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カラフルで不気味な、お菓子がいっぱいの変な空間。 そこは、あの日マミさんが死んだ、あの結界の底だった。
『あっ……ああっ…」
恐怖で声が震える。恵方巻きみたいな魔女が、大きな口でマミさんの身体を噛み砕いていた。骨がボキボキ折れる鈍い音が空間に響く。あれほどカッコよくて強かった憧れの先輩が、食べられていく。
(たっ、助けてっ、死にたくない……っ!)
守ってくれる人がいなくなった。逃げなきゃいけない。早く逃げなきゃ。どれだけ頭の中で叫んでも、あたしの足は地面に張り付いたみたいに一歩も動かなかった。怖くて怖くて、全身がガチガチに固まってる。
やがて、マミさんを「処理」し終えた魔女の、虹色の目が、ぬうっとこっちを向いた。
──次は、あたし?
「ひっ……あああああああああっ!」
自分の悲鳴で、あたしは跳ね起きた。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……っ!」
からだ全体が心臓になったんじゃないかってくらいドクドク鳴っていて、冷たい汗が全身から噴き出していた。 目がチカチカする。必死にまわりを見回して、ここがあたしの部屋の、見慣れたベッドの上だってことを確認する。暗い。まだ夜は明けてない。でも、あたしの部屋。
「ゆ、夢……。なんだ、夢、かぁ……」
胸に手を当てて、必死に荒い息を整えようとする。喉がカラカラだった。 マミさんが死んでから、もう何度この夢を見たか分からない。目をつぶれば、あのグロい光景が、マミさんの最期が、フラッシュバックして離れてくれない。
だけど、ホッとしたのも束の間。 あたしは、自分の腰まわりから太ももにかけて、じっとりと重い温かさが広がっていることに気づいて、全身の血の気が一瞬で引いた。
「あ……」
恐る恐る、シーツに手を触れてみる。 指先に伝わる、言い訳のしようもない水分と、独特の生温かい温度。
(また、出ちゃった……もう中学生なのに)
マミさんの凄惨な死を目撃したあの日を境に、あたしの身体は、おねしょをするようになってしまった。夢にあの時の光景が出てきて、さっきみたいに飛び起きて、シーツが濡れてることに気づく。
「なんでだよ……っ、なんでマミさんがっ、死んで、あたしはこんなっ……!」
あたしは濡れたシーツを両手でぎゅっと掴んで、そこに顔を擦りつけるようにして、声を殺して泣き出した。あたしが早く契約してれば、マミさんは死ななかったのかな。魔法少女の最期が、あんなに怖くて、残酷なものだなんて、知らなかった。
「そういえばお二人とも、お聞きになりました? 三年生の巴さんという方が、数日前から行方不明になっているそうですの」
屋上で三人並んでお弁当を食べている時、仁美がふと、そんな噂話を口にした。 あまりにタイムリーな話題に、あたしとまどかの箸がピタッと止まる。
「え……? 行方、不明……?」
まどかの声は、微かに震えていた。
「ええ。警察の方も動いているみたいで、学校でも先生方が騒がしくて。本当に、物騒な世の中になりましたわね……」
心配そうな仁美。けれどやっぱり、その様子はどこか他人事だ。マミさんが一人で戦ってたことも、本当はもうこの世界のどこにもいないなんてことも、ましてや魔女に食べられて死んじゃったことなんて、知るはずもない。
「あ、あはは! 大丈夫だよ仁美! マミさんのことだからさ、多分ちょっとした用事で連絡が取れなくなってるだけしさ!」
「あら?お知り合いでしたの?」
「うー、えーっと…そうそう!たまにお話しすることあってさ!へへへ」
あたしはわざと大きな声を出して、笑ってみせた。 チラリとまどかに目をやる。取り繕いきれてない、沈んだ表情。まどかもあの日の光景が蘇っているのか、強張った様子だった。
「う、うん、さやかちゃんと一緒にね」
「まあ、仲間外れなんてひどいですわ!……すみません、失礼でしたわね。今は笑い事ではないのに……」
「ううん!気にしてないよ!きっと、見つかるはずだし……」
