ナイスネイチャがトレーナーと契約するまでのお話 作:灯火011
ドアノブに手をかけたまま、彼女は立ち止まっていた。
「オープン戦の覇者」という、今まで誰も語らなかった日陰の生存戦略。それに微かな活路を見出しながらも、幼い頃から刷り込まれてきた「ウマ娘としての常識」が、彼女に一つの疑問を投げかけさせた。
「……あの」
彼女は振り返り、その冷徹な新人トレーナーの顔を見つめた。
「重賞を勝つことの栄誉とか、そういうものには……トレーナーは、興味がないんですか?」
大観衆の歓声、煌びやかなウイニングライブ、そして歴史に名を刻むというウマ娘とトレーナーの究極の夢。それを最初から完全に放棄する彼のスタンスが、彼女にはどうしても不思議だった。
その問いに対し、男は呆れたように、あるいは心底どうでもいいと言うように、あっさりと首を横に振った。
「興味はないね」
「一ミリも、ですか?」
「ああ、一ミリもだ」
男は腕を組み、窓の外――すっかり夜の闇に沈んだトレセン学園のグラウンドへと視線を向けた。
「考えてみたまえよ。君たちがこの在学中の数年間にすべてを懸け、極限まで肉体を酷使して栄光を掴みに行くとしよう。指導者である私も、君たちに鞭を打ち、全力を出させてトレーナー業務に勤しむ……。
一見すれば、美しく感動的な青春の物語だ」
そこで言葉を切り、男は再び彼女へと視線を戻した。その黒い瞳には、一切の感傷を排した、極めて現実的な光が宿っていた。
「しかしね。ウマ娘としてターフを去った後の、数十年という果てしなく長い人生のスケールにおいて、その数年間で負った肉体へのダメージがどうなるか……君は想像したことがあるか?」
「ダメージ……」
「そうだ。無理な出力の代償は、必ず関節や靭帯への修復不可能な負荷、負債となって現れる。一時的な熱狂と引き換えに、歩くことすら苦痛になるような一生の後遺症を負う可能性もあるんだ。
……それに耐えうるだけの圧倒的なフィジカルと才能があれば話は別だが、君にはそこまでの才能はない」
夢も希望もない。
ただ「引退した後の長い人生」という、現役のウマ娘が誰一人として見ようとしない現実を、彼は冷酷なまでの論理で突きつけてくる。
「……」
しかし。
才能がない、と再び断言されたにもかかわらず。彼女の心の中に先ほどのような絶望感は湧いてこなかった。それどころか、不思議なほどの安堵感が胸の奥に広がっていくのを、彼女は感じていた。
(この人は……)
今まで彼女が出会ってきたトレーナー達は、皆「頑張れば重賞を狙える」と無責任な夢を語るか、「君には無理だ」と見捨てるかのどちらかだった。
だが、目の前にいるこの奇妙な男は違う。
レースという人生の熱狂を終えた後、一人の女性として何十年も生きていく彼女の『人生そのもの』を、絶対に壊さないように守り抜こうとしているのだ。才能がないから切り捨てるのではなく、才能がないからこそ、無傷で生き残るための完璧な撤退戦の指揮を執ろうとしている。
「……はっきり、言われますね」
気づけば、彼女はドアノブから手を離し、涙の跡が残る泥だらけの顔で、ふっと苦笑いを浮かべていた。
「女の子に向かって、才能がないとか、一生の後遺症とか……普通、もっとオブラートに包むもんじゃないですか? 新人トレーナーのくせに」
その彼女の笑みを見て、男もまた、薄く口角を上げた。そして、当然の事実を述べるように、堂々と胸を張って言い放った。
「当たり前だ。私はトレセン学園において、ウマ娘の命と、その人生を預かる『トレーナー』だからな。その責任を履行することについて、経歴などは必要ない」
一切のブレもない、指揮官としての絶対的な責任と覚悟。
その言葉を聞いた瞬間、彼女は重賞への未練も、才能への劣等感も、心の中から追い出すように、大きく息を吐き出した。
「……わかりました」
彼女は男に向き直り、泥だらけのジャージの裾をきゅっと握りしめて、深く、深く頭を下げた。
「私を……トレーナーの言う『沈まない巡洋艦』にしてください。絶対に怪我しないで、オープン戦で誰よりもいっぱい勝って……引退したあとも、自分の足でしっかり歩けるように」
「ああ、約束しよう。私の兵站管理(ロジスティクス)に一切の妥協はないから、覚悟しておきたまえ」
これが、ハイペリオン陣営における「第一号」のウマ娘が誕生した瞬間の記録である。
栄光を捨て、生存を選ぶ。世間から見ればあまりにも後ろ向きで夢のない二人の契約は、ここから学園の常識を静かに、そして確実に覆していくことになる。