ナイスネイチャがトレーナーと契約するまでのお話 作:灯火011
ОGである編集長が嵐のようにやって来ては去っていき、再び日常の静寂を取り戻したトレーナー室。ネイチャは、豆のストックを棚に片付けながら、ふと先ほどの会話を思い出して首を傾げた。
「そーいえば先生。……先生のチームって、今まで本当に『この子は重賞を取れそう!』って逸材はいなかったんですか?」
彼女の素朴な疑問に、安楽椅子でペーパーバックを読んでいた指揮官は、ページから目を離さずににべもなく答えた。
「ああ。当然だ。私が意図してそういう素質を持たない者を選んでスカウトしているからね」
「いや、でもわからなくないです? 普通」
「何がだい」
「だって、ウマ娘の才能なんて、実際に本格的なトレーニングをして走らせてみないと、どこまで伸びるか予想できないじゃないですか。隠れた才能があった、みたいなパターンだってあるし」
ネイチャがもっともな指摘をすると、トレーナーは「ふむ」と小さく呟き、本を閉じた。
何かを思い出したように立ち上がると、部屋の奥にある鍵付きの戸棚を開け、そこから【N・N】とラベルが貼られたひどく分厚いファイルを引っ張り出してきた。
ドサッ、と。デスクの上に置かれたそれは、辞書か鈍器かというほどの質量を持っていた。
「なんですか、これ?」
目を丸くするネイチャに対し、彼は事もなげに言った。
「私が君に興味を持った段階で集めた、君のパーソナルな資料だ。……学園での成績はもちろん、昔所属していた地元のクラブの記録から、断片的な映像データまでね」
「えっ……」
ネイチャはおそるおそるそのファイルを開いた。そして、数ページめくったところで「嘘でしょ」と完全に呆け返ってしまった。
そこには、トレセン学園の公式記録だけではない。彼女が小学校に上がる前、地元の町内会で開かれた「野良の子供レース」のリザルトや、当時のフォームを遠くから撮影した荒い写真、さらには怪我の履歴や歩幅の推移までが、恐ろしいほどの密度でファイリングされていたのだ。
「ちょ、ちょっと待って……これ、アタシ自身も完全に忘れてた記録なんですけど!? なんでこんなの持ってるんですか!?」
「当時の町内会の会報誌や、地元メディアの過去記事のアーカイブを片っ端から掘り起こしたのさ。君の足首の関節の柔らかさやバネが、天性のものか、それとも後天的な訓練によるものかを確認する必要があったからね」
もはやストーカーか執念深い探偵の領域である。あっけにとられて言葉を失うネイチャを前に、安楽椅子の魔術師はフッと得意げな笑みを浮かべた。
「情報とはこういうことだ。行き当たりばったりで才能を探すのは三流のやること。私に言わせれば、スカウトの声をかける前から、すでに勝負は決まっているのさ」
だからこそ、彼は「絶対に怪我をしない凡人」を的確に選び出すことができたし、逆にネイチャのような「本物の素質」を持つ重装歩兵を見抜くこともできたのだ。
「……先生、マジでちょっと引くんですけど」
「最高の賛辞をありがとう」
ドン引きするネイチャと、全く悪びれないトレーナー。そこへ、カチャリと扉が開いて、バインダーを抱えた中距離ウマ娘が部屋に入ってきた。
「お疲れ様ですー。明日のメニューの確認に……って、何してるのネイチャ。そんな固まって」
「あ、先輩……聞いてくださいよ。先生がアタシの昔の野良レースの記録までストーキングして、こんな辞書みたいなファイル作ってたんです……!」
ネイチャが引きつった顔で分厚いファイルを指差して説明すると、中距離ウマ娘は「ああ」と全てを察したように苦笑いを浮かべた。
彼女は驚く様子もなく、ネイチャの肩をポンと叩いて一言、こう告げた。
「試しに、他のトレーナーの部屋も覗いてみるといいよ。スカウトの前にこういう事前調査をしている人は、確かに他にもいるだろうけど」
彼女は呆れたような、しかしどこか誇らしげな目で、ドヤ顔で椅子に座り直した自陣営の指揮官を見やった。
「まぁ……引くほど分厚いこんなファイルを作ってる変は、間違いなくうちの先生くらいしかいないからさ」
■
「いや、でも待ってくださいよ!」
