ナイスネイチャがトレーナーと契約するまでのお話 作:灯火011
それから、しばらくの月日が流れた。
彼は大学のカフェの片隅で、冷めたコーヒーを傍らに置きながら、広げた進路希望調査票と睨み合っていた。
大学院に進み、予定通り歴史学の教授陣の末席に連なるか。それとも、別の道を模索するべきか。恩師から「お前は未来を切り開く戦術家だ」と妙な太鼓判を押されて以来、彼の怠惰で平穏な人生計画には、ほんのわずかなノイズが混じるようになっていた。
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「……面倒なことだ。過去の亡霊とだけ向き合っていれば、私は満足なんだがな」
ペンを放り出し、ため息をついたその時だった。ふと、カフェの壁に据え付けられた大型テレビから流れてきたスポーツニュースの音声が、彼の鼓膜を揺らした。
『――見事な激走でした! クラシック最終戦、菊花賞! 圧倒的なスタミナで他を寄せ付けず、見事な戴冠を果たした名ステイヤー、スーパークリーク選手です!』
「ん……?」
その懐かしい名前に、彼は顔を上げた。
画面の中では、大観衆の歓声に包まれながら、大輪の菊の花飾りを身につけたウマ娘が、満面の笑みでインタビューに応えていた。あの時、友人の携帯電話の画面の中で、泥だらけになりながら無謀なオーバーペースで走らされていた不器用な少女。
それが今や、ターフを支配する絶対的な天才の一角として、堂々たる姿でそこに立っている。
「おや。あの無責任なアドバイスが、随分と大きく育ったものだ」
彼は目を丸くし、それからすぐに「ま、ただの自惚れだな」と一人で笑った。
自分がやったことなど、安全な場所から少しばかりデータの矛盾を指摘しただけだ。彼女がその怪物的スタミナを開花させ、クラシックの栄冠を手にしたのは、他でもない彼女自身の努力と、新たな陣営の正しい兵站管理の賜物だろう。
そう思って視線を落とそうとした時、画面の中のインタビュアーが彼女に問いかけた。
『スーパークリーク選手、見事な勝利でした! かつては怪我や伸び悩んだ時期もあったと伺っていますが、ここまで来られた一番の転機は何だったのでしょうか?』
マイクを向けられたスーパークリークは、ふふっと優しく微笑み、少しだけ懐かしむように目を細めた。
『実は昔……私が無理な練習で潰れかけていた時に、親戚づてで、ある方からアドバイスをいただいたんです』
「……」
『お名前もお顔も知らない方なんですけれど。私の走りを見ただけで「ペースが合っていない」「成長期を待って休むべきだ」と、はっきりと言い当ててくださって。……あの的確な言葉に救われなかったら、今の私は絶対にいませんでした』
彼女はカメラに向かって、まるで画面の向こうにいる「名もなき軍師」に語りかけるように、深く、綺麗な一礼をした。
『本当に、ありがとうございました。いつか、直接お礼を言えたら嬉しいです』
―――ブブッ、ブブッ。
その瞬間、テーブルの上に置いてあった彼の携帯が震えた。画面には、例の友人からのメールが一件。それを開いてみると、
『おい! お前テレビで言われてんぞーwww マジですげえな!!』
ハイテンションな文字の羅列と、大量の絵文字。それを見下ろしながら、彼はしばらくの間、口半開きで呆然としていた。
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安全な安楽椅子の上で歴史書をめくり、過去の死人たちの記録をいじくり回すだけの人生。現場の泥も汗も嫌いで、誰の責任も負いたくないからこそ、無責任に放ったたった一度の「戦術指南」。
それが、一人のウマ娘の運命を変え、ターフという現実の戦場で、これほどまでに美しく巨大な『勝利』となって咲き誇っている。
「……ふむ」
彼は、自然と口角が上がっていくのを抑えきれなかった。
「案外と、悪くはない気分だ」
自分の頭脳とロジックが、血の通った人間の『未来』を救い、そして勝利へと導いた。
過去の歴史を読み解くことでは絶対に得られない、奇妙で、しかし腹の底から熱くなるような、強烈な知的興奮。恩師が言っていた「稀有な才能」の意味を、彼はこの時、生まれて初めて完璧に理解した。
彼はクスッと笑いながら携帯電話のボタンを押し、友人への返信ではなく、ブラウザの検索窓を開いた。そして、先ほどまで睨み合っていた進路希望調査票を無造作に裏返すと、極めて打算的で、怠惰な青年らしい独り言をポツリとこぼした。
「そういえば……日本ウマ娘トレーニングセンター学園の……、トレーナーの給料と福利厚生は、どんなもんかね?」
トン、と。
検索ボタンが押されたその瞬間。
歴史学者を志していたただの青年の運命は進路を変え、のちに学園の常識を覆し、天才たちを日陰の戦術で翻弄する『安楽椅子の魔術師』が産声を上げた。
これは、一人の怠惰な指揮官が、泥だらけの不器用な巡洋艦たちと共に、数十年にわたる途方もなく長い「人生の生存戦略」を勝ち抜いていく、長く険しい航海の第一歩であった。