ナイスネイチャがトレーナーと契約するまでのお話   作:灯火011

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長き旅路、航路の先へ

「……ここ最近の3戦、終盤でのタイムが明確に落ち込んできているな。もはや誤差や疲労の蓄積で片付けられる数値ではない」

 

 ある日の夕暮れ。

 

 いつものように静まり返ったトレーナー室で、男は手元のバインダーに挟まれた膨大なラップタイムのデータを指先でトントンと叩きながら、極めて淡々と、しかし決定的な事実を口にした。

 

 

 デビューから数年。

 

 かつて才能の壁に絶望し、泥にまみれて泣き崩れていた彼女は、彼の完璧な兵站管理と戦術指揮の下、まさに「沈まない巡洋艦」としての責務を完璧に果たし切った。

 

 日陰の海域――オープン戦やリステッド競走に的を絞り、怪我のリスクを極限まで削ぎ落としたローテーションを守り抜いた結果、彼女が積み上げた勝利数は堂々の『二桁』。

 

 重賞ウマ娘ですら生涯で稼げるかどうかわからないほどの莫大な人気と名声、そして付随する金を、彼女はただの一度の故障もなく、五体満足のまま故郷へ持ち帰る権利を手にしたのだ。

 

「……耐用年数が来た、という話さ」

 

 男はバインダーを閉じ、安楽椅子に深く背中を預けた。

 

「長年にわたり、君の関節と靭帯はよく持ち堪えてくれた。だが、金属疲労は目に見えないところで確実に進行している。これ以上の無理な出力は、艦体の致命的な破損、私が懸念する生涯残る後遺症を招く。……つまり、潮時だ」

 

 それは、ウマ娘としての『引退』の宣告であった。しかし、宣言を受けた彼女の顔に悲壮感はなく。

 

 かつて重賞への夢を諦めきれずに泣いていた少女は、今や幾多の局地戦を無傷で潜り抜けた、誇り高き歴戦のベテランの顔つきになっていた。

 

「……そっか。とうとう、私にも寿命(おわり)が来たんですね」

 

 彼女は、長年己を支え続けてくれた自身の両脚を、愛おしむようにそっと撫でた。

 

 痛みはない。今でも普通に走ることはできる。だが、アスリートとしての「限界値」を、指揮官の冷徹なデータが示している。ここで退くことこそが、彼が掲げた『完全なる戦略的勝利』の絶対条件なのだ。

 

「トレーナー。今まで、本当に……っ」

 

 込み上げてくる感傷と感謝。美しく涙を流して、指導者への礼を述べようと彼女が深く頭を下げかけた、まさにその時だった。

 

「さて。感傷に浸るのは後にしてくれたまえ。ここからが『本題』だ」

 

「……え?」

 

 バンッ!

 

 と。男は机の上に、ラップタイムやレースのデータが挟まれたバインダーよりもさらに分厚い、見慣れないファイルの束を無造作に放り投げた。

 

「あの……トレーナーさん? 今って、引退の話をしてたんじゃ……」

 

「その通り。だが勘違いをしてはいけないぞ? ウマ娘としてのレース、つまり、『君の人生の局地戦』が終わっただけだと言っているんだ。君の『人生』という果てしなく長い泥沼の消耗戦は、むしろここからが本番だろう」

 

 男は立ち上がり、ホワイトボードの前に立つと、これまでのレースの戦術図ではなく、右肩上がりの奇妙な折れ線グラフと、びっしりと数字が書き込まれたシミュレーション表を貼り付けた。

 

「いいかい。君がオープン戦線で堅実に稼ぎ出したものは二つ。一つは、二桁勝利分の莫大な名声だ。これは、この先君がどこに行っても通用する素晴らしい実績、人的資本だ。

 そして二つ目。それは、名声に付随するスポンサー料やURAから約束された報奨金。これは、君の今後の人生を絶対的に防衛するための『初期兵站』、金融資本だ。

 特に、『金融資本』……。これをただ銀行口座に眠らせ、インフレという名の目に見えない敵に価値を削り取られるのを黙って見ているなど、愚の骨頂にもほどがある」

 

 呆気にとられる彼女をよそに、安楽椅子の魔術師は、ターフの戦術を語る時以上の凄まじい熱量と早口で、怒涛の講義を開始した。

 

「君はこれから社会に出る。実家へ帰り、家業を継ぐにせよ別の仕事に就くにせよ、労働による収入、第一の補給線は確保されるだろう。だが、それだけでは不十分だ。我々が構築すべきは、資本そのものが自立して増殖する『第二の補給線』だ」

 

 マーカーの先端が、ホワイトボードの数式を力強く叩く。

 

