ナイスネイチャがトレーナーと契約するまでのお話   作:灯火011

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勝利の定義

 それからの彼は、およそ彼らしからぬ、ひどく泥臭い迷走を始めるに至った。

 

 整然としていたはずのトレーナー室のデスクには、スポーツ力学、東洋医学、果ては海外のマイナースポーツの特異なトレーニング論まで、およそ手に入る限りの専門書が山積みになっていた。

 

 彼は血走った目でそれらを読み漁り、次々と奇抜な戦術を彼女に持ち込んだ。

 

『普段使われていない筋肉を強制起動させる。明日は坂路コースを逆走してみよう』

『コーナーでの重心移動のベクトルを極端に内に振る。理論上は遠心力を殺せるはずだ』

『呼吸のタイミングを三拍子から変則の五拍子にシフトしろ。酸素供給の効率が……』

 

 突拍子もない指示の数々。現場の熱を嫌悪していたはずの彼自身が、グラウンドに立ってストップウォッチを握る日すらあった。

 

 彼女は文句ひとつ言わず、出される無茶な指示を完璧にこなし続けた。助手として培った高い理解力で、彼の要求する奇抜なフォームもすぐにモノにした。

 

 だが――ダメだった。

 

 タイムは一時的に向上しても、レース本番における「バケモノたち」のトップスピードには、やはりどうしても届かなかった。小手先の奇策や戦術論で覆るほど、天性の才能の壁は薄くなかったのだ。

 

 そして、無情にも季節は巡り、彼女がトレセン学園に在籍して数度目の春を迎えた日のことだった。

 

「先生。……もう、いいっすよ」

 

 夕暮れのトレーナー室。いつものように淹れたてのコーヒーをデスクに置きながら、彼女は静かに、けれどはっきりとした声でそう告げた。

 

 山積みの資料と睨み合い、ペンを走らせていた彼の手がピタリと止まる。

 

「……何がだい。まだ今年のローテーションは組んでいる途中だ。次のレースで、コーナーの入り方をもう少し……」

 

「そうじゃなくて」

 

 彼女は、血走った目でモニターを見つめる指揮官の前に立ち、そのペンをそっと取り上げた。

 

「アタシのレース、もう終わりにしましょうって言ってるんです」

 

「……」

 

「アタシももういい年だし、これ以上、下の子たちに混ざって泥啜るのも限界っす。……分かってますから、アタシが勝てないことくらい」

 

 彼女の顔に、悲壮感はない。だがその表情は、彼にスカウトされた日に見せたような、冷たく乾いた諦めた人間のソレではない。

 

 彼女のソレは、全力を出し尽くした者が最後に見せる、とても穏やかで、晴れやかな顔だった。

 

「……私のデータと戦術が至らないばかりに、君のポテンシャルを引き出しきれていないだけだ。まだ手はある」

 

 彼が絞り出すように言ったその言葉は、かつて彼自身が一番軽蔑していた「根性論」や「奇跡を信じる愚か者」のそれと、何ら変わりがなかった。

 

 そのことに気づいているからこそ、彼女はふっと優しく笑い、彼をたしなめるように言ったのだ。

 

「らしくないっすよ、先生。一番感情を排して、客観的なデータで損切りを見極めなきゃいけない『指揮官』が、そんなんじゃダメじゃないですか」

 

「……っ」

 

「アタシの才能の限界は、先生のデータが一番よく証明してるでしょ。奇跡なんて起きない。……それに、アタシはもう十分すぎるくらい、たくさんもらったんです」

 

 彼女は、彼が自分に任せてくれた陣営の管理バインダーを愛おしそうに撫でた。

 

「先生がアタシに『助手』っていう役割をくれて、他の子たちの未来を守る戦い方を教えてくれた。おかげでアタシ、勝てなくても、自分の人生に胸張れるようになったんすよ。だから……」

 

 彼女は、安楽椅子から立ち上がろうともがく不器用な魔術師に向かって、深く、綺麗な一礼をした。

 

「アタシのために、これ以上『先生の信念』を曲げないでください。……今まで、アタシのワガママな足掻きに付き合ってくれて、本当にありがとうございました」

 

 ――もう、十分だ。これ以上、指導者である彼を苦しませたくない。

 

 そう語る彼女の、あまりにも大人びていて、優しすぎる諦めの言葉に。彼は、何も言い返すことができなかった。

 

 自室の窓から差し込む赤い夕日が、山積みにされた無用の長物(トレーニング理論書)を空しく照らしている。

 

 結局、自分は彼女に一度の「勝利」すら与えてやることができなかったのだ。絶対防衛圏などと嘯きながら、その実、一人の少女の夢すら叶えられない無力な男。

 

 静寂に包まれた部屋の中で、彼は深く、深く目を伏せ、敗北の苦みを噛み締めるように、ただ黙って拳を握りしめていた。

 

 

 沈黙が降りた自室。

 