まどかには絶対に知られたくない。まどかが落ち込んでる時、あたしは隣でカラッと笑って、一緒に前を向かなきゃいけないんだ。自分が毎晩、泣きながらおねしょの片付けをしてるなんて、まどかにだけは、言えない。
「あっ、そうですわ!わたくし昨日、お菓子を作りましたの。よろしければ召し上がりません?」
話題を切り替えるように、仁美がぽんと手を叩く。あたしは少し安堵する。何も知らない仁美の前で、これ以上誤魔化し切れるか分からなかったから。
「おっ、いいねー!さっすがお嬢様、お菓子作りもお手のもの!」
「褒めるのは食べてからにしてほしいですわ」
仁美が差し出してきた、カラフルなクッキーの袋。
「あ」
それを見た瞬間、あたしの心臓が嫌な跳ね方をした。カラフルなお菓子。あの、吐き気のするほど甘ったるい魔女の結界。
指先の震えを隠すために、ひょいと取って、すぐに口に放り込んだ。
「あ、あら……?そんな食べ方お下品ですわよ」
「あはは、ご、ごめん……あまりにおいしそうでさ!飛びついちゃった!」
「そうですか……?……まどかさんは召し上がらないのです?」
「ご、ごめんね?ちょっとお腹空いてなくて。せっかく作ってくれたのに」
「……なんだか二人とも様子がおかしいですわ」
「そ、そう?」
味がよく分からない。ただ砂を噛んでいるみたいだった。 まどかちゃんのそんな顔を見たくなくて、あたしは無理に視線を逸らした。
その時、視界の端に、校舎の窓からこちらを見上げている人影が映った。
──暁美ほむら。
あいつは、感情の見えない冷たい目で、じっとあたしたちを見ていた。
(……っ!)
その瞬間、頭の奥が熱くなるのを感じた。 マミさんを見殺しにしたくせに、何すました顔して学校に来てんだよ。あんたがもっと早く来てれば、マミさんはあんな風に──。
ドクン、と心臓が波打つ。
大きな口で、マミさんの身体を噛み砕いていた。骨がボキボキ折れる鈍い音──。
「あ、……っ」
吐き気が込み上げてくる。屋上の青空が消えて、お菓子の魔女のあの虹色の目が、あたしの脳裏にぬうっと浮かび上がってくる。
「はっ……、ふ、ぅ……」
急激に血の気が引いていく。 呼吸の仕方が分からなくなって、喉の奥がヒューヒューと鳴った。手足の先から、じわじわと体温が奪われて氷みたいに冷たくなっていく。冷たい汗が背中を伝う。
「さやかちゃん……? 顔色悪いよ、大丈夫……?」
まどかが顔を覗き込んでくる。
「あ……ごめん、なんでもない。ちょっと、急にお腹痛くなっちゃって……。トイレ、行ってくる!」
「え?も、もしかしてクッキーのせい……」
「じゃあね!」
あたしは立ち上がり、まどかと仁美の視線を感じながら、逃げるように屋上の扉を押し開けた。 今は一人になって落ち着きたかった。いろんな感情で頭の中がぐちゃぐちゃになりながら、階段を駆け下りていく。
「っはぁ、はぁ……っ、また濡れてる…」
翌朝、あたしはまた、シーツに広がる、重くて温かい絶望の感触で目を覚ました。
昨日、屋上であんなに無様な姿を晒してしまって。まどかの前で強がりきることもできなくて、トイレに逃げ出して……。まどかを元気付けるどころか、逆に心配そうな顔をさせてしまった。挙げ句の果てに、今日もまたおねしょしてしまって。
本当にどうかしてる。あたしもう、中学生なのに。毎日毎日こんな失敗を繰り返して。
一刻も早く、この証拠を消し去りたかった。 もし家族に気づかれでもしたら、どんな顔をされるか分からない。あたしは半泣きになりながら、濡れた重いシーツと敷布団を引っぺがし、抱えるようにしてベランダへと向かった。
外の空気は冷たくて、朝の光がやけに眩しい。ベランダの柵に布団を押し付け、必死になって消臭スプレーを吹き付ける。シュッシュと虚しい音が響く中、少しでも尿の臭いが消えるようにと思って。
その時、ふと、嫌な予感がして通学路を見下ろした。
あたしの家の前の道を、黒い長髪をなびかせて、静かに歩いてくる人影があった。 見間違えるはずがない。暁美ほむらだ。
「っ……!?」
あたしは息を止めた。 転校生は歩みを止め、ちらとあたしの家のベランダを見上げる。目が合った。あたしの横には、横には、染みになって干された布団。
(うそ、なんでこんな時間に!? っていうか転校生、この道通るの……!?)
