ナイスネイチャがトレーナーと契約するまでのお話 作:灯火011
泥だらけの彼女が連れられてきたのは、着任したばかりでまだ本棚すらまばらな、ひどく殺風景なトレーナー室だった。
「座りたまえ。泥は後で掃除すればいい」
男は泣き腫らした彼女をソファーに促すと、静かにカセットコンロに火をつけ、手ずからコーヒーを淹れ始めた。
お湯の温度を測り、細口のポットから一滴一滴、時計の針のように正確なリズムでお湯を落としていく。その無駄のない、あまりにも理路整然とした所作は、先ほどまで彼女がグラウンドで繰り返していた「闇雲で無軌道な走り」とは対極にあるものだった。
やがて、芳醇な香りと共に、無地のカップが彼女の前にコトリと置かれた。
「飲んで、少し落ち着きなさい」
「……いただきます」
震える両手でカップを包み込み、一口すする。
ブラックコーヒーの強い苦味が、パニックになっていた彼女の脳を芯から冷やし、同時に胃の奥からじんわりとした温かさを広げていった。
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彼女が落ち着きを取り戻したのを見計らい、男は自らもカップを手に取って、ゆっくりと口を開いた。
「……日本海海戦を知っているかい?」
「え……?」
唐突な歴史の話題に、彼女はぽかんと瞬きをした。
「あ、ええと……歴史の授業で、少しだけ。東郷平八郎が、ロシアのすっごく強い艦隊を倒した、とか……」
「その通りだ。当時のロシア帝国が誇るバルチック艦隊は、大国の圧倒的な国力と才能の結晶。まさに絶対的な『天才』の集団だった。それを東郷は、極限まで練り上げた戦術と、血を吐くような猛訓練によって真っ向から打ち破り、歴史的な大金星を挙げた」
男の言葉に、彼女の瞳にほんのわずかな希望の光が宿った。
天才の集団を、戦術と努力で打ち破る。それはまさに、才能のない彼女が夢見ていた逆転のシナリオそのものだったからだ。
「じゃあ、私も……! トレーナーさんの戦術と、これまでの訓練があれば、あの子たちに……!」
身を乗り出そうとした彼女を。男は、氷のように冷徹な瞳と、淡々とした声で容赦なく叩き落とした。
「勘違いしてはいけないよ。……君は東郷平八郎ではないし、無敵の戦艦『三笠』でもない」
「え……」
「君の肉体的な限界値、スペックを冷静に、かつ客観的に見立てるなら……そうだな。戦艦同士の正面切っての殴り合い、つまりは重賞レースの切磋琢磨には到底ついていけないだろう。例えるならば火力や装甲などは無く、しかしながら万能性ならば引けを取らない、『巡洋艦』といったところだろうね」
淡々と告げられた、身も蓋もない事実。
圧倒的な火力も、天才たちとぶつかり合える強靭な装甲、つまりはバネも君には備わっていない。それは指導者としてオブラートに包むべき残酷な現実だったが、男は一切の同情を交えることなく、ただのデータとしてそれを提示した。
「巡洋艦……」
彼女は呆然と呟き、持っていたカップの表面にぽつりと涙の雫を落とした。
「そんな……。でも……! 私だって、重賞を走りたいんです! G1の華やかな舞台で、みんなみたいに一番を獲って……歓声を浴びて……!」
絞り出すような、ウマ娘としての悲痛な叫び。どれだけ才能がないとわかっていても、諦めきれない夢がある。その熱い想いにさえ、男は表情一つ変えなかった。
「残酷だが、それは無理だな。100回挑んで、100回とも自重で自壊して終わるだけだ」
一切のブレもない、完全なる否定。
その声には、彼女の夢を嘲笑うような悪意はない。ただ「1と1を足せば2になる」という物理法則を語るのと同じ、絶対的な冷たさだけがあった。
「私は魔法使いではない。巡洋艦の君を、一晩で戦艦(天才)に作り変えることなど絶対に不可能だ。……だが」
男はカップをソーサーに戻し、深く絶望する彼女の瞳を、真っ直ぐに射抜いた。
「巡洋艦には巡洋艦の、完璧な『戦い方』と『生き残り方』がある。大金星、重賞を狙って海の藻屑になるのではなく、確実に勝てる海域、レースだけを選び抜き、無傷のまま、誰よりも多くの戦果……、人気と、その副産物である金を故郷へ持ち帰る戦い方がね」