ナイスネイチャがトレーナーと契約するまでのお話 作:灯火011
「……重賞は、諦めろってことですか」
うつむいたまま、彼女は震える声で絞り出した。
それは確認というよりも、自分自身の夢に止めを刺すための絶望的な問いかけだった。
重賞を、諦める。
それはトレセン学園に身を置くウマ娘にとって、アスリートとしての「死」に等しい宣告だ。
男は一切の躊躇いを見せることなく、ゆっくりと首を縦に振った。
「ああ。……まぁ、この夢と希望に満ちた学園においては、ひどく残酷な言い方になるだろうがね」
彼は組んだ指を顔の前に持っていき、言い訳がましさの欠片もない、堂々たる態度で続けた。
「君の夢に寄り添い、『努力すればいつか必ず届く』と甘い言葉を囁くのは簡単だ。だが、私は指揮官の責任として、己の部下であるウマ娘に実現不可能な幻想を抱かせ、無謀な突撃の末に散らせるような真似は絶対にしない。……だから、指導者としての全責任を持って、何度でも言おう」
黒い瞳が、逃げ場のない現実を突きつける。
「君が重賞の舞台で勝つことは、無理だな。絶対に」
その言葉が落ちた瞬間、彼女の中の張り詰めていた糸が、プツンと音を立てて切れた。
「……そうですか」
虚ろな目で立ち上がり、彼女はトレーナー室のドアへと向けて重い足を引きずった。
これ以上、ここにいる意味はない。自分は才能のない不良債権(スクラップ)だと、プロの目から完全に証明されてしまったのだから。今までだってそうだった。色々なトレーナーからは無視され続けた数年間が脳裏に浮かぶ。
―――荷物をまとめて、田舎の実家へ帰ろう。
そんな暗い決意が彼女の背中を支配していた。
「――だが」
彼女の手が、ドアノブに触れる。
「正面切っての艦隊決戦、つまりは重賞は不可能でも。……君ならば、デビュー戦から条件戦、そして『オープン戦』においては、間違いなく無類の強さを誇るだろう」
背中越しに降ってきたその言葉に、彼女の足がピタリと止まった。
「……え?」
振り返った彼女の目に映ったのは、安楽椅子に深く身を沈め、悪戯を思いついたような、ひどく不敵な笑みを浮かべる男の姿だった。
「天才たちが集う重賞戦線を『表の戦場』とするならば、オープン戦やリステッド競走は、いわば『日陰の海域』だ。そこには、圧倒的な才能を持った戦艦は存在しない。君と同じか、それ以下のウマ娘たちが、泥臭く小競り合いを演じている海だ」
男は立ち上がり、机の上に広げられた全国のレースのカレンダーを指差した。
「君は重賞を勝ち抜ける天才ではない。だが、決して無能でもない。……正しい兵站管理休息と栄養を与え、足首の回転数や出力のロスを極限まで減らす戦術的訓練を積めば、君のその『巡洋艦』としてのスペックは、同クラスの戦場、それは例えばオープン戦において、絶対に沈まない最強の不沈艦と化す」
彼の言葉には、熱血のような根性論は一切ない。
ただ、冷徹なデータ分析と、完璧なロジスティクスによって導き出された『必然の勝利』だけが提示されていた。
「重賞のトロフィーと名誉は手に入らない。……だが、オープン戦を無傷で勝ち続ければ、手堅い人気、それに付随する賞金と、そして確固たる『実績』は残る。一度きりの栄光のために脚を壊して引退する天才たちよりも、遥かに多くの戦果を、君は生涯無傷のまま故郷へと持ち帰ることができるんだ」
男は、ドアノブを握りしめたまま呆然とする彼女へと歩み寄り、その目線を合わせて告げた。
「天才たちの華やかな歴史の裏側で、手堅く、泥臭く、しかし誰よりも長くターフを支配する。
……どうだい? 悪くない『生存戦略』だと思わないか?」