紫の瞳が、ベランダの布団と、あたしの顔を往復する。時間が止まったみたいだった。頬がカーっと熱くなるのを感じた。
(見られた、見られた、見られた!)
他の誰でもない、マミさんを見殺しにしたあの大嫌いな暁美ほむらに、あたしの一番惨めで、一番知られたくない秘密を、完全に。
あいつは何かを言うわけでも、嘲笑うわけでもなく、ただ一瞬だけ目を細めると、何事もなかったかのようにまた前を向いて歩き去っていった。
「あ、……あ……っ」
あたしは弾かれたようにカーテンを閉め、部屋の暗がりにへたり込んだ。 心臓がバカみたいにうるさくて、手足がガタガタと震える。 あたしが誰よりも敵視して、許せないと思っている相手に、世界で一番恥ずかしい姿を見られた。
弱みを握られた。その事実に、あたしは気が気でなくなってしまった。
学校に来てからも、あたしはまったく上の空だった。 授業の内容なんて一つも頭に入ってこない。ノートにメモを取りながらも、頭の中は今朝のあの瞬間の映像で埋め尽くされていた。
染みになった布団と、あたしの顔を往復した、あの紫の瞳。
(どうしよう。言いふらされたら、あたし……)
まどかに知られたら、もうあの子の前に立てなくなる。仁美にも知られたくない。ましてやクラスの奴らに知られたら、あたしの学校生活はそこで終わりだ。 あいつに、暁美ほむらに、自分の尊厳のすべてを握られてしまっている。その事実が、あたしを狂わせる。
休み時間に入ってすぐ、あたしは教室を飛び出した。 用なんてない。ただ、クラスメイトがいる空間でじっとしていると不安でおかしくなりそうだったからだ。
誰もいない廊下を長々と歩き回って、窓の外の景色なんかを見ながら、ようやく少し落ち着いてくる。そろそろ教室に戻ろうかと、廊下の角を曲がった、その時だった。
「──っ!?」
向こうから、長い黒髪をなびかせて歩いてくる人影。 またあいつだ。
あいつはあたしの姿を見ても、眉一つ動かさなかった。いつも通りの、感情の見えない顔のまま、何事もないようにあたしの横を通り過ぎようとする。
その、なんでもないかのような態度が、あたしの神経を猛烈に逆なでした。マミさんを見殺しにしたくせに。人の弱みを握っているくせに。なんでそんな、関係ないって顔して歩いていられるんだよ。
「ちょっと待てよ」
気づけば、あたしはほむらの制服の袖を掴んでいた。転校生は鈍い首の動きでこちらを振り返ってくる。
「なんの用かしら。美樹さやか」
袖を掴まれたままでも、ほむらは全く動じていない様子だった。冷え切った紫の瞳が、まっすぐにあたしを射抜く。
文句の一つでも言ってやろうと思った。なのに。 あいつの顔を間近で見つめた瞬間、怒りよりも先に、今朝のあの染みになった布団の光景が脳裏をよぎって、頬が一気に熱くなった。
恥ずかしさのせいで喉がキュッと締まる。 敵を睨みつけなきゃいけないのに、弱みを握られているせいで、情けないくらいに視線が泳いでしまう。掴んだ手が震えそうになるのを、必死で抑え込んだ。
「あんた……っ、今朝のこと……」
声を絞り出す。廊下に誰か来ないか、生きた心地がしなかった。
「……絶対に、誰にも言うなよ。特に、まどかには……っ。もしバラしたら、あんた、絶対に許さないから……!」
肩を震わせながら、精一杯の声で脅しつける。だけど実際のところは、命乞いに近かった。自分の声が情けないくらい裏返りそうになっているのが分かって、惨めさで泣きそうだった。
