ナイスネイチャがトレーナーと契約するまでのお話 作:灯火011
トレセン学園、理事長室。
秋川理事長は、手元の分厚いファイルから顔を上げ、デスクの向かいに立つ駿川たづなに感嘆の息を漏らした。
「驚愕! 再度確認するが、彼のチームのウマ娘は、ただの一人も大きな故障歴がないのだな!?」
「はい、理事長。デビュー前から現在に至るまで、軽微な筋肉痛などを除けば、骨折や靱帯炎といった深刻な怪我は完全にゼロです」
たづなは手元のタブレットを操作し、その「昼行燈」として有名なトレーナーの担当ウマ娘たちのデータを表示した。
学園内では、暇さえあれば読書とコーヒーに時間を費やしている姿ばかりが目撃される男。しかし、彼の実力を疑う者は、首脳陣の中にはもはやいなかった。
「オープン戦に出走することすら無理だろうと評価されていたウマ娘たちを見出し、しっかりとセンターに据える指導力と選別眼……。生徒たちの間でも、ある意味で彼は『最後の希望』だと噂が立っているようです」
「うむ。全くもって合理的、すべてが合理的だ。ウマ娘の身体の限界値を正確に把握し、決して無理なローテーションを組ませない。その徹底ぶりは特筆に値する!」
理事長は扇子をバシッと鳴らし、目を輝かせた。
「あの怪我ゼロのノウハウ、学園全体で共有できれば素晴らしいのだが……いかがか、たづな?」
「知りたいところではありますが、トレーニングメニューや戦術論はチームの最高機密です。不用意に聞き出すわけにもいきませんし、彼のことですから『ただ無理をさせていないだけですよ』とはぐらかされるのがオチでしょう」
「無念! だが、それもまた指導者の流儀。ひとまずは、彼の優雅な手腕を静かに見守ろうではないか!」
二人は、学園の片隅で今日もコーヒーを啜っているであろう異端のトレーナーへ、静かな期待の眼差しを向けた。
■
一方その頃。
トレセン学園からほど近い、活気あふれる商店街。
夕暮れ時の揚げ物屋の店頭に、一人のウマ娘がひょっこりと顔を出した。ツインテールを揺らし、どこか親しみやすい雰囲気を持つ彼女は、ショーケース越しに声をかけた。
「おねーさーん。このチキンカツ下さーい」
「はいよー。今日もトレーニング? ネイチャ」
エプロン姿でトングを手に現れたのは、先日あのトレーナー室でコーヒーを飲んでいたOGの一人だった。彼女は手慣れた手つきで、揚げたてのチキンカツを紙袋へと滑り込ませる。
「そうですよー。デビューのために、ですけれど」
ナイスネイチャはチキンカツを受け取ると、少しだけ困ったように眉尻を下げて苦笑いした。
「なかなかスカウトされなくて……あはは、私みたいな地味なタイプは、声がかかるまで長引きそうです」
「焦んなくても大丈夫だって。ちゃんと見てる人は見てるからさ」
OGのカラッとした励ましに、ネイチャは嬉しそうに頷く。そして、ふと気になったように問いかけた。
「そういえば、おねーさんはトレセンの元生徒でしたよね? 今まで聞いた事無かったんですけど、レースで走ったんですか?」
「ん? ああ、トゥインクルシリーズ走ったよー」
OGはショーケースを拭きながら、あっけらかんと笑った。
「ま、オープンだけどね。重賞なんて全然手の届かない、普通の成績でおしまい」
自分はそんな大したウマ娘ではなかったと、彼女は肩をすくめて苦笑する。あの恩師が言っていた通り、自分は「上位数パーセントの才能」ではなかったからだ。
だが、その言葉を聞いた瞬間、ネイチャはパァッと瞳を輝かせた。
「いやいやいや!? 謙遜するところじゃないですよ!?」
身を乗り出すようにして、ネイチャは驚きの声をあげる。
「ターフを駆け抜けて、オープンクラスまで行けただけで十分すぎるほど凄いですって! 憧れちゃいますよ、ホント!」
熱を帯びたネイチャの言葉に、OGは少しだけ目を丸くした。
重賞に届かなかった自分たちのキャリア。けれど、恩師の完璧な戦術と兵站管理によって無傷で走り抜き、手にした勝利と、確固たる引退後の生活。それは、これからデビューを目指すウマ娘にとって、十分に「憧れ」の対象となる輝きを放っていた。