 夕日に照らされた無用の長物の山を見つめながら、彼は静かに息を吐いた。そして、ゆっくりと顔を上げる。その瞳に宿っていた敗北の色は消え、代わりに、あの安楽椅子から決して動かず、盤面を支配し続ける偏屈な戦術家の鋭い光が戻っていた。

 

「……ならば、勝利の定義を変えるぞ」

 

「え?」

 

 突拍子もない言葉に、彼女は目を丸くした。彼はデスクの上に置かれたままになっていた退部届のバインダーを指先でトントンと叩き、極めて強引な、彼らしい独裁者の口調で告げた。

 

「君は、引退しない。今後もしばらくの間、このチームに在籍し続けるんだ」

「いや、でも先生! アタシの足じゃもう、これ以上レースに出たって……」

「レースに出ろと言っているんじゃない。……その『目』だ」

 

 反論しようとした彼女の言葉を遮り、彼は彼女の目を真っ直ぐに指差した。

 

「君のその、自分と他者を客観視し、感情を排して的確な判断を下せる分析の目。……それを使って、今日から君には、このチームの『本当の助手』として活動してもらう」

 

 それは、名ばかりの兼任助手ではない。指導者と同じ視座に立ち、陣営全体の兵站と安全管理を担う、完全な実務責任者としての任命だった。

 

「……意図は?」

 

 彼女は呆然としながらも、持ち前の冷静さでその作戦の『目的』を尋ねた。ウマ娘がレースに出ず、裏方としてチームに残り続ける。そんな前例は学園にはない。

 

「簡単なことだ。ターフの上で君に一番を取らせてやれないのなら、別の戦場で勝てばいい」

 

 彼は口角を上げ、不敵に笑った。

 

「君がここで『助手』として磨き上げたその目と、人を管理するマネジメント能力を使って、学園を卒業した後、一般社会で圧倒的な成功を収めること。……それこそが、私が君に与える新たな『勝利』の定義だ」

 

「社会での、成功……」

 

「ターフでの数年間など、六十年続く人生の生存戦略においては、ただの通過点に過ぎない。君が社会に出て、重賞を勝った連中よりも遥かに豊かで、幸福な人生を勝ち取ること。……その未来の『大勝利』に向けて、今からこの陣営で徹底的に実務経験を積んでもらう」

 

 彼女は絶句した。目の前のこの偏屈な男は、ウマ娘という存在の根本的な価値観――「レースで勝つことこそが全て」という常識を根底からひっくり返し、彼女の「人生そのもの」を勝利に導くための戦術を、今この瞬間に再構築したのだ。

 

 あまりにもスケールが大きく、そして、あまりにも不器用で優しい「勝利の定義」。

 

 言葉を失い、ほんの少しだけ目元を潤ませた彼女に対し。トレーナーは、照れ隠しのようにポリポリと頭を掻き、いつもの怠惰な顔に戻って苦笑いをこぼした。

 

「ま……勝たせてやれなかった三流指揮官の、往生際の悪い『悪あがき』だがね」

 

 その言葉に、彼女はこらえきれずに吹き出した。涙をごまかすように笑いながら、彼女はスカウトされた時と同じように、力強く頷いた。

 

「いいっすね、それ。最高に合理的だ。……一生付き合ってやりますよ、先生のその悪あがきに」

 

 こうして、ターフでの勝利を諦めた三年目のウマ娘は、陣営の心臓部を担う「現場指揮官」として生まれ変わった。彼女が後輩たちのコンディションを完璧に見抜き、無傷のまま故郷へと送り届ける「絶対防衛線」の要として活躍するのは、それからすぐ後のことである。

 

 そして、この日彼が掲げた「勝利の定義」が正しかったことは、のちに彼女が社会に出て、優秀なプロジェクトマネージャーとして大成することで、見事に証明されることになるのであった。

 

 

 数年の時が流れ、ハイペリオン陣営の顔ぶれにも少しずつ変化が訪れていた。

 

 しかし、冷暖房が完備されたトレーナー室の安楽椅子と、部屋を満たす芳醇なコーヒーの香り、そして徹底された「絶対防衛ドクトリン」だけは、何一つ変わらずにそこにあった。

 

「――でね、あのチームの期待の新人。メディアはこぞって『超新星』なんてもてはやしてますけど、アタシの目から見るとかなり危ないっすよ。踏み込みの時に右足首が外へ逃げる癖が抜けきってない。今のオーバーペースのままシニア級まで行けば、確実に靭帯が弾け飛びますね」

 

 パリッとした仕立ての良いスーツを着こなし、足を組んでコーヒーカップを傾けながら、その女性(OG)は極めて冷徹な分析を口にした。

 

 彼女こそが、かつてターフでの勝利を諦め、この陣営で「裏方の助手」として己の目を磨き上げたあのウマ娘である。

 