そんなあたしを、ほむらは見下ろすでもなく、嘲笑うわけでもなく、ただ冷たく、一瞥した。 そして、あたしの手を払いのける。
「言わないわ。離してくれるかしら」
なんでもないかのように、そっけない、いつもの声だった。 本当に、あたしのおねしょなんて、あいつにとってはどうでもいいことみたいだった。
転校生はそのまま、あたしの横をすり抜けて、また元の足取りで廊下へと戻っていく。廊下に一人残されたあたしは、掴んでいた自分の右手をじっと見つめた。
胸のざわつきは日が経ってもちっとも収まらなかった。嫌味の一つでも言ってやりたいのに、弱みを握られてるせいで一歩引いてしまう。授業中でも転校生を見るたび、バラされるんじゃないかって不安で、あたしは落ち着かなくなる。
憎らしい仇なのに、強く出られない。悔しさと、恥ずかしさと、いろんな感情がドロドロに溶けて混ざって、心がどんどん不安定になっていくのを自分でも感じる。
「はぁ……なんか疲れたなぁ」
まどかと仁美が用事で先に帰ってしまって、あたしは一人、どんよりとした夕暮れの帰り道を歩いていた。カバンを肩にかけ、とぼとぼと足を進める。
「思い詰めているようだね、さやか。大丈夫かい?」
訂正、一人と一匹。そういえば、キュゥべえが一緒にいたんだった。足元にいるから忘れてた。
「……まあね、色々あってさぁ」
「やっぱり、暁美ほむらにあの布団を見られたことが原因なのかい?」
「っ……!?」
心臓がどくりと跳ねた。あの時に、キュゥべえも見てた?
「なんっ……!ってか、こんなところで話して誰かに聞かれたらっ……!」
「僕の声は一般人には聞こえないよ。心配しなくていい」
「あっ、そうか……いや、それにしてもっ、あんたどこから見てたの!?」
『落ち着くんださやか。君が大声で話せば、それこそ人に聞かれてしまうよ』
『あっ、う、うん、危ない危ない……』
頭の中にテレパシーが響いて、少し冷静さを取り戻す。
『さやか、最近の君は精神的に参っているようだ。もしあの出来事が原因なら、願い事で暁美ほむらの記憶を部分的に消去することもできるよ』
聞き間違いかと思った。
弱みを握られたから、相手の記憶を消すなんて。魔法少女になるって、正義の味方になるって、そんな動機で決めていいものじゃない。キュゥべえは分かってると思ったんだけどな。
『バカ言わないでよ。そんなことのために、一生に一度のお願いを使うわけないでしょ』
『あれ、暁美ほむらの件は君にとって重要な問題だと思ってたんだけど……分かったよ、叶えたい願い事ができた時にまた会おう』
『あんたさぁ、そのためだけに帰り道ついてきたわけ?』
それにしても、マミさんが死んだっていうのに、キュゥべえは特に参った様子はない。思ったより淡白なやつ。
『これでも僕なりに心配してるんだよ』
『ふーん……まぁそっか、ありがとね』
いいさ、と踵を返してどこかに歩いていくキュゥべえ。なんとなく一人になるのが寂しくて、その後ろ姿が見えなくなるまでぼんやりと見つめる。
「あーあ、せめてまどかと仁美どっちかいればなぁ」
小さくため息を吐いて、あたしはまた歩き出そうとした。 その時、目の前の景色がぐにゃりと歪んだ。
「……あれ?」
最初は、連日の寝不足で目眩でも起こしたのかと思った。 だけど、違った。歪んだのはあたしの視界だけじゃない。周囲の民家の壁が、アスファルトの地面が、不気味な緑色に変化していく。夕暮れの街の音が完全に遮断され、代わりに耳に響いたのは、ぶうううんと、遠くで虫が飛び回るような不協和音だった。
(嘘、これ、って……魔女の結界……!?)
