ナイスネイチャがトレーナーと契約するまでのお話 作:灯火011
書庫の怠惰な青年と、未来を切り開く異端の才
彼が「運動」という概念に対して明確な敗北を悟ったのは、小学校のグラウンドであった。
五十メートルを走れば息が上がり、鉄棒にぶら下がれば自分の体重すら支えきれずに落下する。同級生たちが陽光の下で泥だらけになってボールを追いかけている間、彼はいつも日陰の図書室に逃げ込み、ホコリの匂いがする古い書物のページをめくっていた。
彼が愛したのは『歴史』だった。
すでに結果が出ていて、決して変わることのない過去。数百年、数千年前の人間たちがどのような論理で動き、どのような兵站(ロジスティクス)の破綻によって滅んでいったのか。それを安全な安楽椅子の上で読み解くことほど、彼の知的好奇心を満たし、かつ肉体的な疲労を伴わない至福の時間はなかった。
小、中、高と、彼の進むべき道は明確だった。
歴史学者になること。薄暗い大学の書庫に引きこもり、莫大な史料の海を泳ぎながら、過去の亡霊たちと対話して一生を終える。それこそが、運動神経がからっきしで、極めて怠惰な性質を持つ自分にとって、最も合理的で平和な『生存戦略』であると信じて疑わなかった。
―――その確信が揺らいだのは、念願叶って進学した国立大学の史学科でのことだ。
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「――実に見事なレポートだ。まさか、三十年戦争における傭兵部隊の略奪行為を、単なるモラルの欠如ではなく『後方支援拠点の欠如が生み出した必然的な現地調達システム』として、ここまで完璧な経済的観点から論破してくるとはね」
天井まで届く本棚に囲まれた、薄暗い教授室。
幾重にも積み上げられた洋書の山に埋もれるようにして座る老教授は、彼が提出した分厚いレポートをパタンと閉じ、眼鏡の奥の鋭い双眸で彼を見据えた。
史学科の重鎮であり、彼が密かに目標としていた恩師である。
「ありがとうございます。ですが、過去の記録(データ)と当時の物価指数を照らし合わせれば、誰でも導き出せる当然の論理的帰結です」
「謙遜するな。この圧倒的な情報処理能力と、感情を排して物事の『因果』を見抜く力。……知識の深さと歴史に対する洞察において、君はもはや、私と完全に肩を並べているよ」
それは、歴史学者を志す学生にとって、これ以上ない最大級の賛辞だった。
しかし、教授はそこでふっと表情を和らげ、どこか惜しむような、あるいは彼という人間の「本質」を見透かすような、不思議な笑みを浮かべた。
「だがね。君には、歴史学者として過去の亡霊と語り合うよりも、もっと『稀有な才能』がある」
「……稀有な才能、ですか?」
彼は怪訝そうに眉を寄せた。運動もできず、人付き合いも嫌いで、ただ本を読むことしか能がない自分に、知識以外の何があるというのか。
「ああ。……君のレポートには、歴史への愛着と同等か、それ以上に『この過ちを、どうすれば回避できたか』という、極めて実践的な戦術眼が内包されている。君は過去を分析しているつもりだろうが、私が読む限り、これは過去の出来事を題材にした『未来の防衛マニュアル』だ」
教授は立ち上がり、窓の外――キャンパスを行き交う、エネルギーに満ち溢れた若い学生たちの方へと視線を向けた。
「歴史学というものは、どこまで行っても『過去の記録者』に過ぎない。我々にできるのは、すでに死んだ人間たちの行動に後から理屈をつけることだけだ。
……だが、君のその知識と論理は、今を生きる者たちの血を流させず、勝利へと導くための『生きた戦術』として機能したがっている」
「……買い被りです。私はただ、安全な場所で本を読んでいたいだけですよ」
彼は顔をしかめ、いつもの怠惰な口調で否定した。自分が誰かの前に立ち、泥にまみれて戦うなど真っ平ごめんである。そんなエネルギーのかかる生き方は、自分の信条に反する。
「なに。君自身が戦う必要はない。君は安全な後方から、その冷徹な論理で盤面を支配すればいい。……君の持つ真の才能とは、その膨大な過去の知識を使い、誰かの『未来を切り開く』ことにあるのだから」
教授の言葉は、静かだが、予言のような重みを持っていた。しかし、その時の彼には、恩師の言葉の真意が全くピンときていなかった。
(知識を使って、未来を切り開く……? 冗談じゃない。誰かの人生を背負うなんて、面倒で責任の重いこと、この私がやるわけがないだろう)
彼は心の中でそう毒づきながら、早くこの息苦しい話を切り上げて、読みかけのペーパーバックの続きを読もうとばかり考えていた。
自分が将来、歴史の書庫から引きずり出され、泥と汗にまみれた少女たちの命と人生を預かる『不敗の指揮官』として、全く未知の戦場に立つことになろうとは。
この時のひどく怠惰な青年は、まだ知る由もなかったのである。