ナイスネイチャがトレーナーと契約するまでのお話 作:灯火011
――カチャカチャカチャ、ターンッ。
昼下がりの穏やかな陽射しが差し込む、商店街の一角。
暖簾を下ろした揚げ物屋の、油とソースの甘い匂いが染み付いた奥の事務所で、小気味良い電卓を叩く音が響いていた。
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「……よし、今月の減価償却費の計上と、仕入れ値の変動に対する原価率の再計算、完了。来月からの新しい油のロット契約も、この利益率なら余裕でキャッシュが回るわね」
丸眼鏡をかけ、すっかり板についた事務用のカーディガンを羽織った『おねーさん』は、ノートパソコンの画面に表示された複雑なエクセルの表を満足げに見つめ、小さく伸びをした。
ウマ娘としての現役を退き、この商店街に根を下ろして数年。
かつて「沈まない巡洋艦」としてオープン戦線の人気を総なめにした彼女は、今や別の意味で、この商店街において絶対に沈まない強靭な『要塞』と化していた。
事務所の壁の額縁には、彼女が引退後に猛勉強の末に取得した資格証明書が並んでいる。『第一種衛生管理者』および『食品衛生責任者』。そして、金融と経理の最高峰とも言える『日商簿記検定1級』に、『1級ファイナンシャル・プランニング技能士』の国家資格。
単なる一介の揚げ物屋の経理担当が持っているには、あまりにもオーバースペックすぎる重武装である。あの引退の日に、安楽椅子の魔術師から脳髄に直接叩き込まれた「資本の防衛と増殖」という教義を、彼女は完璧に、いや、恩師の想像すら超えるレベルで己の血肉へと昇華させていたのだ。
「おーい、お疲れさん。お茶でもどうだい」
事務所の扉が開き、この揚げ物屋の店主である初老の男が、湯気を立てる湯呑みを二つお盆に乗せて入ってきた。
「あ、店長。ありがとうございます。ちょうど今月の帳簿、締め終わったところですよ」
「いつも悪いなぁ。……しかし、本当に魔法みたいだ。お前さんがうちの経理と税務を見るようになってから、無駄な経費は消え失せるし、投資信託だのなんだので店の余剰資金まで勝手に増えていくし……。税理士の先生も『私より優秀だ』って舌を巻いてたぞ」
店長は湯呑みをデスクに置きながら、心底ありがたそうに、しかし同時にどこか申し訳なさそうな顔をして頭を掻いた。
「いやー、ほんと助かる。うちみたいなしがない個人商店には、お前さんはもったいないくらいの大黒柱だよ。……でもよ」
店長は少しだけ声を潜め、気遣うように彼女の顔を覗き込んだ。
「お前、本当に実家に帰らなくていいのかい? 確か、お前さんの実家も遠方で惣菜屋をやってるんだろ? これだけの頭脳と資格があれば、実家の店だって株式会社にして、あっという間にでっかいチェーン店にできちまうだろうに」
それは、彼女の才能と未来を案じるからこその、店長なりの親心だった。
地方の惣菜屋の娘が、トレセン学園というエリート校を出て、莫大な人気と資本と国家資格の数々を手にしたのだ。故郷に錦を飾るのが、一番の親孝行であり、彼女自身の立身出世の王道ではないか、と。
しかし、彼女は湯呑みを両手で包み込み、ふーっと息を吹きかけると、一切の迷いのない、穏やかな笑みを浮かべて首を横に振った。
「ふふっ、いいんですよー。実家の資産運用、ポートフォリオは私が遠隔で完璧に管理して、両親が遊んで暮らせるだけの不労所得システムはとっくに構築済みですから」
「は、はぁ……相変わらずスケールがでかいねぇ……」
「それに」
彼女は目を細め、窓の外――茜色に染まり始めた空の向こうにある、見慣れた学園の方角へとそっと視線を向けた。
「私、この町が好きなんです。店長の揚げるメンチカツも好きだし……なにより、私が『好きでやってる』ことですから。気にしないでください」
―――実家に帰らない理由。