あたしは息を呑んだ。 まどかも、さっき別れたばかりのキュゥべえもいない。あたしは、本当の化け物の巣の中に、一人きりで引きずり込まれてしまったんだ。
「キュゥべえ! キュゥべえ、どこよ! まだ近くにいるんでしょ!?」
祈るように叫ぶけれど、頭の中にあいつのひょうひょうとした声が返ってくる気配はなかった。 結界の奥から、冷たくて嫌な風が吹いてくる。不気味な、言葉にならない鳴き声がいくつも重なって、あたしの鼓膜を震わせた。
「あ……あ……!」
心臓のペースがおかしくなるほど早くなる。マミさんは、窮地に颯爽と現れて助けてくれるヒーローはもういない。魔女に殺された。
暗闇の向こうから、子供の落書きみたいな形をした化け物がいくつも這い出てくる。使い魔だ。ぶううん、ぶううんと音を立てながら、確実に、あたしを目がけて距離を詰めてくる。
(逃げなきゃ。早く、逃げなきゃ……っ!)
頭では分かっているのに、足が地面に張り付いたみたいに一歩も動かない。 毎晩あたしを苦しめていたあの悪夢が、マミさんが食べられたあの瞬間の恐怖が、現実の光景と重なってあたしを硬くする。
「いや……来ないで……っ」
手下の一体が、あたしのすぐ横の壁を硬い腕で叩き割った。コンクリートの破片が激しく弾けて、あたしの頬をかすめる。生々しい衝撃音が、これが夢じゃないことをあたし教えていた。
(死ぬ。あたしも、マミさんみたいに、ここで死ぬんだ──)
その瞬間、頭の芯が真っ白になって、全身のネジが完全に外れてしまったみたいに、股間のあたりがじわりと熱くなった。
「あ……」
連日の悪夢。睡眠不足。すり減り続けていた心。そして、今目の前にある本物の危険。 あたしは極限の恐怖の前に、その場で完全に失禁していた。
制服のスカートが、太ももが、じっとりと重い水分に濡れていく。怖くて、情けなくて、惨めで、涙が堰を切ったように溢れて視界を遮った。 迫り来る手下たちの影。
もう、だめだ。
──カチリ。
世界から、すべての音が消えた。
「私から離れないで。手を離せば、あなたの時も止まってしまう」
冷静で、だけどどこか切迫したその声と同時に、あたしの右手はグイと強い力で掴まれていた。
「あ、……っ」
涙でぼやける視界の先、モノクロに変わった世界の中で、ただ一人だけ色を持って動いている人影。暁美ほむら。
使い魔たちは、こっちに迫りかけたまま空中でピタッと静止している。弾け飛んだコンクリートの破片さえも、重力を失ったように宙で止まっていた。
「走って。ここを抜けるわよ」
転校生はあたしの濡れたスカートや、足元に広がる水たまりには一瞥もくれず、ただ前だけを見据えてあたしの手を強く引いた。
「あ、待っ……っ」
パニックのまま、あたしはもつれそうな足で必死に暁美ほむらと一緒に走った。音のない空間。その中を、奇妙な形の使い魔たちのすぐ横をすり抜けるようにして、全力で駆け抜けていく。
走るたびに、濡れたスカートが重たく太ももにまとわりついてくる。冷たい。気持ち悪い。 だけど、今はそんな情けなさも、頭の隅っこに吹き飛んでいた。
まだ怖い。死ぬと思った。あの落書きみたいな使い魔に捕まって、あたしは、マミさんみたいに、殺されるところだった。
心臓が破裂しそうなほどドクドクと暴れ狂う中、あたしの右手をぎゅっと握りしめている、転校生の手の温かさだけが、慌てに慌てたあたしの心に落ち着きを与えてくれた。
(助かった……。あたし、助かったんだ……!)