 学園を卒業して一般社会へと出た彼女は、指揮官の予言通り、持ち前の客観的視野と卓越したマネジメント能力を遺憾なく発揮した。

 スポーツメディアの世界に飛び込むと、感情論を排した緻密なデータ分析と、選手やチームの「兵站」までをも見通す独自のジャーナリズムが瞬く間に高く評価され、異例の若さで有力スポーツ誌の『編集長』という絶対的な権力まで登り詰めていた。

 

「同感だな。私も先日のレース映像を確認したが、あの陣営の指導者は目先のタイムに目が眩んでいる。うちのスカウト候補からは外しておいたよ」

 

「大正解っす。……あ、逆に今年転入してきたあのダートの子、あの子は良いっすよ。体幹のブレがないから、適切なローテーション組めば間違いなく化けます。先生好みっす」

 

 もはや「教え子」ではなく、立派な社会人であり、外部の強力な情報網となった彼女。時折こうして最高級の豆を手土産に陣営へ顔を出しては、自らが率いる編集部の取材網で得た「外のデータ」を、安楽椅子の魔術師へと提供していくのが恒例となっていた。

 

 対等なプロフェッショナルとして情報を交換し合う二人の姿は、あの日の交わされた『社会での勝利』という途方もない誓いが、完璧な形で結実したことを、何よりも雄弁に物語っていた。

 

「……はい、おかわり淹れましたよ。熱いから気をつけてくださいね」

 

 そこへ、トレイに乗せた新しいコーヒーカップを運んできたのは、現在の陣営の主力であり、焙煎係を引き継いだナイスネイチャだった。

 

「おっ、サンキューネイチャ。……ん、美味い。前に飲んだ時より、酸味の角が取れてまろやかになってる。あんた、すっかりこのひねくれ者のパーソナルな好みを掌握したみたいね」

 

「もー、からかわないでくださいよ先輩。これでも毎日、温度計と睨めっこして必死なんですから」

 

 呆れたように笑いながらソファの隣に腰を下ろすネイチャを、編集長となった彼女は、カップ越しにじっと見つめた。データと活字を追いかける鋭いジャーナリストの目ではない。かつて共にターフの土を蹴り、自分の才能の限界を知り尽くした「元・ウマ娘」としての、純粋な驚嘆と憧憬の眼差しだった。

 

「いやー……でも、ほんと凄いね、あんたは」

 

 編集長は、ふうっと息をついて肩の力を抜き、ネイチャの引き締まった脚や体幹のバランスをまじまじと見つめて笑った。

 

「うちの記者が撮ってきた先週の練習試合の写真、アタシもチェックしたけどさ。……バネとフィジカルの作りが、根本的に違うもの。アタシみたいな凡人がどれだけデータをこねくり回しても、絶対に出力できない本物の『脚力』がそこにある」

 

「えっ……そ、そんな、大げさですよ。私なんて全然、まだまだですし……」

 

「謙遜しなくていいの。アタシの『目』の正確さは、そこにふんぞり返ってる先生のお墨付きなんだから」

 

 照れて顔を赤くし、謙遜して手を振るネイチャに対し、編集長の言葉には一ミリの嫉妬も、かつて抱いていたような乾いた諦めも混じっていなかった。

 

 彼女はすでに、自分の戦場で圧倒的な勝利を収めている。だからこそ、自分が持っていなかった「天性の素質」を持つ後輩の姿を、心からの称賛と共に、眩しいものとして素直に認めることができたのだ。

 

「あんたのそのフィジカルと、うちの先生の頭脳が噛み合えば、マジでとんでもないところまで行けると思うよ。……せいぜい怪我だけには気をつけて、アタシら凡人が見られなかった景色を、その足で見に行ってきなさいな」

 

「……はいっ! 任せてください、先輩!」

 

 ネイチャは背筋を伸ばし、照れ隠しの笑いを引っ込めて、力強く、そして嬉しそうに頷いた。

 

「ふむ。あまり私の重装歩兵を褒めそやして、要らぬ熱狂を煽るのはやめてもらおうか。心拍数が狂う」

 

 安楽椅子の上から、タブレットで記事のゲラを読みながら口を挟んだ指揮官に、編集長は、

 

「相変わらず素直じゃないっすねー。先生は」

 

 とケラケラと笑い声を上げた。

 

 

 才能の限界に絶望した少女は、社会という盤面で見事な大勝利を収め、強力な外部の同盟国として帰還した。そしてそのバトンは、天性のバネを持ちながらも不器用に足掻く、新たな重装歩兵の少女へと確かに受け継がれている。

 

 窓から差し込む日差しの中、コーヒーの香ばしい匂いと、三人の穏やかな笑い声が交差する。

 

 それは、勝つことだけが全てだとされる過酷なトレセン学園の中で、ハイペリオンが長い時間をかけて築き上げた『無敵の要塞』の、最も美しく、幸福な日常の風景であった。

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