ナイスネイチャがトレーナーと契約するまでのお話 作:灯火011
未勝利のハイペリオン
それは、あの一番艦が『泥臭い勝利』をもぎ取り、ハイペリオン陣営の絶対防衛ドクトリンが学園内で確かな実績として証明され始めた頃のことだった。
資金と評価にわずかな余裕が生まれた彼は、次なる防衛線の構築のために、数人のウマ娘を新たに陣営へと迎え入れた。
だが、その中の一人。
学園に在籍して三年目を迎える彼女への「スカウト」は、拍子抜けするほどすんなりと、しかしひどく乾いた形で進んでいた。
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「……スカウト、ですか。アタシを」
放課後の静かな図書室の片隅。彼の差し出したチームの入部届の用紙を見つめながら、その三年目のウマ娘は、自嘲するように乾いた笑いをこぼした。
「別に、断る理由はないですけど……先生も物好きっすね。アタシの過去の成績を、見て声かけてるんですよね?」
「ああ。未勝利戦敗退の連続。チームからは望んで除名。お世辞にも優秀とは言えない、完璧なまでの『凡庸』だ」
「ははっ、言うなぁ。……でも、事実だから怒れないっすわ」
彼女は椅子の背もたれに深く寄りかかり、窓の外――夕日に照らされたターフで汗を流す才能あふれる後輩たちへと、どこか諦めの混じった視線を向けた。
「あのね、先生。アタシが勝てねーことなんて、アタシが一番よく分かってますよ」
「……」
「一年、二年と、この学園でみんなと一緒に走ってりゃね……嫌でも分かるんです。あのターフは、一握りの『バケモノ』だけが光り輝く場所だって。アタシみたいなのがどれだけ根性見せたって、あいつらの背中には一生届かない。……自分の才能の限界なんて、もうとっくに自己分析済みっすよ」
悔しさすら通り越し、ただ冷たい現実を受け入れた者の、ひどく凪いだ声だった。
普通の熱血トレーナーであれば、ここで「諦めるな!」「君にも絶対に隠れた才能がある!」と無責任な言葉をかけるところだろう。
しかし、『安楽椅子の魔術師』は違った。彼はその諦観に満ちた言葉を聞くや否や、口角を上げ、心底感心したように手を打ったのだ。
「ほう。それは素晴らしいな」
「……はい?」
「自己分析が、極めて冷静に出来ている。素晴らしい才能だと言ったんだ」
からかわれているのかと思い、彼女はムッとして彼を睨みつけた。
しかし、怠惰な指揮官の目はかつてなく真剣で、そこには同情も哀れみも一切含まれていなかった。
「大半の凡人は、己の限界を認めることができず、精神論に逃げ込み、叶いもしない夢を見て体を壊す。
―――だが、君は違う。自分と天才との圧倒的な戦力差を直視し、感情を排して『絶対的な現実』を処理できている」
彼はタブレットを机に置き、身を乗り出して彼女の目を真っ直ぐに見据えた。
「その冷徹な視野と客観性は、前線で突撃する歩兵よりも、後方で戦局を俯瞰する『指揮官』にこそ必要な資質だ」
「……指揮官って、先生。アタシはウマ娘ですよ? 走るのが仕事の……」
「走るだけが人生の生存戦略ではない。私のチームには、前線で泥をかぶる一番艦をはじめ、今後増えていく部隊の兵站を管理し、冷酷に撤退ラインを見極める『もう一つの目』が必要なんだ。私と同じように、現場の熱狂に当てられない冷たい目がね」
彼は、ポカンと口を開けている彼女の前に、一枚の真新しいバインダーを滑らせた。そこには、彼女の走りの記録ではなく、陣営の資金繰りから他のウマ娘の疲労度チェック項目まで、膨大なマネジメント要項がびっしりと書き込まれていた。
「君のような逸材を、勝ち目のない最前線で使い潰すのはあまりにも惜しい。君のその『諦めの良さ』と『冷静さ』は、他のウマ娘の命を救う最強の盾になる」
彼はいつも通りの、ひどく偉そうで、しかしどこまでも理にかなった笑みを浮かべて、こう告げた。
「どうだろう。まずはレースと並行して……私の『助手』から始めてみないかい?」
ただの敗北者としてターフを去るはずだった三年目のウマ娘の人生に、全く新しい戦い方が提示された瞬間だった。彼女は目の前のバインダーと、胡散臭いが底知れない新米トレーナーの顔を交互に見比べ――やがて、堪えきれないように吹き出した。
「……あははっ! 何それ。ウマ娘をスカウトしにきて、助手をやれって? トレーナー、あんたやっぱり頭おかしいっすよ」
「極めて合理的な人事のつもりだがね」
「いいっすね、それ。最高に合理的だ」
彼女は笑い涙を指で拭いながら、入部届の用紙を力強く引き寄せた。
これが、のちに中距離ウマ娘やナイスネイチャたちへと受け継がれていく、ハイペリオン陣営における「ウマ娘自身による安全管理システム」の、記念すべきプロトタイプが誕生した日であった。
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「助手」兼任という奇妙な条件でハイペリオン陣営に加わった彼女の走りは、トレーナーの指示によって劇的な改善を見せた。
無駄な負荷を削ぎ落とし、ストライドと呼吸のタイミングをデータ通りに最適化させた結果、彼女のラップタイムは入部当初から比べれば見違えるほどに縮まっていた。
