ナイスネイチャがトレーナーと契約するまでのお話 作:灯火011
――その日の夜。
冷暖房が完璧に管理されたトレーナー室には、パチパチとはぜる小さな音と、深く香ばしい匂いが充満していた。
「……うん、こんなもんかな。一ハゼが終わって、そろそろ二ハゼ……っと」
ナイスネイチャは手網式の焙煎器をコンロの火から外し、真剣な眼差しでザルに豆を開けた。うちわで手早くパタパタと扇ぎ、粗熱を取っていく。
ただ走るためだけにトレセン学園に入学したはずなのに、なぜ自分は夜な夜な、ジャージ姿でコーヒー豆の火加減を監視しているのか。冷静に考えるとひどく理不尽な状況だが、任されたからには完璧にこなさなければ気が済まないのが、彼女の生真面目な性分であった。
「ご苦労。……ふむ、悪くない色艶だ。初回にしては及第点を与えよう」
部屋の奥、定位置である安楽椅子に深く腰を沈めたトレーナーが、手元のタブレットから視線を上げずに偉そうに頷いた。
「及第点って……こっちは動画見て必死に勉強したんですよ。ちょっとは褒めてくれてもいいじゃないですか」
「十分褒めているよ。私のパーソナルな兵站を担うだけの適性があるということだからね」
「はいはい、光栄の極みですー」
ネイチャは呆れたように息を吐き、焙煎したばかりの豆を保存瓶へと移し替えていく。
そんな彼女の背中へ、トレーナーはページをめくる手を止めずに、思い出したようにつけ加えた。
「そうだ。今の在庫が尽きる前に、ついでに今度、生豆の買い出しも頼むよ」
ピタッ、と。文字通りにネイチャの手が止まった。
「……はい?」
「だから、コーヒーの生豆だ。業者からの取り寄せでもいいが、近所の専門店でいくつか見繕ってきてくれたまえ」
「えー!? 焙煎だけじゃなくて、買い物も私ですか!?」
ネイチャは勢いよく振り返り、抗議の声を上げた。いくらなんでも雑用を押し付けすぎである。自分はウマ娘であって、専属のメイドでもパシリでもないのだ。
「先生、さすがにそれは職権乱用っていうか、私の仕事の範疇を越えてると思います!」
しかし、そんな彼女の真っ当な抗議に対し、トレーナーはタブレットをゆっくりと膝に置き、口角をニヤリと吊り上げた。
「おやおや? 確か、君がこの陣営に配属される際、『私の言うことは何でも聞く』という誓約を交わしたはずだが?」
「うぐっ……!」
極めて理路整然と、かつての自分の言葉を盾にしてくる悪魔の論法。ネイチャは反論の言葉を詰まらせ、がっくしと肩を落とした。あの時、何でもすると誓ったのは確かに自分だ。
もっとも、まさかその「何でも」の中に、指揮官の嗜好品の買い出しが含まれているとは思いもしなかったが。
「……悪魔。血も涙もない、横暴な独裁者……」
「最高の賛辞をありがとう。なに、経費はちゃんと落としてやるさ」
「そういう問題じゃないですよぉ……」
ネイチャは恨めしそうにジト目を向けた後、ふと現実的な問題に直面して首を傾げた。
「でも、生豆なんて何を買えばいいか全然わかりませんよ!? 品種とか産地とかいっぱいあるし、先生、絶対そういうのこだわり強くて面倒くさいタイプでしょ?」
適当に買ってきたら、理屈をこねて文句を言われるに決まっている。
困り果てた様子のネイチャを見て、安楽椅子の魔術師は、ふっと意地悪な笑みを和らげ、どこか懐かしむような穏やかな声で言った。
「なに、心配はいらない。あの一番艦にでも連絡を取りたまえ」
「おねーさんに?」
「ああ。彼女なら、私の面倒な好みから、現在の商店街にストックしてある豆の在庫状況まで……何から何まで、全てを熟知しているからね。彼女の指示通りに動けば間違いない」
それは、かつて自分の全ての兵站を担ってくれていたOGへの、信頼の証であった。
「……なんだ。結局、おねーさん頼みなんじゃないですか」
ネイチャは呆れ顔で呟きながらも、なぜだか胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
買い出しを命じられたのはただの雑用かもしれない。けれどそれは同時に、この陣営の歴史を築き上げてきた『一番艦』から、自分がその大切な役目を少しずつ引き継いでいるという確かな証明でもあったからだ。
「わかりましたよ。明日、おねーさんに連絡して聞いてみます」
「頼んだよ、我が陣営の優秀な重装歩兵君」
コーヒーの甘く香ばしい匂いが漂う、静かな夜のトレーナー室。
真面目な少女は、呆れたように、けれどどこか誇らしげに笑いながら、琥珀色の豆が詰まった瓶の蓋をそっと閉めた。