それは「恩返し」でも「義理」でもない。もっと純粋で、ひどく個人的で、そして途方もなく深く静かな、一人の女性としての『情愛』の表れであった。
ここからなら、自らの脚ですぐさま、あの小さくも温かいトレーナー室へと陣中見舞いに行くことができる。
彼の胃袋を満たすために、最高品質の油で揚げたコロッケを差し入れできる。
彼が新たに迎え入れた不器用な後輩ウマ娘を、からかいながらも見守り、後方支援のネットワークとして彼の背中を守り続けることができる。
重賞ウマ娘になれなかった自分は、華やかなウイニングライブのセンターで彼に感謝を叫ぶことはできなかった。だが、その代わりに。自分はこれから続く何十年という途方もなく長い人生の時間をかけて、誰よりも身近な『最強の後方支援部隊』として、パートナーとして、あの不器用な男の隣に立ち続けるのだ。
(きっと、先生とは恋愛とか、結婚とか、そういう浮いた関係にはならないだろうね。彼はずっと「倫理的リスク」を盾に逃げ回るだろうから)
それでも構わない。彼が自分の一生を守り抜いてくれたように、自分もまた、彼の平穏と教え子たちをこの商店街から見守り続ける。
――トレセン学園という激戦区から最も近く。
戦場と日常を分かつ回廊の要衝にそびえる不抜の要塞。
彼に最も近いOGとしてこの商店街に陣を張り、兵站と情報面でその背中を支え続けること。
それが、彼女が見つけた最も幸福な『生存戦略』なのだから。
「そっか。……お前さんがそう言うなら、うちとしては大助かりで文句のつけようがねぇや。これからも頼むよ、うちの『専務』さん」
店長はホッと笑って頷き、再び仕込みのために厨房へと戻っていった。
■
一人になった事務所で、彼女はお茶を一口啜り、デスクの引き出しを静かに開けた。
最新の金融工学の専門書や、分厚い税務六法が並ぶその奥に、一つだけ、周囲の真新しい書籍とは明らかに不釣り合いなものが大切にしまわれている。
彼女はそれを両手でそっと取り出し、デスクの上に置いた。
それは、背表紙のプラスチックがひび割れ、角が擦り切れて毛羽立った、年代物の古いバインダーだった。
かつて、才能の壁に絶望し泥だらけになっていた自分を救い上げてくれた男が、常に小脇に抱えていたもの。そして引退の日、頭がパンクするまで複利と投資の講義を叩き込んでくれたあの日、彼から直接手渡された「人生の航海図」。
表紙の透明なカバーは長年の摩擦で曇り、ところどころセロハンテープで不格好に補修されている。だが、その表面には埃一つなく、持ち主にどれほど深い愛情を持って、毎日触れられ、大切に扱われてきたかが一目でわかるほどだった。
バインダーを開けば、そこには色褪せた手書きのラップタイムの記録、泥臭く勝利をもぎ取ったオープン戦の戦術図、そして最後のページには、彼が徹夜で書き上げてくれた『向こう60年間の資産運用シミュレーションと、絶対防衛圏構築計画』の紙が、今も色鮮やかなまま綴じられている。
「ハイペリオンの栄えある一番艦は、今日も無傷で、絶賛稼働中です」
彼女は、擦り切れたバインダーの表紙を、まるで愛しい人の頬に触れるように、指先で優しく、何度も撫でた。
「……先生の言う通り。レースよりも長くて、退屈で、でも最高に幸せな戦いですよ」
夕暮れの商店街に、下校を知らせるチャイムの音が遠く響く。
華やかなターフの歴史には決して名が残らない。しかし、誰よりも誇り高く、誰よりも幸福に「勝利」を手にした沈まない巡洋艦は、今日も大好きな匂いのする小さな要塞で、愛する指揮官の背中を想いながら、静かに、そして力強く微笑んでいた。
次からはトレーナーがトレーナーになったきっかけのお話。
これも6話ぐらい。そのあとは、何話か閑話を挟みまして。
ネイチャが躍進するお話に続きます。合わせて50話ぐらい行きそうで震えてます。当初の短編7話とはなんだったのか。