しかし、それでも「勝利」には届かない。
何度レースに出走しても、結果は掲示板の端に引っかかるかどうかの善戦止まり。極限まで研ぎ澄まされた天才たちのトップスピードには、どうしてもあと一歩、決定的な火力が足りなかった。
「……計算上は、これでオープン戦線の壁は突破できるはずなのだがな」
自室のモニターに映るレースのリプレイ映像を見つめながら、トレーナーは珍しく渋い顔でこめかみを揉んだ。戦術は完璧だ。彼女の動きも指示通り。それでも勝てないのは、ひとえに「才能の差」という、いかなる兵法をもっても覆せない冷酷な現実の壁だった。
(私がスカウトした手前、せめてオープンクラス――安定した資金を獲得できる『日陰の海域』までは引き上げてやりたかったのだが……)
彼は大きなため息をつき、タブレットを小脇に抱えて立ち上がった。
データと睨み合っていても埒が明かない。陣営の空気でも確認してくるか、と、安楽椅子の魔術師としては極めて珍しいことだが、彼は重い腰を上げてグラウンドへと向かった。
夕方の合同練習場は、土煙と熱気に包まれていた。彼がグラウンドの隅のフェンス越しに視線を巡らせると、すぐに「彼女」の姿が見つかった。ただし、ターフを走っているわけではない。
「はーい先輩、今日の追い切りはそこまでっす。ただちに停止してくださーい」
彼女は首からストップウォッチを下げ、陣営の先輩であるウマ娘の前に立ち塞がって、ひらひらと手を振っていた。
「ええっ? まだ走れるわよ。息だって全然上がってないし」
「いやいや。アタシの見立てだと、先輩の右足、そろそろ限界っすよ。さっきのコーナーの入り方、無意識にかばってたでしょ」
「そんなことないわよ! 絶好調だってば」
むきになって反論する先輩ウマ娘に対し、彼女は一切怯むことなく、呆れたような、しかしどこか面倒見の良いお姉ちゃんのような顔でため息をついた。
「じゃー、目ぇ瞑って右足だけで『片足立ち』してみてくださいよ。十秒キープできたら、アタシの奢りでジュース買ってあげます」
「ふん、そのくらい……えいっ。……あっ、あれ?」
自信満々に右足一本で立った先輩ウマ娘だったが、三秒と経たずにグラリとバランスを崩し、慌てて両足を地面につけた。自分でも気づいていない微細な筋肉の疲労が、明白な「バグ」として露呈した瞬間だった。
「ほらね? アドレナリン出てるから気づかないんすよ。それ以上負荷かけたら、明日確実に靭帯やります。ほら、文句言ってないで早くアイシング!」
「ううっ……生意気な後輩……」
渋々アイシングに向かう先輩の背中を見送りながら、彼女は手元のバインダーにチェックを入れ、
「よし、本日の安全確保完了っと」
と満足げに呟いた。
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先輩後輩の壁など意に介さず、他者の状況を完璧に把握して的確なストップをかける。その冷徹なまでの観察眼と、相手を納得させるコミュニケーション能力。遠くからそのやり取りを眺めていたトレーナーは、ふっと感心したように息を吐いた。
(……なるほど。現場の熱を冷まし、エラーを未然に防ぐ『防衛システム』の要。私の目に狂いはなかった)
レースで勝つことだけがウマ娘の価値ではない。
才能がないなら、別の武器(スキル)を磨けばいい。人を管理し、組織を回し、他者の未来を守るという経験は、引退後の彼女の六十年の人生において、間違いなく重賞のトロフィー以上の価値を生み出す。
「ターフで勝てなくても、こういう『才能の伸ばし方』もある」
彼は一人ごちて、満足げに踵を返そうとした。自分の立てた「六十年続く人生の生存戦略」というロジックは、彼女において完璧に機能している。何の後悔も、憂う必要もない。
……はずだった。
しかし、踵を返した彼の足は、なぜかグラウンドの土を踏みしめたまま動かなかった。
彼の脳裏にフラッシュバックするのは、モニターの中で泥だらけになりながら、必死に前を走る「バケモノ」たちの背中に手を伸ばす彼女の姿だった。
勝てないと分かっていて。
自分の才能の限界を誰よりも冷静に理解していて。
それでも彼女は、一切の手を抜かず、彼が組んだ最適化のロジックに従い、ひたむきに走り続けていた。
(自己分析ができているからこそ、自分が『負ける瞬間』が誰よりも早く見えてしまう。……あれは、ひどく残酷な戦場だ)
トレーナーは、目を伏せ、小さく自嘲するように笑った。
極めて合理的で冷徹な指揮官であるはずの自分の内側に、信じられないほど青臭くて、非合理的な感情が湧き上がっていたからだ。
「……まったく。他人の情熱に当てられるなど、指導者としては三流の証だな」
彼はポツリと呟き、もう一度、遠くで後輩たちの世話を焼いている彼女の背中を見つめた。
勝たなくても、彼女の人生は私が防衛しきる。その自信も、算段もある。
けれど。
(でも……一度くらいは。あの泥だらけの彼女に、『勝利』を味わわせてやりたいな)
絶対に現場に行かず、数字と論理だけを信奉する異端の男。そんな彼の胸の奥で、ただの理屈、ロジックを超えた、静かで不器用な「指導者としての情」が、確かに熱を帯びた瞬間であった。