中学三年生の秋。
窓から差し込む夕陽が教室を赤く染めていた。
「じゃあホームルームは終わり。寄り道しないで帰れよ」
担任教師の声を聞き流しながら、一人の少女は席を立った。
腰まで届く艶やかな黒髪。
凛とした瞳。
整った顔立ち。
名は――秋山凛子。
周囲からは「美人」「剣道部のエース」と評判だが、本人はそんなことを気にしたことはない。
(今日は素振りを百本追加するか)
そんなことを考えながら廊下を歩いていると、不意に頭へ鋭い痛みが走った。
「……っ!」
あまりの頭痛に世界が揺れる。
壁に手をつき、その場に膝をつく。
「秋山さん!?」
クラスメイトが駆け寄ろうとした、その瞬間。
――ドクン。
心臓が大きく脈打つ。
(何だ……これ……)
視界が真っ白になる。
突如、凛子の脳内に溢れ出した――存在しない記憶。
知らない家族。
知らない学校。
そして――男だった頃の人生。
「……え?」
膨大な記憶が一気に流れ込んでくる。
日本で暮らしていたこと。
会社勤めだったこと。
休日にゲームや漫画を楽しんでいたこと。
そして、
『対魔忍』という作品をプレイしていたこと。
秋山凛子というキャラクターのこと。
「私は……」
思わず言葉が漏れた。
(私の前世は……男だった……?)
頭痛はさらに激しくなる。
だが数十秒後、嘘のように痛みは消えた。
「……終わった?」
ゆっくり立ち上がる。
その瞬間だった。
廊下の端に、黒い"何か"が立っていた。
人の形をしている。
だが、人ではない。
全身が歪み、顔は溶けたように崩れ、何本もの腕が触手のようにぶら下がっている。
「…………」
誰も気付いていない。
生徒たちはその横を普通に歩いている。
(魔族……)
自然とその言葉が浮かんだ。
対魔忍の世界で見たような、人に害をなす異形。
凛子の目と化け物の目が合う。
化け物は凛子へ気付き、濁った笑みを浮かべた。
「グ……ァァ……」
ゆっくりと近付いてくる。
(そうか)
(今まで見えなかっただけで、たった今見えるようになったんだな)
不思議と恐怖はなかった。
身体が覚えている。
剣の握り方、敵を斬る感覚。
化け物がおぞましい見た目の触手を振り上げる。
十メートル以上離れているが、恐らくあの触手は伸びるのだろう。
その瞬間だった。
身体の奥底から熱が湧き上がる。
(これは……。)
空気が震える。
目に見えない力が身体中を巡る。
もちろん彼女は知らない。
それが、この世界で呪力と呼ばれる力であることを。
尤も、彼女の認識では違う。
(魔力か。)
勘違いだ。
だが、力であることに違いはなかった。
凛子は近くの掃除用具入れへ視線を向ける。
その中には一本の木刀がある事を覚えていた。
体育祭の出し物で使われ、そのまま置かれていたものだった。
(これなら戦える。)
凛子は勢いよく掃除用具入れの扉を開け、迷わず木刀を手に取る。
化け物が腕を振り下ろす間際。
凛子は咄嗟に一歩踏み込んだ。
「はっ!」
木刀が振るわれる。
凛子から化け物まで距離がある。
本来なら届く筈はない。
しかし、なぜか届くという確信が胸にあった。
ザンッ――。
その瞬間、凛子の眼前で空間が音もなく裂けた。
化け物が、縦に真っ二つになる。
「…………!」
凛子は目を丸くした。
(今のは。)
木刀は確かに空を切った。
それなのに敵が斬れている。
(新しい能力か。)
驚きよりも納得が勝っていた。
対魔忍の世界には超常の技が存在する。
自分にも何か目覚めたのだろう。
そう結論付けた。
異形は黒い煙となって消える。
誰一人、その出来事に気付いていない。
「秋山さん、大丈夫?急にどうしたの?」
友人が、凛子の頭痛と急な奇行に心配そうに声を掛ける。
「ああ、大丈夫だ。」
凛子は微笑む。
「少し貧血だっただけ。素振りして体に活を入れたら治った」
「本当に大丈夫?」
「ああ、もう大丈夫だ。」
安心した友人は教室へ戻っていく。
一人になった凛子は、廊下の窓から夕焼けを見つめた。
(……魔族がいる。)
(つまり、この世界も安全じゃない。)
静かに木刀を握る。
(なら、戦うしかないな。)
彼女はまだ知らない。
今日斬った異形が呪霊と呼ばれる存在であることも。
自らが目覚めた力が呪力であり、術式「空裂操術」であることも。
そして、秋山凛子は、生涯真実を知ることはなかった。
この世界が『対魔忍』ではなく、『呪術廻戦』の世界であることを。
前世の男が亡くなったのは2017年の事でした。