ナイスネイチャがトレーナーと契約するまでのお話 作:灯火011
新人トレーナーの彼と契約を結んだその日から、彼女のトレセン学園における常識は根底から覆された。
トレーナーが持ち込んできたのは、魔法のような特訓メニューでも、極秘のトレーニングマシンでもなかった。それは、彼女からすれば「拍子抜け」を通り越して「不安」になるほど、地味で、退屈で、そして何よりも『休養』を絶対的な前提としたスケジュールだった。
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「いいかい。疲労した筋肉に鞭を打つのは、整備不良のエンジンでアクセルをベタ踏みするのと同じだ。まずは君の体にこびりついた慢性的な疲労と、誤ったフォームによる関節の歪みを完全にリセットする。話はそれからだ」
グラウンドでの激しい走り込みは一切禁止された。
代わりに課せられたのは、徹底した食事管理と、十分すぎるほどの睡眠。そして、ストレッチマットの上で行う、地を這うようなインナーマッスルの強化と股関節の可動域を広げるための地味な基礎反復練習のみ。
周囲のウマ娘たちがターフで泥だらけになりながらタイムを削り出している中、彼女だけが室内でゴムチューブを引っ張ったり、バランスボールの上で姿勢を維持したりしている。焦りが募らないわけがなかった。
そして極めつけは、毎朝の「謎のルーティーン」である。
「お湯の温度が高い。これでは豆の雑味まで抽出されてしまう。……まぁ、そこそこといったところだな。及第点には程遠いが、私の胃袋を満たす最低限の水分としては妥協しよう」
カセットコンロの前で、不満げに腕を組む彼女に対し、安楽椅子に座ったトレーナーは手ずから彼女が淹れたコーヒーを啜りながら、そう忌憚のない評価を下した。
「そこそこって……! 私はウマ娘であって、喫茶店の店員じゃないんですけど! なんで毎朝毎朝トレーナーのコーヒー淹れなきゃいけないんですか!」
「手先の繊細なコントロールと、毎朝一定のルーティーンをこなすメンタルコントロールの訓練だ。……と言えば、君も少しは納得するかい?」
「絶対嘘だ! トレーナーが自分で淹れるの面倒くさいだけでしょ!」
理屈をこね回す怠惰な指揮官に、彼女はキーキーと抗議の声を上げた。
だが、不思議なことに、そんな言い合いを毎朝繰り返しているうちに、彼女の中にあった「重賞への未練」や「才能への劣等感」という暗い澱のようなものは、少しずつ、しかし確実に薄れていった。
彼が淹れさせるコーヒーのように、焦りや雑味がフィルター越しに濾過され、純粋な『走るための基礎』だけが彼女の肉体に蓄積されていく数ヶ月間だった。
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そして、運命のデビュー戦(メイクデビュー)の日が訪れた。
(……もし、これで無様に負けるようなら、今日で契約を解除(解約)しよう)
控え室で、彼女はひっそりとそう決意していた。
休養と地味な基礎訓練ばかりの数ヶ月。かつてのように息が血の味になるまで走り込んだわけではない。不安がないと言えば嘘になる。彼の論理がただの机上の空論だったなら、自分は間違いなく最後尾を走ることになるだろう。そうしたら、潔く夢を諦めて田舎へ帰るつもりだった。
「各ウマ娘、ゲートイン完了しました。……スタートです!」
実況の声と共に、ゲートが開く。
彼女は、トレーナーから耳にタコができるほど叩き込まれた「無駄のない、関節に負担をかけない最低限のフォーム」で、ターフへと飛び出した。
(……え?)
最初のコーナーを曲がった瞬間、彼女は自分の体に起きている『異変』に気づいた。
(……身体が、軽い?)
違う。軽いのではない。
今まで、彼女の体には常に慢性的な疲労と、無理な出力による関節のきしみ、つまりブレーキがかかっていたのだ。それが完全にリセットされ、基礎訓練によって関節の連動性が最適化された結果。
(いや……速いんだ。私、こんなに速く走れるんだ……!)
風が、耳元を心地よくすり抜けていく。
ターフを蹴り出すたびに、自身の生み出した推進力が、一切のロスなくスピードへと変換されていくのがわかる。息は苦しくない。脚も痛くない。視界はどこまでもクリアで、前を走るウマ娘たちのペースが、まるで止まっているかのように遅く感じられた。
そして迎えた最終直線。彼女は自身の内にある出力を、限界の手前――安全圏の最大値まで解放した。
「外から一気に抜け出した! 鮮やかな差し切りだ!」
才能の壁に絶望し、ターフの泥を舐めていた少女は、同クラスのウマ娘たちをごぼう抜きにし、誰よりも早く、そして一切の傷を負うことなくゴール板を駆け抜けた。
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「……はぁっ、はぁっ……っ!」
レース後。息を弾ませながら検量室の前へと戻ってきた彼女を待っていたのは、いつものようによれよれのコートを羽織り、バインダーを抱えた新米トレーナーだった。
「……トレーナー!」
彼女は自身の震える両手を見つめた。
勝った。圧倒的なスピードで。それなのに、どこにも痛みがない。明日も明後日も、このまま走り続けられるほどの余力が、自分の体には満ち溢れている。
その信じられないというような表情を見て、トレーナーはバインダーを小脇に抱え直し、深く、満足げに頷いた。
「だから、言っただろう」
周囲の喧騒から切り離されたような、静かで、しかし絶対的な確信に満ちた声が響く。
「君は『能力がない』わけではない。重賞を勝ち、天才たちと正面から殴り合うための『天から付与された才能』がないだけだ。……だが、己の適正海域を正確に見極め、完璧な兵站と戦術で挑むのならば」
男は、涙を浮かべて立ち尽くす彼女に向かって、少しだけ悪戯っぽく、しかし心からの称賛を込めてニヤリと笑った。
「君は、この日陰の海域において、絶対に沈まない無敵の『スター』になれるんだ」
その瞬間、彼女の目からボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
華やかなG1のファンファーレは鳴らない。スポーツ紙の一面を飾ることもない。だが、彼女は確かに、自分だけの絶対的な「勝利」を手に入れたのだ。
「……はいっ! はい……っ!」
泣き笑いの顔で力強く頷いた彼女の姿は、まさに進水式を終え、大海原へと出港していく誇り高き『沈まない巡洋艦』そのものであった。
これが、のちにトレセン学園において、オープン戦やリステッド競走の賞金を総なめにし、無傷のまま五体満足で卒業していく「ハイペリオン陣営」の、輝かしくも泥臭い歴史の第一歩だった。