■
朝日の中で挽きたての豆にお湯を注ぐと、ふわりとドーム状に粉が膨らみ、部屋中に芳醇な香りが広がっていく。
自分で焙煎した豆で淹れた初めての一杯。ネイチャはふうっと息を吹きかけてからカップに口をつけ、その悪くない出来栄えに小さく頷いた。
「そういえば、先生」
向かいの安楽椅子で同じようにコーヒーを味わっている怠惰な指揮官に、ネイチャはふと、ずっと気になっていた疑問を口にした。
「先生って、今まで『失敗』したことないんですか?」
「……失敗とは?」
「あ、いや。その……担当したのに、結局一度も勝たせてあげられなかった子、とか」
少しだけ言い淀みながら尋ねたネイチャに、トレーナーはカップをソーサーに置き、何を当たり前のことを、というようにあっさりと頷いた。
「もちろん、いるとも」
「あ、そうなんですか? つい、担当した子は全員、あの手この手の理屈で勝たせてきたのかと思ってました」
「買い被りすぎだ。私はそこまでできた人間じゃない。データとロジックをどれだけ積み上げても、どうにもならない才能の壁や不運の連鎖というのは、このターフには確実に存在するからね」
彼は自嘲気味に、ふっと苦笑いをこぼした。絶対防衛圏だのと嘯いてはいるが、彼もまた一人の無力な人間に過ぎない。全てを見通せる神様ではないのだ。
「その場合って……先生、どうしたんですか?」
少しだけ身を乗り出して尋ねたネイチャに、彼は思い出すように視線を宙に向け、頭をポリポリと掻いた。
「ああ。まあ……こうやって頭を掻いて誤魔化して、それっぽい労いの言葉を並べて、そのまま卒業させたよ」
「えっ、それだけですか?」
「それだけさ。勝たせてやれなかった教え子にかける、気の利いた魔法の言葉なんて持ち合わせていないからね。ただの敗軍の将の、情けない言い訳さ」
そのひどく人間臭い、身も蓋もない答えに、ネイチャは目を丸くした。
どんな時でも完璧な撤退戦を指揮する彼にも、何もできずにただ言葉を濁して送り出すしかなかった日があったのだ。
しかし、トレーナーはそこから先を、どこか誇らしげな、穏やかな顔でこう続けた。
「だが、幸いなことに……チーム全体としての人気や、それに伴う資金の面は、他のメンバーがしっかりと稼いでいてくれたからね」
「他のメンバーが……?」
「ああ。私が構築した『絶対防衛圏』は、個人の戦績だけに依存しない。才能に恵まれず、ターフで一度も勝てなかった子であっても、陣営に所属している以上、十分なセカンドキャリアの支援と将来の資金援助が受けられるようにシステムを組んである」
それは、彼が掲げる『六十年続く人生の生存戦略』の、もう一つの側面だった。
全員が勝者になれるわけではない。だからこそ、勝てる者が稼いだリソースで陣営全体を潤し、勝てなかった者の「引退後の人生」までをも防衛しきる。それが、彼が作り上げたハイペリオンという名の『要塞』の本当の機能なのだ。
「ま、将来の生活の心配がなかったのが、せめてもの救いだったよ。……勝たせてやれなかったという『苦い思い出』は、私の中にずっと残っているがね」
トレーナーはカップを持ち上げ、少しだけ冷めたコーヒーを静かに飲み干した。
「そういう苦い思い出も、指導者としてのひとつの経験だよ。……だからこそ私は、お前たちを無傷で、少しでも良い形で未来を繋ぎ、故郷に帰してやりたいと、そう思ってこの椅子に座り続けているのさ」
自虐めいた苦笑いの奥に隠された、ひどく不器用で、深い愛情。
ネイチャは手元のカップを見つめながら、自分がなぜ、この理屈っぽくて面倒くさい男の淹れるコーヒーの係を、文句を言いながらも毎日続けているのか、その理由が少しだけわかったような気がした。
「……先生の淹れるコーヒーみたいですね」
「ん?」
「苦いけど、あとにはちゃんと……ホッとする温かさが残るから。だからみんな、先生の陣営から離れられないんじゃないですか?」
クスッと笑いながら言ったネイチャの言葉に、トレーナーはほんの少しだけ目を瞬かせ、それからやれやれと肩をすくめた。
「おかしなことを言う。私が淹れるコーヒーは、極めて論理的な温度と抽出時間で管理された、ただのカフェインの液体に過ぎないよ」
「はいはい、そういうことにしておきます」
素直じゃない指揮官の強がりを、ネイチャは楽しそうに受け流す。
朝の清浄な空気が漂うトレーナー室には、新米の重装歩兵が焙煎した不揃いな豆の香りと、穏やかな笑い声が、いつまでも温かく満ちていた。