました!」
アトラスが三叉槍を下ろし、最後の作業者が入口を抜けるのを確かめた。ギルガメッシュも、射出口の光を閉じて歩き出す。
マシュは二人とともに扉をくぐった。
「これで全員だ」
スティリオスの報告を受け、ペトロスが閉鎖の操作に掛かった。
厚い扉が動き、外の景色が細くなる。閉じた音を聞いてから、脇の見張りがようやく槍を下ろした。
足元では、送水管の振動が続いていた。
「診療所へ向かう人を、先に通しなさい」
坂の上から、アストライアの声がした。青い衣の前で人々が左右へ寄り、荷車の通れる幅が空いていく。
マシュは盾を持ち直し、腕を押さえた民兵の隣へ回った。
*
診療所の戸口には、もう水の入った鉢が置かれていた。
立香がそれを持ち上げる間に、マシュが民兵を椅子へ座らせた。ゾーイは隣へ膝をつき、傷の上に押し当てられた手を覗き込む。
「こちらで押さえます。ゆっくり、手を離してください」
立香は鉢を置き、手当ての布を渡した。
ゾーイの片手が腰へ伸びた。袋口が開き、仕切りの間から巻き布が取り出される。その間も、もう片方の手は患者の腕から離れなかった。
母が直してくれた袋。立香は朝の話を思い出しながら、使い終えた鉢を脇へ移した。
隣では、ほかの作業者の怪我も確かめられていた。
「外にいた者は、全員戻った」
スティリオスが戸口で報告した。少し遅れて来たペトロスも、記録を持つ担当へ声を掛ける。
「扉は閉じた。水も止まっていない。弁の先まで確かめてきた」
アストライアは書き留められた名を追い、椅子の男へ目を向けた。
「あなたが傷を負ったのは、どこです?」
「外の作業床だ。盾の脇へ槍を出した時に、爪が掠った」
ほかに怪我人を見なかったかも確かめ、女神は担当へ記録を返した。
ゾーイが最後の布を留めると、男はようやく肩の力を抜いた。
「……昼の飯、置いてきちまったな」
「取ってある。お前の分も」
戸口の仲間が答えた。
「潰れてないか」
「それは、見てから言え」
立香は空いた鉢を抱え直した。朝には足を下ろしたがっていた男が、寝台の上から、今のやりとりを聞いて笑っている。
魔獣を退け、傷を手当てして、昼の食事へ戻っていく。こうした事態への対処に、彼らは慣れているのかもしれない。
アトラスは、戻った人々の名と診療の記録を確かめていた。ゾーイが立ち上がると、顔を上げる。
「先ほどの記録を、確かめたい」
「はい。こちらを引き継いでから」
同僚へ引き継いだゾーイが手を洗い、奥の記録机へ向かう。立香も後を追った。
机には、午前中に頼んでおいた記録が揃っていた。現在の人員表の下から、所属群を書いた古い一枚が引き出される。
ゾーイは椅子に座り、腰から外した器具袋を机の端へ置いた。
*
古い記録には、ゾーイの名の横に第二群の印があった。その下に、医療の訓練を終えた日と、第一群への配置が記されている。
アトラスは二つの日付を辿り、次の覚醒の欄で指を止めた。
「この時は、九年で起きている」
「はい。第一群の順番に合わせるためです。その次からは、十八年ずつ眠っています」
立香は机の脇へ椅子を寄せた。ゾーイの向こうでは、マシュも開かれた記録を見ている。ギルガメッシュは窓際に立ったままだった。
「配置を聞いた時、こちらに医療の人が足りないことは分かっていました。習ったことを使えるとも思いましたし」
ゾーイの手が、自分の名の下へ動く。復籍を求める書き込みには、まだ移る日が入っていなかった。
「母と同じ群へ戻る時期は、決まらないままでしたけど」
アトラスは隣の綴りへ目を移した。
「母の記録は」
「こちらです」
ゾーイが一枚を選び、その名を指した。第二群。織物と衣服の補修。その後に、覚醒と入眠の日付が続いている。
「母をこちらへ移す枠はあるか」
「そちらの仕事にも、今は空きがありません」
アトラスは二人の記録を並べた。
立香の目には、同じ印と日付が何度も続いて見えた。
「お母さんと最後にお話ししたのは、いつですか」
「私が二十の時です。船の暦では、四十年前になります」
立香は顔を上げた。
ゾーイは、机の端に置いた袋へ目をやっていた。
「……その袋を受け取った時も、お母さんは」
「もう眠っていました。返事と一緒に、私宛てに預けてくれてあったんです」
袋の底は、縁に足された布より色が濃かった。ゾーイは底の角を軽く伸ばす。
「母は、ここに裁縫の道具を入れていました。小さい頃、糸を取ってくるように言われて、違う色を持っていくと、よく呼び戻されました」
少し笑ってから、袋を起こした。