大嫌いな転校生だとか、弱みを握られただとか、そんなことはもうどうでもよかった。 一人きりで暗闇に取り残されて、化け物に囲まれて、本当に死ぬんだって絶望した瞬間に、あたしの手を掴んでくれた。いけすかない無感情な転校生の横顔が、今だけは頼もしいヒーローみたいに見えた。
「──っは、あ!」
ほむらが再び左腕の盾をカチリと操作した瞬間、ガツンと世界に衝撃が走った。 色と、音が、一気に世界に戻ってくる。
気づけば、あたしたちは見慣れた夕暮れの通学路にいた。
本当に、生きて帰ってこられたんだ。
「はっ……、ぁ、ふ、ぅ……っ」
現実に戻ってきた途端、あたしは緊張の糸が完全に切れて、その場に崩れ落ちるようにへたり込んだ。アスファルトに膝をつき、激しく息を乱す。手足の震えが止まらない。
涙が次から次へと溢れてきて、止まらなかった。ただただ、生きてあの場所から戻ってこられたことへの、こわれるほどの安心感からくる涙だった。
「命拾いしたわね、美樹さやか」
転校生は髪をかきあげながらぶっきらぼうに言う。あたしは涙を拭いながら、まだ震える足に力を込めて、なんとか立ち上がった。
「……なんで……っ」
呼吸がまだ整わなくて、うまく声が出ない。あたしの胸にあるのは、今まで持ってた怒りや敵意じゃなかった。ただただ、聞かずにはいられなかった。
「なんで……あたしを助けたのよ。あんた、グリーフシード目当ての悪い魔法少女なんでしょ……?」
「あなたのためじゃないわ」
一瞥もせず、そっけなく言い放つ転校生。
「私は私の目的のために、あなたに死なれたら困る、ただそれだけよ」
どこまでもつれない、いつもの転校生の返答。あたしはそれを聞いて、どこか失望したような、がっかりした気持ちになった。ほんとは良いやつかもなんて、ちょっとだけ思ったあたしがバカだったな、といった感じ。
「それと……」
ふっと、ほむらが視線を泳がせた。 あたしの足元へ向けられそうになった視線を、あいつはまるで自制するように慌てて逸らす。
「……その、それは、気にしなくていいわ」
「え……?」
「私も、……初めて魔女の結界に迷い込んだ時、……漏らしたから……」
だんだんと声が小さくなって、最後の方は尻すぼみになっていくほむらの言葉。 あいつの頬が、夕暮れの赤さとは違う色で、ほんのりと赤くなっているのが見えた。
(あ……)
驚きで、あたしは息を呑んだ。 完璧で、冷徹で、人間らしい感情なんて何一つ持っていないと思っていた転校生、暁美ほむら。そんなあいつの、初めて見る、年相応に恥ずかしがってる素の表情だった。
それ以上、あいつは何も語らなかった。 だけど、分かった。あいつはあたしを傷つけないように、あたしを慰めるために、自分の恥ずかしい過去をあえて口にしてくれたんだ。
なんだ、そんな気づかいもできるんじゃん。こんな奴におねしょを見られて、お漏らしまで見られて、もうおしまいだと思ったのに。呪いが解けたように、身体に入っていた力が、すうっと解けていくのが分かった。
でも、少しだけ冷静さを取り戻したからこそ。 あたしには、どうしても今、確認しておかなければいけないことがあった。
「……ねえ」
ポツリと、あたしの口から言葉が漏れる。
「だったら、なんで……」
「何かしら」
