ナイスネイチャがトレーナーと契約するまでのお話 作:灯火011
カチャ、と。
陶器のカップがソーサーに置かれる微かな音が、午後の陽だまりに包まれたトレセン学園の談話室に響いた。
「――とまあ。これがハイペリオン陣営における、極めて合理的な建軍の歴史というわけさ」
安楽椅子に深く腰を沈めたトレーナーが、物語を締めくくるように自慢のコーヒーを一口啜る。差し入れのメンチカツを詰めたタッパーを持参し、陣中見舞いに訪れていた『おねーさん(一番艦)』は、隣でくすくすと上品に笑いながら、自分の分のティーカップを傾けていた。
そんな二人の昔話を、テーブルの向かい側で特等席の観客として聞いていたのは、この陣営の新たな所属ウマ娘であるナイスネイチャだった。彼女は、目の前のどこか浮世離れした指揮官と、すっかり大人の余裕を身にまとった先輩の顔を、呆れたように交互に見比べた。
「いやー……なんというか。ツッコミどころ満載な気もしますけど、一周回ってすごい絆ですよね」
「そうかい?」
「そうですってば。……っていうか」
ネイチャは、テーブルに頬杖をつきながら、ずっと気になっていた素朴な疑問を口にした。
「お二人って、はたから見たらすっごくお似合いなんですけど。なーんでお付き合いしてないんですか?」
「ぶふっ」
「……どうしてそう思うのー?」
思わぬ直球に、トレーナーがわずかにむせ、おねーさんは楽しそうに目を丸くした。
しかしネイチャは止まらない。
「だってそうじゃないですか。先生から見れば、自分の戦術を証明してくれた一番思い出深いウマ娘だし、おねーさんから見れば、自分の人生を丸ごと救ってくれた、思い入れが強すぎる恩人……っていうか、運命の人みたいなもんですよね? なんでそのままゴールインしなかったんです?」
ごく一般的な女子校生らしい、身も蓋もない恋愛のロジック。しかし、それを突きつけられたトレーナーは、むせた口元をハンカチで拭うと、極めて真面目な顔つきで首を横に振った。
「馬鹿なことを言うんじゃない。指導者が教え子に手を出せば、学園における社会的信用と倫理的リスクを負うことになる。私の絶対防衛ドクトリンにおいて、そんなハイリスクな真似はあり得ないね」
「……ほらね、いつもこれ。昔っから、こういう倫理的リスクからは逃げ回るんだよね、この人は」
呆れ顔で理屈をこねるトレーナーの横で、おねーさんはやれやれと肩をすくめた。しかし、その顔に悲壮感はない。むしろ、拗ねた子供を見るような慈愛に満ちていた。
「私も現役の時とか、引退してお店に入ってからも、けっこうわかりやすくアプローチしたんだけどさ。全部『兵站管理の一環』とか言ってはぐらかされちゃって」
「そうだったんですか……おねーさん、ドンマイです」
「ふふっ、ありがとう。でも、今はこれが一番心地いい距離だから、いいの」
おねーさんは優しく微笑むと、ふと悪戯っぽい視線をネイチャに向け、内緒話をするように顔を寄せた。
「ま、そういうわけだから。ネイチャちゃんも、もしこの朴念仁を狙うつもりなら、ちょっとやそっとのアピールじゃ絶対落ちないわよ?」
「えっ!? な、なんで私が先生を狙う前提になってるんですか!?」
「ふふふ。もしその気があるなら、へりくつを封じるくらい、よっぽど強引な『実力行使』に出ないとダメだからね? 先輩からのアドバイス」
冗談めかしてウインクをするおねーさんに、ネイチャの顔がボッと赤く染まる。
「お、おねーさん! 冗談きついですよぉ……!」
「おい、そこの一番艦。若人に何を吹き込んでいるんだ君は。私の平穏なロジスティクスに、武装蜂起の火種を持ち込むのはやめたまえ」
顔を真っ赤にして慌てる後輩と、眉間を揉みながら抗議する怠惰な指揮官。その賑やかで平和なやり取りに、おねーさんはこらえきれずに「あははっ」と声を上げて笑い出した。