ネイチャは、鈍器のようなファイルを両手で持ち上げ、震える声でツッコミを入れた。
「町内会の会報誌とか、地方の昔のビデオテープとか……どうやってこんなアナログな情報まで集めるんです!? 先生、いつもこの部屋の椅子から根っこ生やして一歩も動かないじゃないですか!」
いくらデジタルアーカイブが進んでいるとはいえ、個人が趣味で出たような野良レースの記録まで、すべてネットに転がっているわけがない。だが、その至極真っ当な疑問に対し、トレーナーはさも当たり前のことのように、平然とこう呟いたのだ。
「なに、簡単な話だよ。私の手足となって動いてくれる『目を持つウマ娘』は、さっきのOGだけではない、という話だよ」
「えっ」
「彼女のように、私の陣営でマネジメントと情報収集のノウハウを学び、そのまま社会のあらゆる業界――メディア、地元企業、果ては各地方のクラブチームの運営側にまで巣立っていったウマ娘が、全国に散らばっている。私がリサーチ依頼をかければ、彼女たちが草の根を分けてでも、対象の過去のデータを集めてきてくれるというわけだ」
彼はタブレットを指先で滑らせながら、薄く笑った。
「もちろん、最初からこんなに精度の高い資料が作れたわけではない。私の情報網が脆弱だった頃は、欲しいデータを得るために、私自身がわざわざ地方のグラウンドまで足を運んで泥まみれになっていた時期もあったさ」
「……先生が、地方のグラウンドを泥まみれで歩き回る……」
今の彼からは想像もつかないその光景を想像し、ネイチャは引きつった笑いをこぼした。
「ああ。ひどく非効率で不愉快な時代だった」
彼は忌々しそうに眉間を寄せた後、ふっと表情を和らげ、隣でバインダーを抱えて立っている中距離ウマ娘へと視線を向けた。
「だが、今は違う。数年かけて構築した巨大な情報網の構築は、すでに完了している。そして陣営内には、彼女のような優秀な現場指揮官も育っている」
安楽椅子のトレーナーは、両腕を大きく広げ、まるで自分の築き上げた城を誇示するように、心底満足げな笑みを浮かべた。
「現場の安全管理は彼女が担い、情報収集は外部のOGが担う。そして私は、ここに座って完璧なデータに基づいた戦術を組み立てるだけでいい。……これ以上ない、指揮官として最高の環境だよ」
「……ははっ。もはや一介のトレーナーっていうより、どっかの秘密情報機関の黒幕じゃないですか、それ」
ネイチャが呆れてため息をつくと、中距離ウマ娘も、
「間違いないわね」
と同意して肩をすくめた。しかし、その顔に呆れの色はあるものの、指揮官の作り上げたこの「狂気のシステム」に対する確かな信頼と誇りが滲み出ているのを、ネイチャは見逃さなかった。
■
才能の限界を悟り、ターフを去っていった少女たちが、社会という新たな盤面で勝利を収め、今度は『情報』という強力な武器となって、後輩たちを支援するために帰ってくる。
それは、ただの師弟関係を超えた、数十年にわたる人生の生存戦略が紡ぎ出した、あまりにも強固で美しい「絆」の形だった。
(……そっか。アタシは、ただ走るだけじゃない。この人たちが作ってくれた『安全圏』の上で、走らせてもらってるんだ)
鈍器のように重い自分のファイルを撫でながら、ネイチャは小さく微笑んだ。この陣営のトレーナーは、現場には来ない。けれど、彼はいつでも、誰よりも広く、誰よりも深い場所から、自分たちの未来を守り続けてくれている。
「……ま、先生がラクするためとはいえ。これだけ完璧にアタシの素質を分析してくれてるんなら、期待に応えないわけにはいきませんね」
「ほう。言うようになったな、重装歩兵」
「当然ですよ。先生のその完璧なロジックが正しいってこと、アタシがこの脚で証明してきますから!」
ネイチャの頼もしい宣言に、指揮官と現場指揮官は顔を見合わせ、満足そうに頷いた。
夕日に染まるトレーナー室。『安楽椅子の魔術師』の築き上げた無敵の要塞は、今日も極めて正常に、そして平和に稼働し続けている。
次話から。
ナイスネイチャがトレーナーやОGの脳を焼くお話。
話数未定。明日のみ朝9時、夜9時の二回更新です。