ほむらの目を見る。解けかけたはずの胸の奥から、今度は全く別の、黒くて熱い塊がせり上がってきた。
「なんで、マミさんの時は、助けてくれなかったのよ……っ!」
気づけば、あたしの声は大きくなっていた。
「あたしのことは、こうやって手を引いて助けてくれたじゃん! 動けないあたしを、あそこから連れ出してくれたじゃん! マミさんの……マミさんの時だって、同じようにできたはずでしょ!?」
ドクン、と心臓が激しく脈打つ。 脳裏にまた、恵方巻きみたいな魔女に噛み砕かれていくマミさんの最期がフラッシュバックする。
「マミさんだって、怖かったはずだよ……っ! 痛かったはずだよ! なんでマミさんは見捨てたの!? あんたがもっと早く来てれば、マミさんだって死なずに済んだのに、なんで……あたしは助けてくれたのにっ、なんで、なんでよッ!?」
だんだんとボルテージが上がっていく。あたしはほむらの胸ぐらを掴まむ勢いで一歩詰め寄り、涙をボロボロとこぼしながら、狂ったように問い詰めていた。
だけど、どんなに感情をぶつけても、ほむらは静かにあたしを見つめるだけだった。 その瞳は冷酷というより、どこか深く傷ついた、ひどく哀しい色をしているように見えた。
「……私は、隠れてなんていなかったわ」
転校生の口から漏れたのは、いつもと違う、掠れた声だった。
「え……?」
「あの時、私は巴マミを止めようとした。魔女の危険性を伝えて、引き返させようとした。でも……彼女は私の言葉を信じなかった。それどころか、私が邪魔をしないように、彼女のリボンで、私を完全に縛り上げて動けないようにしたの」
ほむらは自分の左腕を痛々しそうに少しだけさすった。
「巴マミが死ぬまで、その拘束は解けなかった。私が彼女の元に駆けつけたのは、リボンが消えた瞬間……彼女が、死んだ直後よ。横取りだなんて、そんなつもりはなかった」
「何、それ……」
あたしは絶句した。拳を握りしめたまま、凍りついたように動けなくなる。 じゃあ何、マミさんが死んだのは、自業自得だったって言うの?そんなわけない、そんなことがあってたまるか。そんな黒い感情が起こりそうになる。けれど同時に、あたしの冷静な部分は、それが逆恨みだってことも分かってた。
あたしは、もう転校生を敵視していなかった。
「……信じられないなら、それでもいいわ。でも、これだけは分かって。魔法少女のことに、これ以上首を突っ込むのはやめなさい。忠告はしたわよ」
ほむらはそう言うと、今度こそ本当に背を向けて歩き出そうとした。
「……待って!」
気づけば、あたしは声を上げていた。 遠ざかろうとするほむらの背中に向かって、涙を拭いながら、必死に言葉を紡ぐ。
「助けてくれて……ありがとね、ほむら」
ほむらの足が、ピタッと止まった。
初めて、あいつを「転校生」でも「あんた」でもなく、名前で呼んだ。胸の奥をドロドロに満たしていたあの呪いのような感情は、夕暮れの風に溶けるように、綺麗に消え去っていた。
ほむらはしばらくじっと佇んでいたけれど、やがて、小さく息を吐く。
「……早く帰りなさい。風邪ひくわよ」
最後までぶっきらぼうで、つれない声。 だけど、今度のその言葉には、はっきりとあたしを労る温かさが混ざっていた。 長い黒髪をなびかせて、今度こそ歩き去っていくほむらの後ろ姿を、あたしはもう、睨みつけることはなかった。
おわり