朝目が覚めると、私は家の玄関に倒れていた。別に珍しいことじゃない。飲み会の帰りとか、泥酔している時によくやらかすのだ。
けれど、今回は状況が違う。昨日の夜に公園で遭遇した得体の知れないウマ娘……彼女が何か関係しているのだろうか。昨日の記憶は曖昧で何となくしか思い出せない。
「うぅ……寝汗やば」
今の時間ならギリギリ今日の模擬レースに間に合う。新人トレーナーがいなくなったところで大した問題はないけど、このまま休むのもなんか違うよね。
「……痛ッ!」
立ち上がろうとすると、首元にあり得ない激痛が走った。出血していると思った私は慌てて鏡の前までやってくる。首元には、何かに噛みつかれたような赤い痕がくっきりと残っていた。
赤、といえば。昨日会ったウマ娘を思い出す。あの沈んだ紅は忘れたくても忘れられないだろう。今思えば幻想の類いなんじゃないかと疑ってしまうけど。それだけ異質な存在だった。制服を着ていたので、もしかするとトレセン学園の生徒なのかもしれない。
軽くシャワーを浴びてさっと着替える。トレセン学園へ向かう準備をしていると、唐突にインターホンが鳴った。
「え、嘘でしょ……」
ドアの向こうには、昨夜のウマ娘がいた。見間違えようがない。病的なまでに白い肌も、深く沈んだような紅の瞳も。私が恐怖を覚えた彼女の姿そのものだ。
ぞくり、と背筋に冷たいものが走る。寝起きの頭が一気に覚醒して、鳥肌が一斉に立った。怖ッ!
そのウマ娘はじっと立っている。底知れない瞳と目が合った気がした。マジで怖いけどスルーするわけにもいかない。意を決してインターホン越しに会話を試みる。
「あのー、何か用ですか?」
「その……大丈夫でしたか、昨日は。私、心配で……」
たしかに昨夜のウマ娘だ。目を離した隙に消えてしまいそうな儚さを纏う彼女は、日の下で見るとそれはもう目の覚めるような美人さんだった。
「トレセンの生徒だよね。名前は?」
「スティル……。スティルインラブです」
その名前に心当たりはない。新入生だろうか。とりあえず私の警戒度がちょっとだけ引き上がる。
「その、よければ詳しいお話でも。どうでしょうか……」
日中の外は洒落にならないくらい暑い。普通のウマ娘なら、私はこの時点で家の中に入れているところだけど、どうにも不信感が拭えない。本当にドアを開けていいのだろうか。
そもそもなぜスティルインラブが私の家を知っているのか。昨夜の記憶が曖昧なのもあって、どうしても彼女が怪しく見えてしまう。やっぱり今はお帰りいただいた方が──
「……その、やっぱり迷惑でしたよね。申し訳ございません。どうしても、心配で」
「え、いいよ全然。うん。今ドア開けるからね」
しゅん、とした表情で眉を下げる彼女を見て、私は反射的に玄関の鍵を開けていた。きっと単純に心配してくれただけだよね。うん。このこはきっとわるいこじゃないとおもう。
◇
居間にちょこんと座っているのは突如として現れた謎のウマ娘──もといスティルインラブ。何か珍しい物があったのか、しげしげと周囲を観察している。
「昨日は、その。貴方を抱えてお部屋の前に……そのあと、混乱してしまって……」
「そのまま置いてきてしまった、ってこと?」
どうやら公園で倒れた私を、部屋まで運んでくれたらしい。あとは私の帰巣本能が働いて玄関までたどり着いたけど、そこで限界がきてダウン。そうして今に至る。
「よく私のアパートがわかったね。部屋の番号も」
「それは……トレーナーさんが教えてくださって……。寮に戻ってからも不安で、心配で。朝一番にお伺いを……」
耳をぺたーっと下げるスティルインラブは、申し訳なさそうに頭を下げた。
「ご迷惑をおかけして……本当に、申し訳ございません……!」
「いや、ここまで運んでくれてありがとね……!」
いろいろと気になることはあるけど、何となくの流れは把握できた。私が倒れたのも、きっと熱中症か何かだったのだろう。
私は対面に座るスティルインラブをそれとなく観察する。昨夜とは別人のように、その存在感は希薄だ。ゾッとするような妖しい気配は微塵も感じられない。どこか気弱な女の子だという印象を受ける。
本人の可憐な容姿も相まって、やたら庇護欲を刺激される。トレセンのウマ娘はみんな可愛らしいいけど、スティルインラブからは守ってあげたくなるような魅力を感じた。
「あの、こんな出来事があった後で恐縮ですが、お願いがあるのです」
「私にできることなら」
私が即答すると、スティルインラブは私の顔を覗き込むようにこう言ったのだ。
「私と……た、担当契約を、結んでほしいのです……!」
「……は???」
スティルインラブのお願いは予想の斜め上をいった。担当契約……? 私と、スティルインラブが?
「ま、待って。確認させて。スティルインラブさんはデビューしてるの?」
「いえ、まだデビュー前です」
「それで、私をトレーナーに?」
「恐縮ですが」
……流石にこれは予想してなかった。ウマ娘からの逆スカウトはわりとよくあること。ベテランで人気のあるトレーナーなら、何度も経験しているだろう。一方で私はキャリアも実績もない駆け出しトレーナーである。
「一応理由を聞こうか」
「……その、あの…………一目惚れ、です」
「???」
スティルインラブはたっぷり躊躇った後に、蚊が鳴くような声でそう囁く。今度こそ完全に虚を突かれた。あ、照れてるのかわいい。
「それで、私を担当にしたいってこと?」
「……はい」
遠慮してる風だけど、その瞳からは強い意志が感じられた。……一目惚れというのも、あながち嘘じゃないのかもしれない。だって彼女は、最初から私のことをトレーナーと呼んでいたのだから。
「もちろん、この場で決めることができないのは、わかっています。本日行われる模擬レース……その結果を見てから判断してください。必ず、後悔はさせませんので……!」
今思えば、私はその提案を受けた時点で詰んでいたのだ。抗えない魔性の前では、私はあまりにも無力だった。