「……そっか。ありがとね、ネイチャ」
OGは少しだけ照れくさそうに笑うと、「おまけ」と言ってコロッケを一つ、ネイチャの紙袋に放り込んだ。
サクサクと心地よい音を立てておまけのコロッケを店先で頬張りながら、ネイチャとお姉さんはぽつぽつと会話を続ける。
店の奥では、店主がお茶を啜りながら、「ウマ娘同士にしかわからないこともあるだろう」と微笑ましく二人を見守る温かい空気が流れていた。
「ええっ!? 4年走って30戦、しかも二桁勝利ですか!?」
OGから現役時代の戦績を聞いたネイチャは、目を丸くして驚愕の声を上げた。重賞にこそ出走していないものの、それは決して容易いことではない。ウマ娘の苛烈なレースの世界において、怪我なく4年間コンスタントに走り続け、あまつさえ10勝以上を挙げるなど、十二分に誇れる偉業だった。
「おねーさん、本当にすごいウマ娘じゃないですか!」
「そうでもないんだよ。ね、ネイチャ。君の今の1000メートルのタイムは?」
大興奮のネイチャに、OGはいたずらっぽく笑いかけ、少し顔を寄せる。ネイチャが周りを気にするようにこそこそと耳打ちすると、彼女は「ほう」と目を細めた。
「おお、速いじゃないか。私がスカウトされた時なんかはね……」
今度はOGからネイチャへと耳打ちをする。その数字を聞いた瞬間、ネイチャは。
「ええっ!?」
と、先ほどよりもさらに大きな声を上げた。
「びっくりしたでしょう? デビュー前、スカウトされる前は、周りから『メイクデビューも無理だ』って言われてたんだけどさ」
OGは夕暮れの空を仰ぎ見る。その視線の先には、あのこぢんまりとした、コーヒーの香りが漂うトレーナー室の情景が浮かんでいるようだった。
「トレーナーさんと歩んでいたら、こうなってたんだ」
「へぇー! 凄いですね! ……やっぱり、とてつもなくつらーい訓練をしたんですか?」
「あーんー。まあ、ね」
OGは苦笑する。メニュー自体は徹底的に理にかなっているが、要求される厳格なペース配分やスタミナ管理は、別のベクトルで決して楽なものではなかったからだ。
「でも、本当に凄いのはトレーナーだよ。訓練は厳しいけど、やるだけタイムは上がるし、適性も目に見えて伸びていくし。……だから、ネイチャ。君は、もっと胸を張ればいいよ」
「え?」
きょとんとするネイチャに、OGは優しく微笑みかけた。
「だって、すでに私を超えているもん。その状態で凄腕のトレーナーがついたら、ひょっとすると、ひょっとするかもよー?」
「もー! 揶揄うのも大概にして下さいっ!」
揶揄い気味に告げられた言葉に、ネイチャは照れ隠しのように笑って抗議した。しかし、その瞳から自信のなさげな色は消え、代わりに明るい闘志が宿っていた。
「でも、元気出ました! アタシ、これからもっともっと頑張って、絶対にスカウトされるぞー!」
「うんうん、その調子その調子」
気合を入れ直して小さな拳を握るネイチャを見て、OGは満足げに相槌を打つ。ふと、ネイチャが思い出したように尋ねた。
「そういえば、おねーさんの所属していたチームって、どこだったんですか?」
その問いに対し、OGは少しだけ背筋をピンと伸ばした。恩師の顔を思い浮かべながら、一切の迷いなく、確かな自信と誇りを持って答える。
「ハイペリオンだよ」
■
夏の気配が色濃くなり始めたトレセン学園のバ場。そこには、土を蹴り上げ、風を切り裂くウマ娘たちの熱気が満ちていた。
「ターボ、そこ! ペース配分考えて! 後半持たなくなりますよ!」
「うるさーい! ターボは最初から最後まで全力なんだもん!」
「あわわ……ターボちゃん、待ってぇ……」
「……ライスも、負けない……っ」
イクノディクタスの冷静な檄が飛び、ツインターボが爆発的な逃げを打ち、マチカネタンホイザが慌てて追いかけ、ライスシャワーが静かな闘志を燃やしてひた走る。その個性豊かな面々が入り乱れる集団の中で、ナイスネイチャは確かに自分の脚に確かな手応えを感じていた。
