ナイスネイチャがトレーナーと契約するまでのお話   作:灯火011

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指揮官としての片鱗

 携帯電話、今で言うガラケーの小さな画面の中で、泥にまみれた少女が荒い息を吐きながらターフを走っていた。その横で、ジャージ姿の中年男がストップウォッチを片手に怒鳴り散らしている。

 

「気合いだ!」

「限界を超えろ!」

「甘えるな!」

 

 いかにも体育会系といった、唾飛沫が飛んできそうな精神論の嵐。彼はそのひどく暑苦しい映像を無表情で数分間眺めた後、友人が持参したもう一つの資料、――過去一年間にわたる詳細なラップタイムの推移と、日々の訓練メニューが記されたデータ表へと視線を移した。

 

 コーヒーが冷めるまでの間、ただひたすらに数字の羅列を追いかける。彼の頭の中で、映像とデータが歴史上の数々の戦役とリンクし、極めて冷酷な一つの「結論」へと収束していった。

 

「……なるほど。完全なオーバーペースだな」

 

 彼は深くため息をつき、携帯をテーブルの上に放り投げた。

 

「まずは、この無能な指揮官(教師)から彼女を物理的に引き離すことだ。話はそれからだろうね」

 

 あまりにもあっさりとした、しかし絶対的な断言。友人は目を丸くし、慌てて携帯を回収しながら反論した。

 

「えっ、ちょ、ちょっと待てよ! このコーチ、界隈じゃ結構有名な人だぞ? 過去にも何人か有望な子をトレセン学園に送り込んでる、実績のあるベテランで……」

 

「過去の局地戦でたまたま勝利を拾っただけの『経験則』を、全軍に適用しようとするのは三流の愚将が陥る典型的な罠だ」

 

 彼は冷めたコーヒーを一口啜り、呆れたように肩をすくめた。

 

「映像とデータを見たまえ。彼女の走り方と、この指揮官の戦術方針(ドクトリン)が、根本的なレベルで全く噛み合っていない。この男は自分の成功体験――おそらく『早期から高負荷をかけ、根性で才能を開花させる』というような前時代的な突撃戦術――を、適性の違う部下に無理やり押し付けているだけだ」

 

「適性が違うって……どういうことだよ」

 

「彼女のタイムの推移と骨格のバランスを見る限り、彼女はまだまだ成長期(伸び盛り)の途上にある。だが、肉体的な完成を迎える『ピーク』は、決して今の年齢、今の時期ではない。大器晩成とでも言うべきか、その膨大なポテンシャルを支えるための土台が、まだ出来上がっていない状態なんだよ」

 

 彼はテーブルの上のデータ表を指先でトントンと叩き、容赦のない事実を突きつけた。

 

「それを無視して、この教師は『精神論』という名目で要らぬ負荷をかけ続けている。……今はまだ若さという名の強靭な装甲で持ちこたえているが、このまま無軌道な高負荷訓練を続ければ、金属疲労は一気に爆発する。いずれ膝か足首の靭帯が弾け飛び、間違いなく潰れるぞ」

 

 そのあまりにも具体的で、背筋が凍るような宣告に、友人は言葉を失い、ゴクリと唾を飲み込んだ。

 

「……お前、映像と数字を見ただけで、よくそこまで自信満々に断言できるな……?」

 

 アスリートの専門家でもない、運動神経ゼロの歴史オタク。

 

 しかし、その語り口には、何万もの軍勢を動かす老練な将軍のような、一切のブレがない凄みがあった。友人が思わずたじろいだのを見て、彼はふっと、いつもの怠惰な、そしてどこか自嘲気味な笑みを浮かべた。

 

「なに、簡単なことさ。私が彼女に対して、一ミリの責任も負っていないからだよ」

 

「は?」

 

「安全な安楽椅子の上から、他人の陣営に好き勝手な評論を下す。これほど気楽で楽しい娯楽はない。現場の泥を被る覚悟がないからこそ、感情を排して極めて冷酷に、そして正確に『破滅の未来』を予言できるというわけだ。……無責任だからこそ言えることさ」

 

 そう言って笑う彼の姿は、のちに「ウマ娘の命と人生を預かる」という途方もない責任をたった一人で背負い込むことになる未来の彼とは、あまりにも対照的な、ただのひねくれた青年のそれであった。

 

「ま、なんだ。その子にはせいぜい、『休むことも立派な戦術だ』とでも伝えておくことだね。それでどうするかは彼女自身と、ご親戚の判断だ。……さて」

 

 彼は満足げに伸びをすると、カップの底に残ったコーヒーを飲み干した。

 

「コンサルタント業務はこれで終了だ。約束のハンバーグの前に、一つだけ聞いておこうか。その不器用で哀れなウマ娘さんの名前は、なんと言うんだい?」

 

 彼が何気なく尋ねると、友人はホッと安堵の息を吐き、笑顔を取り戻して答えた。

 

「スーパークリークって言うんだよ。すっごく優しくて、面倒見のいい子でさ」

 

 ――スーパークリーク。

 

 のちに中央のターフを席巻し、誰もが恐れる『怪物』の一角として君臨することになる、無尽蔵のスタミナを誇る稀代のステイヤー。

 

 彼女の名前を聞いた瞬間、ただの怠惰な歴史オタクであった彼の運命の歯車が、ほんのわずかに、しかし決定的な音を立てて狂い始めたのであった。

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