「こっちで使っていた袋の口が狭くて、片手では取りにくい、と手紙に書いたんです。次に起きたら、これがありました。口も広がっていて、中に仕切りも付いていて」
立香は、その縁を見た。
さっき、ゾーイは患者の腕から手を離さずに巻き布を取り出した。あの明るい糸を縫った時、母は娘の仕事を、手紙から思い描いていたのだ。
アトラスの指が、二枚の記録を順に辿った。
ゾーイが移籍した時の入眠から、第一群として起きていた期間へ。もう一枚では、その後に始まった第二群の覚醒期へ移る。
「離れてから、汝は十三年。母は九年を生きた」
指が止まった。
「その間、共に起きていた時間はない」
「はい。顔は見られます。ここで眠っていますから」
診療室の方で、誰かが椅子を引いた。
ゾーイは一度そちらへ目を向け、同僚が患者の傍らにいるのを見ると、机へ向き直った。
午前中、アトラスが尋ねたのは、欠員を埋めた者が今も同じ職にいるか、だった。
今、その問いの先に、二枚の記録が並んでいる。手紙を読み、袋を縫い、返事を待った時間まで、起きていた日付の中にある。
立香は、アトラスの手元を見た。
水の量も、空いた寝台も、配置された人数も確かめていた指が、今は二人の日付の間に置かれている。
アトラスが顔を上げた。
「母に、今、伝えたいことはあるか」
ゾーイはすぐには答えなかった。袋を手元へ寄せ、帯に通す部分を撫でる。
「この袋、使いやすいんです」
指が袋口に掛かった。
片手だけで、縁が開く。
「使っているところを、見せたいです」
立香は、その手元から目を離せなかった。
ゾーイも開いた袋を見ていた。
「……手紙には、もう書いたんですけどね」
しばらく、誰も口を開かなかった。
「そうか」
アトラスが、二人の記録へ目を戻した。
立香は窓際を見た。ギルガメッシュは驚いた顔をしていない。ゾーイの指が袋口から離れるまで黙っていた。その視線が、アトラスの引き寄せた次の綴りへ移る。
袋の縁が、静かに閉じた。
*
「下の巡回に行く時間なので、続きは戻ってからでもいいですか」
ゾーイが器具袋を腰へ戻した。
アトラスは開いていた綴りを閉じ、机の端へ揃える。
「承知した」
「途中まで、ご一緒してもいいですか」
「ええ。第二群の区画へ行きます」
立香たちは、ゾーイに続いて診療所を出た。
坂の向こうから、木槌を打つ音が聞こえた。水桶を抱えた人が通り、広場では昼の食事を受け取る列が動いている。
階段を下りると、そうした音が頭上へ遠ざかった。代わりに、壁沿いの管が低く響く。
昨日も通った道だった。
ゾーイは第二群の扉の前で止まり、脇にある記録へ目を通した。立香も、その上の表示を見上げる。
次の覚醒まで、あと五年。
母が目を覚ますまでの時間。その時には、ゾーイの起きている九年が終わる。
「交代の時は、医療班の方も先に眠るんですか」
ゾーイが顔を上げた。
「はい。今の群が全員眠ってから、次の群の医療班が起きます。交代は航行統制機構が行うので、前の群の者は残りません」
立香は表示へ目を戻した。
五年後の日は、ここに記されている。けれど、さっき見た復籍の欄には、まだ日付がなかった。
マシュが扉の前を空けた。
ゾーイは巡回の記録を腕に抱え、腰の袋の収まりを確かめる。
「では、行ってきます。終わったら、上へ戻ります」
「はい。ありがとうございます」
扉が開いた。
薄い明かりの下に、寝台の列が見える。胸元まで布を掛けた人々が眠っていた。ゾーイは慣れた足取りで中へ入り、手近な寝台の名札に目を向ける。
立香は、その腰で揺れる袋を見送った。
あの袋がどれほど使いやすいか、立香は今日、目の前で見た。
直した人は、まだ一度も見ていない。
扉が閉じた。
この作品の興味をもったところは?
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アトラスのキャラクター性・内面
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ギルガメッシュとの関係性
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王としての在り方・王権のテーマ
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ストーリーの展開
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その他