ナイスネイチャがトレーナーと契約するまでのお話 作:灯火011
トレセン学園の片隅にある、ひどく整理整頓されたこぢんまりとしたトレーナー室。その主である彼は、今日も深煎りのコーヒー豆を自前のミルで挽きながら、タブレット端末の画面を眺めていた。
画面に映っているのは、レースの分析データでも、担当ウマ娘のトレーニングメニューでもない。右肩上がりの曲線を描く、全世界株式インデックスファンド……通称オルカンの運用シミュレーションだ。
「……うん、悪くない。このまま複利で回していけば、あと数年で目標額に到達する。労働は美徳というが、私の辞書にその言葉はない。必要なのは、優雅な配当生活を生み出す元本だけだ」
淹れたてのコーヒーを一口含み、彼は満足げに息を吐いた。
彼はトレセン学園のトレーナーである。ウマ娘たちを導き、夢の舞台であるトゥインクル・シリーズへと送り出す栄えある職業。だが、彼自身の運動能力は皆無に等しい。50メートルを走れば息が上がり、重いものを持ち上げればすぐに腰を痛める。完全なるインドア型の人間であった。
そんな彼がなぜ、熱血と根性が支配するトレセン学園でトレーナーをしているのか。理由は至極単純、「割が良いから」である。
ウマ娘のレースにおいて、彼女たち自身に直接の賞金は支払われない。しかし、担当ウマ娘に付いたスポンサーからの契約料の一部や、URA(ウマ娘レース協会)から支給されるレース入着によるトレーナーボーナスは、莫大な額になる。彼はその資金を粛々と投資に回し、夢の早期リタイア生活を企てているのだ。
「先生、おはようございます。今日のメニューの確認に来ました」
コンコン、という控えめなノックと共に、彼の担当ウマ娘が部屋に入ってきた。飛び抜けた才能の原石たちが集まるこの学園において、彼女は決して一級品と呼ばれる存在ではない。スピードの絶対値は平均的で、派手な脚質もない。他の熱血トレーナーたちが見向きもしなかった、いわば「鳴かず飛ばず」になりかけていたウマ娘だった。
しかし、彼から言わせれば、彼女たちは最高の「戦力」だった。
「ああ、おはよう。今日のメニューは予定通り、プールでの有酸素運動と、バ場での軽いキャンターだ。決して無理はしないように。君の最大の武器は、その無事是名馬たる頑健さと、私の指示を完璧にトレースできる知性なのだから」
「はいっ。でも、明日はリステッド競走ですけど、こんなに軽めでいいんでしょうか?」
「構わない。勝敗は、レースに出走する前にすでに決まっているものだよ。戦術の基本は、いかに味方の消耗(兵站)を抑え、敵の弱点を突くかにある」
彼が目指すのは、誰もが憧れる最高峰のG1レースでの劇的な勝利ではない。
G1戦線は文字通り血の滲むような死闘だ。才能と才能が激突し、時には心身をすり減らし、選手生命を縮めてしまうことすらある。彼はそれを「無謀な消耗戦」と切り捨てる。
「熱いレースで観客を沸かせるのも結構だがね、君たちの人生は、ターフを降りた後の方がずっと長いんだ。無理をして脚を壊してはどうにもならない。今後のキャリアを含めたトータルのウマ娘人生を優先させる。それが私のやり方だ」
彼の戦略は徹底している。デビュー戦を確実に勝ち上がり、無理なローテーションは絶対に組まない。G1には目もくれず、オープン戦やリステッド競走を狙い撃ちにする。そこにはG1ほどの魔物はおらず、確かな実力と「完璧な戦術」があれば、安定して勝利を拾うことができるからだ。
■
そして翌日。リステッド競走の舞台。彼はスタンドの喧騒から離れたモニター室で、紙コップのブラックコーヒーを片手にレースを見つめていた。
『さあ、第3コーナーから第4コーナーへ! 先頭グループは激しい競り合いだ! ペースがどんどん上がっていく!』
実況の声が響く中、彼の担当ウマ娘はバ群の中団、最内という目立たない位置で息を潜めていた。素人目には、完全に前を塞がれて絶望的なポジションに見えるだろう。だが、彼の頭の中にある歴史と戦争史のデータベースは、この展開を完全に予測していた。
「……先頭争いは血の気の多い連中に任せておけばいい。ハイペースによる酸素とスタミナの枯渇。クラウゼヴィッツも言っているだろう、戦力の逐次投入は愚策であると」
彼はモニターに向かって、まるでチェスの駒を進めるように指を振った。