「非課税投資枠という国家が用意した最大の防御陣地である節税制度を、極限まで利用するんだ。投資対象は、個別の企業などという不確実な局地戦ではない。

 全世界の株式市場を丸ごと買い付ける『オール・カントリー』や、米国市場の強靭な経済成長を享受する『S&P500』といった、極めて低コストで広範なインデックスファンドへの長期積立。これが、素人が組める最強にして最も堅牢な陣形だ」

 

「お、おーる……かんとりー……? えすあんど……?」

 

「さらに、企業型確定拠出年金などの制度があれば、それも最大限に活用して税の控除枠を使い切る。いいかい、これはギャンブルではない。資本主義というシステムの根幹を利用した、徹底的な『時間の複利効果』による兵站の自動拡張システムだ。

 20年、30年という長期の視点で見れば、君の初期資本は雪だるま式に膨れ上がり、いかなる経済的危機にも揺るがない絶対防衛圏を構築できる」

 

「あ、あの、トレーナー……! ちょ、ちょっと待って……!」

 

 彼女は両手で自分の頭を抱え込んだ。

 

 インナーマッスルの鍛え方や、足首の連動性の話なら理解できる。

 

 しかし、複利、インデックス、非課税、控除……今まで全く触れてこなかった金融と経済の専門用語の機関銃掃射を浴び、彼女の脳細胞は完全に処理落ち寸前だった。

 

「あ、頭が……頭がパンクしそうです……っ! あの、あの、トレーナーさん! 私、ウマ娘ですよ!? なんで引退を言い渡された日に、こんな小難しいお金の話をみっちりされなきゃいけないんですかぁ!」

 

 悲鳴を上げる彼女に対し、男はホワイトボードから振り返り、極めて厳格な、そして指導者としての絶対的な愛情を帯びた瞳で彼女を見据えた。

 

「――いいかい。なぜこの話をするかといえば理由は一つ。これが、君のこれからにかかわる『根幹』だからだ」

 

 その低く、重たい声に、彼女は思わず息を呑んだ。

 

「ターフの上を全力で走れるのは、君の長い人生において、ほんの数年間のまばたきのような時間に過ぎない。

 だが、君がこれから生きていく『現実』は、60年、あるいはそれ以上続く。病気、怪我、経済危機、老後……無数の予期せぬリスクが、君の兵站線を常に脅かし続けるんだ」

 

 男は歩み寄り、机の上の分厚いファイルをトントンと叩いた。

 

「オープン戦で五体満足のまま生き残った。それは素晴らしい。だが、引退した後に経済的な困窮で惨めな思いをするのなら、私の、ハイペリオンの『完全なる戦略的勝利』は達成されない。

 ……君には、ウマ娘としてだけでなく、一人の人間として、死ぬまで豊かで、誇り高く、誰にも頭を下げることなく生き抜いてほしいんだよ」

 

 沈黙が落ちた。

 

 彼の言葉の奥底にある、あまりにも不器用で、しかし途方もなく巨大な優しさ。

 

 ただレースに勝たせるだけでなく、教え子の「一生」の幸福までを背負い、守り抜こうとするこの安楽椅子の男の覚悟に、彼女の胸の奥で熱いなにかが弾けた。

 

「……これは、レースよりも遥かに長く、退屈で、辛い戦いになるぞ。……私の見立ては外れない。覚悟はいいか?」

 

 挑発するように目を細める彼に向かって。彼女は、パンク寸前だった頭をブルブルと振り払い、両手でバチン!と己の頬を強く叩いた。

 

「……っし!」

 

 顔を上げ、ターフのゲートが開く瞬間よりも鋭い、闘志に満ちた瞳で指揮官を睨みつける。

 

「舐めないでくださいよ、『先生』!

 ………私は、先生の過酷な兵站管理と退屈な基礎訓練を何年も耐え抜いた、ハイペリオンの『一番艦』ですよ?

 数十年の長期戦だろうが、複利だろうがなんだろうが……先生の戦術があれば、絶対に沈まない不沈艦になってみせます!」

 

「その意気だ。では、まずは複利計算のシミュレーションと、証券口座の開設手順から叩き込む。脳細胞の糖分が枯渇する前に、私の用意したはちみつがたっぷり入ったコーヒーを飲み干したまえ」

 

「はいっ!!」

 

 華やかなウイニングライブも、感動的な涙の別れもない。

 

 机に広げられた無機質な資産運用のシミュレーション表と、すっかり冷めてしまった一杯のコーヒー。しかし、それこそが、一人のウマ娘の『人生の勝利』を決定づけた、何よりも美しく、何よりも頼もしい門出の光景であった。

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