「いやあ、やっぱりこのチームは最高ね。揚げ物屋を休んで陣中見舞いに来た甲斐があったわ」
「笑い事じゃない。まったく……ネイチャ、君も真に受けなくていいからな」
「あはは……はいはい、わかってますってば」
ネイチャは苦笑いしながら、少しだけ冷めかけたコーヒーのカップに口をつける。口の中に広がる、少しだけ苦くて、でもほっとするような確かな温かさ。
(……でも、悪くないなぁ。こういうの)
天才たちが集う華やかな表舞台とは違う、日陰の戦線。
しかしここには、数十年の人生を見据えた絶対的な信頼と、どんな重賞のトロフィーよりも温かい、確かな「居場所」があった。
午後の談話室。
不器用な魔術師と、彼を護る不抜の要塞。そして、新たに加わった重装歩兵の少女。
ハイペリオン陣営の穏やかなティータイムは、他愛のない笑い声と共に、ゆっくりと過ぎていくのであった。
■
秋晴れのトレセン学園合同練習場。澄み切った空気の中を、ナイスネイチャが力強い足音を立てて駆け抜けていく。
額には薄っすらと汗が浮かび、その表情は充実感に満ちていた。息の上がり方も完璧で、フォームにブレはない。本人も「今日はどこまでも走れそうだ」という万能感を感じているようで、外から見ていても調子のよさははっきりとわかった。
しかし、彼女が最終コーナーを回り、さらにギアを一段階上げようとしたその刹那。
ターフの脇に立っていた同じチームのジャージ姿の中距離ウマ娘が、一切の躊躇なく、スッと右手を高く掲げた。
「ストップ。ネイチャ、今日のメニューはそこまで。即時クーリングダウンに入って」
通る声で発せられた無慈悲なストップコールに、ナイスネイチャは「えっ」と素頓狂な声を上げ、不満げに急ブレーキをかけた。
「ちょ、ちょっと待ってよ先輩! 今、すっごく調子いいの! ペースも完璧だし、あと一周……ううん、半周だけでも!」
「却下。三周目の第二コーナー、左足の接地音が普段よりほんのコンマ数秒だけ重かった。先生が設定した『即時撤退ライン』の許容誤差に抵触してる」
中距離ウマ娘は、手元のストップウォッチとバインダーに挟まれたデータ表を照らし合わせながら、淡々と事実だけを告げた。その冷徹なまでの判断基準には、同じウマ娘としての「もっと走りたい」という感情的な共感は一ミリも挟まれていない。
「ええーっ、絶対気のせいだって 痛くも痒くもないし、絶好調だもん!」
「本人が『絶好調だ』と錯覚すること自体が、疲労というシステムエラーを隠蔽する最悪のバグよ。……ほら、文句を言わずにアイシング。それ以上走ったら、先生に報告して明日のメニューを全部座学に変更するからね」
「うう……横暴だぁ。わかりましたよぉ……」
渋々といった様子でターフを引き上げてくるネイチャを見守りながら、中距離ウマ娘は小さく息を吐いた。
■
本来であれば、ストップウォッチを握り、選手のコンディションを管理するのは専属トレーナーの役目である。しかし、彼らの所属する『ハイペリオン陣営』の指揮官は、今頃間違いなく、冷暖房の完備された自室の安楽椅子で優雅にコーヒーを啜っているはずだ。
『現場の熱狂に当てられれば、客観的な判断基準が鈍る。だから私は行かない。――代わりに、陣営で最も視野が広く、他者の機微に聡い君に、現場の安全管理(セーフティ)の全権を委譲する』
いつだったか、ひどく面倒くさそうな顔でバインダーを押し付けてきたあの男の言葉を思い出す。
『選手同士で練習を止めるなんて、恨まれますよ』
と反発した彼女に対し、怠惰な指揮官は極めて冷酷に、そして誰よりも頼もしくこう言い放ったのだ。
『何かが起きた時、重賞で勝てなかった時の責任は、全て私が取る。批判も文句も、全て私の采配ミスとして処理すればいい。だから君は何も恐れず、ただあいつらを無傷で帰還させることだけを考えろ』と。
……この時の彼女はまだ、知る由もない。