「君のスタミナという名の兵站線は完全に保たれている。最終直線、外に膨らんだバ群の隙間……古代ローマの斜線陣の如く、崩れた敵陣の急所を突け」
画面の中、最終直線に入った瞬間。先頭で競り合っていたウマ娘たちの脚色が鈍り、バ群が外へと膨らむ。その一瞬の隙間、ぽっかりと空いたインコースから、彼の担当ウマ娘が信じられないほどの余力を持って抜け出してきた。
派手な末脚ではない。ただひたすらに、コースロスをなくし、スタミナを温存し、戦術的に最も正しいルートを駆け抜けた結果としての、必然の勝利。
『抜け出した! 内から一気に抜け出した! そのままゴールイン! 見事なレース運びです!』
「うん。計算通りだ。よくやってくれた」
彼はタブレットを開き、URAのポータルサイトにアクセスする。今回のリステッド競走勝利によるトレーナーボーナスと、スポンサーからの特別報酬の概算を弾き出した。
「素晴らしい。これで予定よりも三ヶ月早く、目標の資産額に到達できそうだ。彼女の脚の負担も最小限で済んだし、スポンサーも喜んでいる。まさに三方良し、というやつだな」
冷めかけたコーヒーを飲み干し、彼は小さく伸びをした。
彼のウマ娘たちは、決して伝説の名バとして歴史に名を刻むことはないかもしれない。だが、彼女たちは誰一人として怪我で引退することなく、確実な賞金と実績を積み上げ、引退後も有望なキャリアを約束された幸福な人生を歩むことになる。
「さて、彼女が戻ってきたら褒めてやらなくては。帰りに美味いコーヒー豆でも買って帰るか……もちろん、経費で落とせる範囲でね」
面倒ごとには首を突っ込まず、ただ静かな生活とコーヒーを愛する男。しかしその頭脳が弾き出す戦術は、今日もターフに確実な勝利の算段を描き出している。
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トレセン学園を去る日。荷物の整理を終えた担当ウマ娘は、最後にこのこぢんまりとしたトレーナー室のドアを叩いた。
「先生、今まで本当にお世話になりました」
「ああ、お疲れ様。君のこれからのキャリアに幸多からんことを祈っているよ」
彼はいつものようにパーソナルチェアに深く腰掛けたまま、デスクの引き出しから無地の分厚い封筒を取り出し、彼女の前にすっと差し出した。
「……先生、これは?」
「ささやかな餞別だ。君がこれまで稼いできたスポンサー料や、私のトレーナーボーナスの一部を、少しばかりプールしておいたものだよ。新生活の足しにしなさい」
彼女は驚き、慌てて両手を振って辞退しようとした。
「受け取れません! 引退後の就職先はURAから立派な企業を斡旋していただきましたし、学園からも、これまでの活躍に応じた十分な報奨金をいただいています。今後の生活資金に不安はありません。それに、先生から個人的にこんな大金をいただくなんて……!」
彼は手元のマグカップからコーヒーを一口啜り、ゆっくりと首を横に振った。
「バカを言っちゃいけないよ。遠慮など無用だ」
その声は静かだが、有無を言わせぬ論理的な響きを持っていた。
「いいかい、お金はあるだけ良い。綺麗事を抜きにすれば、この資本主義社会においてお金とは『力』そのものだからね。理不尽な状況に直面した時、あるいは組織に属さず自由を選択したい時、十分な資金があれば胸を張って『ノー』と言うことができる。これは君自身の身を守るための、最強の装甲板であり兵站なんだ」
ぽかんとする彼女の手に封筒を押し付けると、彼はさらに、ホッチキスで留められた手製の小冊子をその上に乗せた。
「ついでだ。これからの資産形成について、私なりにまとめた冊子を渡しておこう。今のうちから、将来を見据えたまえ」
彼女がパラパラとページをめくると、そこには『長期・分散・積立の原則』『S&P500および全世界株式(オール・カントリー)インデックスファンドによる複利運用』『非課税投資枠の最大活用による節税効果』など、およそウマ娘のスポ根とは無縁の、しかし極めて現実的で堅実な資産運用のノウハウがびっしりと書き込まれていた。
「いいかい。まずは生活防衛資金を確保し、余剰資金は優良なインデックスに機械的に積み立てなさい。君の頑健な肉体と同じように、資産もまた『時間』を味方につけることで強固になる。労働収入だけに依存しない基盤を作るんだ。そうすれば、何にも縛られず、君自身の人生を生きることができる」
