ナイスネイチャがトレーナーと契約するまでのお話   作:灯火011

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栄光の影と、安楽椅子の絶対防衛ドクトリン

 トレセン学園のトレーナー資格試験。その要求される知識量は膨大だったが、歴史の書庫で数千冊の史料を読み解いてきた彼にとって、それは単なる「新しい歴史書」をインプットするだけの単純作業に過ぎなかった。

 

 しかし、彼がウマ娘のレース史というものを本格的に学び、過去の膨大なデータと映像記録を深く掘り下げていくうちに、彼の顔からは次第に怠惰な笑みが消えていった。

 

「……なるほど。これは、ひどく難しいな」

 

 深夜の自室。

 

 画面に映し出された過去数十年のレース記録と、その裏側に隠された「引退理由」の統計データを前に、彼は深くため息をついた。

 

 スポーツメディアが語るのは、常に光り輝く栄光の歴史だけだ。

 

 しかし、歴史学者としての冷徹な目でデータを読み解けば、その背後にはあまりにも巨大で残酷な「影」が横たわっていることがわかる。極限のスピードと引き換えに、限界を超えた負荷によって断裂する靭帯。砕ける骨。若くして一生残る後遺症を抱え、ひっそりとターフを去っていく無数の少女たちの姿。

 

(スーパークリークは、間違いなく歴史に名を残す名ウマ娘であり、一握りの『天才』だった。だからこそ、あの過酷な負荷を乗り越え、自らの限界を突破できたのだろう)

 

 彼はコーヒーカップを片手に、暗い画面を見つめたまま思考を巡らせる。

 

(だが、もし私が彼女のような『天才』を担当することになったら、どうなる?)

 

 世間も、学園も、そして何よりウマ娘本人が、G1という最高の栄誉という、目的のために「限界まで限界まで己を追い込むこと」を要求してくるだろう。指揮官である自分にも、彼女の命を削ってでも勝利を掴むための突撃命令を下すことが求められる。

 

「……無理だ。到底、私にはその責任も、彼女の一生を壊すかもしれない怪我のリスクも、負いきれる気がしない」

 

 それは歴史学者の性(さが)か、あるいは極度の現実主義者の性か。

 

 彼は「誰かの数十年続く人生」を天秤にかけてまで、一時的な栄光というハイリスク・ハイリターンの博打を打つ気には到底なれなかった。指揮官として、部下を死地……、怪我のリスクに送り込むなど絶対に御免だった。

 

「となると、私のトレーナーとしての学園内評価は、万年最下位の泥を這うことになるだろうな」

 

 彼は自嘲気味に呟きながら、手元の、インターネットに有線で繋がったノートパソコンで「日本ウマ娘トレーニングセンター学園 教職員給与規定」のページをスクロールした。

 

「……が。基本給と最低保証の福利厚生だけを見ても、そこら辺の大学のしがない非常勤講師や研究員よりは、遥かにマシな額がもらえる」

 

 出世などしなくていい。歴史に名指導者として名を残す必要もない。ボーナス(重賞勝利)がゼロでも、首を切られない程度の最低限の成績さえ残せば、安全な後方で一生安泰に本を読んで暮らしていけるのだ。

 

 そこで、彼の中で一つの極めて明確な『方針』がカチリと音を立てて組み上がった。

 

「そうか。私がまず第一に避けるべきは……圧倒的な才能を持つ『天才』か」

 

 天才を預かれば、嫌でも重賞戦線という過酷な最前線(激戦区)に巻き込まれる。

 

 ならば、自分がスカウトすべきは、天才たちに勝てず、世間から見向きもされない「平凡な才能」のウマ娘たちだ。彼女たちになら、世間のプレッシャーを一切受けることなく、自分の信じる『安全第一の撤退戦』を指揮することができる。

 

「ウマ娘としてターフを走る期間は、彼女たちの人生のスケールにおいて、ほんの数年間のまばたきに過ぎない。……だが、その数年間で得た戦績(資本)と無傷の肉体が、その後の六十年続く彼女たちの『人生』を決定づける」

 

 彼は立ち上がり、ホワイトボードに向かってマーカーを走らせた。

 

 ――怪我のリスクを徹底的に排除した、ローリスク・ミドルリターンの戦術。

 

 ――重賞という華やかな中央戦線(G1)を完全に放棄し、オープン戦・リステッドに的を絞った確実な兵站の確保。

 

 ――そして、獲得した人的資本・金融資本を元手にした、引退後の人生の絶対防衛圏の構築。

 

「彼女らの人生を決めるのが、このレースという短い期間の戦績であるならば。……私の仕事は、その局地的な戦果を極限まで最大化させ、彼女たちの生涯をより良きものに防衛しきることだ」

 

 書き上げられたその板書こそが、のちにトレセン学園の常識を覆し、幾多の「才能を持たざる少女たち」を無傷のまま五体満足で故郷へと送り届けることになる、『安楽椅子の魔術師』の絶対防衛ドクトリンが完成した瞬間であった。

 

 そして数ヶ月後。

 

 無事にトレーナー試験を合格し、ヨレヨレのコートを着て赴任してきたこの新米で異端な男の前に。才能の壁に絶望し、夢を諦めかけて泥だらけになって泣いていた、一人の「不器用な少女」が現れることになるのである。

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