引退後、ターフを去った彼女が一般社会に出て、幾多の人間を束ねる優秀なプロジェクトマネージャーとして大成した時。
ふと、苦笑いと共に気づくことになるのだ。
あの怠惰な指揮官は、ただ楽をしたかっただけではなく、自分という人間の資質を完璧に見抜き、『人の命と状態を管理する』という途方もないマネジメント経験を、実践で叩き込んでくれていたのだということに。
■
「まったくもー。うちの先生は、ちょっと過保護すぎるんだってば」
首にタオルを巻き、スポーツドリンクを煽りながら戻ってきたネイチャのぼやきに、中距離ウマ娘は意識を現実へと引き戻された。
「そうね。でも、その過保護な絶対防衛線のおかげで、うちの陣営は怪我人ゼロの無傷艦隊なんだから、感謝しなきゃ」
「わかってるけどさー。先生、部屋から一歩も出ないで偉そうに指示ばっか出してさ。……あ、そういえば」
ネイチャは思い出したように、タオルで汗を拭いながらジト目を向けた。
「最近、私、朝のコーヒー淹れる係に任命されてるの知ってます?」
「ええ、聞いたわよ。ネイチャが毎朝、先生の部屋でサイフォンいじってるって」
「でしょ? それだけでも『私、メイドじゃないんだけど!?』って感じなのに、今日なんてさぁ……」
ネイチャは大きくため息をつき、信じられないものを見るような顔で天を仰いだ。
「『帰る前に、明日の分の豆を焙煎しておいてくれ』って言われたんだよ!? 淹れるだけじゃなくて、生豆の火入れから!? さすがにウマ娘の仕事の領域、超えちゃってない!? ほんと、まったくもー……!」
口では不満たらたらで愚痴をこぼしながらも、その声色には不思議とトゲがなく、むしろどこか嬉しそうな、まんざらでもない響きが含まれていた。
しかし、その愚痴を聞いた中距離ウマ娘のほうは、目を見開いて密かに息を呑んでいた。
(……焙煎から、任された?)
あの徹底した合理主義者であり、何よりも自分のパーソナルスペースと平穏な生活リズムを愛する指揮官にとって、「コーヒー」は単なる飲み物ではない。彼の思考を支える極めて重要な兵站の要である。
だからこそ、これまでの陣営の歴史において、豆の選定から焙煎に至るまでの全工程を任されていたのは、誰一人としていなかった。あの一番艦ですら、だ。
(そっか……焙煎まで任されるのって、ネイチャが初めてなんだ)
完成された粉を湯でドリップするのとは訳が違う。豆の焙煎を任せるということは、自分の口に入るもの、自分の日常の根幹を成す「味のベース」を、そっくりそのまま相手の手に委ねるということに他ならない。
それはあの警戒心の塊のような男が、ひっそりと、しかし極めて明確に示した信頼の証。彼女をただの教え子としてではなく、自分の人生のパーソナルな領域に踏み込むことを許す、特別な存在として認識し始めているということ。
「……どうかした?」
「ううん、なんでもない」
不思議そうに首を傾げるネイチャに、中距離ウマ娘はふっと口角を上げ、あえて余計なことは言わずに微笑んだ。
「焦がさないように気をつけてねって。先生、苦すぎるのは嫌いだから」
「もう、わかってるってば! 完璧な焼き加減にして、あのひねくれ者をギャフンと言わせてやるんだから!」
夕日に照らされたターフの片隅で、他愛のない、しかし何よりも温かく平和な陣営の日常が流れていく。
■
その少女たちの楽しげな笑い声を。合同練習場のずっと遠く、スタンドの最上段の陰から見つめている一つの影があった。
かつて、顔も知らない軍師に命を救われ、ターフの覇者となった稀代のステイヤー。
彼女は、泥臭くも温かいその陣営のやり取りを、どこまでも優しく、慈しむような眼差しで見下ろしながら。
「……あらあら、うふふっ」
小さく、静かに微笑んだ。
次話からは勝てなかったハイペリオンと、チームの仕組み。
4話ぐらい。