息は上がる。汗も流れる。だが、以前のような「どうせ私なんか」という諦念は、踏みしめるターフの下に置き去りにしていた。商店街でのあのOGとの会話が、彼女の心に小さな、しかし決して消えない火を灯していたのだ。
「おっ! ネイチャ、いいペースじゃん! そのままいっくよー!」
弾むような声と共に、トウカイテイオーが涼しい顔でネイチャの横に並びかけてきた。彼女の圧倒的な才能とバネのような走りは、隣にいるだけで引力のように周りを引っ張り上げていく。競い合う日々の中で、ネイチャの実力は本人も驚くほどに底上げされていた。
やがて午前の合同トレーニングが終わり、木陰でスポーツドリンクを飲んで息を整えていた時のことだ。テイオーが、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえばさ、ネイチャ。『ハイペリオン』ってチーム、知ってる?」
タオルで汗を拭っていたネイチャの手が、ピクリと止まる。
「……ハイペリオン? うん、まあ、名前くらいは」
「あそこのトレーナーさんって、すっごく変わってるんだよねー。この前スカウトされた子なんてさ、ネイチャの今の1000メートルのタイムより、ずーっと遅いんだよ? なのに『君が欲しい』ってスカウトしたんだって!」
テイオーは不思議そうに小首を傾げた。絶対的なスピードと勝利を渇望する彼女にとって、それは全く理解できない基準だったのだろう。
「重賞なんて全然狙えなさそうな子ばっかり集めてるらしいんだけどさー。なんかあそこのトレーナー、わざとそういう娘をスカウトしてるんだって噂だよ。変なのー」
テイオーの無邪気な言葉に、ネイチャは曖昧に笑って頷きながらも、心の奥底で強い好奇心を刺激されていた。
(わざと、才能に恵まれない子を……? でも、あの凄かったおねーさんは、そのチームの出身で……)
■
翌日。午後の陽射しが差し込むトレセン学園の図書室。
静寂に包まれた空間の片隅で、ネイチャは分厚い背表紙が並ぶ棚の前に立っていた。普段ならあまり足を踏み入れない場所だが、気まぐれに「ハイペリオン」という言葉の意味を調べてみようと思い立ったのだ。
「ええっと……神話、歴史……あ、あった。これかな」
彼女が引っ張り出したのは、ひときわ重厚な装丁の『ギリシャ神話辞典』だった。ペラペラとページをめくり、索引から目当ての単語を探し出す。答えは、すぐに見つかった。
「……『高みを行く者』」
指先で活字をなぞりながら、ネイチャは小さく呟いた。
「語源はギリシャ神話の神様の名前かぁ。英語読みだとハイペリオン、ギリシャ語の本来の読み方だとヒュペリオーン、日本語の一般的な表記だとヒュペリオン……ふうん」
辞典には『天界の光、または太陽を司る神』という壮大な説明が添えられている。ネイチャはパタン、と辞典を閉じると、ふふっと小さく吹き出した。
「高みを行く者、なんて。テイオーから聞いた噂のイメージとは、全然違うじゃん」
才能の原石ではなく、決して一級品とは呼ばれない、タイムも平凡なウマ娘たち。彼女たちを集めたチームにつけられた名前が、太陽を司る『高みを行く者』。そのあまりのギャップと皮肉めいた矛盾に、ネイチャは思わず肩を揺らして笑ってしまった。
その時だった。
「――おや、うちのチームの名前は、そんなにおかしいかね?」
頭上から、ふわりと落ちてきた声。それは熱血指導を旨とする他のトレーナーたちのような、腹の底から響くような大声ではなく。静かで、理知的で、どこか浮世離れした学者然とした響きを持っていた。
「へっ……?」
驚いて振り返ったネイチャの視線の先。
図書室の書架の影から姿を現したのは、片手に分厚い『近世ヨーロッパ兵站史』のハードカバーを抱えた一人の男だった。少しだけ寝癖のついた髪に、アイロンの当てられていないシャツ。しかし、その黒い瞳だけは、物理的なスピードではなく、物事の理(ことわり)の奥底を見透かすような、特有の静かな光を湛えていた。