「……先生らしいですね」
彼女は苦笑しながらも、その分厚い封筒と手作りの冊子を、まるで何よりも価値のあるG1トロフィーのように大切にカバンにしまった。
「感謝するよ。君が怪我なく走り抜いてくれたおかげで、私の『優雅な配当生活』の計画も予定通り前進したからね。何かあれば、いつでも連絡してきなさい。もちろん、君からの相談料は無料にしておこう」
感情的な涙や、熱血ドラマのような抱擁はない。ただ、冷徹なまでの事実と論理を告げて、飄々と次の人生へと教え子を送り出す。しかし、社会という新たな戦場へ赴くにあたり、これほど実用的で心強い支援もないだろう。
故に、彼のOGたちからの評判はすこぶる良い。
引退後も、人生と資産運用の良き「参謀」として、あるいはただ美味しいコーヒーを共に飲むために、卒業生たちは折に触れてこのこぢんまりとしたトレーナー室を訪れるのである。
■
後日。こぢんまりとした彼のトレーナー室は、遊びに来た数人の卒業生(OG)たちによって、珍しく賑やかな空気に包まれていた。
それぞれが持ち寄ったお茶菓子をつまみながら、他愛のない近況報告に花を咲かせている中、ふと1人のOGが口を開いた。
「そういえば先生って、稼ぎが良いからトレーナーになったんですよね?」
「ああ、そうだとも」
彼は淹れたてのコーヒーを啜りながら、悪びれる様子もなく優雅に頷いた。
「しかも、このトレセン学園は書物の貯蔵が素晴らしいからね。歴史から戦術論まで、居ながらにして最高の知識を得つつ、金まで得られる。全くもって良いことだよ」
それを聞いた別のOGが、首を傾げて疑問を投げかけた。
「じゃあ、重賞ウマ娘を育てればいいんじゃないっすか? 先生の担当したウマ娘って、アタシも含めてオープンとリステッドしかいねーじゃないですか。効率よく稼ぐって意味じゃ、なんか矛盾してますよ」
G1はおろか、G2やG3といった重賞レースであっても、勝利すれば得られる名声と賞金(ボーナス)の額は跳ね上がる。金銭的な利益だけを追求するなら、彼女の指摘はもっともだった。
カップをソーサーに置き、彼は静かに告げた。
「確かに、一見それは合理的ではある」
彼はタブレットを指先で叩き、いくつかのデータを頭の中で反芻してから続けた。
「だが、重賞という舞台は、ウマ娘に無理をさせなければ届かない場所だ。それか、とてつもない才能を持ったウマ娘でしか辿り着けない。毎年、数千人というウマ娘が全国からこのトレセンに入るが、重賞を取れるのはその中の上位数パーセントにすぎないという事実がある」
「いや、そりゃ分かってますけど……」
質問をしたOGは、少し不満げに唇を尖らせた。
「でも、先生の指導と戦略があれば、アタシたちだってもう少し上に行けたんじゃねーかなって。今になってそう思うことがあるんですよ」
他のOGたちも「確かに」「先生の作戦、いつも完璧だったし」と同調する。しかし、当の本人はひらひらと手を振ってその言葉をあっさりと否定した。
「買い被りすぎだ。私にそんな魔法のような力はないよ」
彼は深くパーソナルチェアに背中を預け、己の哲学を淡々と口にした。
「私が君たちに出来るのは、ピークアウトを迎えるまでしっかりと走らせてやること。そして、ターフで勝利を知ってもらいつつ、トレセン卒業後に苦労しない生活をしてもらうという事だけだ」
彼の声から、いつもの飄々とした軽さが少しだけ消えた。
「無理をして重賞に挑めば、相応の代償を払うリスクが跳ね上がる。怪我、骨折、ましてや靱帯炎にでもなったら一生付き合う怪我になるからね。教え子の将来を犠牲にしてまで名誉や金を得るのは、私の心情と反するものでね」
そこまで言い切ると、彼は「やれやれ」といった様子で小さく肩をすくめた。
少しだけ静まり返った部屋の中で、OGたちは顔を見合わせる。そして、誰からともなくふっと笑い声を漏らし、彼に倣うように一斉に肩をすくめた。
「……ほーんと、先生らしいっすねー」
「ですね。そういう変にブレないところ、アタシたち好きですよ」
からかうように笑い合う教え子たちを眺めながら、彼はため息を一つこぼし、深煎りのコーヒーをもう一口、ゆっくりと味わうのだった。