呪詛師の情報が共有されてから数日。
東京都内。
補助監督が運転する車の中には、凛子と歌姫の姿があった。
窓の外では雨が静かに降っている。
補助監督がバックミラー越しに二人を見る。
「今回の任務は三級呪霊の討伐です」
「住宅街の廃ビルに潜伏しています」
「現時点では、例の呪詛師との関連は確認されていません」
歌姫は小さく息を吐く。
「三級なら、いつも通りね」
「ああ」
凛子も短く答えた。
しかし、夜蛾の言葉だけは頭から離れなかった。
――遭遇したら戦うな。
――迷わず撤退しろ。
その意味を考えながら、凛子は静かに窓の外を見つめていた。
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現場。
五階建ての古い雑居ビル。
帳が下ろされる。
二人は刀を抜き、慎重に建物へ入った。
呪力の気配は三階。
階段を一段ずつ上がる。
やがて、廊下の奥から黒い靄が現れた。
三級呪霊。
人型ではあるが、両腕だけが異様に長い。
「ギィィッ!」
呪霊が飛び掛かる。
歌姫が前へ出る。
「はっ!」
鋭い突き。
切っ先が胸を貫く。
体勢が崩れた隙を逃さず、凛子が居合で斬り抜ける。
さらに術式を重ねる。
空間を裂く斬撃が呪霊を両断した。
黒い霧となって消滅する。
「終わったわね」
歌姫が刀を納めようとした、その時だった。
凛子の表情が変わる。
「待て」
「……誰かいる」
歌姫も周囲を見回す。
「呪霊じゃない?」
「いや」
「この気配、人間だ」
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廊下の奥。
窓際に、一人の男が立っていた。
黒い法衣。
細身の体格。
細く吊り上がった目。
静かに二人を見つめている。
歌姫は反射的に刀を構えた。
「あなた……誰?」
男は口元だけを歪める。
「術師か」
「思ったより若いな」
凛子は一歩前へ出る。
「お前が」
「術師を狙っている呪詛師か」
男は小さく笑った。
「もう私のことが伝わっているとは」
「少しは楽しめそうだ」
男は二人を見比べる。
「さて」
「どちらが先に折れるか、見ものだな」
その瞬間。
男が軽く指を鳴らした。
パチン。
「っ……!」
歌姫が突然膝をつく。
「うっ……あぁ……!」
肩を押さえ、苦しそうに息を荒げる。
任務中にできた小さな擦り傷。
その程度の傷しかない。
それなのに。
額から脂汗が流れ、立ち上がることすらできない。
「歌姫!」
凛子が駆け寄る。
「どうした!」
「痛い……!」
「痛い……っ!」
「何これ……!」
涙を滲ませながら必死に耐える歌姫。
男は、その様子を興味深そうに眺めていた。
「どうした。まだ触れてもいないのに」
「元から感度が高いのかな」
その声には愉悦だけがあった。
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凛子は刀を構え、男を睨む。
(これが……。)
(感覚を操る術式。)
男の全身を観察する。
法衣の裾が風で僅かに揺れた。
その奥に、一瞬だけ黒い何かが見えた。
(武器……?)
だが、それ以上は分からない。
男は凛子の視線に気付いたようだったが、何も言わない。
ただ、不気味に笑うだけだった。
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歌姫は激痛で立ち上がれない。
呼吸も乱れ始めている。
凛子は状況を冷静に整理する。
(歌姫は戦えない。)
(私一人で相手をするのは危険。)
(勝てる保証もない。)
夜蛾の命令が頭をよぎる。
――遭遇したら戦うな。
凛子は刀を静かに納めた。
「歌姫」
「肩を貸す」
歌姫は苦しそうに頷く。
「……ごめん」
「謝るな」
凛子は歌姫を支え、ゆっくりと後退する。
男は追ってこなかった。
「逃げるか」
凛子は振り返らない。
「ああ」
「今日は退く」
男は小さく笑う。
「正しい判断だ」
「だからこそ」
「次は、もっと面白い」
その言葉だけを残し、男は闇の中へ消えていった。
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帳の外へ出る。
補助監督がすぐに駆け寄ってきた。
「秋山さん!」
「庵さん!」
歌姫の様子を見るなり、表情を変える。
「帳を解除します!」
「救護班を要請してください!」
補助監督は無線へ手を伸ばし、応援を呼ぶ。
歌姫はそのまま車へ運ばれた。
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高専。
夜蛾は報告を最後まで聞き終え、静かに腕を組んだ。
「そうか」
凛子は男を思い返す。
「あの呪詛師」
「術式だけで戦う相手ではありません」
夜蛾は目を細める。
「どういうことだ」
「法衣の下に何かを隠していました」
「一瞬しか見えませんでしたが……」
「武器だと思います」
夜蛾は静かに頷く。
「術式だけではないか」
部屋が静まり返る。
凛子はゆっくり拳を握った。
(あいつは。)
(まだ本気じゃない。)
その時。
夜蛾が静かに口を開く。
「秋山」
「おそらく、お前は見られている」
凛子は顔を上げた。
「歌姫へ術式を使ったのは実験だ」
「お前がどう動くか」
「何を優先するか」
「見極めていた」
凛子は静かに目を閉じる。
確かに男は最後まで、自分を見ていた。
夜蛾は低い声で続けた。
「次に現れる時は」
「お前を狙って来ると思え」
静かな部屋に沈黙が落ちる。
一年生最後の戦いは、もう避けられないところまで近づいていた。